四章 同族

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四章 同族

「賢ちゃん」 「うん?」 「私、もう行かなきゃ」 若い女達の声が聞こえる。私を呼んでいる。 「もう少し」 ごめんなさい。 私はあなたを代用している。 私は座っている。椅子に腰かけている。 彼は跪いている。 私の腿に頭を乗せて、腰に腕を回している。 彼の髪は気持ちが良い。 私は彼の頭を撫でる。ずっとこうしていたい。 あの子にできなかったことを、なぞらえる。 胸がざわめく。 少し張るような気がした。 若い女達は私を待てない。 「もう行く」 「楓ちゃん」 世界が滲んでいる。ぐらぐらしている。 焦点が定まらない。 私は揺れる。 そうすると少しだけ見える。 私は相応しくない。 焼けるように渇望し凍えるほど寂しくとも私は独り。 そこに有るのに無い物ねだりだ。 もう随分と『物』を見ていない。 極彩色で無色透明な世界は滲んでいる。 「君のためならなんでもするよ」 「・・・うん」 「本当だよ」 「またね、賢ちゃん」 青い花火が弾けている。透けた虫が宙を飛ぶ。 私は私の町を歩く。 肉塊が何か言っている。 微笑んでやると嬉しそうに鳴いた。 死ねばいいのに。 『御堂楓』、齢十八歳。栗野崎で『御子様』と畏怖される彼女の半生は凄惨という言葉では表現しきれないものである。彼女は栗野崎の地主の娘として産まれた。家庭の構成は母と父、そして父方の祖母である。祖母と両親、特に母は楓が『男』として産まれることを望んでいた。自分には出来なかった役目を娘が負うことになるからだ。 跡継ぎを産むこと。 排他的且つ保守的な御堂家はこれ以上子供を望めない。楓の父は軽度の知的障害があった。彼は『父親』を知らない。祖母は父を産んだ後、財産を独り占めするために自身の夫を殺している。父親は婿養子だったらしい。そういった理由で楓の父は『父親』が何なのか知らぬままに育った男だった。 教育は洗脳である。楓の父は実母の言いなりであった。前時代の遺物の栗野崎で地主の母に逆らえる町民はいない。母親の命令に従っていれば欲求が満たされる。何も悩まない。何不自由なく暮らし、ちっぽけな権力を『すごいこと』だと勘違いして常識が歪み、矯正が不可能になっていった。『思考する』ことを全くしないまま、楓の父は大人になった。 楓の母は美しい人だ。栗野崎では平均的な家庭に生まれ、普通の娘として育った。楓の父に犯されて妊娠しなければ幸せになっていただろう。母の両親も、やはり祖母によって殺害されている。その際には父も手伝っていたというのだから救いようがない。帰る家を壊され、人を頼ることもできず、楓の母は『死にたい気持ち』と『腹の中の子供』を天秤にかけ、その天秤はゆっくりゆっくりと子供のほうへと傾いていった。 楓の母は祖母と父から酷い虐待を受けていた。当時、楓の屋敷には『外』に出られない若者を使用人として二人雇っていたが、その使用人達は心を痛めていたという。不幸なことに楓は『女』として産まれた。男に産まれていれば、後継ぎとして可愛がってもらえたかもしれない。母親の、そんな他人任せで無気力な願いも虚しく楓は『女』に産まれてしまった。衰弱していく母の乳を吸い、物心つく前から怒号と嘲笑とすすり泣きを聞いて育った。母が何をされているのか、楓はきちんと理解していた。だから祖母と父が大嫌いだったし、見て見ぬ振りをする使用人達も大嫌いだった。 私は土下座している。 笑顔で地べたに土下座している。 楽しい。 若い女達の声が聞こえる。 川の水を飲んでみた。 甘い。 恐らく私は私でいる。神ではない。 私は土下座している。 笑顔で川の中で土下座している。 笑ってみた。 「げきゃきゃきゃきゃきゃきゃ!!」 恐らく私は私から変容している。 血のせいだ。 血液を全てこの水と入れ替えたとして私の肉体が完全に遺伝子から免れるのに一体何度細胞を分裂させれば良いのだろうか見当もつきはしないほどに私は私だ。 この世界には神様も仏様も存在していないのだから。 溺れることで私は呼吸するたびに生まれいづる。 羊水に浸るように川の水に濡れて胎児のように身体を抱き呼吸の度に産声を笑い疑似的な誕生を繰り返しても悲しい程に私は私だ。 だから人間じゃないのはお前らのほうだ。 血のせいだ。 恐らく私は私から変容している。 楓が六歳の頃に母は首を括った。祖母は使用人を屋敷から追い出した。楓の一日がひたすらに長くなった。碌に食事は貰えない。排尿や排便ですら許可なくすることは許されず、殴られ蹴られ叩かれて、楓は血の小便を出す。祖母は何故楓を殺さなかったのか。栗野崎には『鯉隠し』という便利な隠蔽方法があるにも関わらず、楓は玩具として御堂家で重宝された。祖母は楓の母を虐め足りなかったのだろう。楓は母に瓜二つだったのだ。使用人を解雇したのは楓への虐待を口煩く邪魔をされないためにだったのだろう。いつからか楓は屋敷の外で眠るようになった。誰にも咎められはしなかった。楓は草むらの中で川のせせらぎを子守歌に眠った。 「女の、子・・・?」 楓を楓たらしめた男が居る。名を板倉賢二と言う。彼は父の葬式のために栗野崎に帰省していた。板倉は二十四歳。楓とは十八も年が離れている。楓は酷く痩せていた。板倉は屋敷を見上げて胸騒ぎがした。聡い彼に『事情』を察することは容易であったのだ。彼は和菓子を持っている。父の友人がお節介にも彼に押し付けたものであった。同情心から、横たわる楓の口に千切った和菓子を入れてやる。初めはぼんやりと呆けていた楓だったが、甘味に気付くと板倉の指を噛み千切らん勢いで和菓子に食いついた。 「いっ!?」 殆ど噛まずに飲み込んで、楓はずっと口をくちゃくちゃさせている。余韻すら噛み続けるほどに空腹だったのだ。板倉は、たまらなくなった。元々動植物が好きな心優しい青年だったのである。捻くれた物言いをして相手をおちょくる嫌な男でもあったが。都心の大学に医学生として在籍していた彼は暇を作っては栗野崎に訪れ、楓に施しをするようになった。識字できぬ楓に読み書きを教えた。絵本や洋服を買ってやったこともあった。端的に言えば楓はこの頃から『知能』ではなく『精神』の方に問題を抱えていた。当然と言えば当然である。板倉は産婦人科医になりたくて医学を学んでいたが、楓の精神的苦痛を取り除くために精神科医として生きることを決めた。多大な苦労の末に医者になった板倉が、楓を診ることはついぞなかったが。 若い女達の声が聞こえる。 煩い程に聞こえる。 私は全てを知っている。 男を手に入れるために、女を殺した女。 女を手に入れるために、男を殺した男。 萎びた肉塊が頭を垂れる。死ねばいいのに。 私は悋気による秘密を全て暴いてみせた。 金銭のために人を殺して、 物欲のために人を殺して、 憤怒のために人を殺した。 私は私怨による秘密を全て暴いてみせた。 肉塊が私を拝んでいる。死ねばいいのに。 私は一人一人の秘密を全て暴いてみせた。 栗野崎は私の町だ。誰も私に逆らえない。 人を殺すのは良くても、『どうして』『その人を』殺したのか知られるのは、とてつもない苦痛らしい。 若い女達は教えてくれる。 彼女達は全てを見ている。 全てを聞いている。 全てを嗅いでいる。 全てを知っている。 だから私は全てを知っている。 何故聞こえるのかは分からない。 いつからなのかは覚えていない。 何か一つを望むということは、その他の全てを諦めるということだ。 難しい。 私は彼の幸せを望んでいる。 彼は私の幸せを望んでいる。 私は私の幸せを諦めている。 彼は私の幸せを諦めてくれない。 日に日に私は伸びて捻じ曲がっていく。 