三章 邪推

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三章 邪推

「ねえ、本当にもう帰ってしまうんかい?」 靴を履く私の背中に、おばさんが名残惜しそうに言う。 「私はとっとと帰りたかったんですけどね」 「・・・そう、そうやね。寂しいからって引き留めるようなこと」 私は振り向いた。おばさんは、彼女は良い人だ。孝行者の息子から月に一通届く手紙を楽しみにしている。返信は万札を添えて、息子が帰ってこない事を祈っている。寂しくて、哀れで、可哀想な、優しい人だと私は思う。が、思うだけだ。別段どうもしない。おばさんは滲む涙を人差し指で拭きとって並ぶように私の横でしゃがみこみ、声を落とした。 「裕美子ちゃん、気を付けて。お母さん、今日も無理して起きて、鯉に、御子様にアンタのこと『告げ口』しとる」 おばさんの母親は栗野崎の平均的な住民である。震える腕では物を掴めず、歩くことすら一苦労で、精神的に不安定で、どうでも良いことで笑っている。御子様を神と崇める老人だ。栗野崎の老人達が患う、痴呆症。死の前兆。彼ら彼女らは、果たして天国に辿り着けるのだろうか。 「御子様がそんなに大事かあ」 「宗教ってそういうもんよ」 立ち上がり、葵荘を出る。 「じゃあ」 それだけ言えば十分だ。願掛けなんて馬鹿らしいと思っているが、『行ってきます』と言うことはいずれその場所に帰ってくるということである。こんな物騒な町、誰に頼まれても、どれだけ金を積まれても長居なんてしたくない。 私が目指す場所は『板倉診療所』という診療所である。車がたったの一台も走っていないこの田舎町で精神科医をしている板倉という男に会いに行くのだ。栗野崎の人柄は都会の人間が想像するような、保守的で偏見に満ちたものではないらしい。繁盛している、というと不謹慎極まりないが、なかなか忙しいようで町民からも信頼されているようだ。 「よう、聞いたか」 「聞いた聞いた、また『鯉隠し』があったそうやの」 私の背後から二人の男の声が聞こえた。一人は低い声でくぐもっていて聞き取りづらい。もう一人は鈴虫のように耳障りに震える高い声だ。私は振り向かずに歩き続ける。 「あそこの、出来損ないの倅よ」 「おう、図体ばかりでかくて、頭は餓鬼のままの」 「そうそう」 私が歩幅を落とすと彼らも歩幅を落とす。これは『忠告』だ。善意か悪意かはわからない。栗野崎について調べ出した日から、私は何度も何度もこんな風に忠告を受けている。これは私の持論だが、人は突き詰めれば誰でも屈折しているし、変態だ。知られたくない秘密や病んだ心を抱えている。しかし栗野崎の住民の『暗黙の掟』は到底許されるようなものではない。私は恐るべき悪行の核心部に触れることができていない。だからこそ『忠告』で済んでいるのだ。物的証拠を掴めば住民総出の大捕り物が始まるだろう。 「可哀想に。出来が悪すぎるからって、他の子ォらと同じように『外』に出ることを許してもらえなんだ」 「お前、その言いぶりじゃ詳しい事情を知らんな?」 「何?」 「妄想が過ぎて色狂いになったぞ」 「冗談よせ、若い女なんてここにゃ居やせんだろ」 「おるやろが、御子様が」 「おい、冗談にならんぞ!」 低い声の男が怒号する。演技なら大したものだ。 「自分と御子様は恋仲だと抜かしおった」 「御子様がお許しにならんぞ、そんなこと!」 「それが、御子様はあの馬鹿たれ、哀れに思ったそうじゃ。夢と現の区別がつかんなんて可哀想と思ったそうじゃ。父親が『処分』したがっとることと、鯉隠しの『由来』について直々にご教示してくださったらしい」 「なんと。それやのに鯉隠しにあったっちゅうこたぁ・・・」 「そうよ。憧れの御子様に会ってから、一層色に狂いよった」 「御子様のお怒りに触れたか」 「そういうこったナ。父親は世間体かなんかしらんが、悲しんどる振りをしとる割にはよーぅ笑っとったで。倅が見つからんように御子様に祈っとるようやしの」 「その方がええやろ。爺婆連中は御子様のことになると見境がつかんなる」 「御子様を怒らせたらいかん」 「御子様は神様じゃ。ちょっかい出したらいかん」 はっきりゆっくりと、一音一音、明確に私に聞こえるように言い、足音が途絶える。ちらりと振り返ってみれば、去っていく彼らの背中が見えた。やはり彼らも老人だ。白髪とよたよたした歩きでそう分かる。 「・・・ご親切にどうも」 聞こえない嫌味を言ってやって、私は再び歩き始めた。三十分程で板倉診療所に到着する。古びた家屋と木と土と川、つまり昭和と緑と肌と茶と、鈍い黒色の栗野崎という町の中で板倉診療所は異様な風体であると言えよう。巨大な豆腐をぽんと置いたような白亜の長方形。玄関の傍に『診療中』と書かれた小さな看板が出ている。私はそれを持って診療所の扉を開け、中に入った。待合室に客は居らず、受付で事務をしている娘も居なかった。かわりに、爬虫類のような顔をした背の長い男が座っていた。 「よう、裕美子さん」 「どうも、板倉先生」 板倉は痩せた身体を椅子からゆっくりと起こし、新しい玩具を貰った子供のような顔をする。六尺近くあると思われる身長。その威圧感を殺す様な胡散臭い笑み。私はこの男が嫌いだ。数多の男に言い寄られてきたからわかる。この男の目つきは女を『カテゴライズ』、つまり『こいつは何点』と決めつけることに慣れた目つきだ。こういう男は人によってあからさまに態度を変える。だから、私はこの男が凄く嫌いだ。 「営業妨害だ」 「受付の娘はどこ行ったの?」 「昼休憩だよ」 「そう」 彼女の名前は知らないが耳が悪いことは知っている。栗野崎から出られない、この町では珍しい若者だ。彼女は板倉に好意を抱いているらしく、私に対して敵対心を剥き出しにしている。他人の痴情に巻き込まれるのは面倒なことこの上ない。睨んでくる彼女が居ないことが私は少し嬉しかった。 「今日は何の御用かな?」 「明日、ここを発つんだ」 「・・・へえ?」 板倉は摺り足で歩くのでスリッパが擦れてさこさこという足音が鳴る。リノリウムの床が擦り傷に悲鳴を上げているのだ。窓から差し込む自然光で十分に明るい院内を彼の背中に着いて行き、私は診察室の一つに入った。僅かに薬品の匂いがする清涼な空気。巨大な濾過器。本棚には医学書と幼児向けの絵本、古い女物の雑誌。机の上には、医学を舐めているのか灰皿があった。 「君、よく『猫みたい』って言われるだろ?」 「え? ああ確かに、言われるけど?」 「自分でも猫っぽいって思うのかい?」 「さあ、よくわからないね。『猫になろう』なんて思ったことないから」 「はっはっは!」 板倉は愉快そうに笑って椅子に座った。私も彼の対面に座る。まるで医者と患者のようだ。けれどこれから行われるのは診察ではない。私は板倉の目を真っすぐに見た。板倉は目を逸らして、机に乗せた自分の手を見た。 「猫を擬人化したら、きっと君のような嫌な女だよ。細くて、しゃなりしゃなりと歩く。みゃあみゃあ煩い。いっつもつれない態度で、腹が減ったときだけ飯を集る。嫌なところに触られると爪で引っ掻くけど、ふわふわ柔らかそうな身体に男はそそられるんだ」 「・・・はあ。口説いてるの?」 