一章 禍根

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一章 禍根

栗野崎は田舎町だ。人口は二百人に満たず、木々を圧縮した山々に四方を囲まれている。緩やかな傾斜を重ねたような土地で、舗装されていない剥き出しの砂利道と、川と用水路とがまるで葉脈の様に町の隅々まで行き渡り、交わっては再び別れてゆく。分断を渡るために架けられた木の板は橋と呼ぶには随分と頼りない。からりと晴れた日でも風の無い日は足元から水のにおいが立ち昇り、それは私に弱い頭痛を引き起こさせた。鼻の奥まで届く鈍いにおい。磯臭いと人は言うが、私には何か別の、例えば鉄の錆びたにおいにも感じるのだ。梅雨が明けたばかりで大気はまだ湿気っている。それが余計に、濃厚ににおいを広げていた。 夏はまだ遠い。 川の水質はあまり良くない。においでわかる。その水の中をこの町の名物であり信奉の対象である鯉が悠々と身を肥えさせて、我が物顔で泳ぎ回っていた。それもそうだろう。鯉はかなりの悪食らしく、胃がないので常に貪欲に餌を探している。食い続けなければ死んでしまうのだ。名は何というかわからぬが、今、足元にある小川にも鯉以外の生き物は見当たらない。私はこの町に来てから鯉以外の魚どころか、水棲生物を見たことがない。小川から用水路に至るまで、鯉が何もかもをその『健啖』な口に吸いこんでしまったに違いなかった。しかし、生態系が壊れるほど食い尽くしても鯉が死に絶えないようにと人間が米粒や麩などの餌をやるのだから、ここは奴らの国なのだ。 私が歩けば、奴らも並走するように泳ぐ。大群を成して口を開閉させ、私に餌をねだっているのだ。どうも餌をくれる町の人間とそうでない人間の見分けはつかないらしい。生憎だがくれてやれるものは何もない。そもそも私はやる気がないのだ。それでも奴らは水面に背びれを近づけて、身をくねらせて水音を立てる。互いにぶつかり合いながらも押し退けるように逆流を進み、自分が一番に腹を満たそうとして追従する。僅かばかりの恐怖を感じる無機質な瞳で、ひたすらに私を追いかけるのだ。 執念すら感じさせるこの習性に初めは感動した。町民に勧められて麩を撒いたときは餌に群がる鯉を可愛いと思った。生き物を飼ったことがない私には、『人懐こい鯉』というのは新鮮な体験であったからだ。しかしそれも見慣れた今では鬱陶しい。そもそも食われるために蓄養されている奴らが餌をねだるという行為が私には哀れに思えたのだ。 私は旅行者だ。 名前は井上誠と言う。 観光する物がまるでないのだから物見遊山でもなければ、名湯秘湯などもないので湯治でもない。そもそも私は少々無気力なことを除けば十分に健康体なのである。都会の喧騒を忘れたい。若人らしい大したことのない理由で私は栗野崎に来たのだ。交通の便が悪く、住民の殆どが老人のこの町はとても静かで穏やかで気に入っている。都会に出るためには日に二本しかない電車を乗り継いで半日掛かる。刺激や時代を隔てた、いっそ閉塞感すらある空間は、今、私が居る場所は非日常的な物だとひしひしと感じさせた。私はそれに安心する。煩わしいことを全部忘れられたから。 寂れた町で唯一活気のある商店街で昼食の買い物を済ませ、私は寝床としている『葵荘』に、足元の雑多の砂利を踏みしめながら向かっていた。宿泊施設である葵荘は、客は自炊するのが決まりである。一階は経営者家族の居住であり、二階を宿泊客に開放しているのだ。広くて立派な家だが、高齢化が進み過ぎたせいか、家主と同じように葵荘は年老いてあちこちくたびれている。町でただ一つの宿泊施設だが、客商売をする気合は全く無いらしい。長年雨風に耐え続けて古ぼけた一階部分に無理やり乗せたように増築した二階が外観を損ねている。一見しただけでは民宿とは分からない。葵荘はそんな家だ。 その葵荘では時折、老婆の笑い声と、老婆を『お母さん』と呼ぶ女の声が聞こえる。女は若くない。張りを失ったぼうぼうと響く声は若い女の声ではないからだ。彼女は老婆の娘である。たった一人で実母の介護と宿の帳簿を管理しているらしい。宿泊客に『おばさん』と呼ばれている彼女の疲れているような、それでいて穏やかな顔は客に親しまれるのを拒んでいることを言外に伝えていた。別段不快には思わない。世代の違う人と干渉するのは私はあまり好きではない。上げ膳据え膳を楽しみたくて旅行しているわけでもないので、好きなときに食べて、歩いて、寝て、一人気ままに出来る素朴なこの暮らしを、私はとても好いている。 摺り硝子が嵌めこまれた引き戸を開けると目の前に階段がある。老婆の『おかえり』と言う声が聞こえて、私は少し速足に階段を登った。荷物に引っ張られて転ばないようにと手すりを掴む。随分と頼りない、ささくれた木製の手すりだ。踏面もぎしぎしと軋んでいる。額の汗を疎ましく思いながら階段を登りきると、開けっ放しの窓から吹き込む風が古いカーテンを揺らしていた。遮光性のない黄ばんだレースのカーテンはどこか寂しそうな色合いで、年月を身体に染み込ませている。風は階段を緩やかに駆け下りていった。二階は涼しい。風通しが良いのだ。ああ、この鉄臭ささえなければ、汗ばむ六月にこの風はとても心地良いのに。 廊下の窓際には宿泊客共用の円卓と椅子が二つ置かれている。おばさんが自慢していた年代物らしい背の高い円卓と、それと揃いの椅子。もう一つの椅子はパイプ椅子だ。西洋のお高い円卓と椅子らしいが、残念なことに私にはその価値が分からない。飴色に変化した木目を美しいと感じるが、椅子のクッションは色褪せて潰れている。円卓も食器で引っ掻いたのであろう擦り傷で鏡のような艶を失くしていた。私はこの円卓と椅子が結構好きだ。愛着を持って使い続けられたものには命が宿ると私は考えている。おばさんの手に撫ぜられて、微睡みながらずっとここで佇んでいるのだろう。客人の話に耳を傾けて、夜風と酒の匂いを感じて。そう考えるとロマンがあった。しかし椅子は一脚しかないらしく、安物のパイプ椅子がその調和を乱している。こちらは大変に座り心地が悪い。そのパイプ椅子に腰掛け、腕を組んで眠っている女が居た。彼女は私と同じく、この町にわざわざ来た変わり者であった。 名を市川裕美子という。 「おかえり」 目を閉じたまま裕美子はそう言った。彼女の容貌を私の主観で述べると、人より少し高い背と小鹿の様に伸びた腕と脚を持て余し気味に放り出した、少々無気力な、というか気怠さを感じさせる人である。白い肌は目を凝らせば粒子が見えるほどに美しい。烏の濡れ羽色の髪を短く切り揃えた中性的な女性である。作り物のように美しい彼女は喜怒哀楽をはっきりと顔に出す。目鼻立ちもはっきりとしていて、良く通る低い声も裕美子の内面を知らなければ魅力的に感じるであろう。内面、つまり彼女がマネキン人形のように黙って大人しく佇んでいれば、の話だ。 