月夜に呪文はとけてゆく

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 ナナクサの『注文』はかなり細かく、そして妥協を許さなかった。 「月と階段って材質同じ? 違うんだったら色も変えて」 「そんな角のとがった階段、私なら歩きたくない」  どうして彼女の指示を受け入れたのか。  その時の自分の心情を、ハギリは実はよく覚えていない。ただ、 (ただそうしたいと、漠然とそう思っただけだ)  彼女が望むままに彼は描き足し、描き直し、そして卒業制作の完成は自然と遠のいていった。  美術室にいる時間がますます増えていく。それ以外の時間はどうしていたのか、思い出せなくなるほどに。  それでもハギリは夢中だった。描けば描くほどに絵が、彼女がわからなくなる。それでも何かに近づいていく。そんな変な確信があった。  そして、ある日。  ハギリは暗くなるまで美術室に残っていた。  三年生のしかも卒業制作ということで、学校側は彼が遅くまで校内にいることを特別に見逃してくれている。とはいえ、そろそろリミットだ。大きな満月が教室をのぞき込んでいる。あまりに遅くなるとさすがに厳重注意、悪くすると出禁を食らうかもしれない。それだけは避けなければいけなかった。  だが、どうにも片付けて帰る気になれない。 「暗い」  戸口から声がしてハギリは飛び上がった。見ればナナクサが、扉にもたれかかっている。 「電気、つけないの」 「気がついたら暗くなっていたんだよ」 「ふうん」  戸口の横にあるスイッチに触れようともせず、彼女は身体を揺らしながら近づいてきた。 「もう、完成ね」  絵をしげしげと眺めて、満足げに息を吐き出す。 「すてき」  またぞろ注文をつけられるかと身構えていたハギリは、その言葉にほっと肩の力を抜いた。 「褒めてくれるなんて珍しいな」 「本心だもの。月も階段も、本当にきれい」 「そうか」  彼女の満ち足りた様子が嬉しくて、ハギリはますます筆を動かし絵の具を塗り重ねた。 「君のアドバイスがあったからな」 「そうね」  彼女はうっとりと、どこか焦点の合わない視線で絵を眺めていた。その唇がかすかに動く。  パセリセージローズマリータイム。 「何か今、言った?」 「うん。ううん。あのね、今までの中で一番、私、好きよ。一年の時に夜の月を描いたのがあったけど、あれよりもずっと好き」 「えっ」  ハギリはきょとんと目をしばたたいた。 「君、いつから俺の絵を知って」 「あ、待って。そこには塗らないで」  ハギリの質問に彼女は答えなかった。ただ全くかみ合わないことを口走って、彼の筆に手を伸ばす。 「そこには私が行くから」  彼女の手が筆を払いのけて、その勢いで彼女は大きくキャンバスの方へとつんのめった。ハギリが手を伸ばしたが間に合わず、彼女は絵に抱きつくようにして床に倒れ──。 「ナナクサ!」  慌てて、転げ落ちた絵の方へと駆け寄る。  しかし彼女はもう、そこにはいなかった。
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