「好きに受け取っていい」 「じゃあ茶化してるんだね」 「その澄ました顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいって言うんだぜ」 横目で私を見て、板倉は鼻で笑う。 「はーそうですかそうですか。わかった暇つぶしはもう結構」 「好奇心旺盛な猫に『男は危ない』って教えてやってるんだよ」 「うへえ、今時映画でもそんな『気障』な物言い聞かないよ」 くつくつと鍋が煮えるような笑い声を出して、 「答え合わせをしよう」 と板倉は言った。私はどう順序立てて話すべきか考えながら顎を動かし、噛まないようにとしっかりと口を開閉させて、言った。 「蛋白質、異常プリオン」 「うん」 「栗野崎での口減らしの伝承」 「うん」 「栗野崎の住民は人を食った」 「正解」 板倉は称賛の拍手を送るように、音は立てずに手を叩き合わせた。私は頭の中で言葉を組み合わせながら、続ける。 「異常なプリオンを摂取することで発病する『プリオン病』の中に『クールー病』って言う風土病がある。ある部族が埋葬の方法として死体を『食べて』いた。脳に蓄積された異常プリオンを経口摂取して発病した。潜伏期間は五年から二十年で、中央値は十四年。四十年以上潜伏していたケースもある。母子感染、性的接触による感染例の報告はない。母乳に異常プリオンが検出された報告も無い。そしてプリオンは、プロテアーゼ、熱、放射線、ホルマリンなどの処理に耐性がある。水にも溶けにくい。塩素漂白か焼却でしか病原性は消えない」 「正解」 「クールー病には三段階ある。一、歩行可能。姿勢や歩行が不安定になり、筋肉の制御が衰え、震えや発音障害、『どもり』が見られるようになる。二、介助なしでは歩行不可。筋肉の協調運動に障害をきたし、運動不調を起こして激しい震えがみられるが、腱の柔軟性は保たれたままだ。感情が不安定になり、散発的に制御できない笑いが出る。三、介助なしでは座ることも出来ない。協調運動が不能となり、重度の運動失調、失禁、嚥下障害、会話も出来なくなって、周囲の状況に反応しなくなる。つまり『寝たきりの病人』だね」 「一つ抜けてるな」 板倉は自分の顎を触った。 「異常プリオンは正常なプリオンを変化させる。その結果、脳がスポンジのようにすかすかになって脳機能障害が引き起こされる。例えばアルツハイマー。痴呆病のような症状がな」 「つまり・・・」 鳥肌が立った。 「クールー病、かどうかは定かではないが、君の想像する通り、栗野崎はプリオン病に侵されている」 にやにやしながら相槌を打つか、私を言葉でおちょくって遊ぶだけの板倉が、この日初めて肯定の返事をみせた。それどころか、補足まで付け加えて満足気に笑っている。 「正気じゃない!」 私は声を荒げた。 「何が?」 「言ったでしょ!? 聞いていたでしょう!? 『潜伏期間は五年から二十年で、中央値は十四年。四十年以上潜伏していたケースもある』って!! だって、だって今は、『西暦1998年』だぞ!!」 『鯉隠し』の話を聞いたとき、私はなんとなく嫌な予感がした。そう、あれは栗野崎に来たばかりの頃。 父から相談されたのが始まりだった。優に母親のことを話すかどうか。私と両親は議論に議論を重ねて、話すことに決めた。母親との過去に苦しめられ、いつか今の生活が母によって壊されてしまうのではないかと夢にうなされて飛び起き、啜り泣く優を、私達は見ていられなかったのだ。 二ヵ月前に、優には秘密で私は栗野崎に訪れた。彼の母親を探すために。旅行者が居るとは知らず、油断していたのだろうか。町民達が、まるで常識、当たり前のことのように『鯉隠し』について語っていたのだ。私は聞いた。聞いてしまった。 暴力を振るうようになってきた姑を鯉隠し『した』と言い、下の世話がきついので私も父を鯉隠し『した』と言った。笑いながら、愚痴を話し合う主婦達の会話を。 「つまり日常的に人を殺してるってことじゃないか!」 「正解」 「そんな・・・」 科学と倫理が進歩した時代で日常的に行われる殺人。鯉による死体の隠滅。間接的な食人の風習。いや、理解して鯉を食っているなら、これはもう直接的だ。 「煙草いいか?」 返事も聞かずに煙草に火を点け、板倉は白くて臭い煙を吐き出す。 「その昔」 そうして、父親が娘に紙芝居をしてやるような口調で、板倉は煙と共に過去を燻らせた。 「飢餓に苦しんだ栗野崎は動物性蛋白質として鯉を迎え入れた。胃の無い鯉は食いだめができない。だから食べ続けなければ生命を維持できない。必然的に口に入る物なら何でも食べるようになった。そして、何でも口に入るように口を作り変えていった」 私は沈黙する。じっと板倉の目を見る。板倉はそれを逸らすように床を見た。 「老いた祖父母や両親、望まず出来た我が子、罪人。栗野崎の住人達は『餌』の頭を金槌で叩き割って川に捨てた。しかしそれでは足りなかった。水死体は水に浮く。体内で腐敗したガスには強力な浮力がある。浮いてきた死体は病気の苗床だ。いや、当時はそんなこと考えていなかったかもしれない。悍ましい見た目の、『知っている人間』の形の肉。人間は誰だって因果応報を恐れる生き物だ。やがて栗野崎では頭を叩き割るだけでなく、身体中に深い傷をつけて、ガスが漏れるようにしてから川に捨てた。体液で濁った川水の底には、城が作れるほどの骨があった」 「・・・わかる、わかるさ。それが歴史の話ならね」 「残念、昨日今日の話だ。続けるぞ」 私はごくりと唾を飲み込み、こみ上げる吐き気を押さえつける。 「人を食べた鯉を食べて、奇妙な笑い声をあげて死んでいく。『神罰だ』と言う者と『未知の病気だ』と言う者で村は戦争になった。数十年前の、『つい最近の』話だ。それぞれ『保守派』と『革新派』ってことにしておこうか。保守派は村の『外』に鯉隠しのことが知られたら困る。自分が気に入らない奴をバンバンぶち殺して川に捨てても『鯉隠し』として処理されていたんだからな。鯉隠しは人がいなくなる『便利な言い訳』だったわけだ。私欲で人を殺すことが許される。それが暗黙の掟だった。『殺されるようなことをする方が悪い』ってな。だからこそ『自分は殺されないように』と保守派は強固な塊になって、裏切りや貸借に厳しい罰を設けていたのさ」 煙草を灰皿に押し付け、板倉はもう一本煙草を吸い始める。 「一方、改革派は治療法を得るために町の『外』と接触、いや『助けを求める』ことを考えていた。水や鯉、川底の骨や肉を調べて病原菌を特定するつもりだった。まあ、正確には病原菌ではなかった訳だが・・・」 「それで?」 「改革派は山を越えて『外』に助けを求めようとした。ところが内通者によって情報が洩れ、保守派の襲撃を受けて三人が死亡。残りは無事に山を降りきり、警察や医者を引き連れて栗野崎に戻ってきた。しかし、世間にこのことが公にされることはなかった」 「人食いからなる風土病、暗黙の殺人、公にできるはずが、」 「不正解」 板倉は煙草をくわえたまま座る姿勢を正した。猫背だからずっと同じ体勢でいると辛いのだろう。 「『何も』見つからなかったのさ」 殺人の物的証拠が見つからなかった、ということだ。板倉はにやりと笑い、私が考えるのを待つ。 「水流で削られて無くなった?」 