月夜に呪文はとけてゆく

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 その日の放課後。  ハギリはいつも通り、美術室でひとり絵を描いていた。他の部員達は、確か映画を観に行くとでも言っていただろうか。 「いつまでそうしているんだ」  絵筆を動かし続けながら問いかける。 「先生に叱られちゃった」  戸口にもたれかかっていたナナクサが、かみ合わない返答をして舌を出す。夕陽を背にしているせいか、まだ蒼白い顔をして見えた。 「何の用」 「あなたが持っているって聞いたから」  ハギリは筆を置くと、傍らから竹刀を拾い上げた。 「やっぱり、私物か」  柄に太いマジックで『ナナクサカヤ』の文字。経年のせいかかなり薄れているが、確かにそう読める。 「そう私の。短いし軽いでしょう。子ども用なの。小学校から使っているから」 「新調しないのか」 「え?」 「やっていたんだろう、剣道。昼間の動きもすごかった。大人用に新調すれば」 「ああ」  何が気に食わなかったのか、ナナクサはぐしゃりと表情をゆがめた。 「パセリセージローズマリータイム」  早口で呪文のように唱える。それはハギリにとっては、英語の授業で聞いた単語だった。 「……スカボローフェア?」 「そう」 「魔物に惑わされないための呪文、だっけ」 「そう。ずっと唱えて過ごしてきたの」  意味不明な告白だった。ハギリの背面へと椅子を引っ張ってくると、彼女は腰を下ろした。 「無理よ無理。新しい竹刀なんて、どうせ使えない」 「そんなこと」 「無理なの」  本当、この世は誘惑だらけ。  そう、おどけた様子で唇をとがらせてみせる。 「私、こんな身体だから。どうせ手に入らない。だったら最初から手は伸ばさないって、そう決めているの」  背中に不意に熱いものが触れてハギリはびくりとした。  ナナクサの頬だ。ナナクサがうなだれて、彼の背に体重と体温を預けている。 「スポーツ。冒険。将来。それに」  パセリセージローズマリータイム。 「人付き合いとか」  背越しに肉の歪む感触がして、彼女が笑ったことを知る。 「けどね。さっきはうっかり忘れちゃったの、唱えるのを。この前お医者さんに言われたことがまあまあ衝撃的で、それでつい」 「忘れた?」 「爆弾があるんだ。ここに」  左こめかみをこつこつ弾く。ハギリは耳を疑った。 「今、なんて」 「それ自体は知っていたの。中学に上がる少し前かな、突然失神して、とにかく無理はするなって言われて」 「爆弾って」 「そう。それがね、大きくなっているらしくて。命に関わるから手術だって」  カタンと大きな音がしてハギリはぎくりとした。自分が絵筆を取り落とした音だと気づいて、ほうと息を吐く。 「いつ」  手術の日時ではなく、医師に宣告された日を彼女は答えた。それは、彼女が初めてハギリに声をかけてきた日だった。 「そう言われてもさ。体調には変化ないし、なんだかんだ今までと同じかなって思っていた。なのに、本当に倒れちゃうなんて」  彼の背から離れて身を起こす。絵に目をやって、ナナクサは嘆息した。 「進んだね」  彼女の言う通り、絵は着実に完成しつつあった。何層にも塗り重ねた青空。そこにぽっかりと浮かぶ満月は、手を伸ばせば触れられそうな存在感をまとっている。  他には何もない。雲ひとつない蒼天に、ただ白い月だけ。 「ねえ」  絵を凝視したまま口を開く。 「階段を、つけてよ」 「階段?」 「そう。月まで行ける、階段」 「何故」 「んー」  ナナクサは困ったように視線をそらした。 「イメージの理由を言語化するのは、あまり得意ではないのだけれど」  だってなんだか、寂しそうじゃない。  そう言って眉を下げた彼女自身がとても寂しそうで、気づいた時には、ハギリは首を縦に振っていた。
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