「まーた鯉のあらいなんて買ってきちゃって」 廊下の突き当りにある調理場の冷蔵庫に食材を詰めていると、裕美子は勝手に袋の中を物色し始めた。大股を開いて座り込む癖があるらしい。もう慣れたことなので私は注意もせず、目線を袋と冷蔵庫で往復させた。 「新鮮じゃないと食べられないみたいですし、ここに居る間に沢山食べておこうと思って」 「あはは、あの用水路に居たやつを?」 鯉のあらいのパックを差し出されたので、私は受け取って冷蔵庫に詰める。 「いやいや、食用にどこかで養殖してるんじゃないんですか?」 「どうだか。ここのおばさんは用水路で捕まえたのを食べてるって言ってたよ」 「町民の人は慣れてるんでしょう。商売で売ってるものは用水路なんかで捕らないでしょうし」 「ふうん」 裕美子はそれきり興味を失くしたようで、自分の部屋に戻っていった。腹が空いている私は米を炊こうと炊飯器を開ける。 「あ」 「お昼にするんでしょ。朝に炊いたから、冷や飯になってるけど」 どうやら、裕美子が私のために炊いていてくれたらしい。今朝はなんとなく朝食を摂らなかったので知らなかった。すぐ食事できることが嬉しくて、私は微笑んでしまう。 「じゃあ、一緒に?」 「うん」 部屋から戻ってきた裕美子は缶詰と割り箸と水筒を持っていた。彼女曰く潔癖症らしく(微塵もそんな風には感じないが)ここでの食事は全て缶詰などで済ませているようだ。他人が使っていた調理器具で作った料理を身体に入れたくないらしいのだが、料理下手な私のために魚を捌いたり米を炊いたりということはしてくれる。その後に水筒の水で手を執拗に洗うくせに、裕美子は私が遠慮しても強引に世話を焼く。本人曰く『暇だから』らしいが、どこからが彼女の『潔癖』にあたるのかわからないので、私は裕美子が物を掴むたび手を洗いださないかと少しだけ緊張する。 「先生は?」 「これ」 私が問うと、裕美子は手に持った缶詰をぽんと宙に放り投げた。小説家の『先生』の身の回りの世話をするために彼女は栗野崎に来たのだそうだ。その先生は『缶詰』、つまり外界からの刺激を遮断して原稿の執筆に取り組んでいるらしく、昼間は邪魔になるとかで裕美子は部屋を追い出されている。 私は『作家』という職業に就く人間は『気難しい人』だという印象(偏見ともいう)があるので、なんとなく裕美子のその扱いに納得してしまっていた。裕美子も慣れているらしく、文句の一つも言わない。ただ、暇つぶしに出歩いても見えるのは遠くの山。川も泳げるようなものではない。裕美子は飲食店の料理も駄目らしく、そうするとすることがないのだ。私も似たようなものだ。非日常を楽しんでいるとはいっても、女の一人旅で町民だらけの飲食店に入る気にはならなかった。常連達に囲まれて一人気まずく食事をするなんて、考えただけでも気分が落ち込むし、好奇の目で見られるのも、知らない人間にあれやこれやと聞かれるのも面倒だからだ。 だから昼間は二人で他愛もない話をして過ごしている。人付き合いがあまり好きではない私が肩に力を込めずに裕美子と話せるのは彼女の馴れ馴れしさと、良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把なおかげだ。無知を晒しても笑ったり呆れたりしないし、冗談を言うと笑ってくれる。沈黙が苦にならないので必死になって何かを話すこともしなくていい。まさかこんな辺鄙なところで『友人』が出来るとは思っていなかった。嬉しい誤算だ。 「鯉って美味いの?」 「食べますか?」 「いやぁ・・・それはちょっと・・・」 私は炊飯器の米を茶碗に盛る。裕美子は柔い飯が好きだが、私は強い飯が好きだ。米の一粒一粒がわかる程の歯ごたえがないと食べた気にならないからだ。しゃもじで掬うご飯は私好みの硬さに炊きあげられている。裕美子は古びた電子レンジで簡易ごはんを温めていた。世話好きなのか暇なのか、よくわからないけれど良い人だ。 「美味しいですよ。こりこりしていて臭みもないし。でも海の魚よりは味が薄いかも」 「へえー」 「冷凍の切り身も売ってたけど、ああいうのも駄目なんですか?」 「冷凍・・・。うーん、冷凍ねえ・・・」 私の提案に何か悩んでいるようだったが、裕美子はやはり頭を振る。 「・・・駄目」 「あらら」 歯触りが良く、旨味が詰まった脂が噛むほどに溢れ、それでいて身はさっぱりとした鯉はかなり美味であるから、鮮度が良いものを安く買えるうちに味わわなければ勿体ないと思った。しかしその気でない人間に無理に勧めるのはいけないことだと考えを改める。『食べ物の恨みは恐ろしい』と言うし、食文化というと大げさかもしれないが、私の中で『食事』と『宗教』は全く同じで、自由なものだ。裕美子も自由であるべきだ。食事の問題は繊細なのだから、機嫌を損ねるような真似はすべきではない。 二人で椅子に座り、円卓に料理を並べる。パイプ椅子が裕美子の定位置だ。尻が痛くなる硬い椅子を気に入っているらしい。私は冷や飯と鯉のあらいを前に両手を合わせた。噛み応えのある鯉のあらいは良く冷やされており、甘さ控えめの酢味噌をつけて一口噛めば、涼やかな酸味と鯉の脂の香りが鼻から抜けていく。冷や飯をよく噛んで米の甘さを味わい麦茶を啜れば、堪らなく贅沢な気持ちになった。裕美子は鯖の味噌煮缶と簡易ごはんを割り箸でつつきながら眠たそうに瞼を動かしている。箸の上げ下ろしから教養があることが分かるが、パイプ椅子の上で胡坐を掻くので折角の教養が台無しだ。 「昨日さぁ」 嚥下と咀嚼の合間に裕美子が話し出した。私は咀嚼を続けながら裕美子を見る。 「この町がなんで鯉を信仰してるのかって話を調べてまとめたんだけど、聞きたい?」 「へ?」 間抜けな返事をすると、裕美子は人差し指と中指を交互に動かした。それは人の歩行のような動きだった。 「暇すぎるもんで、たまに外に出歩いてお喋りをね。あ、勿論『こっそり』だよ。先生には秘密ね。誠ちゃんが買い物やら散歩で居ない間は下のおばさんと駄弁ったりしていたわけなのよ」 裕美子はふふんと笑う。子供っぽいその仕草に私は笑いを噛んで堪えた。それと同時に『あのおばさんとも仲良くなれるなんて』と感心する。 「聞きたいでしょ」 「うん、興味あるかも」 「でしょでしょ。で、話は昔々に遡るんだけどね」 食事を続けながら裕美子は少し声を落とした。窓の外から吹き込む風に掻き消されそうな声量で、まるで内緒話でもするかのようにである。 「ここって内陸の山間部、しかも細い川があっちこっち張り巡らされてるもんで、畜産が難しい土地な訳よ。川魚でも捕って食えりゃ良かったんだろうけど、大昔から水が悪いもんで碌に魚が居やしない。それでね、当時のなんとかってお偉いさんが動物性蛋白質を摂らせるために鯉の養殖を勧めたのさ」 成程、と頷く。裕美子は続ける。 「鯉っていうのは、多少、水が悪くても平気だ。そもそも酸素が薄い水質を好んで暮らしてきた魚だからね。