水の流れ、そしてそれに運ばれる小石などに削られ骨が無くなってしまったのではと私は推測してみる。 「革新派の三人の死体が、たかが数ヵ月でか」 しかし、違ったようだ。 「ヒントは『雑食性の鯉』だ」 「鯉が食べたって言いたいの? けど、鯉の口には人の骨を砕けるような歯なんて無い。喉の奥にある『咽頭歯』ならかなり固い物でも砕けるけど、口の大きさは人間の指が入るくらいの大きさしかない」 「惜しい」 「惜しい?」 板倉は机から一つのファイルを取り出した。患者のカルテなのだろうか。神経質そうな文字で『中畑修三』という名前が表紙に書かれている。 「見ろ」 そう言って板倉はファイルを開き、頁を捲る。どうやらカルテではなかったようだ。私は捲られていく頁を目で追った。しっかりと読むことはできなかったが、幾人かの名前と『プリオン』の文字、そして鯉の写真が確認できた。板倉に提示された一枚の写真に、私は言葉を失う。 「なん、だこれ?」 「鯉の『歯』だよ」 「・・・は?」 洒落ではなかった。真正面から撮影された鯉の写真。開いた口の中、本来ならつるつるしているはずの鯉の唇の内側に、びっしりと、歯が生えていた。人間の歯列を小型化して鯉にくっつけたような見た目だ。板倉は頁を捲る。唇を切り取られた鯉の写真だ。閉じた歯の並びは、人間の物と変わらない。異形の怪物そのものだった。例えるなら人語を解する鯉の妖怪。呪いで鯉になった人間。恐らくこのような見た目になるのではないだろうか。 「進化したんだ、人間を食うために」 私は頭がくらくらした。有り得るのかそんなこと。いや、有り得るとしても、百年程の歴史の中で、そんなに、急激に進化できるものなのか。 「この歯で、集団で骨を『削り取って』食うんだよ。疑うならその辺に居る鯉を捕まえて見りゃいいぜ。齧られて指が無くなっても責任は持たないがな」 「いや、いい。わかった。全部納得がいった。鯉隠しの、口減らしの伝承は事実で、栗野崎に寝たきりの老人が多いのは、鯉隠しが最も盛んに行われていた時代を生きていたから」 「正解」 「あんたが言った『水も飲むな』の意味が、まさか、まさか本当に、こういうことだったなんて」 私が板倉と出会ったのは、初日の夕食をどうしようかと途方に暮れていたときだった。奇妙な『鯉隠し』という言葉から、あのときの私は鯉に関わるもの全てが怖く見えていた。魚、水、水を使った食べ物、苔に藻。野菜ですら薄気味悪くて、何も食べる気が起きない。そんな私に、たまたま買い出しに出ていた板倉が見慣れない顔だからと声をかけて来たのだ。二、三、問答して、板倉は私の不安にすぐに気が付いた。確かあのとき、 『蛇口から出てくる水は安全ですか』 と聞いて、 『水も飲むな』 と板倉は言った。 「俺も親父から話を聞かされたときは訳が分からなかったよ。私財を投げうってこんな濾過器を買ったときは頭がイカれたんじゃないかと思って真剣に心配したもんさ」 顎をしゃくるような仕草で部屋の隅の濾過器を示す。プリオンが濾過できるかは疑問の代物らしい。 「あれのお陰で俺は長生きできるのかもしれないが・・・」 「濾過してくれないと困るよ板倉先生。私もあの水を飲んでるんだからさあ?」 板倉はゆっくりと煙草の煙を吐き出した。飲料水と清拭のための水は彼が濾過した水を貰っている。優にも鯉を食べないことと水道水を飲まないことを勧めてこの濾過水を飲み水として渡しているが、風呂に関してはどう説明すればいいのか、どう嘘を吐けば整合性があるように伝えられるか思いつけず、困ったことにそのままにしている。だから私は優を連れて一刻も早くここから帰りたい。 「まっ、プリオンに耐性を持つ人間だって居るんだ。俺達はそうだと信じて開き直るしかないぜ」 煙草を灰皿に押し付け、板倉は再び座り直した。私は鼻から深く息を吸い、肺に臭い空気をため込んだ。まだ、聞くことがある。想像すると胸が苦しくて、聞きたくないことが。 「・・・板倉さん」 「ん?」 「葵荘のおばさんから聞いた話なんだけど。保守派は寝たきりになってる老人達の一つ上の世代で、改革派は若い人たちが多かったって」 「うん」 「おばさん、おばさんは、山を越える人たちのために、若い娘で集まって、おにぎりを握ったって・・・」 「そうか」 「我が子を栗野崎の因習から逃がすために、おばさん達は息子や娘を『外』に出したんでしょう?」 栗野崎に何故若者が居ないのか。仕事が無いからでも、娯楽が無いからでもない。我が子が苦しんで死なないようにと断腸の思いで子を『外』に逃がした親心が理由だった。おばさんは私を見てどう思ったのだろう。息子と同い年の人間を見てどう思ったのだろうか。私にはわからない。親になったことがないから。だからおばさんが協力的であることに未だに疑問を拭いきれないでいる。 「鉄道が敷かれたのは幸運だったな。揉めたらしいが、『田舎町』と『国』とじゃ喧嘩にならなかったようだ」 「おばさん達はどうして逃げないの?」 板倉を見据える。一秒も目が合ったことはないが、私は相手の挙動を一つも見逃したくなかった。なんとなく答えはわかっている。けれどそれを認めてしまうと、胸が苦しくなる。 「もう自分は助からないからだろ」 おばさんの世代も、栗野崎で採れた鯉や野草を食い、水を飲んで生きてきた。だからもう助からない。 「俺は母親が居ないし、親父に『外』に放り出されて育った。父親を馬鹿にしたくて医者になったってのもあるから、その辺の事情というかなんというか、よくわからないが」 「え? 何の話?」 「理由の話さ。『もう助からないから諦めている』、『今更外の世界で生きていけない』も、あるだろうが。『死んでしまうお母さんお父さんを放っておけない』。これが栗野崎に残って介護生活を送る理由なんじゃないか」 「・・・板倉さんはどうなの?」 「ん?」 板倉は癖の強い髪を掻き上げた。 「歳を聞いたことはないけど、恐らく三十代半ば。精神科医として『外』で生きていくこともできたはず。なのに栗野崎に戻って来て、ここで生活している。飲料水どころか風呂の水だって危ないかもしれないここで」 人殺しだらけの町と知っていて、何故住み続けるのか。 「好きな子が居たんだ」 「・・・えっ?」 茶化す様子もなく、板倉は答えた。 「ちょっと年が離れてるが、純真で優しい子だった。引っ込み思案で、思い込みが強くて。君みたいに、人の目を真っすぐ見て話す子だった」 「『だった』・・・?」 「俺が精神科医を選んだのも、その子の苦しみを少しでも楽にしてやりたかったからなんだ。すごく好きだった。でも、居なくなっちまったよ」 「出て行った、ってこと・・・?」 「死んじゃった」 それ以上何も語らず、板倉は寂しそうに目を伏せるだけであった。 「御子様についてはどう思う?」 触れられたくない話題だったのだろう。話を逸らすように板倉は栗野崎の宗教の象徴である御子様の名前を口にした。 「鯉隠しから帰って来たっていう腎水娘?」 「・・・その言い方は良くないな」 「これがさっぱりわからないんだ。誘拐監禁されて自力で逃げ出したと思うんだけど、御子様を攫った犯人はやっぱり鯉隠しされたのかな」 「うん、それで?」 「保守派が御子様を崇め奉るのはわかる。