朝と夜の区別がなく、かといって昼でもない。 日出と日没の間だけは正気でいられる。 曖昧でないと私は頭がおかしくなってしまうのだ。 私の臓物は如何に新陳代謝を繰り返せど精液と卵子によって構成され記号である顔も名前も身体も私が望んだものではなく生娘の母を気狂いの父が犯して出来た子だという事実は決して覆らず私は産湯につかる前に縊り殺してほしかったのに。 板倉は都心で少し経験を積んで、栗野崎で開業医として働きだした。閉鎖的で古い栗野崎で精神科医が受け入られるのかと住民達は興味津々に彼を見守っていた。そもそも『精神』を診るといわれてもどんな医者なのかしっくりこない。板倉はその動きを読んで栗野崎中に自身を大々的に宣伝する。不満に思っている事や、ちょっとした悩み。それを聞いて医学的に判断し、必要なら薬を処方する。この薬も『痛み止め』や『風邪薬』のようなものだと説明した。要するに『お悩み相談所』で、秘密は必ず守る、とも。一見穏やかな田舎町に見えて、栗野崎は殺すか殺されるかの修羅の地だ。『鯉隠しされないだろうか』という不安や、『鯉隠しをしてしまいそうだ』と鬱憤を溜めている者も多く、精神に多大な負荷が掛かった結果、病んでいる人間もいる。町民達は普段はそれを隠して生活している。『付け込まれる隙』を見せたら終わりなのだ。だから本当の理由を隠して、自覚症状だけを板倉に話す。最近眠れないだとか、夜になると頭が痛むだとか、疲れると耳鳴りがするだとか、このところ食欲がないだとか。 板倉も『外』で育ったとはいえ、栗野崎の出身者だ。そして栗野崎に戻り、大金をつぎ込んで病院を建てた。栗野崎の絶対的な権力者である楓の祖母と、その従順な僕の栗野崎の住人達は板倉を品定めしていた。 板倉は何度も町民達に聞かれた。 『ここを出る意思はあるのか』と。 板倉は何度も答えた。 『俺はここで死ぬつもりだよ』と。 栗野崎の町民は板倉に『重大な秘密』を握らせた。それは『罪の共有』でもある。板倉は『鯉隠し』が何なのかを知った。同時に、栗野崎から逃げられなくなった。秘密を持ち出し、暴露することは重罪である。板倉は正式な『栗野崎の住人』になったのだ。完全に板倉を栗野崎に取り込み、安心した町民達は罪の圧迫に疲れて、板倉に本当の理由を話すようになる。板倉は肯定も否定もしない。必要なら薬を出す。軽度の鬱や睡眠障害、摂食障害に苦しんでいる患者が居れば『医者として』熱心に向き合い、訪問介護と往診にも嫌な顔一つせず意欲的に働いていたので、いつしか板倉は『名医』として栗野崎で名を知られることになった。楓十三歳、板倉三十一歳の話である。 楓に対する虐待は頻繁には行われなくなったようで、些か言葉が拙い以外は楓はごく普通の少女だった。服の下には数え切れない痣や切り傷、火傷の跡があるが、それよりも食事を貰えないことが当時の楓には苦痛であった。 暴君であった祖母は老い衰えて他人に構う余裕がなくなり、父は命令を下す祖母が居なければまともに生活が出来ず、町民達から日常生活の介助を受けて御堂家は暮らしていた。父はこの辺りで自分の異常性に少し気付いたらしい。自身の欲求を満たすために暴虐の限りを尽くした祖母に恨みを持つ者はかなりいる。祖母は『やりすぎた』のだ。その祖母が老い先短いと知って強気に出る者もいる。当然、父に対する風当たりも強くなる。父は嫌味を言われたり鼻で笑われたりするたびに祖母に逐一報告していたが、町民は誰一人処罰されず、具合が悪くて不機嫌だった祖母に『女しか作れなかったクズ』と八つ当たりされて以来、実母への信頼が崩れたのだ。誰かに助けてもらわなければ着替えすらまともに出来ず、全幅の信頼を寄せていた母も自分に構ってくれない。日に日に弱って、棺桶に一歩一歩近づいて行く。 誰が自分の面倒を見てくれるんだろう? 町民達も冷たい。自分を怖がっていない。楓は何故か好かれている。楓を観察してみたが、ある程度のことは一人で出来る。自分よりも、できる。 劣等感を感じた父は楓のことを蹴った。抵抗せずに耐える楓をげらげら笑っていると、『流石に目に余る』と一人の町民に咎められ、言い返すと強烈に睨まれた。生まれてこの方『怒られたことのない』父はその出来事が衝撃だったらしく、自分がおかしいことに漸く気付いたのだ。とはいっても生き方や性格を修正することはできない。できたとしても、今まで生きてきた二倍の時間が必要だろう。 母はもう信用できない。母は自分を構ってくれない。自分は一人では生きていけない。怒られるのは嫌だ。楓を虐めると怒られる。だから楓を虐めないほうがいい。 そう考えたのか、楓に手出しすることが減っていたのだ。肉体的な苦痛が減ると精神的な苦痛も減る。楓は本来のおっとりとした優しい一面を見せるようになり、情緒面は停滞気味だが子供らしい遊びもするようになった。虐待の実態が伝聞で広まり、楓も板倉とは別の意味で有名だった。見かねた町民達が食事や服、金銭を与え、家に泊めたりもしていた。板倉もその一人だった。栗野崎の因習に否定的な人からすれば、私欲のために率先して鯉隠しをする楓の祖母から楓を守ってやりたかったのだろう。年頃も自分の子供と変わらない、少し若いくらいの楓が、じっとひたすらに耐えていることが不憫に思えたのだ。ちなみに、楓はまだ鯉隠しが何なのかは知らない。彼女の人生は空腹と苦痛でできていたのだから。 「賢ちゃん、これ、読んでいい?」 「それかい? 読んでいいよ」 「ありがとう」 板倉は一番奥にある診察室を楓専用の個室として使っていた。買い与えてやった絵本や楓が好きな手芸雑誌などを揃えて、楓が本を読むのを見るのが板倉のささやかな幸せだった。 楓は板倉のことを兄のように慕っているが、板倉は楓を純粋に恋愛対象と見ている。 これは板倉が異常性癖者だからではない。ただ、自身の劣情が倒錯したものだとは理解していたので、板倉は一度だって楓に好きだとか言ったことはなかった。楓が誰かの妻となり母となるなら、それはそれでいいのだ。自分はあっさりと身を引いて、彼女が幸せになるのを見ていられるのなら、板倉はそれで構わなかった。 私は私でなくなりたい。 私は汚濁している。 私は汚損している。 私は汚物でなくなりたい。 もうこれ以上、この土地を汚さないでほしい。 鯉隠しなんて二度とさせない。 私利私欲のために人を殺してのうのうと生きるなんて。 私は酷く不愉快だ。 私を恋人だとか言っていた男が死んだ。 私の町を歩いていた女の子を犯そうとして。 その子に殺されて死んだ。 いい気味だ。 彼女は何も悪くない。だから私は彼女を許したい。 罪を認めるなら私は彼女を許すだろう。 私は私でいる。私は此処に存在している。 名前も知らないあの子は、今度こそ幸せに生きられるはず。 罪を認めて、罰を受けて、償うのなら、 私は私でいる。私はただ存在している。 認めないなら許さない。 誰かに命じて川に突き落とせばいい。 若い女達は飢えている。常に飢えている。 酷い飢餓感に苛まれている。 もうこれ以上、この土地を汚さないでほしい。 楓が十四になった頃、遅い初経が訪れた。発育が良くなかったのだろう。祖母の機嫌が悪いために家から出られず、楓は仕方なく自宅で風呂に入っていた。少し前から下腹部に違和感はあったが、虐待の後遺症で毎日どこかしら痛いので楓は誰にも相談していなかった。これが裏目に出た。自分の股から血が流れ出るのを見て、楓は悲鳴を上げた。本来なら母親が教える月経の仕組みを楓は知らなかったのだ。まず、楓の父が風呂場に駆け付けた。次いで祖母も風呂場に駆け付けた。楓はひっくひっくと泣きじゃくっている。 祖母は父に楓を犯すように命令した。 母親ができなかった役目を、楓が負うことになったのである。