おまけに何でも食べる。人間と同じくらいの雑食性だ。喉の奥に歯があって、かなり硬いものでも噛み砕けるの」 「悪食だとは知ってましたけど、何でも?」 「とろくさそうな顔してるけど、立派な『猛獣』だよ。獣を当て嵌めていいのかはわからないけれどね。草や藻、小魚に虫、その卵に、水面に浮いてる果物まで、口に入るものなら何でも食べる。『何でも』ね。おまけに大きくなると天敵が殆どいなくなる。『育てやすく死ににくい』んだ。さて、当時の家庭には台所の排水用の小さなため池みたいなのがあったんだ。米粒や野菜くずを餌にして、そこで鯉を飼っていた。で、丸々と肥えて大きくなってきた頃に・・・」 「ばりばりむしゃむしゃ、食べていたと」 「きちんと泥抜きすれば美味い魚だからね、鯉は。婦人病にも効くし、当時は『ごちそう』だったわけ。やがて栗野崎は一つの養鯉場を設けて、鯉の養殖に力を入れ始めるんだけれど、あるときに鯉が全滅しかけた」 「えっ?」 私は驚いた。川や用水路を泳いでいる鯉達は町中どこにでも居るし、そのどれもが立派な大きさの鯉だから、『全滅』だなんて想像がつかなかったのである。 「病気か何かで死んじゃったんだろうね。今なら科学的に解明できるんだろうけれど、当時はまだ神仏の天罰が大多数の人間に真剣に信じられていたのさ。『鯉の祟りだ』ってね。今はただの廃屋だけれど、町の生命線であった唯一の養鯉場、そこの鯉が全滅したのさ。家庭の裏に居た鯉達も不思議と死んじゃった。水質管理やら餌やら何やら相当に頑張ったらしいけど、ぜーんぶ水の泡。生き延びたのは養鯉場から川に逃げ出した鯉達だけ。それが野良の鯉と交わり合って元気そうに泳いでりゃ、『人間が飼ってたから死んだ』ってなったんでしょう」 「はあー・・・」 「それで、この町じゃ鯉が神様みたいに崇められた。『人間が決して飼い慣らしてはいけない存在』としてね。とはいっても元々は食い物なんだから、なんだかんだ言い訳して食べていたわけよ。川から鯉を捕るときはわざわざ儀式をして、ご丁寧に料理して、感謝して食べる。そういうのが時代と共に廃れて残った風習がある。それが『鯉を丁重に扱うこと』なんだってさ」 「はあ、成程・・・」 「この町に養鯉場がなくなったのはそういう理由だよ」 「・・・あれっ、えっ? 今、何て言いました? 私が今、食べてるものって」 私は思わず箸を止めた。裕美子は今、『この町には養鯉場がない』と言った。だとしたら、この鯉はどこから仕入れたものなんだ? 「あはは!」 「え?」 裕美子がおかしそうに笑う。 「いや、ごめん。一つだけ嘘。養鯉場はちゃんとあるよ」 「えっ、あ、もう! 私、てっきり、汚い川から捕った鯉を食べてるのかと勘違いしちゃったじゃないですか!」 「ふふ。誠ちゃん、あっちこっち歩き回ってるくせに、養鯉場があるかどうかも知らなかった訳だ」 「むぅ。いっぱい歩いたつもりだったんだけどなあ」 「まあ、養鯉場はちょっと奥まったところにあるからね。行こうとして歩かないと辿り着けないだろうし、そんなに大きくない養鯉場だから、目立たないしねー?」 軽く睨む私に、裕美子はくすりと笑いながら頭を下げた。悪戯を成功させた幼子の様に笑っているが、今のは悪趣味だろう。私は眉を寄せ、唇を尖らせた。 「今のが表向きの話ね」 「・・・? 表、向き?」 「そう」 しかし、裕美子はその笑みを一層深めて意地の悪い憎たらしい顔をした。謀でも練っているような顔である。私はごくんと茶を飲み込む。 「『口減らし』って知ってる?」 突然の物騒な言葉に、私は先程までの勢いを失くしてしまった。 「え、あの・・・。昔、働けない人を、その、殺してたっていう『アレ』ですか?」 「そう」 「・・・嫌な予感がするんですけど」 裕美子はけらけらと軽く笑う。窓から吹き込んでくる風が臭くて、食事中なのに気分が悪くなりそうだ。 「鯉の口ってね、開くと下を向くんだよ。掃除機みたいに、底に吸い付くみたいに」 「はあ・・・」 「水底にある泥なんかも吸い上げて、口に入るものなら何でも食べてしまう。で、だ。口減らしのために、重石を括り付けて、鯉の居る池に落とすでしょ?」 「え?」 「水でふやけた身体を、鯉が貪るんだよ」 「あのー・・・」 背筋が寒くなり、僅かに鳥肌が立った。私は想像してしまう。川に投げ入れられる人。それを啄む鯉の姿。 「それで丸々太った鯉を食べてたら、そりゃ祟られると思わない?」 「あー・・・。思う、けど、実話? 実話だとしても、今、言います?」 私は眉を顰めた。 「誠ちゃん、考えてみなよ。外を歩けば、気配を感じて鯉が寄ってくるでしょ? あれって町民が餌をやってるから『人間から餌を貰える』と思って寄ってくるんじゃなくて、『人の味を覚えているから』寄ってきているとしたら、さ、怖くなあい?」 裕美子はどこかうっとりするような顔で自分の顎を親指と人差し指でつまむ。私は何と言っていいものか少し思案してから、素直に感想を打ち明けた。 「えーっと、気分が悪くなりました・・・」 「あはははは、いやごめんごめん」 「冗談でも質が悪いですよ・・・」 箸を置く私を見て、裕美子は慌てたように謝り出す。 「ごめんよ、誠ちゃん。嫌がらせになっちゃったかしら。今のは栗野崎が『神隠し』を『鯉隠し』と呼ぶ一説の話なんだよ。こういう怖い話があるってだけなの」 「ええー・・・?」 「こんな感じのオカルトめいた話が幾つかあるんだ。誠ちゃん、もしかしてこういう話、駄目だった?」 「いえ、どちらかというと好きな方です・・・」 裕美子のその話を聞いてしまったせいか、口の中にある鯉の風味が急激に生臭いものに変化した。とてもじゃないが、食事を続ける気分にはなれない。裕美子は器用に話しながら鯖の味噌煮を食べきっている。 「ごめんって、事実じゃないよ」 「いやあ、食事中に悪趣味なお話を・・・」 「今の話、本当に嘘だよ。証明できるんだ」 「今度は何ですか」 「鯉の言葉が分かる女がこの町で暮らしてるの」 「うわあ、胡散臭い」 私は芝居がかった仕草で話を茶化した。裕美子はそれを受けて、にやりと笑う。 「『鯉隠し』から生還したらしいんだ」 「ふうん」 私が興味なさげに返事をしても口を閉じる気はないらしい。食事を終え、箸を持つ手が自由になった裕美子は大げさな身振り手振りを交えて話を続けた。 「今、幾つだったかな、十七か八?」 私は二度頷いて、咀嚼したものを飲み込んだ。 「へえー、私より二つ下だ。でもこの町で若い人なんて全く見かけなかったけれど・・・」 「家に籠ってあまり外に出ないらしいからね。・・・いや、どちらかというと『祀られてる』のかな?」 「なにそれ」 「うん、現人神のような扱いらしいんだ。わかるかな?」 「『あらひとがみ』。この世に人となって現れた神様、の、ことですよね?」 「そう、それでね。