月夜に呪文はとけてゆく

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「いなか、った……?」  ぼくは馬鹿のようにぽかんとして、ただ祖父の言葉を繰り返すしかなかった。  唐突に始まった祖父の昔話。ぼくはすっかりその話に引き込まれてしまっていた。 「そうだ。正確には、人の姿をした彼女は、と言うべきか」  話しくたびれたのか、祖父の声は随分としわがれていた。 「異変に気がついて駆け寄った時には、彼女は、絵の中に入ってしまっていた」 「絵の中に?」  おうむ返しに呟く。確かにあの絵には女の人が描かれていた。けれど、 「そんなの、ありっこない」  小さな子どもにだってわかる。そんな現実離れした現象、起きるはずがない。 「そうだな。だが、起きたんだ」  祖父の声は静かだった。  絵を、あの女性をもう一度間近で見ようと、ぼくは立ち上がって机に近づいた。  そして思わず悲鳴を上げた。 「じいちゃん! 絵が光っている!」  月の光だった。いつの間にか月が真上に来て、まっすぐ絵を照らしている。その光が額のガラスに反射して、まるで絵自体が光っているように見えるのだった。まぶしくてとても見続けていられない。 「私は……俺はもっと、早くに気づいてやるべきだったんだ」  祖父は全く動じていなかった。いや、ぼくの必死さに気づいていなかっただけかもしれない。変わらず目を伏せ、心ここにあらずといった様子で話し続けている。 「彼女は最初から言っていた。同族嫌悪だと。あの日は、医者の言葉に衝撃を受けて我慢するのを忘れたのだと、そう言っていたじゃないか」 「じいちゃん!」 「だが、俺にはぴんときていなかった。わからなかったんだ。あんな、呪文を唱えて我慢した後の言葉じゃ、理解しきれなかった!」  急に声を荒げたかと思うと、祖父はかっと目を見開いた。  普段の緩慢な動作からは思いもつかない勢いで立ち上がる。そして両手で額縁を握りしめた。 「今になってやっと、やっとわかった。彼女は俺を呼んでいたんだ」  月光を煌々と反射する絵は既に絵の具の色さえ判別しづらく、まるで真っ白な板のようだ。が、祖父の目には確かに絵が見えているようだった。 「何を言って」 「行こう。話をするんだ。今からでも、遅くはない」  光はもはや額からあふれ出し、絵を手にした祖父さえも呑み込むような勢いだ。 「じいちゃん!」  祖父は答えない。月光はまだまだ強くなっていく。祖父を包み込んでいく。まるで、絵が祖父を抱きしめたように見えた。 「じいちゃん!」  車のエンジン音が聞こえて、ぼくはハッと我に返った。  母だ。母が帰ってきたのだ。車を停め、門を開け、ぼくに気がついた。 「まだ起きていたの」  腫れ上がった目をそっと押さえて、母は泣き出しそうな笑顔を浮かべた。強くぼくを抱き寄せる。 「おじいちゃんね、さっき亡くなったわ」  そうだ。祖父は持病を悪くして入院していたのだ。夜、容体が急変したと報せが来て急きょ、母が病院に駆けつけていたのだった。 「あら。あんた、何を持っているの」  母に言われてやっと、自分が例の絵をぎゅっと抱きしめていることに気がついた。  もう月は頭上から動いてしまっている。絵をまじまじと見つめて、ぼくは息を呑んだ。 「じいちゃんだ」  青空に浮かぶ月。白い階段。その上段にたたずむ女性は、もうひとりぼっちではなかった。  白髪の男が月をめがけ、階段を駆け上がっている。手を伸ばす女性は、だがもうこちらを見てはいなかった。男性を歓迎するように微笑みかけている。  その表情を見た瞬間、わかったような気がした。  ナナクセさんが自身の重病を知った日。呪文を唱えきれなくなった彼女がしたのは、祖父に話しかけることだった。絵を描いてもらうことだった。  ずっと諦めていたこと。けれど最期を感じた時に我慢しきれなくなったこと。つまり彼女は。彼は。 「ええ?」  絵をのぞき込んで、母は首を傾げた。 「別に、前と変わっていないような気がするけど」  母の言う通りなのだろう。そこにあるものは全て、たとえ最初からそこにあっても、その意味がわかって初めて知覚できるようになるものなのだ。 「パセリセージローズマリータイム」  小声で呟く。月は変わらず明るくて、呪文は到底、効果を及ぼしそうにはなかった。
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