4人が本棚に入れています
本棚に追加
「いなか、った……?」
ぼくは馬鹿のようにぽかんとして、ただ祖父の言葉を繰り返すしかなかった。
唐突に始まった祖父の昔話。ぼくはすっかりその話に引き込まれてしまっていた。
「そうだ。正確には、人の姿をした彼女は、と言うべきか」
話しくたびれたのか、祖父の声は随分としわがれていた。
「異変に気がついて駆け寄った時には、彼女は、絵の中に入ってしまっていた」
「絵の中に?」
おうむ返しに呟く。確かにあの絵には女の人が描かれていた。けれど、
「そんなの、ありっこない」
小さな子どもにだってわかる。そんな現実離れした現象、起きるはずがない。
「そうだな。だが、起きたんだ」
祖父の声は静かだった。
絵を、あの女性をもう一度間近で見ようと、ぼくは立ち上がって机に近づいた。
そして思わず悲鳴を上げた。
「じいちゃん! 絵が光っている!」
月の光だった。いつの間にか月が真上に来て、まっすぐ絵を照らしている。その光が額のガラスに反射して、まるで絵自体が光っているように見えるのだった。まぶしくてとても見続けていられない。
「私は……俺はもっと、早くに気づいてやるべきだったんだ」
祖父は全く動じていなかった。いや、ぼくの必死さに気づいていなかっただけかもしれない。変わらず目を伏せ、心ここにあらずといった様子で話し続けている。
「彼女は最初から言っていた。同族嫌悪だと。あの日は、医者の言葉に衝撃を受けて我慢するのを忘れたのだと、そう言っていたじゃないか」
「じいちゃん!」
「だが、俺にはぴんときていなかった。わからなかったんだ。あんな、呪文を唱えて我慢した後の言葉じゃ、理解しきれなかった!」
急に声を荒げたかと思うと、祖父はかっと目を見開いた。
普段の緩慢な動作からは思いもつかない勢いで立ち上がる。そして両手で額縁を握りしめた。
「今になってやっと、やっとわかった。彼女は俺を呼んでいたんだ」
月光を煌々と反射する絵は既に絵の具の色さえ判別しづらく、まるで真っ白な板のようだ。が、祖父の目には確かに絵が見えているようだった。
「何を言って」
「行こう。話をするんだ。今からでも、遅くはない」
光はもはや額からあふれ出し、絵を手にした祖父さえも呑み込むような勢いだ。
「じいちゃん!」
祖父は答えない。月光はまだまだ強くなっていく。祖父を包み込んでいく。まるで、絵が祖父を抱きしめたように見えた。
「じいちゃん!」
車のエンジン音が聞こえて、ぼくはハッと我に返った。
母だ。母が帰ってきたのだ。車を停め、門を開け、ぼくに気がついた。
「まだ起きていたの」
腫れ上がった目をそっと押さえて、母は泣き出しそうな笑顔を浮かべた。強くぼくを抱き寄せる。
「おじいちゃんね、さっき亡くなったわ」
そうだ。祖父は持病を悪くして入院していたのだ。夜、容体が急変したと報せが来て急きょ、母が病院に駆けつけていたのだった。
「あら。あんた、何を持っているの」
母に言われてやっと、自分が例の絵をぎゅっと抱きしめていることに気がついた。
もう月は頭上から動いてしまっている。絵をまじまじと見つめて、ぼくは息を呑んだ。
「じいちゃんだ」
青空に浮かぶ月。白い階段。その上段にたたずむ女性は、もうひとりぼっちではなかった。
白髪の男が月をめがけ、階段を駆け上がっている。手を伸ばす女性は、だがもうこちらを見てはいなかった。男性を歓迎するように微笑みかけている。
その表情を見た瞬間、わかったような気がした。
ナナクセさんが自身の重病を知った日。呪文を唱えきれなくなった彼女がしたのは、祖父に話しかけることだった。絵を描いてもらうことだった。
ずっと諦めていたこと。けれど最期を感じた時に我慢しきれなくなったこと。つまり彼女は。彼は。
「ええ?」
絵をのぞき込んで、母は首を傾げた。
「別に、前と変わっていないような気がするけど」
母の言う通りなのだろう。そこにあるものは全て、たとえ最初からそこにあっても、その意味がわかって初めて知覚できるようになるものなのだ。
「パセリセージローズマリータイム」
小声で呟く。月は変わらず明るくて、呪文は到底、効果を及ぼしそうにはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!