単純に神様だと信じ込んでいるか、鯉の言葉が分かる彼女に秘密を暴かれたくないから」 「正解」 「けれど、『鯉の言葉が分かる』仕組みがわからない」 「仕組み、か」 「御子様の寵愛を受けるために、老人達が互いの情報を御子様に提供しているのかも? いや、うーん・・・。盗聴器とか監視カメラとか、そういう話ではなさそうだし、彼女を神に仕立て上げることで背後にいる『誰か』の利益に繋がっている?」 「不正解」 「うーん・・・」 そもそも、十八の少女を畏怖すること自体が謎だ。『御子』と呼ばれる人間。なんて胡散臭い。 「本当に、わかるんだろ」 「・・・ちょっと、あんた精神科医でしょ?」 「裕美子さん、世の中全て説明がつくわけじゃない。時代や技術が追い付いていないものもあるが、人の感情は複雑に発達してるんだ。『何が何だか分からない』ことだってあるんだぜ」 「けど彼女は、」 「それを知ってどうするんだ? マスコミに売って小銭を稼ぐか? オカルト雑誌に投稿して楽しむのか?」 「う・・・」 「『好奇心は猫を殺す』って言うだろ。その好奇心で死ぬのは猫の君なんだぜ」 「そういうこと言いだしたら『おっさん』なんだって知ってる?」 「うまいこと言ったつもりだったんだが」 ぼりぼりと頭を掻いて、板倉は苦笑した。 「世の中には知らないほうがいいこともある。知らなくたって生きていけるんだ。だから俺達のことなんか綺麗に忘れて、可愛い弟とお家に帰りな、裕美子さん」 「はあー・・・、そうするよ」 私は椅子から立ち上がる。礼を言おうか考えたが、なんとなくそうしないほうが良い気がした。 「・・・そうだ」 「うん?」 「もう一つ、聞きたいことが」 「なんだい?」 数日前の井上誠の様子と、先程の男二人の会話を思い出し、 「あんたの患者に背が高くて肌が浅黒くて、髪を刈り上げてる男はいる?」 と聞いた。 「守秘義務って知ってるかい?」 「綺麗に忘れるからね」 「はっはっは!」 行儀の悪い子供のように、板倉は椅子の上で笑う。 「居るな。十八になったばかりの。若しかして声を掛けられたりしたのか?」 「うん。少し前に。そいつ色気違いだったりする?」 「・・・あいつこの辺をよく『警備』してるからな。足繁く俺のところに通ってくれるのは嬉しいが、声を掛けられたんなら帰り道は気を付けたほうがいいぞ」 「うわっ。その言い方だとかなり危ないヤツじゃん」 「栗野崎でも特に『悪い』家庭環境で育っててな。考えの基本が男尊女卑、のくせに気の強い女が怖くて、年下の女に母性を求めるような可哀想なヤツだよ。女を馬鹿にしてるくせに女の身体に興味津々。妄想も酷くて自分は常に『被害者』だと思ってやがる。栗野崎の嫌われ者さ。主治医の俺も嫌いだけどな」 「・・・の割には鯉隠しされないんだね?」 「母親の頭が完全にお花畑満開でな。しかも向日葵の。股を開いた亭主より腹を痛めて産んだ子を選んだのさ」 「成程ぉ? 殺るか殺られるかの世界なわけだ」 「そういうことだ。言っとくが旅行者だって例外じゃないぞ」 そうか。やはりそうだったのか。井上誠は三日前に『鯉隠し』をしてしまったのだ。良かった。まだ『利用できる』。 「『御子様と俺は恋仲だ』とか言ってた?」 「・・・ふうん、どこで聞いた?」 「多分、御子様の従順な僕、からかな?」 「だから嗅ぎまわるなと言ったんだ!」 板倉は神経質な叫び声をあげた。私はそれを少し馬鹿にしたように鼻で笑う。実際馬鹿馬鹿しいだろう。私は勧誘のしつこい宗教と『教育』という言葉が大嫌いだ。どちらも『洗脳』して差異あるものを迫害するからだ。 「『鯉隠しするぞ』って忠告なんだろうね。頭をカチ割られる前に、とっとと逃げるよ」 「そうしろそうしろ、二度と来るなよ。俺も二度と、『外』には出ない」 最後の一言は自分に言い聞かせるようであった。 用事を済ませた私は葵荘へと歩を進める。今日も変わらず鯉達は水の中で跳ね暴れて、その存在を音で知らしめている。完全で完璧な捕食者共。人はうまいか、捕食者共。 井上誠。彼女は怯えている。報復ではなく露呈を。自分が殺した男の家族からの報復ではなく、自分が男を殺したことが世間に知れ渡るのを恐れている。私は彼女を救い出すことができる。栗野崎の住民は誰も彼女を責めないだろう。咎めることだってしないだろう。厄介者の始末をよくやってくれたと称賛の拍手を送るだろう。彼女は安心して元の生活に戻るだろう。 しかし私はそれをしない。罪を贖うには膨大な時間と苦痛が必要だが、時には自身の命ですら清算できない大罪がこの世には存在する。そして、彼女を犯そうとした男の罪と、彼女の罪が相殺されることなどないのだ。だから私は黙っている。自身を呵責し、もがきのたうって償おうとするのか、それすら密閉してしまうかは彼女が決めることなのだ。彼女を見て、私は確信を得た。人を殺した瞬間に、人は人ではなくなるのだ。 私の経験と価値観から基づいた彼女への評価は『可哀想な子』である。彼女の言葉の節々には、嫌われることに対する怯えがあった。気丈に振る舞い、冗談を言っていても、『相手にどう思われているのか』で思考は酷使されている。人を信じたくても信じられないのだろう。自分を卑下している人間は、皆、そうだ。私のような人間が褒められるはずがない、こんな私が愛されるはずがないと、感情は常に有償であると考えている。本当は影でこっそり自分のことを馬鹿にして、裏で悪口を言っているのだろうと被害妄想を膨らませて。そしてそんなことを考える自分に憂鬱になる。要するに、優しすぎるのだ。自我が無いとも言える。つまりそういう風に育てられた子なのだ。私の推測では、彼女は殺人を犯したことを隠し通してこのまま生きていくつもりなのだろう。責任を取るということに慣れていないからだ。自身の意思を明確に言葉にし、それに対する責任の回収をしたことが無い。だから人からの評価にびくびく怯えて、なるべく人に嫌われないように、誰からも好かれるような振る舞いをする。 「・・・阿呆らし」 彼女との縁は明日で切れる。もう二度と会うことも無いだろうし、会うつもりも毛頭ない。そもそも私は人付き合いが好きではないのだ。私のこの振る舞い方は世間を生き易くするために身に着けた『処世術』でしかない。彼女の『姉』だなんて御免蒙る。 何故、私が井上誠のことを酷く責めるのか。それは多分、彼女が私と同じように生きてきたからだ。私の両親は厳格な人達ではない。けれど父も母も優秀で献身的な人間であったから、その『掛け合わせ』として産まれた私も優秀で献身的であると決めつけられ、両親の期待に応えるために私はただひたすら優等生を演じていた。当時は幼いながらに虚しかった。愛情はきちんと貰えていたと思う。でも私は、いつか失敗したとき、例えそれが小さな失敗でも、両親が私に落胆したその瞬間に私の『存在意義』が無くなると知っていたから。だから両親がとても怖かった。今、思えば、なんて無駄な日々を過ごしたんだろう。 優が私の弟になったあの日。 獣のように怯え、泣き叫ぶ優を見たあのとき。 私は初めて呼吸ができた。 『運命』などという三文にもならぬ言葉を当て嵌めるのは気に食わないが、優の存在は痛いほど強烈に私を惹きつけた。青白い肌に細い身体。西洋人形のような美しさが彼にはあった。