楓は濡れた身体のまま祖母に床に押さえつけられた。風呂場の床は硬い。父は久しぶりの女に興奮している。 「やめてえ!!」 父はかつて犯した女にそっくりな、いやそれより若い女に興奮している。祖母は何度も楓をぶった。楓は顔を滅茶苦茶にされながら、自身で触れたことすらない箇所に、潤滑液も塗られずに実父の異物を挿入される。 楓は少女から女にさせられたのだ。 「いやあ!!」 父が腰を振る度に楓は身体が引き裂かれるような痛みと内臓を圧迫される苦しさに呻き声をあげた。抉り、削られて膣壁が切れて血が流れる。強姦された肉体が防衛本能から体液を分泌する。それを滑りに、父は円滑に楓を犯した。楓の腹の中で、父の男性器が膨れていく。自分を押さえつけ、殴り、顔を覗き込む祖母は笑っている。未発達の膨らみ始めた胸を潰されるように揉みしだかれ、楓は全身が痛いまま、訳も分からず膣内に射精された。 楓は監禁された。腹の子のためか、食事は出されるようになった。薄暗い部屋の中、楓はただ茫然と過ごす。窓はない。不運なことに、近親相姦によって楓は妊娠した。 「あああああああああああ」 私は自室でのたうつ。髪を掻きむしる。 そうしたいからそうするんじゃない。 そうしないと苦痛だからそうせざるを得ない。 私は過去を反芻する。自分の髪の毛と共に反芻する。 これだけ狂っても私はまだ私でいる。 つまり私は狂っていないのだ。 欲しくて欲しくて堪らないこの気持ちをどう形容すればいい。 過不足なく幸せになる方法なんてもうずっと探している。 これだけ探しているのに見つからないんだから無い気がする。 でもそれは、私が見つけられていないだけで、何処かに有る気もする。だから何もかも私が悪いんだ。 私が幸せになれば彼が幸せになれる。 私が幸せになれば彼が幸せになれる。 私が嫌いな私が幸せになれば彼は幸せになれるのに。 そうしたら、きっと私を忘れて、幸せになってくれるのに。 「あああああああああああ」 奇妙に伸びた手足が嫌いだ。 触覚のように生えた指が嫌いだ。 壺のように膨らんだ尻が嫌いだ。 内臓のつまった腹が嫌いだ。 丸く膨らんだ胸が嫌いだ。 ずっと息苦しい喉が嫌いだ。 私の記号である顔が嫌いだ。 私は私のなにもかもが嫌いだ。 小便と糞が詰まった肉の袋でしかない。 私は多分、私から変容している。 大気に漂う雑多の物質はいくら呼吸を繰り返しても私を死に至らしめることはない。 これほどまでに死にたいというのに、誰も私を殺しはしない。 秘密を握られて私が憎い癖に、私が疎ましい癖に、人殺し共は私を殺しはしないのだ。 死んだらきっと、彼は悲しんでくれる。 私が死んだら、私の誕生日に一度だけ花を買ってほしい。 紫色の綺麗な花を、たった一輪だけお墓に添えてほしい。 そうしたら私は、睫毛を褒めてほしいと思うかもしれない。 いつかそれが面倒臭くなって、私を忘れてほしい。 「あああああああああああ」 楓が鯉隠しにあったと栗野崎で噂が広まった。犯人は誰か分かりきっている。しかしそれを追求することは、誰一人としてできない。栗野崎はそういう呪われた地なのだ。ただ一人、板倉だけは楓を探し続けた。板倉は酷く苛立つ。屋敷に乗り込もうともしたが町民達に阻止されてしまった。誰も楓を救おうとしない。当たり前だ、栗野崎で『人が居なくなる』ということは、『誰かに殺された』ということだ。犯人は間違いなく地主の祖母か、その息子の父だろう。わかりきっている。わかりきっていることを大事にされたくない。『保守派』も、『改革派』も、板倉を助けはしなかった。『鯉隠し』のことで、誰も騒ぎを起こしたくないのだ。 一方楓は着々と腹を膨らませいく。酷いつわりにみまわれて、食事も喉を通らない。起き上がることすらできない。排泄すら一苦労だった。祖母と父は嬉々として楓の世話をするが、父の方は流石にまずいことをしたと思ったらしく、とはいっても楓に対する罪悪感ではなく自身の保身からだが、そう言った理由で一層楓の世話に力を入れていた。楓は自害しなかった。『学習性無力感』。長期にわたって蓄積された『抵抗しても無駄だ』という考えは行動を起こす気力どころか思考まで失わせる。板倉は楓が見つからないまま悶々と日々を過ごす。そうして十月十日の時が過ぎた。 陣痛、破水。楓は出産を迎えた。 天井の梁から紐を垂らし、両手で握る。舌を噛み切らないように猿轡を噛まされている。訳も分からぬまま楓は本能的にいきむ。ぷつりぷつりと脳の血管が切れた。楓は死にかけていた。股座では呑気に喜んでいる祖母と父がいる。 産みたくない。どうして、こんなことに。 自分が何をさせられているのか、楓はきちんと理解していた。 可哀想な子。 母が私に名前を付けてくれたように、 私もあなたに名前をつけてあげたい。 産まれてしまう。 母の自殺の目撃、壮絶な虐待、近親相姦、望まぬ妊娠。これ以上楓に何を求めると言うのか。ぷつりぷつりと脳の血管が切れる。 そして、若い女達の声が聞こえた。 私は揺蕩っていた。 口を薄く開くと、甘い湯が口内を満たす。 湯を飲もうとするが、上手く嚥下が出来ない。 ああ、息が苦しい。 この甘味をもっと味わいたい。 何故堪能出来ないのか。 私は薄く目を開けた。 白い一本の縄が私の首を絞めている。 息が出来ないわけではない。 飢えて仕方がないのだ。 乾いて仕方がないのだ。 甘味を飲み込んで胃を満たしてしまいたい。 喉が絞まって嚥下が出来ないのだ。 縄を解こうと藻掻くが狭くて体が思うようにならない。 苦しくて仕方がない。 焦れて仕方がない。 足で壁を蹴る。 柔く衝撃を飲むだけでびくりともしなかった。 もどかしさに自分の顔を掻き毟る。 気が狂いそうだ。 長く柔らかい爪は痛かった。 何れ程時間が経ったのだろうか。 気がつけば湯は何処にも無い。 私は螺旋の中にいる。 身体が濡れている。 誰かの手が私を掴んだ。 私は縄から開放された。 ああ、息が出来る。 私は鳴いている。 男の声と、若い女達の声。そして嗄れた女の声。 眩しい光に目が慣れた頃、私は薄く目蓋を開いた。 初めて目にした顔は、疲れた顔に汗に濡れた髪を張りつけた、 御母様の顔だった。 ああ、御母様。 此れでお別れで御座います。 楓は出産した。 くたりとその場で脱力し、呆然と股座を見つめる。 何も聞こえない。全てが反響している。 何も見えない。全てが滲んでいる。 何も匂わない。全てがぼやけている。 楓の胸に、子供の口が添えらえる。ちゅうちゅうと母乳を吸う。子供は生きている。祖母と父が何やら話し込んでいる。楓は、ぼんやりと首を動かした。監禁されていた部屋とは違い、中庭に出られる部屋で出産したようだ。梁がここにしかなかったのだろう。中庭は小さな日本庭園だった。名前も分からぬ大きな木と、鯉が数匹泳いでいる池があるだけの、質素で簡素な庭だった。 楓は我が子を池に投げ捨てた。 死に物狂いで立ち上がり、紐で父の首を絞める。祖母が楓の腹を殴ったが、楓は微動だにしなかった。若い女達の声が聞こえる。それは、かつて絵本を読んでくれた母の声だった。 ああ、お母さん。ずっと其処に居たんだね。 鼻血と泡を吹いて父は動かなくなった。祖母は小便を漏らし、腰が抜けている。楓は祖母も絞殺した。へその緒を引き摺ったまま、楓は屋敷から出た。辺りは真っ暗だ。みんな寝静まっている。通いなれた道を、楓は血塗れのまま歩いて行く。 時刻は午前三時であった。板倉は奥の診察室で頭を抱えており、自分の決意が決して濁らないように楓との思い出を脳内で繰り返し繰り返し再生していた。会いたい。ただそれだけの気持ちが時間とともに揺らぐ。板倉は楓が死んだ事実を少しずつ受け入れ始めていた。