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五章 群像
幼い頃から、私は両親の愛情が欲しくてたまらなかった。
両親は子供を渇望していたが、何の因果か二人とも子供ができにくい身体をしていた。熱心に不妊治療をして、産まれたのが私。子供を産み育てるというのは中々自分勝手な振る舞いだと私は考える。待望の子供に気合の入った両親から課せられた愛情の対価は、兎に角『優秀』であることだった。学生時代から委員会に部活動、行事にも積極的に参加したし、熱が四十度近くあっても私は休まず、皆勤賞を取り続けた。
『優等生』を振る舞ううちに、私は人に好かれるのが上手くなった。誰に対しても同じように振る舞う、ように見せる。自尊心の高い人は褒めて、そうでない人には優しくする。明るく、きちんと用件を伝え、お礼を言うようにする。それだけを徹底的に演じれば、大抵の人は私を好いた。ごく一部の日陰者は私を気に入らなかったようだが、多勢に無勢。誰もが私を『良い子なのに』と言う。だから『私』は『私』という役者を演じ続けた。いつからか、私は孤独であることに気付く。人に嫌われることがとても怖くなった。本当の私、素顔の私を知られたら、今までの私は作り物だとばれてしまう。歯がゆい気持ちを抱えながら、私は勉学に励む。
しかし物事とはうまくいかないものである。私は人の機嫌を伺うことは天賦の才があったが、読み書きや計算、暗記と言った分野では『馬鹿』の言葉がぴったりと当て嵌まる人間だったのだ。五点満点の成績表にはいつも三が並んでいる。添えた先生の一言も、何を書けばいいのか困ったのが伝わってくる。両親は私に落胆した。私は努力を怠ったことは一度も無かった。毎年皆勤賞で、課題も(間違いだらけだが)きちんと提出している。ノートも真面目にとっている。家庭教師を何人もつけたり、塾をあちらこちら変えてみたが、それでも成果は上がらない。つまり私は、どう仕様もない大馬鹿者なのである。教育環境を完璧に整えたことは逆効果だった。何をやっても成績は上がらないという物証になってしまったのだ。思い出すとどう仕様もなくて、泣きたくて、暴れたくなる。
両親が私のことで喧嘩をするようになった。父の運転する車に乗って、病院に連れて行かれたあの日、助手席に座っている母も、父も何も喋らない。ぴりぴりと痺れるような空気で肺が押し潰され、乗り慣れていない車に酔って私は思わず吐いてしまう。そのことでまた両親が喧嘩をする。私が何度謝っても両親は私を一瞥するだけで、謝罪すらも余計に両親を苛立たせてしまったようだ。
検査の結果、私は軽度の知的障害があった。
まず、識字能力に問題があった。長文になると何を書いてあるのかさっぱり分からなくなる。行間というのも全く分からない。そもそも行間の言葉の意味を理解するまでにかなりの時間を要したほどであった。人の感情の機微を察することはできるが、何故そのように感情が動くのかを、私は全く理解出来ない人間だったのだ。字をずっと見ているとそれが頭の中で勝手に分解されて、文字なのか記号なのか、はたまた絵なのか理解できない。当然、計算式を使うことも、単語を覚えることもできない。一日の殆どの時間を机に向かって過ごしていても成績が上がらなかった訳である。
私が十歳になった日に、妹が産まれた。いとも簡単に、あっさりと産まれた。『恥かきっ子』『夜なべの滓』と幾人かの学友達(多感な年頃からすれば面白い話題だ)にひそひそと噂されて精神的にかなりきつかったが、私は両親の期待が妹にも向くのではないかと、この負担が軽減されるのではないかと少し嬉しかった。妹自身に対する感情は、あまりよく覚えていない。赤ちゃんだ、可愛い。だったろうか。その『可愛い』というのも雌である本能が母性から出力しただけのもので、産まれたての猿か、遮光器土偶のように妹は見えた。
その日からの暮らしは、今でもよく覚えている。
私は家から『居なくなった』。母が宣言した。『もうあなたの食事は作らないから』と。朝夕に千円札を机の上に置いておくから、勝手に食べろと。妹をしっかりと胸に抱いて、鬱陶しそうな顔をする母。私は癇癪を起したように泣き叫んだ。その声で妹が起きて泣いた。父に頬を叩かれて風呂場に連れていかれ、私は謝るまで冷水を浴びせられた。妹をあやす母の優しい声が聞こえる。私が欲しくてたまらない母の声が。機械を触ることすらできない私のために母は不機嫌に黙り込んで私の服を洗濯する。一人で風呂に入って、一人で食事をして、一人で眠る。両親に話しかけると舌打ちをされるようになった。三者面談などは父が嫌々来るようになり、私の両親は教師から育児放棄を疑われ、この頃には学友の中でも聡い者には陰惨な生活を送っていることを勘付かれていた。それでも私は嫌われるのが怖くて、ただひたすらに優等生を演じ続けた。もう無駄だと分かっていてもそうするしかない。そうやってずっと育ったのだから、それ以外がわからない。
寂しい。
寂しくてたまらない。
寂しい。
そこまでされても私は両親が好きだった。