いっそ無機質なまでに彼の容姿は冷え切っている。その彼が、動く。たまに笑う。物を食う。感情の荒波が、凪に変わるほどの力を優は持っている。『佐伯優』という人間の身体の作りと声色、脆くもしなやかな彼の心を享受することは、私の、何物にも代えがたい『至上の喜び』なのだ。彼に対する感情に名前はない。愛でも恋でも母性でもない。私はただひたすらに彼が神秘的だった。好いてはいるが、『女』としてではない。優が誰かの夫となり、父となるのを見ていられるのなら私はそれで幸せなのだ。彼の幸せが、私の幸せなのだから。 だから彼に清浄さを失われては困る。人殺しなんてされては困るのだ。目的は達した。優は母親と会うことを諦めた。気が変わるとは思えないが、未練たらしく長居して良いほど栗野崎は安全な場所ではない。 葵荘に入る前に、鯉の口を見ようと用水路の傍にしゃがみこんだ。何も知らなければ栗野崎の鯉は人懐こい生き物に見える。餌を貰うため、野生生物のくせに警戒心無く人に近寄り、口をぱくぱくと開閉させて餌をねだる。可愛いものだ。しかし事実はそうではない。こいつらは捕食者だ。親しみ慣れた獲物を食い殺そうと距離を詰めているだけの、自身が駆除されることなどないと確信している絶対的な存在。完全で完璧な捕食者共。人差し指をそうっと近づけてみる。途端に、鯉は宙を飛んだ。私の指を食いちぎろうと身をくねらせて水面から跳ね出し、鯉達が砂利道に打ち上がってびちびちと痙攣する。一匹を残して鯉を用水路の中に蹴り落とし、衰弱して動きが緩慢になった鯉の口に注視した。歯がある。そして目が合った。 「ひぃー、怖い怖い!」 私は鯉を蹴って用水路に落とした。靴とズボンの裾が少し濡れている。実家に帰る前に捨てたほうが良いだろう。栗野崎の水を一滴でも持ち帰ることはしてはいけない。 「裕美子、何してるんだ?」 「あれ? 優?」 背後から声を掛けられ、私は一瞬ひやりとした。優も外出していたらしい。また母親を探しに出歩いたのかと少し不安になったが、杞憂であった。買い物袋を手に提げている。食事を買いに行ったのだろう。 「ほら、酒と缶詰だ」 「うわーい! 優君、優しーい!」 私はいつも通りに振る舞うことで、ざわついた胸を静めた。 「何を勘違いしてるんだ。僕のだぞ」 「えっ? 優、お酒嫌いじゃん」 「はは、すぐわかる冗談は言うべきじゃないな」 優は何故か上機嫌らしい。普段あまり見せない微笑みまで浮かべている。 「なになに、どうしたの? 面白いことでもあった?」 「断りの返事を出してきた」 「へ?」 「いや、馬鹿馬鹿しいことなんだ。ほっといてくれ」 「ふうーん。じゃ、とっとと帰ろ。さっさと帰ろ。お酒が私を待っている気がする!」 「呑んだくれるなよ。自分より重い女を背負って介抱するなんて御免だ」 優は私の肩を軽く二度叩いて歩き出す。吃驚して追いかけ優の顔を覗き込むが、嬉しそうに微笑むだけで何も言わなかった。葵荘に着き、玄関の引き戸を開ける。おばさんが丁度靴を履いていたところで、私達を見るなり少しがっかりした顔をした。 「あら、裕美子ちゃんに佐伯さん」 「お出掛けですか?」 「いやね、お母さんがまた帰ってこないの。このところ呆けが酷くなったんかねえ。あたしを探して近所を歩き回っとるみたいで」 焦った様子でおばさんは出掛けていく。 「介護って大変だな」 と呟いた優に何と言っていいものか困ってしまって、私は曖昧な笑みを浮かべ、階段を登った。廊下の円卓では井上誠が頬杖をつき、心ここに在らずといった表情で窓の外を見ていた。私を見るとぱっと顔が明るくなったが、階下から来た優を見ると顔を歪ませた。ああ、面倒な。酔っていてくれたら無視できたのに。 「裕美子さんに、佐伯、さん・・・」 「・・・どうも、井上さん」 窓を開けて換気していてもうっすらと酒の匂いが残っている。井上誠は素面とは言えないが酒がだいぶ抜けているようで、きちんと呂律が回っていた。今朝も酒を呑んでいたはずだが、私が板倉に会っていた数時間の間に一体何があったのかと思うほど彼女の目は腫れている。泣いていたのだろうか。明日栗野崎を発つことを井上誠には伝えていない。『仲良くなったんだし』と連絡先を聞かれたら困るからだ。優も気まずそうにしている。折角機嫌が良かったのに、彼女にそれを崩されるのは不愉快極まりないので、 「誠ちゃん、じゃあね」 「あ、はい」 私は部屋に逃げた。午後三時の陽気は部屋の中に居てもじんわりと熱く、安物の空調機で温度を下げようとするとごうんごうんと唸りをあげて非常に煩い。 「暑いなあ」 「だんだん夏が近づいて来てるね」 私は押し入れの中にある扇風機を取り出した。今までこれで涼を取っていたが、この暑さでは力不足な気もする。 「空調入れない?」 「煩いから嫌だ」 「私は暑い方が嫌だよお」 そう言いながらも、私は扇風機のスイッチを入れた。風車のように回る羽を見るのは割と好きだ。 「素面じゃ言えないようなことを、今から裕美子に言う。でも生憎、僕は酒が呑めない」 「だから私が酔っぱらえって?」 優は私に酒の缶を手渡した。語気を荒げたつもりはなかったのだが、申し訳なさそうな顔を優はしている。私は酒の缶を顔の横まで持ち上げて、にっこりと微笑んだ。 「弟の奢りだぞ、姉さん」 私は酒を呷った。実は結構な空腹状態なのだが、余計なことを言って優の気合を殺ぐことはしたくなかった。 「裕美子って、僕のこと好きだよな?」 「え? あ、ああ、うん」 「最近分かったんだが、僕も裕美子のことが好きだ」 「うん」 「外面が良くて、腹黒くて、いけすかない所が好きだ」 「喧嘩売ってる?」 「僕とお前じゃ喧嘩にならないだろ」 「優君、牛蒡みたいに細いもんね・・・」 「余計なことを喋って茶化すな。黙って聞いてろ」 「はーい・・・」 優は両手で顔を覆う。 「いろいろ悪かったよ。ありがとう」 と言って、暫く沈黙した。私は吊り上がる口角を引き下げようと頬を痙攣させる。優は耳まで真っ赤になって、思いっきり顔を歪めた。 「だから酔っぱらえって言ったんだ!」 酒を噴き出しそうになって、思いっきり咽てしまう。 「笑うな! あー、もう!」 なんて可愛いのだろう。健全な人間として感謝を述べたのだ。実家に戻れば優は文筆に浸って毎日を過ごすだろう。地頭も良いし向上心もある。運が味方すれば本が売れるかもしれない。社会に出られない優を両親が捨てるとは考えにくいし、もし万が一、優が家から追い出されたとしても私が養うつもりだ。優が誰かの夫や父になる姿は見られなくなってしまうが、酷く悪い言い方をすると私の『ペット』として生きる選択肢だって彼にはあるのだ。優のためならなんだってする。よく老婆が少しでも若返ろうと並々ならぬ情熱を己の身体に注ぐが、私から言わせればなんて勿体ない。老いとは万物に訪れる自然現象だ。無機物ですら老いる。それに逆らうのではなく、老いすら取り込んで生きたほうが人は美しくなれる。『若作り』するのと『身だしなみに気を遣う』のでは『綺麗』の言葉の意味が違うのだ。私は優が老いることもとても楽しみにしている。老いは劣化ではない。琥珀のように美しいものだ。時が身体に染み込んだ証なのである。優がただ『生きる』のを、私はこれからも見ていたい。 