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時折涼やかな風が吹く、満月の夜のことだった。
やっと猛暑から解放された嬉しさをかみしめつつ、ぼくは玄関先の段差に座り込み、ぼんやり月と夜風を楽しんでいた。
特段、何かをする気にはなれなかった。暗闇の向こうからは、名前も知らない秋虫の声が流れてくる。街中にある自宅と田畑に囲まれたこの祖父母宅とでは、流れる時間も、聞こえてくる音も、全く違うようだ。
「風邪をひくぞ」
玄関の戸が開いて祖父が出てきた。やけに大きな、薄い板のようなものを脇に抱えている。
「ひかないよ。これくらいで」
言い返しながら、ぼくの目は板に釘付けだった。
「秋の夜風は骨を冷やす」
寝間着姿の祖父は唸るように言って、抱えてきた板をテーブルに置いた。祖父が手作りした木造りのテーブルだ。
興味をひかれたぼくは、祖父に走り寄って板を覗き込んだ。
大きさは二つ折りにした新聞紙くらいか。白い板の上に淡い鉛筆の線。何層にも塗り重ねられた水彩絵の具は、絵心のない者には何色とも表現しがたい。
「絵?」
近寄ってみれば何ということもない。それは祖父が普段、書斎に飾っている絵だった。質素な額縁に入れられ、静かに月光を反射している。
「どうしたの。わざわざ外に出してきたりして」
キャンバス全体を覆う青空。その真ん中に、ぽっかり白い月が浮かんでいる。
下部には大理石を思わせる白い階段。中段頃に女性と思しき長髪の人がいて、上の段に片足をかけながら背後──こちらを振り返っている。
「じいちゃんが描いたんだよね。この絵」
母が以前教えてくれた。祖父は中学から高校まで、美術部に在籍して絵を描いていたそうだ。何があったのか卒業後は、筆を折ってしまったらしいのだが。
「ねえ?」
祖父は無言だった。傾けるわけでも何かに立てかけるわけでもなく、ただテーブルの上に絵をそっと横たえた。
傍らの椅子を引き寄せ、どっさりと腰を下ろす。その後でやっと口を開いた。
「パセリセージローズマリータイム」
「えっ」
聞き返したが答えはない。冷えるのかしきりに手の甲をさすりながら、祖父は何か考え事をしているようだった。
「そうさな。いや、あれは」
言いかけて、大きく息をつく。
「実際、私が描いたんじゃあ、ない」
予期せぬ告白だった。
記憶が確かなら、母からこの絵について聞かされた時、祖父もその場にいたはずだ。否定は一切なかった。だとしたら祖父は、ずっと嘘をついていたというのか。
うろたえるぼくをしり目に、祖父は更にわけのわからない言葉を口にした。
「彼女が自分から、入ってきた」
「は?」
それはいわゆる芸術表現的な、腕が勝手に描いたとか、脳内のイメージが自動的に動き始めたとか、そういう意味なのか。
いずれにせよ、飾り気のない現実的な物言いをする祖父には似つかわしくない表現だった。
「あれからもう、何十年になるか」
ぼそりと呟き目を閉じる。
身体の置き場に困ってそのまま地面に腰を下ろすと、祖父は静かに語り始めた。
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