『鯉隠し』にあうのは死に近い老人か、生まれて間もない『厭世』に染まってない純粋な人間か」 裕美子はふと何か思いついたような顔をすると、言葉を選ぶためか少し間を置いて、 「・・・五体満足じゃない人間らしいんだ」 と言った。 「ん? それってつまり?」 「うん。鯉隠しは口減らしのカムフラージュだという説があるよ」 「ちょっと! それって、さっきの話で私を脅そうとしてるんでしょ!」 別段怒っているわけではないが、私は少し声を荒げた。裕美子は驚いた様子でぺこぺこと頭を下げる。 「ごめんごめん、本当に違うんだってばー」 「もう! ・・・それで?」 面白いくらいに表情をころころ変えながら裕美子が続ける。私は彼女の百面相を見るのが好きで先程のような『意地悪』をしてしまうが、彼女は気付いているのだろうか。 「うん、それでね。鯉隠しにあった人間っていうのは『鯉に選ばれた尊い人間』として扱われたらしいよ」 「ふうん。体裁ってやつですかね」 ちょっと嫌味っぽく言ってやると、裕美子は苦笑いしながら頷いた。 「人間が関与できない『神の領域』、『霊域』とやらに連れていかれると信じられていたらしい。鯉の神様が直々にお迎えに来て、連れて行かれた人間は神様の身の回りのお世話をする。お仕えする神様に気に入られれば、男でも女でも妾になれる。これがとても名誉なことらしいのさ。別の説じゃ、神様の眷属となって『鯉に生まれ変わる』んだとか。現人神さんはその神様の国からお帰りなさったそうだよ」 「その、十七、八の若い子が?」 「あー。確か、行方不明になったのは十四、十五・・・? の、頃だったかな?」 「行方不明」 私はその単語を繰り返した。 「そう。祖母と父と、その娘の三人暮らしだったらしい。地主だそうで、おっきいお屋敷に住んでる。娘が行方不明になって、その二年後に戻って来たんだけど、突然『鯉の言葉が分かる』だのなんだの言い始めたと。勿論、誰も信じはしなかった。それより、娘の二年間が全くの空白になっていることの方がよっぽど重大だった」 「空白って、どういうことですか? 記憶喪失ってこと?」 「うん。二年間のはっきりとした記憶が無かったんだ。正確には、とても正気だとは思えないものだったんだよ」 「というと?」 「ええと、確か・・・」 裕美子はこう諳んじた。 『わたくしは一柱の神として現世に舞い戻りました。人の血の代わりに、わたくしの身体にはこの地に坐します大神様の腎水が流れております。これは、大神様から頂戴したものでございます。わたくしには、鯉達の言葉がはっきりと聞き取れます。わたくしは代弁者。わたくしは神なのです。わたくしの言葉は、神勅としてお聞きなさい』 「じんすい?」 聞きなれない言葉を私は復唱する。 「精液」 「ひえっ、気持ち悪ぅ!」 「それから神様んとこでの暮らしぶりを語り始めたらしい。金の鱗を持つ一番偉い鯉の神様のところで奉公してたと」 私は茶を飲んで口内を潤した。 「彼女のお婆さんとお父さんはどんな反応を?」 「それがね、祖母も父も沈黙したっきりで、一度も表に出てこない。噂じゃあ、肉親から『召使』に格が下がったらしいよ」 「め、召使? 何でそんなことに?」 「町人が隠していた秘密をぴしゃりと言い当てたらしいんだ」 「うん?」 「つまりだね」 裕美子は少し疲れたのか、ふぅ、と息を吐き、そして深く吸い込んだ。 「どこの嫁さんがどんな風に姑にいびられてて、健気にもそれを旦那に隠していたことだとか、呆けたじいさんがどっかにやっちまった土地の権利書の場所を言い当てたりだとか、昨日、主婦達が介護の話で愚痴り合っていただとか、徘徊しているばあさんが今、どこに居るのかだとか」 「ええ・・・?」 「蜘蛛の巣みたいに町中に小川や用水路が張り巡っていて、その中にいる鯉が人の言葉を理解、いや、『音』として覚えていたとしたら。信憑性はあるかな?」 「無理がありません? 行方不明の人間が戻ってきたら、そんなことを言い出すなんて。彼女を攫った犯人だとか、二年間どうやって生きていたのだとか、どうやって戻ってきたのだとか。警察や医者が調べるでしょ?」 「調べたらしいよ。この町の警察と医者がね」 「え?」 「さあ? その辺は私もよくわかんないんだけど、そういうものなのかな。『栗野崎』って田舎はさ」 「もっと大事になりそうなものですけど・・・」 「兎に角だよ、鯉を神様と崇める町で、『鯉の言葉が分かる』って人間が出ちゃったんだ。しかも、その少女の言っていることが全て的中した。と、なればもう老人連中は信じちゃったのよ。自分の孫より年が若い女の命令、おっと、神勅か。わっかりやすく言っちゃうと、爺さん婆さん達は孫より若い年頃の女に『言いなり』なんだってさ。おばさんは気味悪がって近付きたくないらしいけど、ばあさんの散歩でたまに会うらしい。手を合わせて拝むばあさんを、その少女がにこにこと見ているそうだよ。こういうのが『宗教』っていうの? すっごく異様だよね」 失礼なことを吃驚するくらいすらすら言う裕美子に、私は思わず苦言を呈する。 「ちょっと裕美子さん。随分とはっきり言いますね。お婆さんに聞こえてても私は知りませんよ・・・」 「大丈夫、大丈夫。聞こえてないよ。あのばあさんが聞こえるのはおばさんの声だけだから」 裕美子は両手を振ってふざけてみせた。 「その女が言うんだって。『自分達を畏怖の対象にしないでくれ』って。『人を食べました』だなんて事実無根、肝試しをする大馬鹿者に迷惑してる、ってね」 「それが『さっきの話は嘘だって証拠』ですか?」 「そういうこと!」 ぱん、と手を叩き合わせ、納得したように一人頷く裕美子。私は彼女に最上の溜息が混じった称賛を送った。 「わあ、阿呆らしい」 「ええー?」 裕美子は期待が外れたときのような顔している。私も全く同じ顔をしているだろう。胡散臭い。胡散臭すぎる。私は肩を竦ませた。裕美子はきょとんとしている。 「鯉が人間を食べて、町民がその鯉を食べていただの、鯉の言葉が分かる女だの、現実味が無さ過ぎますよ。汚い川から捕った鯉を食べてるかもしれないって話の方がまだ説得力と整合性がありましたよ」 「『事実は小説よりも奇なり』だよ、誠ちゃん。鯉の言葉が分かる女に関しては私も同意見だけどね」 「馬ッ鹿らしい。人間を食べた鯉を食べるなんて、そもそもそんな悍ましいこと人間が出来るわけないでしょ。まったく裕美子さんは」 裕美子は態と人を苛立たせるように頬に手を添えて、顔を細かく横に振った。 「ひゃーん! そこまで言わなくても!」 私は箸を手に取り、すっかり温くなってしまった鯉のあらいと、表面が乾いた冷や飯を再び食べ始める。あらいは冷えていた方が美味いのに。裕美子の話を聞いて損をしてしまった。 「次はもっと怖がるような話を仕入れておくね」 懲りずに少年のように笑う裕美子に、 「そうしてください」 私も意地悪く笑って返した。結局この日もいつもと同じように他愛無い話をして一日を過ごした。 