だが確信には至っておらず、物的証拠も無い。事実を認めたくなくて、そう自分に言い聞かせている。 「・・・ん?」 玄関の扉が開いた音が聞こえた気がした。病院にいる間、板倉は例え何時でも病院に鍵を掛けない。盗られて困るものは厳重に金庫に保管してあるし、患者のカルテは別室の、鍵がかかった部屋に置いてある。どうせ眠れないのだからと夜間診療もしていたのだ。滅多に人は訪れないが、患者が来たのかと板倉は思考を切り替える。ぺちゃり、ぺちゃりと水音がする。板倉は寒気がした。何の音だ。音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、扉と対面して待ち構える。足音は確実にこちらに向かってきている。がたがた震えながらドアノブが回る。 ぎぃ、と扉が開いた。薄暗い廊下に部屋の蛍光灯の光が漏れた。板倉は一瞬、呼吸ができなかった。血塗れで酷く憔悴した楓が丸裸で部屋に入って来たのだ。股座から何か垂れている。かつて学んだ人体の一部だった。 「楓、ちゃん・・・。楓ちゃん!!」 楓はそこで意識を失った。救急車を呼べない栗野崎で板倉は泣きながら楓の身体を触って、何があったのか理解する。腹に、妊娠線があった。そして、この垂れているものは、へその緒である。 「嘘だろ、嘘だろ嘘だろ!!」 病室をあっちこっち駆けずり回って、板倉は器具を集める。中には代用品のカッターや鋏もあったが、板倉はなんとかそれを消毒して楓の身体を治療しようとした。 「楓ちゃん・・・」 とてつもなく情けない声で、板倉は楓を呼ぶ。反応はない。楓は死にかけている。今にも消えてしまいそうな呼吸音が、板倉は怖かった。 私に触らないで。 私を暴かないで。 私を晒さないで。 若い女達の声が聞こえる。 私は理解した。 女達は私の子供を食った。 お礼にと教えてくれた。 可哀想だからと教えてくれた。 この町の作りを何もかも教えてくれた。 この町の人を何もかも教えてくれた。 因習は私が終わらせる。 誰も栗野崎から出しはしない。 ここの水を飲んだら、終わりなのだ。 私は恐れられている。 私は疎まれている。 私は嫌われている。 それでいい。 私が抑止力になる。 もう二度と私を産んではいけない。 恐らく私は変容した。 御堂楓は死んだのだ。 私は現人神としてこの地に留まる。人の血の代わりに、私の身体にはこの地で生きた忌むべき者の血が流れている。私は使命を得た。私は人をやめた。だから彼女達の声がはっきりと聞き取れる。御堂楓は死んだ。私の言葉は、悪しき者をこの地に張り付ける呪いだ。誰も逃がしはしない。誰にも呪いは持ち帰らせない。 だから、名前も知らぬあの子には死んでもらわなければならない。 だから、市川裕美子には死んでもらわなければならない。 だから、佐伯優にも死んでもらわなければならない。 彼は可哀想だ。 彼はもう一人の私だ。 あんな馬鹿女、死ねばいいのに。 惨めに、苦しんで死ねばいいのに。 だから私はあの馬鹿女を生かしておいた。 誰も手出しするなと命令して、生かしておいた。 もう死んでしまったけれど。 いろんな女に騙されて可哀想。 私もその一人。 ごめんなさいね。 御堂楓が現人神として君臨するのに時間はかからなかった。彼女は全くもって説明のできない『何か』を得た。栗野崎の住民は、自らの過ちが公になることを恐れている。純粋に彼女の謎の力に平伏している者も居る。板倉も彼女に跪き続けた。肉体は何とか回復したが、精神の方は完全に壊れている。板倉が習得した技術や知識ではどう仕様もなかった。ただ、板倉は自分をブチ殺したくてたまらなかった。自分がもっとちゃんと見ていれば『こんなこと』にはならなかった。ずっと傍で見ていたいだとか、彼女の幸せを願うだけで幸せだとか、そんなことを言う暇があるなら無理矢理にでも彼女をあの家から引き剥がせばよかったのだ。何故それをしなかったのか、板倉はずっと後悔の念に駆られている。 楓が鯉隠しにあった期間は二年間。妊娠期間に十ヵ月が過ぎた。板倉は楓が帰って来た翌日にこっそり栗野崎を抜け出し、『外』の病院に楓を入院させた。虐待の痕跡は生々しく、産後の楓は出血多量と炎症で生死の境を彷徨うが、二ヵ月程で奇跡的な回復を見せた。 検査によって、楓はそう長く生きられないことが判明する。脳の血管が致命的なまでに損壊していたのだ。だというのに楓の指先はしなやかに動き、呂律もきちんと回っている。視力や聴力にも問題が無い。医者は首を傾げるだけで、どうやって楓が生きているのかはさっぱりわからなかったが、とりあえず板倉は嬉しかった。記憶や知識についても同じだった。板倉は楓に何があったのか、楓の口から直接知った。怒りのあまり、板倉の脳の血管も切れそうになった。 楓は何故か栗野崎に戻りたいと言う。板倉は止めた。必死に説得した。それでも楓は戻りたいと言う。楓は使命を受けたと言う。それを全うしたいと言う。板倉は手法を変えることにした。『外』の世界の素晴らしさを楓に教え、栗野崎を捨てさせる。徹底的に甘やかして、楓の興味を自分に向けさせようとした。板倉は、楓と二人で、『外』の世界で幸せになりたかった。 楓が歩けるようになった頃、板倉は病院近くにある女が喜びそうな場所に楓を連れて出掛けるようになった。楓の余生を独占することは、板倉にとってたまらない幸福だ。楓が退院するまでの十四ヵ月間、それは板倉にとっての蜜月であった。 楓が一番気に入っていたのは、人の出入りが少ない寂れた喫茶店である。洒落っ気のある食事を見たことがない楓にとって、オムライスだの紅茶だのケーキだのといった食事は今までにない衝撃的な刺激であったようだ。一応の礼儀作法は学んでいるがスプーンやフォークの使い方がわからず、楓が板倉を真似て食事をする姿に、板倉は下品なことにどうしようもなく『そそられた』。 「美味しいかい?」 「よくわからない」 板倉が聞くと、楓が答える。答えながらはぐはぐ食べる。楓にコーヒーを飲ませたこともあるが、仕草が一々愛らしく、 「美味しいかい?」 「よくわからない・・・」 綺麗な作りの顔を歪めているときなど、板倉は自身が荒ぶらないように努めるのが精一杯であった。食事をする姿ですら板倉の目には妖艶に映った。自分が選んで食べさせたもので楓が形成されるのが快感だった。板倉は己の下衆な考えに強烈な自己嫌悪が沸き起こるが、やはり自分は楓が好きなのだと再確認でき、その自己嫌悪ですらちょっとした楽しみになっていた。 楓とした会話の中で、板倉は強く印象に残っているものがある。その日の楓は機嫌も体調も良かった。いつもの幼女のような間延びした口調ではなく、年相応のはきはきとした、というには少々早口で楓は喋っていた。珍しく饒舌な楓に板倉は少し不安になる。彼女は長く生きられない。死の間際に何か伝えようと、必死になって喋っているのではという懸念があったからだ。 「美味しいかい?」 「ちょっと、味が濃い」 トマトソースが絡んだペンネを食べて、楓は微笑む。 「味が濃い?」 「・・・しょっぱい? からい? すこし、あまい。脂がべとべとしてる。よくわからない」 本場の味ではなく、子供向けに味付けされたものだろうか、くたくたになるまで柔らかく煮込まれたウインナーと飴色の玉ねぎが入っている。毒々しいトマトの赤色に彩りとして散らされたバジルの緑と、蝶の形のペンネ。大分気に入っているように見えたので、板倉は美味しいのだろうと結論付けた。 「多分、美味しいんだと思う」 「え?」 「えっと、美味しい、うん。美味しい」 感覚がはっきりとしているのか、楓は初めて板倉に『美味しい』と返答した。花が綻ぶようにくすりと笑う。やはり楓は美しい。幼いながらに既に完成されている。