「・・・で、荷物はまとめてくれたんですかね?」 「まとめといたよ、ちくしょうめ」 か弱い小動物に触れるように、私は優の頭に手を伸ばした。振り払うことも無く、耐えるような素振りも無く。 「よーしよしよし」 「もう、いい加減にしろよ」 破顔一笑。優が今までにないくらいの良い笑顔を見せた。とても良い傾向だ。若しかしたら女性恐怖症がかなり良くなるかもしれない。余り期待しては本人の精神的負担になるので決して口に出したりしないが。私は何かつまもうと買い物袋を開けて中を見る。するめいかや柿の種に交じって、鯉の鱗の唐揚げがあった。私は顔を顰める。目敏くそれを見つけた優が少し怯えたような顔をした。 「優、二つ聞いておくけど。鯉は食べてないよね?」 「た、食べてないぞ。汚い水で養殖してるって聞いたからな」 「水道水とかも飲んでないよね?」 「飲んでない」 「そう・・・」 「鱗の唐揚げは買ったんじゃないぞ。馴れ馴れしい爺さんが『美味いから食ってみろ』って無理矢理持たされたんだ」 「へえー、厄介な爺さんも居たもんだ」 私は何にも手を付けずに酒を呷った。胃が内側から燃えるように熱い。収縮しているような、痺れるような感覚がする。あまり良いことではない。酷い頭痛か、座ることすら難儀するか、腹を下すか、胃液と共に酒を吐き出すか。少しだけ気分が悪くなって、私は鼻から深く息を吐いた。 「なあ裕美子、何か隠してるのか?」 「えっ!?」 「本当は幽霊や妖怪を信じてるんだろ」 急にそんなことを言い出されて私は疑問符を浮かべる。 「好きじゃないか、そういう話。『信じてないけど居たら面白いと思う』とか言ってさ。栗野崎では鯉にまつわるオカルト話が幾つもあるからな」 私が何を隠しているのか、どうやら勘違いしてくれているらしい。 「気持ちはわかるがな。『御子様』なんて胡散臭いものまであるし」 「どこでその話を聞いたの!?」 「え?」 「あ、ああ、あの。いやえっと」 「成程、『御子様』が怖いんだな。ただの人間が神に仕立て上げられてるだけだろ、あんなの。さては捌かれる鯉の呪詛でも想像して怖がってるのか?」 どういうことだ。『御子様』の存在は門外不出のはず。鯉をばくばく食べている井上誠への遠回しな忠告として彼女に教えたことはあるが、優が彼女と会話するはずもない。女性に干渉されることを嫌う優にとって、人の機嫌を伺うことに必死な井上誠は最も嫌な人種だからだ。いやそれより。『あんなの』と優は言った。実物が伝聞よりも遥かに矮小で落胆したときや、期待したのに成果が上がらなかった場合に言う台詞だ。『あんなの、言うほど大したことないよ』だとか、『あんなのに期待するなんて間違っていた』だとか。 「優、若しかして御子様を」 見たのか、と聞こうとしたそのとき。どんどんと太鼓を荒っぽく叩いたような音が近づいて、ばたんっと部屋の扉を勢いよく誰かが開けた。 「裕美子ちゃん! 逃げてっ!」 おばさんだった。額から血を流している。よれたシャツの首元が真っ赤に染まっていた。私も優も驚き、同時に口を開く。 「何事ですか!?」 「おばさん、血が!!」 おばさんは部屋に乱入すると私を引き摺り起こし、まとめていた荷物を投げるように私に押し付ける。 「ちょ、ちょっとなんなんだいきなり!!」 「佐伯さんも逃げて!!」 「に、逃げる??」 「あんた達、殺されるよッ!! 駅は駄目!! 待ち伏せされてる!!」 腕を引っ張られて階段を引きずり降ろされる。女性の力とは思えない強さで『痣ができるな』と確信するほど強く握られ、私は階段を転げ落ちそうになった。 「山に行って!! 山を降りれば助か・・・」 おばさんはそこまで言いかけて、ぴたりと静止する。私達は呆けるしかなかった。余程慌てていたのか、おばさんは玄関の扉を開けっ放しにしたままだったらしい。血だまりができている。恐らくおばさんのものだろう。葵荘の外に血走った眼をした老人達が居た。何故か皆、手に何か持ってる。鍋、包丁、フライパン、布団叩き、猟銃。灰皿、縄、酒瓶、デッキブラシ、金槌。何処から持ってきたのか古びたチェーンソーまで。老人達はよろよろふらふらと身体を揺らして、視線だけは真っすぐに私達を、いや、私を見ていた。まるで地獄からやって来た死人の軍隊である。その後ろに、悲痛そうな面持ちの人達が居た。歳はおばさんとそう変わらない。揺れる老人達の身体を支えている。彼ら彼女らの息子や娘なのだろう。 「居たぞ!」 「短髪の女じゃ!」 「御子様のご命令ぞ!」 「殺せ!!」 「・・・え?」 突然すぎて何が何やらわからないが、命を狙われていることだけはわかった。老人がチェーンソーのエンジンをかけるのに苦戦している。猟銃を持った老人がよろけながら銃を構えようとしている。死にかけで、寝たきりの老人達が力を振り絞って起き上がり、御子様の命令で私を殺すために、濁った眼を血走らせていた。 怖い。 「逃げなさいってば!!」 ひゅん、と私の顔の横を何かが飛びぬけていく。 「うわ!?」 「ぎゃあ!!」 それは老人の額に命中し、ぱんっと小気味良い音を立てた。濃い黄色と透明な粘性のある液体で顔がべっとり汚れている。 「た、たまご?」 「行くぞ裕美子!!」 荷物を優から取り上げられ、腕を引かれて私は走り出した。おばさんは若しかしたら野球選手の才能があるかもしれない。良い肩をしている。 「逃げるな!! このッ!!」 「だ、駄目ぇ!! お父さん!!」 私に向かって酒瓶を振り下ろそうとした老人をその娘らしき女性が慌てて突き飛ばす。呑気なことを考えて危うく死にかけた。連鎖するように親と子の言い争いが始まった。 「おとう!! 御子様なんて信じて人を殺したらいかん!!」 「何を言うか!! 罰当たりな!! お前は親の言うこと聞いてりゃええんじゃ!!」 「孫に合わせる顔がなくなるやろうが!! やめえ!! やめてくれや!! お袋!!」 「うるさい!! 黙りィッ!!」 「目ぇ覚ましてやお母さん!! 御子様の言うことなんて全ッ部嘘っぱちやで!!」 「こ、この親不孝者ッ!! そんなこと言う奴ァ娘じゃないよッ!!」 私の心臓は早鐘を打った。 「御子様に歯向かう奴ァやっちまえ!!」 「も、もうこんな奴らァ親じゃねえ!!」 親と子が争う声が聞こえる。そうだ、親は保守派、子供は改革派なんだ。私欲のために人を殺した世代から生まれた、因習を断つために我が子と別れた世代。 「ぎゃあああああッ!!」 吃驚して走りながら振り返ると、娘が親の頭に泣きながら酒瓶を振り下ろしていた。灰皿で殴られた息子が糸が切れた操り人形のように倒れる。殴った親は執拗にその頭に灰皿を振り下ろし続けている。親と子が殺し合う音が聞こえる。 「うわあああああああ!?」 私の叫び声だった。 人が、人を殺している。 人が人を殺している! 何故かはわからないが、私は叫んだ。 「裕美子ちゃん!! 駅は駄目!! 待ち伏せされてる!! 山から!! 山から逃げて!! 絶対に生き延びて!!」 「この親不孝者がぁッ!!」 ぐえ、とまるで蛙のような断末魔が聞こえた。御子様の力がこれほど強大だとは思っていなかった。御子様のためなら子供を殺すなんて信じられなかった。板倉の言葉を思い出す。 『『好奇心は猫を殺す』って言うだろ。