翌日、雨が降りそうな日和である。風はなく、曇天の空が鈍った光をゆっくりと降ろしていた。 「今日もお出掛けかい、誠ちゃん」 相変わらずパイプ椅子に座り、裕美子は退屈そうに窓の外を眺めている。彼女には暇を潰す方法という物がない。活字が苦手で(小説家の助手なのに)本も雑誌も新聞も五分で飽きてしまうらしいし、私が食べ物を買って帰っても裕美子はそれを食べることが出来ない。先生の『世話役』であるので外出することも難しい。 私が栗野崎に来て、もう一週間が経つ。話の『ネタ』は、互いに底が尽きかけている。だから散策先で土産話の一つでも持って帰ろうと、私は飽くことなく町を歩き回るのだ。とはいっても、裕美子のように町民と話すことはせず、ただひたすら歩いているだけなので、あれを見ただとか、これが綺麗だったとか、味気ない話しか出来ないけれど。 「健康優良児の誠ちゃんは、今日はどこに行くの?」 「うーん、どこに行こうかな」 「昨日話した養鯉場やお屋敷にでも行く?」 「養鯉場は興味ありますけど、お屋敷は嫌だなあ」 「ま、養鯉場も入れてくれはしないだろうし、お屋敷の方は門前払いを喰らうだろうね」 パイプ椅子をぎしぎしと揺らして、裕美子は笑った。 「んもう、提案したくせにどっちも行けない場所じゃないですか」 「ごめんごめん」 「適当に歩きますよ、迷わない程度にね」 「傘は持ってるの? 今日は午後から雨が降るよ」 「うーん、持ってないや。商店街で買ってから散歩をしようかな」 肩に提げた小さな鞄から財布を取り出して中身を確認すると、普段の呑気な声を甲高い声に変えて裕美子が言った。 「おいおい、そこまでして散歩したいの?」 「旅の醍醐味でしょー! 分かってないなあ、裕美子さんは!」 むふん、と私は腰に両手を当てて胸を張ってみせる。裕美子は腕を組んで感慨深そうに二度頷いた。 「はー、全くご立派で」 「健康優良児ですから!」 「あはは。じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」 「はい、行ってきます」 私は裕美子に見送られて葵荘を出た。曇天と相まって、今日は一段と強い水の匂いがする。気温はじわじわと上がり日照時間も増えているが、夏の風物詩である蝉の声はまだ聞こえない。常に聞こえる耳に慣れないせせらぎはふとした瞬間にとても響いて、それが気になって考えが纏まらなくなることがあった。ずっと同じ音を聞いていると、何故かはわからないが、私はここで産まれ育っていて、ここで死んでいくような酷く切ない錯覚、言葉にするなら『永遠』を感じるのだ。同じ歩幅で踏む砂利の音もする。それが錯覚への没入感を強めていた。鼓動と呼吸と血液の循環。砂利の音は鼓動で、呼吸は自分のもので、血液の循環は川のせせらぎから。瞼をゆっくりと閉じれば日に透けた赤黒い瞼の裏で、何故だか、母体の中に居るようにも思える。 「・・・ふふ」 ここで死ぬのも悪くない。栗野崎はそんな風に思わせる町だ。煙草と香水の匂いがしない。甲高い声の女子供がいない。酒や自分に酔った馬鹿な男がいない。寂しいくらいに静謐だ。電線が空を遮ることもなく、摩天楼という言葉には縁遠い。静かで、穏やかで、寂しくて。ここでゆっくりと眠りたい。沢山の草木が吐き出した清浄な空気を吸うと、優越感や嫉妬といった汚濁の感情が薄れて無くなっていく気がする。混線する感情と錯綜する記憶からなる過去への拘泥が曖昧になる。汚れた私など無くなって、だから何もかも許されたような気持ちになるのだ。 私は少し疲れている。 足元の鯉達は今日も私に着いて来る。裕美子の話、口減らしの話が本当ならば、鯉は人の味を覚えているのだろうか。私は薄ぼんやりとその味を想像してみる。多分、美味くはない。それは私が『人』を『人だ』と認識しているからだ。もし、完璧に調理された状態で、『何の肉か』知らずに食べたら美味いと思うのかもしれない。これも裕美子から聞いた話だが、魚にも味覚があるらしい。鯉は『甘党』らしい。人間ほど味覚が発達しているわけではないが、魚にも好き嫌いがあるのだ。そして、何もかもを食い尽くす鯉は同族だけは決して食べない。共食いをしないということは、鯉にも私のような、人間のような倫理があるのだろうか。 「んー。何、考えてるんだろ・・・」 私は自分の考えに苦笑した。すっかり裕美子の話に引き摺られている。鯉達を眺めながらゆっくりゆっくり歩くと、遠くに商店街のアーチ看板が見えた。幾度か通った道を歩き到着した商店街は店が十件程の小規模なものである。ここだけ舗装された赤いアスファルトの足元も砂が混じって踏みしめる音は他の道とそう変わらない。 商店街には、八百屋、肉屋、鯉が多く並ぶ魚屋と、服屋、花屋と本屋がある。時計屋は開いているのか分からない。他は全て飲み屋で、今は暖簾が出ていない。傘があるならば服屋だろうかと検討をつけて店の中に入ると、店主の老婆が起きているのか眠っているのか、深く細かい皺だらけの顔でレジの前にじっと座っていた。私はそのレジ台の横に陳列された傘を見つける。『婦人用傘』と書いた商品札が付いている。淡い色彩の生地に小さな花柄が所狭しと散りばめられた華やかな傘だ。私が差すには少し派手かもしれないが、都会なら気にすることでもこの町では気にしなくていい。洒落なくていいというのは気楽なものである。紫の生地に白い花柄の傘を買い、私は商店街を出る。 町民達は軒先で世間話に花を咲かせながら好奇の視線で私をちらちらと見ていた。耳を澄まさずとも聞こえてくるのは介護食の作り方や、身体のどこに『がた』がきたという話や、介護をするにはこの町は不便すぎるという話。それに交じってひそひそと、私のことを推測する話が聞こえる。若い女、一人。少ない町民は恐らく皆が顔見知り。一目で旅行者と分かるに違いない。居心地の悪さから視線を振り払うように速足で歩けば、鯉達が『待ってました』と言わんばかりに着いて来る。歩幅を広げて歩いても負けじと泳ぐ姿は力強い。 『登竜門』という言葉がある。中国の黄河の上流に『竜門』という激流がある。その下に多くの鯉が集まり、激流を登った鯉は竜になるという言い伝えがあるのだ。転じて立身出世の関門や試験を指す言葉であり、私もそのように認識していたが、実物の鯉の生態を目の当たりにすると『本当に竜になった鯉がいたのかもしれない』と、そんな風に思う力強さが鯉にはあった。鱗の一つ一つもよく見れば美しい。髭と胴が伸びて、角が生えて、小さな手足も生えれば竜に見えるだろう。空中に漂う姿は水中を泳ぐ様な優雅さに違いない。 鯉が竜に変化する姿を想像しながら歩いていると、不意に鯉達が速度を落とした。十数匹群がって泳いでいた鯉達が二分するように分かれていく。鯉達は私の姿が見えなくなるまで着いて来る執念深さで、それが分かれると言うことは別の人間、私の別に餌を貰えそうな『場所』を見つけたということである。