その楓を独占している優越感に板倉はほくそ笑む。 「今日はご機嫌だね」 「そう見える?」 「あれ、違ったかな?」 「ううん。良い調子。耳が良く聞こえる」 「・・・女達の声は、しない?」 「するけど、今日は煩くない」 「そっか」 板倉は胸を撫でおろす。楓は『幻聴』のせいで栗野崎に帰ろうとしている。このままずっと静かにしていてほしいものだ。そのうち聞こえなくなってしまえばいいのに。 「煙草吸ってくるよ、見える場所に居るからね」 席を立とうとした板倉を楓が迷子のような瞳で見つめるので、板倉は再び座り直した。 「ごめんね、嫌だった?」 「ううん。違うの。『どうして煙草を吸うのかな』って思ったの」 「あー・・・。なんでだろ」 確か、学生時代に悪い学友に勧められたのが初めだったか。吸い始めは『こんなの買うやつ馬鹿じゃねえの』と思っていた代物だ。酷く苦く、そして臭く感じた。しかし板倉もいつの間にか馬鹿になっていたようで、気付いたときには煙草に火を点けないと落ち着かないようになっている。 「なんでかわからないのに吸うの?」 「えーっとね、吸うと、落ち着くのかな?」 「緊張してるの?」 「いや、そうじゃないんだ。なんだろうね、うーん・・・」 「うふふ。変なの」 「そうだよ。煙草は頭を変にするんだ」 「賢ちゃん、お医者様でしょう? 賢いのに?」 「はは、馬鹿でも屑でも医者にはなれるんだよ。・・・若しかして、煙草に興味があるのかい? 駄目だよ、楓ちゃんはまだ子供なんだからね」 あと数日で十五歳になる楓。それを考えると板倉は胸が押し潰されたように苦しくなった。彼女は実父にレイプされ、妊娠し、出産までしているのだ。まだこんなに若いのに。 「こども・・・?」 楓の表情が暗くなる。『子供』という言葉に反応している。 「私、子供じゃないと思う」 自分の腹をさすって、楓は呟いた。 「子供だよ」 「賢ちゃんから見れば、そうでもね、私、もう処女じゃないし、経産婦だよ」 板倉は思わず黙ってしまう。何か言ったほうがいいだろうと分かっているのに何も言えない自分に苛立つが、適切な言葉が見つからず、唇を僅かに開閉させるに留まった。 「楓って名前ね、お母さんが付けてくれたの」 楓は耳を塞いだ。伏せた睫毛が美しいと板倉は思った。 「楓の木に咲く花は『風媒花』っていうんだって。虫や鳥に依存せず、風を媒体に受粉するの。お母さんは、好きな人がいたの。その人と結婚して、男の子が生まれたらその人が、女の子が生まれたらお母さんが、子供に名前を付けるのが夢だったって。菫、菖蒲、紫苑、紫色の花の名前をつけたかったって。お母さんは私に、いろんな花言葉を教えてくれたけど、私の、『楓』の花言葉は、教えてくれなかった・・・」 板倉も『楓』の花言葉は知らない。 「でも、知りたいとは思わない。『依存すること』は、『それが無いと生きていけない』ってことだから。虫媒や鳥媒の花は、生き物を惹きつけるために派手な花を咲かせて、甘い蜜と実を作って、良い香りを放っている。そうしないと生きていけないから。虫や、鳥に、媚びて生きているの。風媒花は違う。風があれば生きるし、風がなければ死ぬ。虫があの男なら、鳥はあの女なんだ。私は違う。あの男にもあの女にも媚びたりしなかった。お母さんの願い通りに、私は生きた。私は、私は生きた。だから知りたいとは思わない」 楓は次第に息継ぎすらやめて、ただただ舌を回した。 「ずっと女達の声が聞こえる。私には聞こえる。賢ちゃんに聞こえなくても、私には聞こえる。私を責めない。私を可哀想だって言っている。でもあの子の声は聞こえない。あの子はもういない。赤ちゃんだからなのか、男だからなのかはわからない。彼女達もわからない。彼女達は常に飢えている。肉団子が男か女かだなんて言っている場合じゃないの」 「楓ちゃん、落ち着いて・・・」 「男か女かだなんて言っている場合じゃなかったの。女だったら私になる。男だったらあの男になる。子供を産むことは何よりも重い罪なんだ。だから私は投げ捨てた。溺れて死んだ方が良い。死ぬより辛いことはこの世にいくらでもあるのだから」 「楓ちゃん」 「私があの子を偲ぶために『名前を付けたほうがいい』って彼女達は言った。私もそう思った。お母さんが私に名前を付けてくれたように、私もあの子に名前を付けたかったの。でも、あの子は男なのか女なのかわからない。男の子に女の子の名前を付けたら変だし、女の子に男の子の名前を付けたら変だわ。でも、不思議ね、彼女達が教えてくれたわ。男の子にも女の子にも付けられる名前があるのね。かおる、しのぶ、ひろみ、まこと、まさみ、ゆう・・・」 名前を指折り数えて、楓は少し落ち着き始めた。板倉は話を肯定も否定もせず、ただ聞くべきほうが良いと判断した。じっと楓を見つめる。楓の白く細い身体は性交と妊娠と出産を経験している。純潔を失っても純粋でいる。板倉は楓が子供の話をするのを聞いている。嫉妬している自覚がある。楓の心を占領する楓の子に。 「『まこと』って名前にしたの。あの子の名前。嘘偽りのない存在、私だけの子供。私だけの赤ちゃん。忌子だとしても、私はあの子が愛おしかった。毎日すごく苦しかった。私のお腹は大きくなっていく。私が犯された事実が命を象って、少しずつ育っていく。でもそれが、どう仕様もなく、私は嬉しかった。きっと少しだけ、私は『母親』になれたんだと思う」 引き留めようとした板倉の声は、楓の耳に届かなかった。板倉の懇願虚しく楓は栗野崎に帰り、正々堂々と町を歩いた。当然、大騒ぎになる。楓の祖母と父も『鯉隠し』にあったことになっていたのだから。 板倉がこっそり始末したのだ。『鯉隠し』がどれほどの効力を持つのか調べるため、板倉は二人の死体を切断し、山に運んで埋めた。人体とは脆いようで、意外に丈夫である。骨を切断するのは難儀なことだ。指のように比較的細い骨はペンチ等で千切りとることはできる。しかし腕や足等の太い骨は家庭用の包丁や糸のこぎりでは切断するのは困難だ。板倉は楓の家から剥がした畳に死体を括りつけ、凧糸でぐるぐる巻いて動かないように固定する。まるで蜘蛛に捕らえられた獲物のようだ。間接に目掛けて、なるべく力が入るように斧を振った。振うたびに収まるかと思われた板倉の怒りは、本人でも不思議なほどにぐじゅぐじゅと沸きあがった。切断した後は骨から肉を削ぐ。 かなり乱暴にではあるが、板倉は二人分の死体を持ち運べる大きさに解体できた。少しずつ山に運び、埋める。掘った穴は浅い。一メートルに達するかどうかの深さで、素人の板倉にはそれが限界だった。成程、と板倉は思った。山中に死体を埋めて証拠を隠滅する計画は杜撰極まりない。生ごみと混ぜて地中に埋め、その土の上にはスコップで根ごと掘り起こした雑草を乗せて蓋をした。それでも異臭が漂っている。嗅覚の鋭利な獣には強烈に匂うだろう。雑草の蓋をいくら踏み固めてもこんもりと盛り上がり、スコップで叩いても全く平らにならない。明らかに不自然だ。獣が掘り起こさなくても、山菜取りや登山に来た誰かが土の違和感に気付き、掘り起こされたらそれでお終いである。 栗野崎の町民達は『殺人の露呈』をとてもとても恐れている。だから『栗野崎では人殺しなんて、一人もいない』のだ。『そういうことにしなければいけない』のだから、板倉が掘った穴は町民に掘り起こされて、『中身』を山から持って帰って川に捨てるだろう。栗野崎とはそういう場所だ。板倉が山に死体を埋めて一週間後、埋めた場所を確認しに行くと、その全てに『掘り起こした跡』があった。腐臭は無く、ご丁寧に雑草の蓋まで綺麗に戻されている。 板倉は穴を掘り起こした。 何もない。 虫が沢山沸いたが、それだけだった。 