その好奇心で死ぬのは猫の君なんだぜ』 「クッソ!! 僕のせいだ!!」 「え?」 何と言った? 「後で話す!! 兎に角走れ!!」 「居たぞ!! 逃がすなッ!!」 「殺せえッ!!」 「『外』に出したら終いやぞ!!」 プリオン病で死に蝕まれた老人達が追いかけて来る。鯉も嬉しそうにばしゃばしゃと跳ね踊っている。老人達に捕まれば、私達は鯉の餌になるのだろう。二十代の私達と老人達では身体能力に圧倒的な差があった。老人達をするすると掻い潜り、ただひたすら真っすぐに走る。ばあん、と聞き慣れない音がした。破裂音と爆発音が混じり合ったような音だ。 「な、なに!?」 「まさか銃声じゃないだろうな!!」 「ううう、撃ってきてるってこと!?」 「クソッ!! クソッ!! 僕のせいだ、全部僕の・・・!!」 「優、さっきから何を、」 昼が薄らいで夕暮れが訪れようとしている。 「まずいぞ、山登りなんてしたことがない」 地の利は栗野崎の人間にある。そして私達は何の装備も無い山登りの素人だ。走りに走ってなんとか登れそうな斜面を見つけたとはいえ、山を無事に登り、降りきれる保証はない。危険な行為だ。退路を断たれたような気がして身体から力が抜けそうになる。 「裕美子、一度山に入って身を潜めよう。おばさんが『山に行け』と叫んでいたから、連中は僕らが山に居ると思い込んで追いかけてくるはずだ」 「で、でも・・・」 「山に入って連中をやり過ごしたら、こっそり戻って電話で父さん達に助けを求めよう。武器も探したほうがいい。ああ、クソッ。あっちには銃があるか。どうすれば・・・」 「もし見つかったら・・・」 「そうするしかないだろ。ほら、これを履け」 優がそう言って私の前に置いたのは、私の靴だった。あの騒動のせいで靴を履き忘れていたらしい。気が動転して裸足で走っていることすら気付かなかった。 「あ、今頃になって足が痛ーい」 「呑気な顔してる場合か!!」 「優はちゃんと靴を履いてるんだね・・・」 「クソッ、普段落ち着いているくせに、窮地に陥った途端に頼りなくなるんだな」 この状況で落ち着いていられる優の方がおかしいと思うが、私は急いで靴を履いた。周囲を警戒するが老人達の姿はない。まずい。気持ち悪くなってきた。空腹で酒を呑んだ後に全力疾走、すごい勢いで酒が回っているのがわかる。 「おい、大丈夫か?」 「だ、大丈夫。行こう・・・」 山を登り始める。栗野崎では四六時中聞こえていたせせらぎが無い。ただただ静かで、土を踏みしめる足音しか聞こえない。傾斜は容赦なく体力を奪っていく。ああ、酒のせいで世界が歪んで曲がっている。今朝から何も食べていない。お腹が空いた。優はどうなのだろう。昨夜はあんなに泣いていた。山は不思議と生き物が居る気配がしない。私は滑り落ちながら、真っすぐに進んでいく。いや、真っすぐと思っているだけで、本当は少し曲がっているのかもしれない。安心という一拍のせいで身体から力が抜けかけている。 「はあ、この辺でいいだろ」 体感的に二十分も経っていない。凄まじい勢いで肉体が疲労しているが、辺りはまだ明るい。 「も、もう少し登ったほうが・・・」 息を切らしながら言う。見下ろす栗野崎の民家が大きく見える場所なのだ。見つかりそうでとても怖い。 「登りすぎたら降りるときにまずいだろ。ここであいつらが通り過ぎるのを待って、完全に暗くなる前にこっそり降りよう」 「そ、そう・・・?」 辺りは木と草が生い茂っている。草は人の腹に届く高さで、座り込んでじっとしていれば身を隠せるかもしれない。私は荷物を掻き抱くようにしてそこに座り込んだ。優も対面に座る。自分の荒い呼吸が煩くて仕方がない。吐きそうだ、今すぐ横になりたい。私は小さく呻いた。 「落ち着け、深呼吸するんだ」 優に言われて、息を吸って、吐く。腐葉土の匂いは好きじゃない。山は不思議と生き物が居る気配がしない。地面を見るが、虫の一匹も居ない。草を見るが、そこにも虫は居ない。私は目をぎゅっと閉じた。おばさんの額から滴る血、人を殴る音、悲鳴、怒号。私の中に他人の痛みが流れ込んでくる。 「僕のせいだ・・・」 「一体、何の話なの」 優は薄い唇を噛みしめる。それから私達は、ぼそぼそと小声で話し始めた。 「今朝、御子様と会った」 「・・・え?」 「昨日話しただろ、『変な爺さんに会った』って。その爺さんから聞いた通りの、若い女だった」 「会った・・・って、会いに行ったってこと?」 「いや、向こうから会いに来たんだ。僕に用があると言って、葵荘を訪ねて来た」 訳が分からない。御子様が、わざわざ、優に? 『何のため』に? 「・・・これを見てくれ」 優はズボンのポケットから財布を取り出し、札入れの中から三枚の写真を引き抜いた。 「あ・・・」 優の母親の写真だった。 「母の写真だ。御子様はこれを持ってきたんだ。御子様は『貴方の母親を知っている』と言った。彼女の話を聞いて、僕は彼女の言うことを信じた」 「どうして?」 「・・・僕の身体的特徴と、過去にされたことを具体的に知ってたんだ」 顔が見えなくなるほど俯いて、優は続ける。 「彼女は言った。『裕美子を差し出せ』と」 「わ、私?」 「母は彼女のところにいるらしい。恐らく監禁か、軟禁してるんだ。彼女はこう言った。裕美子を『差し出す』なら、母を渡してやってもいいと」 「ちょっと待って。なんで私が? 御子様のところに優の母親が居るなんて、嘘だよ」 「自分の身辺を嗅ぎまわれて不愉快だと言っていた」 「あ・・・」 優は顔をあげる。 「僕がお前に騙されているとも」 「・・・わ、私」 「井上誠に腹の痣のことを聞けばわかると言っていた。裕美子、僕は彼女に『かま』をかけてみたんだ。『男に殴られたんですか』と、そんな風に聞いた。彼女、みるみる青褪めて、すごい声で怒鳴られたよ」 「待って、あの、私、」 「なあ、裕美子。一体何を隠してるんだ? あの話は、お前が、僕が母と会うことを諦めさせるように誘導したとしか思えないんだ」 「・・・認める、よ。確かに、誘導した」 それ以上聞かないで。 「それだけか?」 「・・・う」 私、私は悪くないのに。疎むような目で私を見ないで。 「裕美子」 山は不思議と生き物が居る気配がしない。 「頼む」 「二ヵ月前に、優の母親に会った」 父と母は、優に母親のことを話すつもりでいた。私はそれに強烈に反対した。 『親は子供を無償で愛している』と信じ込み、 『子は親を無条件で慕っている』と信じ込んでいる。 あの二人の、無責任な善意と綺麗事で凝り固まった考え方に私は心底うんざりしていた。本当に本当にうんざりしていた。傷口に塩を塗るような真似をしてなんになる。 「だから自分の目で確かめた」 「裕美子・・・?」 優の母親はすぐに見つかった。初めは、私が殺してやろうと思ったんだ。 「なんだテメェ!! 見世物じゃねえんだぞ!!」 こんな汚い、こんな。 『こんなもの』のために綺麗な優が苦しむなんて。 でも、私にはできなかった。人を殺すことは不思議と怖くなかった。 優に『人殺し』と呼ばれ、忌み嫌われるのはとても怖かったから。 だからできなかった。 「この封筒に、四十万入っています」 「あぁ??」 「栗野崎から、暫くの間、出て行ってほしいんです」 獣のように威嚇し、考えなしに生きる思考が停止した女。