何の気なしに鯉達を目で追うと、私の後ろ、そう遠くない場所に男が立っていた。 「あ・・・」 私は小さく呟いた。身体の大きな男だ。角刈りの髪と浅黒い肌で、肩を静かに上下させている。腕と脚は開かれていて、太く短い指がぴくぴくと蠢いていた。分厚い唇を薄っすらと開けて、そうだ、肩を上下させている。息を吐いているのだ。血走った目で、私をしっかりと見ていた。男が着ている若葉色の作務衣は茶や黒の染みで汚れている。 まずい。 本能だ、本能がそう告げている。 勘違いなどではない。 劣情か殺意かはわからないが、確かに悪意がその目にあった。私は咄嗟に視線を逸らしてしまった。その判断が良かったのか悪かったのかは分からない。雨が降り始めた。私は傘を差さずに速足で葵荘に向かう。何気ない風を装って立ち去ろうとしたその後ろを、勘違いで済ませるには荒い足音が、どたどたと、着いて来た。ちらりと振り返って見れば、男が身体を揺らして走っている。開ききった目は確実に私を見ている。口元に薄い笑みを湛えている。 「あ、あ・・・!」 町民だとするならば、地の利は向こうにある。老人ばかりを見慣れた町で突然現れた若い男の存在に理解が追い付かない。何故だ、恨みを買うような真似なんてしていないはず。私の見て呉れが別段良いわけでもない。だとしたら私が弱そうだからか。大いにあり得る。半袖の白いシャツにベージュのスカート。腰まで届く髪に、履き潰した青い運動靴。肩に提げた鞄。動きにくい、つまり逃げにくい服装だ。髪だって結わえていない。後ろからひっつかむには最高の部位だろう。 でも、でもどうして。私なの!? 「た、たすっ! だ、だれかあっ!」 「待てッ!!」 恐怖で声が出ない。掠れた情けない声が途切れ途切れに零れただけだった。全身の臓器が痺れるような感覚と共に混乱が沸騰する。男は地の底から響くような声で私の悲鳴を掻き消した。私を追いかけ『待て』と命令したことで、男が私を狙っていることは明確に理解できた。 「きゃあ!!」 髪を掴まれ藪の中に投げ込まれる。首が引き抜かれたと錯覚するほど強い力だ。頭皮は電流を流されたようになり、毛穴から血が滲んでいるのではないかと思うほどの痛みを感じた。耳の横でぶちぶちと私の髪の毛が千切れる音と、私の身体に押し潰された藪が揺れ、折れる音がする。身体のあちこちを木の枝や葉の先が切り裂き突き刺した。 判断が追い付かない。一瞬のようで、嫌になる程長いようにも感じる。しかしそんなことに構っている余裕などなかった。背中を強く打ち、数秒呼吸が止まる。痛みと恐怖に身を捩りながら点滅する視界で状況を把握しようとした私の眼前には、さっきの男の興奮した様子の顔があった。男の吐いた息が熱くて臭くて呼吸ができない。 「へへ、へ」 「うっ・・・!」 腹を二度殴られ、私は抵抗する術を失くした。痛みと圧迫感。食道を逆流する胃の内容物。喉の奥が僅かに焼け、酸っぱい匂いが私の鼻腔に留まった。 「き、綺麗だなあ。若い女だ・・・!」 「ッ・・・!」 男は私の身体をまさぐり始めた。頬から始まり、首筋、服の上から胸を撫で、太腿、そして股間へと手が伸びる。品定めをしているような、初めて触る『動物』に興奮と僅かな恐怖が混ざったような手つきだ。硬くてぶよぶよ膨らんだ手が、汚い手が。痛みで呼吸が上手くできない。助けてほしい。苦しい。私はとても恐ろしくて、誰かに助けてほしくて、無力に歯をかちかちと噛み合わせた。 「ば、馬鹿め、ヒヒッ。犯した後はぶち殺して、川に捨ててやらぁ」 耳元で愛の言葉を囁くように男は私の耳に唇を寄せる。私は震える手で地面を撫でるしかなかった。恐怖で身体が動かない。死にたくない。犯されたくない! こんな、こんな汚い男に、こんな醜男に。 私を、私の綺麗な身体を。 「なあ、教えてくれよぉ。女の胸ってどうなってんだぁ?」 男は私の胸に顔を埋めた。汗と涎が衣服に染み込んで私の肌を濡らす。恐怖と混乱で酩酊するように歪む視界。私の手に、ぴりりと鋭い痛みが走った。世界が色を失いかけていた。目の端に映る左手の先、私の手の平より一回り小さい石がある。薬指の爪が割れて血が出ている。石も、真っ赤な血が付いている。刹那、世界が急激に色を取り戻す。そして私は、咄嗟に、 「あああああ!!」 「ぐあッ!?」 石を掴むと、男のこめかみを殴った。 男は無防備だった。私の胸で視界を塞いで、手も私の腰を掴んでいたから。痛みに対する脊髄反射か、男は顔を上げて左腕を宙に振う。私の手は幸運にも振り払われることなく、男の眉に石を叩きつけた。 「ぎゃああああああッ!!」 目を潰されたと思ったのだろうか。男は右目を庇うようにして手で押さえ、痛みを逃がすためか私の身体から退き、でかい図体を縮こまらせる。私は瀕死の虫の様に手足をばたつかせてなんとか起き上がると、迷いなくその脳天に石を叩きつけた。 「うわああああああッ!!」 もう、どちらが叫んでいるのかもわからない。殺意があったのかもわからない。私はただ怖くて、男を石で殴る。 「やめてくれッ!! 許してくれよぅ!!」 腕で身体を庇い、情けなく懇願する男は、私が助けを乞うたときに聞く耳を持ったのだろうか。 その腕で、私の身体を凌辱しようとしていたくせに。 その腕を、私が許すとでも思っているのだろうか。 馬鹿に、している。 血塗れの男の骨とぶつかって石が欠けても私は男を殴り続けた。反撃か防御かわからないが、手を無茶苦茶に振って抵抗する男に何の感情も沸きはしない。男が殴られた箇所を庇うたびに別の箇所が無防備になる。私はそこに自分の左手ごと石を叩きつける。身を守るように両腕で身体を抱いて縮こまった男の頭を私は何度も踏みつけた。踵に全体重を込めて、踏みつけた衝撃で股関節が痛いくらいに足を振り下ろし続ける。砂利道に男の血と鼻水と涎が染み込んでいく。 何時の間にか雨が降っている。男が全く動かなくなるまで、私は男の頭を踏み抜き続けた。 気付けば男の腕はだらりと垂れて、もう頭を守る必要が無くなったことを知らせている。頭蓋が折れて脳に突き刺さったのか、首が折れたのかはわからない。端的に言えば、私は人を一人殺したのだった。過剰防衛だ。呆然とその場に立ち尽くした私の体温は雨で冷えぬほどに上がりきっている。耳と頬と項、脚と腕、そして何より左手が痛い。自分の指のことなんて意識する余裕すら無かった。石と男の骨に挟まれた指は皮膚が裂けている。赤黒い組織を雨水が伝ってぼとぼとと血が滴り落ちていた。染みている感覚が無い。痛みも無い。折れてしまったのかと恐る恐る指を曲げると、指はきちんと曲がった。しかし、曲げた途端に鈍痛と激痛がないまぜになって私の意識を覚醒させ、私が経験した今後一生残るであろう記憶を二つ、脳みその一番深い部分にしっかりと、文字通り烙印したのだ。目の前に転がっているのは、最早『人』とは呼べぬ肉の塊。 