板倉は生まれて初めて、背筋が凍るような恐怖を感じた。父は自分を『外』に捨てたのではなく、『外』に逃がし、母は恐らく、誰かに殺されて『鯉隠し』されたのだろう。 狂っている。 乾いた笑いが山中に響くが、板倉は笑うのをやめなかった。 楓は栗野崎に帰ると、まず失せ物をいくつか探し当てた。次に、徘徊している老人がどこに居るのか実況し、老人が見つかると、広く話すには憚られる愚痴や下品な話をしていた者の名を言い当て、台詞を真似てみせた。栗野崎の町民は驚愕する。楓は言う。私は神だと。鯉の声が聞こえると。この町にはせせらぎの無い場所が無いと。鯉は全てを覚えていると言い、ごく最近の物から遥か昔にまで遡って、栗野崎の住民が犯した鯉隠しの状況を楓は述べた。ときには被害者を、そして加害者を演じながら。 『なあ、私達、友達やんね? そうやろう?』 『どないしたのサ、急に。あたしらは友達やで』 『ふーん、そう。でも、いくら友達といっても、人の物を盗むのは、感心せんわ。そうやろう?』 『え? 何の話を・・・』 『・・・あんたが居なくなれば、あん人は悲しむやろね!!』 『いやあああッ! 何するの! やめてッ!』 『大人しゅうし! もっと顔に傷つけるで!』 『やめてえ! 今なら、誰にも言わんから・・・!』 『あんたが居らんなったら、私があの人を慰めるんじゃ。あんたが居らんなった隙間に、私が入り込むんじゃ!』 一人の老婆がそれを聞いてひっくり返る。夫はまだ生きている。これを知られたらと身震いをする。楓は汚物に投げる視線で老婆を射貫いた。 汚らわしい女。 横恋慕して人を殺すなんて。 奪った男と家庭を持ってるだなんて。 人殺しのくせに。 死ねばいいのに。 『なあ、金、貸してくれや』 『またか! いつになったら返すんじゃ! 一体、幾ら貸してると思っとるんじゃ!』 『金の切れ目が縁の切れ目って言うやないか。ええやんけ、親父ィ、俺ァ、『外』に行きたいんじゃ』 『行ってどないするんじゃボケ! 仕事も探さんと、女遊びばっかりしやがって!』 『今度こそちゃんと探してくるからヨォ。ええやんけ、頼むわぁ、なっ? なっ? 可愛い息子のおねだり、聞いてくれやぁ?』 『ええ加減にせえ!!』 それを聞いた男が顔を真っ青にする。親心を踏みにじり、だらしのない遊びに耽る我が子の面倒を見ることに疲れて、逃げるように殺めたのだ。楓は自分の腹をさすりながら、男を鼻で笑った。 愚かな男。 まともに育てられないなら子供なんて作るな。 子供だけが悪いんじゃない。 お前も悪い。 死ねばいいのに。 『こんなところに呼び出して、何か、照れるな、はは』 『はぁ? 何を勘違いしてるの?』 『いや、知ってるねん。俺のこと、好きなんやろ? 俺と目が合うとすぐ目を逸らすし、話しかけても素っ気ない態度で、照れとったんやろ?』 『な・・・』 『すまんなあ、俺は情けない男じゃ。女の方から、告白させるなんて、情けない、情けない・・・』 『・・・何を、お前は、何を勘違いしとるんじゃこのあほんだらがぁ!! お前にはずっと嫌気が差してたんじゃ!! 勘違いの助兵衛が!! 死ねやボケが!!』 それを聞いた老人が地面に泣き崩れる。当時の『勘違い』を思い返すと恥ずかしくて死にたくなるが、死んだのは揉み合いの末に川に突き落としてしまった当時の想い人なのだ。 気持ち悪い。 こいつらは腐ってる。 自分を悪いと思っていない。 自分は正しいと思っている。 死ねばいいのに。 こんなやつら、死んでしまえばいいのに! 「どういうことなんだ・・・」 板倉が呟いても楓は微笑むだけである。楓は本当に鯉の声が聞こえていて、栗野崎は楓に支配されたのだ。ただ黙って死を迎え入れるのなら、楓は決して過去には触れない。栗野崎から出ないと誓うのなら、楓は決して秘密を暴かない。鯉隠しが何なのかを口外しないのなら、楓は決して醜さを晒さない。本当に、本当に些細なことで栗野崎の住民は鯉隠しを行っていた。いつか犯行が明るみに出ることに怯えながら、それでもきっとこのまま平和だと信じ込んでいた彼ら彼女らは『御堂楓』という少女によって因果応報を齎されたのである。老人達の殆どは楓の操り人形になった。その子供達の数人、つまり鯉隠しを積極的に行っていた者も自身の両親と同じく、楓の命令には逆らえなくなった。鯉隠しに否定的な者、以前の楓を知る者は楓の『仕組み』を暴こうとしたが、誰一人として真相に辿り着けるものは居なかった。当然だ。楓にだって、何故『鯉の声』が聞こえるのか、分かっていないのだから。 栗野崎に戻ってから、楓は奇妙な行動をするようになった。町民の目があるときは脳みその中は滅茶苦茶なものの『御子様』と呼ばれるに相応しい神聖性を保っている。それが無くなると、楓は兎に角、川に入りたがった。板倉は『目』として感受されないらしく、制止しても、ときには力づくで川水から引きあげようとしても楓は狂ったように笑い、言葉を話さず、身体を捩じる。 奇妙なのはそれだけではない。 鯉だ。 鯉は決して楓だけは食わない。人食い鯉は楓の身体の周りを群れで包むように泳いでいる。ざぶざぶと水を掻き分けて楓が歩くときも踏まれないように身を避け、従順に着いて行く。板倉が近寄れば食い殺そうと暴れるのに、楓は鯉の身体を撫で、濡れた顔で笑っている。魚に人の体温は熱すぎる。十分に冷やした手で触れなければ火傷してしまうほどの熱なのに、鯉達は楓の手を取り合うように水の中で戦っている。鯉は楓を好きなのだ。板倉はいつしか、ただ黙ってその場に立ち、楓が川から上がってくるまで待つようになった。 悪質なプリオンで満たされた水の中で楓は楽しそうに遊んでいる。濡れた服が透けて肌に張り付き、唇を青くした楓が震えるのを見て、もういっそ口付けてしまおうかと顔を近づけたことがあったが、 「小児性愛者」 と言われて、板倉はぎょっとした。 「あの子達が言ってた、どういう意味?」 「あ、ああ? え、えっと」 「賢ちゃんは『それ』だって。ねえ、どういう意味?」 無垢に微笑む楓と、後ろでばたばた暴れている鯉。まるで『手を出すな』と警告しているようであった。 私の記憶。 お母さん。 居なくなった大人の女、二人。 あの男とあの女。 まこと。 外の世界。 外の世界は素晴らしい。 その世界を捨てて、栗野崎にいる賢ちゃん。 私は尊い存在などではない。 矮小な生き物だ。 彼のほうが神様だ。 私を憐れんでくれる存在。 外の世界で幸せになってほしい。 優しい人なんだから幸せになるべきだ。 そう、そうかもしれない。 言う通りなのかも。 いいのに、私のことなんて。 そうなの? なにそれ? ・・・それは、嫌だな。 うん。 やめて・・・。 そうなの・・・? そうなんだ・・・。 そうなんだ・・・。 そんなの嫌だよ。 ううん。 お兄ちゃんとして、かな。 賢ちゃん、そんな乱暴な人じゃないよ・・・。 嫌、それだけは絶対に嫌。 好きじゃない。 やだ、気持ち悪い。 いいよ、自分で言える。 「楓ちゃん、大丈夫かい?」 「え?」 顔が近い。 「・・・ずっと水の中に顔をつけてただろ?」 「そうなの?」 「そうだよ。ほら、震えてる。寒いんじゃ・・・」 間が一つ。 「小児性愛者」 「・・・えっ」 「あの子達が言ってた、どういう意味?」 「あ、ああ? え、えっと」 「賢ちゃんは『それ』だって。ねえ、どういう意味?」 「子供が好き、っていう、意味だよ」 「ふうーん」 「楓ちゃん、何処でそんな言葉を」 「あの子達だって言ってるでしょッ!?」 楓が吠える。 「ご、ごめんね」 「その好きって、汚い好きだよね?」 「・・・汚い?」 「犯したいっていう好き、でしょう?」 