ただひたすらに醜くて、馬鹿で、それが気持ち悪い。彼女から優が産まれたなんて想像もできないほどだった。 「佐伯明恵さんでしょう? 優の母親の」 「なっ、なんだよテメエは!!」 「姉です。優が養子に出されたことは知ってますよね?」 「はあ!? 姉ぇ!? そんなの聞いてないわよ!?」 「やっぱり、優が『養子に出された』としかお爺さんから聞かされていないんですね?」 「ッチ!! あとからのこのこ出てきて保護者気取り!? 私より若いからって調子に乗ってんじゃねえよブス!!」 全く会話にならなくて、私は用件だけ伝えて金で黙らせようとした。 「優はあなたに復讐するつもりです。あなたを、優は殺すつもりなんです」 「馬鹿かあテメエ!? 優ちゃんはあたしのなんだよ!! あたしの子なの!! わかるかこの馬鹿女!! 子供っていうのは母親が好きなものなんだよ!! 産んだことねえテメエにはわからねえだろうけどなあ!!」 「・・・ねえ、子供が母親を好きなら、孫はおじいちゃんを好きなのも当たり前ですか?」 「はあ? 当たり前でしょ!? 家族なのよ!?」 「あなたはお爺さんのことは好きだったんですか」 彼女なりの理屈で言うことで少しは私の言いたいことが伝わったらしい。 「優を犯罪者にしないでください」 彼女は意味ある言葉を発さず、私に向かって歯を食いしばり、威嚇するためか背伸びをして目を見開き、身体を震わせた。 「きえええええええええええええ!!」 思わず失笑してしまうような叫び声まで上げている。私は怯まない。私に手出しできないのだとその行動で確信したからだ。浅ましくてさもしい女。馬ッ鹿みたい。 「優はあなたから受けた性的虐待がトラウマになって、女性恐怖症を患っています。親代わりの私の母や、姉の私でさえ怖がっている。外に出ることもままならない。これはあなたのせいです。あなたがあの日、無理心中を図ったあの日に、『佐伯優』を殺したんです」 「きえええええええええええええ!!」 「そんなあなたを見たら、優はどう思うでしょうね?」 そう言った途端、彼女はぴたりと叫ぶのを止めた。ぼろぼろ泣き始めて、まるで『失恋した』みたいな顔をした。本当に腹立たしい。彼女は何故『被害者面』をしているんだ。彼女、いや、こいつは人間の『亜種』だ。都合の悪い会話は放棄する。都合の良いように改竄する。自分は悪くない。相手が悪いと開き直る。決して謝罪しない。理由は『プライドが許さないから』。幼稚だ。知能が低すぎるのは一種の『障害』なんだ。 「本当は薄々気付いてるんでしょう? あなたはずっと、『この生活』を続けるしかないんだって。そうでしょう? お爺さんに『躾けられて』少しはマシになったかと思ってたんですけど、どうやらそうでもないみたいだし。あなたみたいな人間を殺して、優が犯罪者になるなんて『姉として』許せません。お金、四十万で足りないならもう少し出します。だから、身を隠してください。あなたが生きていると優は苦しむんです。わかります? できるなら、私があなたを殺したいくらいなのに・・・」 「うるさい、うるさい・・・!」 私は致命的な一言を言ってしまった。 「優のためを思うなら、いっそ死んだらどうですか」 愛した男の面影に拒絶された事実を受け入れたのか、僅かに残った母性からかは分からない。彼女はざぶざぶと水をかき分け、川に入った。入水自殺するのかと思って、私は声をあげそうになった。 「ぎゃああああああああああああああああ!!」 しかし声にはならなかった。彼女が川に入った途端、無数の放物線が水面から沸き起こり、彼女を覆い尽くした。 鯉だ。 助かろうとしているのか、もがく腕に鯉が喰らいつく。そう、喰らいついた。喰らいついたのだ。水中から絶え間なく鯉が飛び出し、彼女に喰らいつく。やがて彼女は『見えなく』なった。眼前には鯉の山。その全てが身体を震わせている。ぐらり、と山が揺れ、巨大な山が水飛沫を上げて崩れる。淀んだ水の匂いが巻き起こり、気化した水飛沫によって私の周りの温度が少し下がった。汚い襤褸布を残して『佐伯明恵はいなくなった』。川水には赤黒い体液がじわじわと広がり、鍋に入れる前の『つみれ』のような物が浮かんでいる。その『つみれ』を、鯉が食う。奪い合って食う。鯉が暴れ狂い、喜び、踊り、人を食った。 「あ、あ・・・」 ぐるり、一斉に。鯉が私を見た。『次はお前だ』と。私は鯉隠しが何なのか、確信に至った。 「・・・正気で言っているのか?」 「狂ってると思うなら思ってくれていい。詳しいことを話すと時間が掛かるけど、事実なの。私は、私のせいであなたの母親を殺してしまった」 「裕美子・・・」 山は不思議と生き物が居る気配がしない。虫の声も、鳥の囀りも、獣の足音もしない。だから私は私の言葉によって過ちを味わう。 「事実なんだな?」 私は深く頷いた。いつの間にか目から涙が零れている。 「・・・もっと早く言えよ」 「ごめんなさい」 「お前、本当に馬鹿じゃないのか。僕の葛藤はなんだったんだ・・・」 優は初めて、私を憐れんだ。 「僕のせいだよな、ごめん、ごめんな。裕美子は何も悪くないのに、僕が不甲斐ないせいで・・・」 「そ、そんな。優は何も悪くない。全部私が・・・。栗野崎の鯉の生態を調べてるうちに私は御子様の存在を知ったの。それからはただ単純に好奇心で・・・。だ、だから今のこの状況も、全部、私のせいで・・・」 『面白い話をしてるね?』 私達はその場で跳ねるように声の元から退いた。 「ッチ、この!」 「待って優!」 殴りかかろうとした優の服を掴んで止める。 「追われてるんだってねー、裕美子さん」 「板倉さん・・・」 板倉は草を踏み、さくさくと歩き出した。 「こっちだ」 「え?」 「すこーし進んだところに崖がある。ちょっと遠回りすればその下に降りられるんだ。そこなら見つからないと思うよ」 「待てよ、誰なんだあんた」 「いや良いんだけどね? 町中総出で大捕り物中だ。折角庇ってやろうってのに、それを断るのかい? あー、最近診察室の空調機の調子が悪いんだよなあ。あんたら差し出せばそれくらいご褒美に貰えるかもなあ?」 「滅茶苦茶だね、板倉先生」 私は舌打ちをする。 「飼ってる猫が懐かなきゃ、腹が立って風呂に突き落とすのかよ」 「そしたら俺は泣くね。『飼ってた猫が死んだ』って。一通り泣いたら次の子猫を飼うんだろうな。きっと」 「何の話だ・・・?」 板倉は優を一瞥もしない。 「個人的に裕美子さんを気に入ってるんだ。誠とかっていう子も無事さ。あっちに匿ってる」 あっ。 「そういえば誠ちゃん・・・」 「巻き込まれちゃって可哀想になあ」 すっかり忘れていた。我ながら酷い。 「で、どうするの?」 「裕美子・・・」 他に現状を打破できる策も思いつかない。板倉に対する信頼はない(むしろ不信感しかない)が、会うたびにしつこく私を口説いてくるのと、彼を頼って窮地を脱するかどうかは、また別の問題だ。 「うう、行こう」 「・・・裕美子、もう少しだ、頑張れ」 板倉は迷いない足取りで歩き出した。仕方なく、私達は彼に着いて行くことにした。
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