私は、 私は、男の死体を押し転がした。 男は死んでもまだ出血しているのか、流れ出る体液は絵の具のように薄まることも無く地面を濡らし続けている。重たい男の死体に悪戦苦闘し、息を切らして二度、三度。男の顔が一瞬視界に入ったが、脳がそれを『人間』だとも『死体』だとも認識しなかった。私は渾身の力で男を押し転がし、用水路に男を落とす。雨音では掻き消えない、ばしゃんと大きな水音が一つ。びくりと震えて周囲を見渡し、誰も居ないのを確認する。驚いているのは鯉だけだった。狂ったように水の中で暴れ、男の死体とぶつかり、水面を跳ねて混乱している。私は何故か、酷く安堵した。良いことをした気にすらなっていた。禍根を断った私は襲われかけた拍子にすっ飛んだ鞄を拾い飛び出した中身を詰め直すと、あちこち痛む身体で走って葵荘に戻った。 雨足は強く、全身ずぶ濡れだ。玄関の引き戸を開け、一段飛ばして階段を駆け上ると、パイプ椅子に腰掛けて微睡んでいた裕美子が飛び起きた。 「うお!?」 私の様相を見て、裕美子は睨みつけるように眉を寄せて開口する。 「えっ? ど、どうしたの誠ちゃん!」 「あ、あの・・・」 「傷だらけ、っていうか左手・・・!」 「こ、こけちゃいました!!」 咄嗟にそう言った。言ってしまった。考えるより先に口が動く。まるで口だけ別の生き物に寄生されたような不思議な感覚を私は覚えた。 「あは、実は、傘を買い忘れて・・・。えっと、雨が降って来たから急いで帰ろうとしたら、盛大にこけちゃって。左手で身体を庇っちゃった」 「おおい、おいおい。えらく派手にこけたね」 「そうなんですよ。藪の中に後ろ向きに」 「ん?」 裕美子が一層眉を寄せる。私は慌てて左手を突き出して裕美子に見せた。 「あの、裕美子さん。痛くてたまらないんです。手当を・・・」 「えっと、とりあえず。風呂に入っておいで。泥を洗い流してから、手当てしよう。ね?」 「は、はい」 薬箱を取りに行ってくれたのだろうか、裕美子は階段を降りていく。深く事情を聞かれなかったことに安堵して、私は一度部屋に戻って着替えを取り、風呂に入った。二階にある風呂は扉に打ち付けられたネジに引っ掛けられた木板をひっくり返し、『入浴中』にすればいつでも入れる。脱衣所で手の痛みに苦労しながら服を脱ぎ、簡素な作りの風呂場の中で私はシャワーの湯を浴びた。左手は湯が当たると呻き声が出るほど痛い。右手で髪に絡んだ泥水を流してから、全身に湯を塗りつけるように撫でた。背中は傷だらけのようで、染みてぴりぴりする。濡れた髪が背中を撫でる度に不快感で呼吸が荒くなった。浴室の鏡に映った私は、唇を強く噛みしめていたのか血が滲むほどに歯型が付いた唇を薄っすらと開けて、幽鬼の様な顔をしている。濡れた髪が顔と首に張り付いて一層恐ろしい。 何で笑ってるんだろう。 私は風呂場を飛び出た。 恐ろしい、恐ろしい。私はどうなっているんだ? 片手で苦戦しながら濡れた身体を拭き、寝間着代わりにしている半袖のワンピースを着る。肌触りが良い、無地の薄水色でお気に入りの服だ。それを着ることで栗野崎での日常に戻れたような気がした。廊下に出る。裕美子はパイプ椅子には腰かけずその傍に立っている。円卓の上には薬箱と、何故かラップが置かれていた。いつもは開いている窓が閉められて、窓越しに静かな雨音が伝わっている。廊下は薄暗い。雨雲とカーテンに光が遮られている。しかし、裕美子は電気も点けずに、猫のような眼で私をじいっと見ていた。 「こっち、座りなよ。そっちの椅子は肘掛けが邪魔だからさ」 いつも通りの少年のような笑みを浮かべて裕美子は言った。何か勘付かれたかと警戒したが、杞憂だったようだ。私は大人しく椅子に座る。裕美子はまず、私の左手の手当てを始めた。ラップにワセリンを塗り、私の手に巻き付ける。何故そんな処置を施すのかわからず、声が震えないように腹に力を入れて、私は努めて『いつも通り』の声を出した。 「あ、あのー。消毒したり、軟膏塗ったりとかは・・・?」 「綺麗に洗ってるんだし、この傷の酷さだと消毒液は染みちゃってすっごおーく痛いけど、どうする?」 「うう。やめときます」 「うん。あと軟膏は駄目。べたべたするし、ガーゼは乾いた血で張り付いちゃうから。出来立ての大きいかさぶたを剥がすことになるよ」 「そ、そうなんですね」 「爪も割れてるなあ。結構重症だよこれ。応急処置しか出来ないから、明日、病院に行ったほうが良いね」 「でも・・・」 「『でも』じゃないよ。着いて行ってあげるからさ」 「・・・わかりました」 裕美子は左手の処置を終えると、私の脚や腕、項と耳、頬に消毒液を塗り、絆創膏を貼る。左手以外は軽傷だったようだ。殴られた腹は見せないほうがいいと判断した。安全な場所で友人と話すことで落ち着きを取り戻す。混乱は静まった。安心したからか、今度は身体のことに気が回るようになって、傷の痛みで感覚が明瞭になる。そして、冷静になった頭で自分のしてしまったことを反芻する。 私は、とんでもないことを。 しかし、私はそれを告白することができなかった。『襲われそうになったから人を殺しました』だなんて、いつかきっとばれてしまうことなのに、私はどうしても裕美子に言い出せない。現実逃避に『いっそ夢だ』と思い込みたくても、身体の痛みで現実に引き戻される。どうして、私がこんな目に。捕まりたくない。とてつもなく大きな後悔だ。押し潰されて内臓が圧迫され、気分が悪くなった私はトイレに駆け込む。 「ちょ、ちょっと!」 後ろから追いかけて来た裕美子に構う余裕も無く、私は胃の中の物を汚い声と共に吐き出した。裕美子が咄嗟に髪を持ち上げてくれなかったら泥水ではなく吐瀉物で汚れた髪をもう一度洗うことになっただろう。 「おいおいおい、大丈夫?」 「す、すみません・・・」 「・・・ちょっと唯事じゃない様子だけど?」 「頭、打ったのかな。気分が悪くて・・・」 すらすらと口から嘘が出ていく。自分でも感心する程に。我ながら恐ろしかった。人を殺してしまったことより、それを無かったことにしようとする嘘が見破られることが。反省、良心の呵責、罪悪感。それが欠如している自分が恐ろしかった。 一通り吐き終えた私は裕美子に勧められて洗面所で口を濯ぐ。水を含んで分かったが、身体が恐ろしく熱を持っていた。興奮して顔が真っ赤になっているのかと不安になったが、鏡面に映る私は顔面蒼白そのもので酷く疲れた目をしている。廊下に戻ると裕美子は台所で湯を沸かしていた。このまま部屋に戻るのも不自然かと思い、パイプ椅子に座る。身体を起こしていることが辛くて、私は円卓にうつ伏せた。瞼の裏に先程の光景が鮮明に浮かび上がってくる。酷く疲れているのに目を瞑ることができない。自分の顔の陰で暗くなった円卓の傷をぼうっと見つめるしかなかった。 「ねえ、本当にどうしたの?」 「何でもないんです・・・」 「・・・本当に?」 「何でもないんですってばッ!!」 