「そう、なるね」 「ふうーん」 「・・・俺、は、小児性愛者じゃないよ」 「そうなんだ、よかった。だってそうだったら、気持ち悪いわ、とても」 板倉と楓の間には重大な溝、若しくは壁があった。楓は性行為を嫌っている。恨みがあると言っていい。子供がどうやって『作られる』のか、その仕組みを楓は誰よりも理解しているからだ。男は勝手だ。出せば父親になれる。女は臓腑に肉塊を捻じ込み、排泄された他人の体液を身体の中で合致させ、変形させなければならない。本人が死を望むほどに強く拒否しても、肉体は能動的にこの技で命を作り出す。排出ではなく排泄だ。男は快楽という栄養を得る。一定値に達すると老廃物として精液が出される。大抵の男は、突っ込むだけで気持ちが良い。それに比べて女は痛みと、ときには出血すらするのだ。腹の中で出来上がったものを『なかったこと』にするのも難しい。肉の袋の中で羊水に揺蕩う命の『なりかけ』を腹の中で潰し砕いて掻き出さなければならないのだ。何て業の深い。 この危険極まりない行為を愛情表現の一つとしてするのだから! それだけではない。単純に快楽を、或いは加虐欲、被虐欲を満たすための手段として、性的な行為に及ぶのである。趣味や嗜好の為に子を成す行為をするのだ。双方合意の上であるなら別段そんなことに楓は構わないが、楓に寄って来るのは祖母のような、或いは父のような強引で狂暴な連中が多い。ひどい吐き気がする。強烈にだ。 『尽くしているのだから』と褒美に楓の身体を自慰に使いたい者、楓の『弱み』を作って脅すために手っ取り早く犯そうと目論む者、現人神である楓の夫となって栗野崎での権力を握りたい者、良い待遇を得るために気に入られようと自身の妙技を味わってほしいと言う者。 楓の器量が良いことと、その神秘性から雄の本能をむき出しにする輩は多いのだ。そしてその殆どが老人と、その子供達。子供と言っても四十は年を取っている。死にかけの塵芥とそれの劣化類似品共。糞と間違えて産まれたような醜い猿。勝手に楓を取り合って争っている。どう考えても楓は彼ら彼女らを許すことが出来ず、また、板倉も自身を性的な好奇心から好いているのであれば、内包している鬼胎が完全に嫌悪に形を変えてしまうであろう。 楓は板倉を嫌いかけている。どうしようもなく板倉が好きだが、板倉を嫌いかけている。それは一種の憧れであった。絵本に登場する王子様は口の中に物を入れたまま喋らないし、家臣には優しく、正義感に溢れて、剣の才能がある。そして一つの理想なのだ。あの日、楓と運悪く出会ってしまったから、その優しさから楓を見捨てられない聖人君子であってほしい。捨てられた犬猫が、人間を信用できなくなった犬猫が拾ってくれた新しい飼い主に心を開き懐いていくのと、楓が板倉を慕う感情は何ら変わらないのである。言葉で意思疎通ができるから、思考が犬猫より複雑だから迷いが生まれ、性という区切りに縛られているだけだ。楓は板倉と『幸せ』にはなりたくない。 若い女達の声が聞こえる。楓は輪廻を信じている。輪廻とは生と死が換気扇のように回ること。事実、楓の母も栗野崎で鯉として生まれた。他の女達もそうだ。かつて鯉に食われた哀れな若い女達。その全てが鯉に産まれ、死ぬとまたどこかで産まれている。痛苦と汚辱に塗れた世界で産まれて、今までに犯した罪を償っている。きっと、人間より単純な生き物に少しずつ生まれ変わって、借り入れよりも返済のほうが多くなって、いつか死んで綺麗に無くなる。無すらない無へと、魂と罪は消えてゆく。 だとしたら、楓の子はどこから来たのだろうか。 『まこと』はどこから来たのだろうか。 死ぬために必ずしなくてはいけないことがある。 産まれることだ。 無くなるのなら、死んで無くなるのなら、一体、私は何処から生まれてくるのだろう。少しずつ純粋な生き物に生まれ変わっていく。楓は、楓の子は前世で何をしたのだろうか。暴虐を尽くした祖母と父は、罪を償う命に変わるのだろうか。 御堂楓は恐らく変容している。万物は流転する。 変わらないものなどこの世に一つとしてありはしない。 『有る』が『無い』に変わる。 『無い』が『有る』に変わる。 そうだとしたら、いつか死んで綺麗に無くなっても、再びこの世に産まれいづる。有機物か、或いは無機物として。結局、御堂楓は何で形成されているのか。巡り巡る命は円環の喜びと苦しみを味わうのか。 御堂楓は確実に変容している。 だとするならば、今までの『御堂楓』と今現在の『御堂楓』の違いとは。細微の変化も積み重なれば別物となろう。ならば『御堂楓』は『御堂楓』ではないはずだ。それなのに『御堂楓』は『御堂楓』でいる。 『私』が『私で在る』というのは一体? 事態は確実に悪化している。楓は狂っている自覚がある。それが段々と慣れてきて、普通のことのように思える。 闇は一般的には悪だと思われている。光が無くては闇は存在出来ず、そこに魑魅魍魎が潜み、暗い目をした生き物が悪事を企んで舌舐めずりをしていると。 果たしてそうだろうか。 太陽光が物質に遮られることが、そんなに怖いことだろうか。暗くなくては人は眠れない。見たくないものや聞きたくないことを遮るためには閉じる目蓋と塞ぐ手だけではなく、壁と天井と床が必要だ。必要だから作っているのに、何故態々忌み嫌うのか。隔離し、迫害し、差別し、それに喜びを感じるのか。 御堂楓は一般的には悪だと思われている。贖罪から逃げ続けたい鯉隠しの実行犯達。それを纏めて縛り上げる楓に疑念を抱く鯉隠し否定派。楓を神と崇め信じて疑わない者を愚かだと思う者。 生まれ故郷から出られないことが、そんなに怖いことだろうか。 栗野崎で培った倫理では外では生きていけない。どれだけ相手が憎たらしくても、騙されてしまったとしても、命を殺すことは、生を死に変えることは重い罪なのだ。みんな我慢して大人になるのに、何故それができないのか。 狂っている。楓なんかよりも余程。 それに比べて、若い女達の純粋さときたら。 水に浸かると、より一層若い女達の声が明瞭に聞こえる。楓の母も楽しそうにお喋りに興じている。彼女達は総じて喋るのが好きだ。最も、娯楽が食事か会話しかなく、食事は命懸けなので気軽に楽しめることが会話しかない訳である。 女達の声で板倉の声は聞こえなくなる。このところ小言ばかりの板倉の声を聞かなくてよくなる。幼児のようにむずかる楓を、女達はあやしてくれる。年相応に振る舞うことが川水の中でだけできたのだ。 一度、母を抱きしめたいと楓は言った。しかし、母は断った。母も抱きしめられたいけれど、それはしないほうがいいと。人の体温は鯉には高すぎるのだ。母はできるだけ長く楓の傍に居てやりたいし、楓の望むことならなんだって叶えてやりたいが、全身に火傷を負えば衰弱死してしまう。 楓は泣いてしまった。若い女達は慌てふためく。せめて触れたいと言った楓に、それならと母も喜ぶ。水で良く冷やした手でも長くは触れ合えなかったが、楓は母の、そして母を羨望した他の女達の身体を撫でた。若い女達はひたすらに楓を甘やかす。彼女らは多少高圧的な物言いをするが、年頃の娘というのはそういうもので、姫か、我が娘かというほどに若い女達は楓に優しくした。楓が可愛くて可愛くて、仕方がないのだ。 母は楓を誇りに思っていると言う。自分によく似ていて、愛嬌があって、心根の優しい良い娘だと。若い女達も頷く。 楓は言う。 「心根が優しいは、あんまり嬉しくないよ」 何故、と母と若い女達は問う。 「だって、誰にでも当てはまる言葉だわ。『本当は優しい子なんです』とか、『個性的な子なんです』とか、『母親思いの子なんです』とか。ある側面から見れば誰だってそうだわ」 親の欲目ってやつね、と若い女が言う。 あら、いいじゃない、と別の女が言う。 