声を荒げ、私は起き上がる。裕美子はどこか呆れた様子だった。私のために茶を淹れてくれたらしい。ティーカップを私の前に置き、裕美子も椅子に座る。今日は私がパイプ椅子だ。堪らなく居心地が悪い。裕美子に対して『いつもと違うことをするな』という理不尽な考えが浮かぶ。パイプ椅子に座ったのは私なのに。 後悔は先程吐き出した。今の私にはぶすぶすと音を立てて燻る苛立ちと、怒りと、焦りと疑いだけだ。捕まりたくない。私は悪くない。状況を嫌でも思い返して、正当防衛だと主張できる材料を探している。男はきっと気狂いだ。随分と若い男だった。浅黒い肌に、短い腕と脚。醜い顔。芋虫のような指と、幼児めいた声の伸ばし方。きっと世間も知らない。だから女も知らない。体格を生かした暴力で女を組み伏せなければ碌に相手もされないような、社会の爪弾き者。女を犯すことを楽しむような、屑だ。 死んで当然だ。 殺されて当然だ。 私が殺したんだ。 涙が出そうになって私は拳を握りしめる。裕美子はそんな私を黙って見ていた。あの男は言っていた。『若い女』だと。老人が老人を介護しているようなこの町に珍しい若い女。だから襲ってきたのだろう。若しかしたら裕美子が襲われる可能性もあったのだ。 そこでふと、私は疑問に思う。 若い男だった。一体何処の男なんだ。あいつは町民だったのだろうか。この町の、栗野崎で産まれた若者の殆どは都会に出て行ったと聞いている。あの男はそれが出来なかったのだろうか。だとしたら町民の可能性はある。けれど、私はもう一人、若い男を知っている。疑い深くなった私は猜疑心を裕美子に向けた。 「裕美子さん」 「ん?」 「先生って今、どうしてるんですか?」 裕美子は、明らかに言い淀んだ。 「えーっと、どうしたの、急に?」 「・・・先生って、名前は確か、『佐伯優』って言うんでしたよね?」 「うん」 「『一度も』お会いしたことがないんですけど、本当に、そこの部屋で『缶詰』してるんですか」 私の言葉に裕美子は顔を顰める。 「なんでそんなことを聞くの?」 それは、初めて見る顔だった。 「質問の意図は?」 「先生って、裕美子さんより身長が高いですか?」 「はあ? 質問の意図は?」 敵意の混じった鋭い声に怯まず、私は質問を畳みかける。 「肌は浅黒くて、髪は刈り上げてたりしませんか?」 「んん??」 しかし裕美子は直ぐにいつもの少し呆けた調子に戻って一人考え込んだ。毒気が抜かれてしまった私は疲労感を感じながら再びうつ伏せることとなった。 「あの、私の勘違いみたいです。もういいです・・・」 「そ、そう? 本当にどうしちゃったの、誠ちゃん」 「ちょっと嫌なもの見ちゃって」 「うーん。まあ、言いたくないならいいよ」 「ごめんなさい」 「いいっていいって、気にしない気にしない」 裕美子は馬鹿みたいにけらけら笑って、私に茶を勧めた。大人しくそれを飲む。喉が渇いていたようで、私はまだ熱い茶を一気に飲み干した。緑茶の爽やかな香りが脳を直接ほぐしたような癒しを与えてくれる。途端にどうしようもなく安心して、私はまた泣きたくなった。必死に堪えて、私はカップをソーサーにそうっと置く。手が震えているので力加減ができているかどうかわからずにカップを割るのが怖かったからだ。 「もう一杯、いかが?」 「貰います」 「ん、じゃあちょっと待ってね」 裕美子は台所に立ち、茶を淹れる。私は漫然とその姿を見つめた。現実味がない今の状況に思考の処理が追い付かず、惚けたり暴走したりと私の感情は追い付いていない。ただ今は、姉の様に優しい裕美子に縋りたかった。 しかし、それを邪魔するように立て付けの悪い扉を『ぎい』と開ける音がする。宿泊客は私と裕美子と『先生』だけ。階下からは誰も来ていないはず。 「あ・・・」 裕美子は目をまん丸に見開いて、口元を手で覆った。 「どうした」 「いや、あの」 初めて聞く、若い男の声だった。私は思わず飛び起きる。足が円卓にぶつかって派手な音を立てた。 「あ、え?」 「・・・誰だ?」 先生は、病人の様に真っ白い肌で、西洋人形のような顔をした細い男だった。背は高く、腕と脚はすらりと長い。髪は刈り上げていない。男にしては長く伸ばしているが、後頭部は綺麗な曲線を描き、真っ白の項と耳が見えている。前髪も眉にかかるかかからないか程の長さで、裕美子とは違った意味で中性的だ。 「起きたの・・・?」 「うん。彼女は?」 「えーっと・・・」 裕美子は何故か少し焦っている。私はどうしてよいか分からず、『礼節を弁えた人間』として行動をとるため、とりあえずという形で自己紹介をした。 「あ、あの。井上誠、です」 「彼女、旅行者なんだって」 裕美子がまるで私を庇うように言葉を付け足す。先生、佐伯優は値踏みするような目で私を見た。私は必要以上に吃驚して、怯えて、相手の目を直視することが出来ず目を泳がせてしまった。きっと挙動不審に見えただろう。 「旅行? こんなところに?」 「辺鄙な田舎だからこそ得られる経験もあるんですよ、先生」 裕美子は佐伯優の肩を叩く。彼はそれを手で振り払うと、さっさと部屋に戻っていった。 「あー・・・」 「ど、どうしたんですか?」 「・・・機嫌が悪いみたい。ごめんね、碌に挨拶もしないで」 「い、いえ」 私の『裕美子の連れを殺してしまったのではないか』という疑念は消失し、裕美子自身に対する不信感(女を襲うような男と一緒にいたのか?)もなくなった。いや、それも私の被害妄想というか、裕美子達には全く関係の無い問題を一人で抱えて、不安と焦りで警戒心が強くなって、勝手に怒って疑っていただけだが。 結局、私は誰を殺してしまったんだろうか。都会に出られないような気狂いの男。その推測が正しければ、彼は肉親と暮らしているはず。この町にそんな『施設』があるのかは知らないが。しかし、そんな問題は重要なことではない。 私は何故、罪の意識に苛まれながらも、自分を正当化しようとしているのだろうか。答えは出ている。私は被害者だからだ。あれは過剰防衛なんかじゃなかった。正当防衛だ。だから、私は悪いことなんてしていない。私は悪くない。私は悪い子じゃない。人に疎まれるようなことはしていない。だから、今日あったことはどうでもいいことだ。警察に捕まるかもしれないという焦りも不安も、人に言えない秘密を抱えてしまった恐怖も、熱となって私の身体を暴走する。温まった肺の空気をゆっくりと吐き出して、私はきちんと息を吸う。私は今まで積み上げて来たものが崩れて『犯罪者』として忌み嫌われるのが怖い。でも、そんなことを心配するなんて無駄なことだ。焦りも苛立ちも杞憂に変わる。私にはその確信がある。ばれはしない。ばれたって、別に私は困らない。事実が知られたって、別に構わない。 私は、悪くない。
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