「それに、私、別に優しくないと思う」 あら! あら! あら! 「甘えん坊で、寂しがり屋なだけだよ。優しくしてくれる人なら、誰でも・・・」 彼が好きなのも、優しくしてくれるから? 「そう、そうかもしれない」 きっとそうね、彼も。貴女が優しいから。 貴女が可哀想だから見捨てられないのよ。 彼に冷たく接すれば、貴女に飽きるんじゃない? 「言う通りなのかも」 貴女のために、この町に居るんですものね。 「いいのに、私のことなんて」 あら、それはどうかしら。 好意というのは得てして下衆な物よ。 優しくするのにも理由はあるわね。 「そうなの?」 気を引きたいから優しくするのかしら? それって女を口説く常套手段じゃない? やだあ! きっと小児性愛者なんだわ! 「なにそれ?」 『幼い子を犯したい』と思う最低なやつのことよ。 貴女を『女』としてみているんじゃないかしら? そうよ、彼と年が離れているもの、きっとそうだわ! 「・・・それは、嫌だな」 嫌なの? 嫌なの? 嫌なの? 「うん」 でも彼は、貴女を犯したいと思っているわよ! あなたを見るいやらしい目つきったら! 若くて綺麗な貴女を醜男のあいつは犯したいのよ! 「やめて・・・」 貴女を組み敷いて笑うわ! 乱暴に扱って楽しむでしょうね! 泣けば泣くほど彼は喜ぶわよ! 「そうなの・・・?」 髪を引っ張って顔を殴るわ! 首を絞めて関節を外すわ! 臓物を引き摺りだして骨を折るわ! 「そうなんだ・・・」 貴女は孕んで。 子供を産んで。 また殺すのよ。 「そうなんだ・・・」 子を失って嘆く貴女を彼は慰めるわ。 また犯すために優しくするわ。 彼は貴女をじわじわと洗脳しているのよ。 「そんなの嫌だよ」 でも、貴女は彼を好きなんでしょう? 彼と幸せになりたいんでしょう? 『外』に出て行きたいんでしょう? 「ううん」 あら? じゃあ父として慕っているの? それとも兄として? 弟やお爺さんってことはないでしょうし? 「お兄ちゃんとして、かな」 なんてこと! 大変だわ! あなたの好意を勘違いしているのよ、きっと! 好きと性衝動を履き違えているのだわ! 甚振って弱った貴女を犯したいのよ、多分! 「賢ちゃん、そんな乱暴な人じゃないよ・・・」 じゃあ彼とセックスしたいの? 「嫌、それだけは絶対に嫌」 男としては好きじゃないのね? 「好きじゃない」 あら! あら! あら! 「やだ、気持ち悪い」 そうよね、貴女は子供ですもの。 それを女として見ているなんて。 異常だわ、頭がおかしいんじゃない? やだあ! 気持ち悪いわ! 吐きそうよ! 彼は貴女を『自分の女』にしたいのよ! 彼に好きじゃないわって言うべきよ! そうよ! そうよ! 彼は危険だわ! 排除するべき存在よ! 貴女は騙されているのだわ! あんな男、貴女には必要ないわよ! そうだわ! そうだわ! はっきりと彼を拒否すべきよ! 遠慮も配慮も無用よ! ずばっとよ! 死ねばいいのに。 ああ、私が言ってあげたいくらいなのに! 「いいよ、自分で言える」 私は羊水のように母性に満ちた川水から出る。名残惜しい。後ろ髪が引かれるとはこういうことか。 「楓ちゃん、大丈夫かい?」 賢ちゃんは私の肩を掴む。やめてほしい。触れないで。気持ち悪い。 「え?」 「・・・ずっと、水の中に顔をつけてただろ?」 「そうなの?」 身体に触れる水が多ければ多い程、女達の声は良く聞こえる。そういえば、呼吸が苦しい。いつもより揺れが酷い。ふらついている気がする。 「そうだよ。ほら、震えてる。寒いんじゃ・・・」 顔が近い。 やめて。 醜い。 私に近づかないで! 間が一つ。 「小児性愛者」 「・・・えっ」 私は女達に教えられた言葉を言った。肩を掴む力が強くなる。やめて。生暖かい。体温が気持ち悪い。嫌だ。 「あの子達が言ってた、どういう意味?」 「あ、ああ? え、えっと」 「賢ちゃんは『それ』だって。ねえ、どういう意味?」 「子供が好き、っていう、意味だよ」 「ふうーん」 言葉の意味を認めた。 あとは、小児性愛者だと認めるか確かめたい。 「楓ちゃん、何処でそんな言葉を」 「あの子達だって言ってるでしょッ!?」 私は思わず吠えた。同じ話を何度もさせないでほしい。 「ご、ごめんね」 「その好きって、汚い好きだよね?」 「・・・汚い?」 「犯したいっていう好き、でしょう?」 「そう、なるね」 「ふうーん」 「・・・俺、は、小児性愛者じゃないよ」 私はほう、と溜息を吐いた。良かった。 私は彼の、自慰目的の膣穴ではなかった。 「そうなんだ、よかった。だってそうだったら、気持ち悪いわ、とても」 楓と板倉の間には重大な溝、若しくは壁があった。板倉は楓が好きで、一人の女として魅力を感じている。しかし楓はその枠に捻じ込んで形を整えられない。断罪者の御子様と、まことを想う母と、若い女達と戯れる少女を行き来し、このところ板倉に僅かな抵抗を見せるようになっている。それに対して板倉は苛立ちを感じている。楓は何も知らない生娘というと語弊があるが、出会ったときの純真無垢な御堂楓ではなくなっている。何も知らない幼く無力な御堂楓ではなくなっている。時の流れに板倉は苛立ちを感じている。 少女がゆっくりと大人に成長している。 御堂楓は変容する。 風媒花の彼女は男にも女にも媚びたりはしない。 ただそこに立ち尽くし、呪いの種を撒くだけだ。 板倉は風にはなれなかった。 楓の感情に一石を投じることも出来ない。 板倉は理解が足りなかったのだ。 板倉賢二は異常性癖者なのである。 倒錯した性的欲求は発散する場所が無い。純愛と信じて疑わなかった自分自身ですら、信じられなくなっていた。 私は私から変容している。 出産のために開いた骨盤。 腹の妊娠線は少しましになった。 胸が膨らんでいる。それもかなり。 背も伸びた。 私は大人になる。 もう十七歳だ。 少女と女性の混紡だ。 彼が小児性愛者なら、私はもうすぐ彼に嫌われる。 彼が普通の男なら、私はもうすぐ彼と交わる歳になる。 なんて気持ち悪い。 吐き気がする。 やめてちょうだい! 私は想像してみる。 若い女達の憂慮を想像してみる。 彼が服を脱ぐ。 気持ち悪い。 彼が私を抱く。 気持ち悪い。 彼の子を成す。 気持ち悪い! 本来なら子供を作るための神聖な行為を、愛情表現の一つとして執り行う。仮に子供を『作らない』と決めたとして、避妊具を用いて彼と性行為をしたとして、ゴムを隔てた排泄器が私の内臓を抉る。子供を産むための内臓にそんなものを挿れる。 気持ち悪い。 無理だ。 本当に気持ち悪い。 死ねばいいのに! 御堂楓は変容している。 なら板倉賢二も変容するはずだ。 本当はわかっている。 彼が私を好きなことを。 気持ち悪い。 やめて。 やめて! 私は私だけのもの。 私はあの子だけのもの。 私は御子様。神なのだ。 板倉は苛立つ。楓は可愛い。白くて可愛い。細い腕を折ってみたい。細い脚に蹴りを入れてみたい。首を絞めて、胸を踏みつぶして、濡羽色の髪を引っ張って、顔を殴って、爪を剥がして、楓を泣き叫ばせ、命乞いをさせ、或いは、或いは『何でも言うことを聞くから』と言わせて、可愛い楓を滅茶苦茶に犯してみたいのだ。それと同じくらい大切にして、甘やかしたい。自分を『好き』と言って欲しい。自分だけに微笑んでほしい。楓と楽しいことを共有したい。 板倉の愛情という名の天秤には二つの秤がある。 一つは情欲と、一つは憐憫だ。 天秤はゆっくりゆっくりと情欲に傾いていた。 鯉が板倉を食い殺そうと濁った眼で板倉を見つめていた。 若い女達は何でも知っている。
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