優しくしてくれたときもあったから。
ああ、今でもはっきりと覚えている。大学に落ちた。それも最底辺の大学に。浪人生になった私に、両親はついに愛想を尽かした。
『出ていって』
『もう二度と家の敷居を跨ぐな』
『どこかで偶然会っても知らない人の振りをして』
『家族じゃない、もう他人だ』
『貴方の顔をこれ以上見たくない』
『お前の親だなんて世間様に知られたら恥ずかしい』
『こんな子だと分かっていたら産まなかった』
『お前には失望した』
『貴方には失望した』
そう、言われた。井上誠という存在は両親にすら認知されない。妹が、正直憎い。彼女は全くもって健全で正常であった。人の機嫌を伺ってにたにたせず、天真爛漫で身体を動かすのが好きだ。じっとしているのは性分に合わないようで、勉強は好きではなかった。納得がいかない。私は遊びもせずにあれだけ勉強していたのに。
どうして妹だけ可愛がられるの・・・。
妹は良い点数を取るといっぱい褒められて、母が腕を振るって豪華な夕食を拵えたり、父がケーキやアイスを買って帰る。悪い点数を取っても、
『苦手なのね』
『頑張ろうね』
と両親は言う。妹の苦手科目が父の得意科目だったので、休日は父と一緒に勉強して、父も楽しそうだった。たまに家族三人で遊びに行く。四季を遊びつくすかのように、花見に海に、果物狩りや、雪遊びをするために山へ。映画を見に行ったり、遊園地で一日中遊んでいることもあった。とても悔しい。
私は家で一人待っている。誰も居ない家で一人待っている。一人で机に向かっている。妹から両親を取り返したくて。
私は妹と会話をしたことが殆ど無い。両親曰く『馬鹿がうつる』からだ。決して妹と会話しないようにと私はきつく言われていた。私を気にかけた純粋な妹から声をかけて来たとしても、叱られるのはいつだって私だった。
ああ、今でもよく覚えている。千円を握りしめて食事を買いに行く惨めさったらない。妹は年相応に遊んではしゃいで、玩具を買ってもらい、外で食事をして、帰りの車で疲れて眠る。妹を抱いて布団まで運ぶ父の顔。妹の荷物をしまう母の顔。その二人が私を見る顔。
なんだか、壊れた気がする。
私が自殺すればテレビで報道、或いは新聞に掲載されるだろう。身元確認のために、きっと両親は、若しかしたら妹も私の死体を見る。そして、私の遺書を読む。両親は私の苦悩を知り、死を悲しんでくれるだろうか。妹は、私から全てを取り上げたのだと知ってくれるだろうか。
切符を買うのも一苦労だ。ずっと遠くまで。ずっとずっと遠くまで。なるべく迷惑をかけるために。愛しくて憎い両親と妹に復讐するために。電車の中で昼が過ぎ、夕暮れが来て夜になる。窓から見える風景はコンクリートの塊から段々と美しい田舎町に変わっていく。とても素敵だ。美術館で幾つもの絵画を鑑賞しているような心地だった。そうして行き着いたのは栗野崎という町だ。夜の帳が下りて静かだ。虫の声も聞こえない。駅のすぐ近くに商店街があった。適当な店に入って、店番の老婆に宿泊施設があるか聞く。
葵荘という民宿がある。自炊宿だが、それでもいいなら、と老婆は言う。構わない、と私は答えた。食費以外で両親にお金を貰ったことはない。だからなるべく貯金した。手元には百二十万ほどの金がある。両親は一体、どれだけのお金を私の食費として無駄にしたのだろうか。飛び入り客の私に嫌な顔をせず、経営者である年配の女性は私を部屋に案内する。あらあっさり、と思ったのも束の間、私はそこで運命的な出会いをしてしまった。
市川裕美子だ。
もう死のうと思っていても、私はつい癖で学生時代のように裕美子に接する。脳に警告が響く。不潔な泡が沸き起こる。はっきり言って、関わってはいけない人間だった。彼女と話して感じる苛立ち、自傷の欲求。それなのに期待を込めて言葉を投げかけてしまう。彼女は答える。概ね私の想像通りに。
市川裕美子は井上誠に似ている。
同族嫌悪というヤツだ。私が最も嫌う私に似た女だ。鏡ほど綺麗に瓜二つという訳ではないが、夜に窓の外を見たときの、透けた私によく似ている。
だからこそ分かる。何故、彼女は幸せなのか。
恐らくは私と似た考えを持っているはずである。なのに彼女は姿形が美しく、魅力的な声をしている。単純に同性として彼女に嫉妬する気持ちもあった。腹が立った。だから私は彼女に甘えることにした。徹底的に甘えて、困らせてやるのだ。
「市川さん」
「裕美子でいいよ」
「うふ。じゃあ裕美子さん」
「はい、何でしょう?」
「裕美子さんは、どうして栗野崎に?」
「ああ、私はほら、そこの三号室に。先生、小説家のね、缶詰ってわかるかな?」
「えっと、原稿を集中して書くために、文豪がやるっていう、あの缶詰ですか?」
「そうそう。私はその先生の身の回りの世話役をね。『文豪』って言うとちょっと、ふふ。まだ無名の作家なんだけれど、私はきっと売れると信じているの」
「うわあ、すごい! サイン貰っちゃおうかしら?」
「ふふ。どうかなあ。多分、恥ずかしがって書いてくれないかも。そうれはそうと井上さん」
「誠でいいですよ」
「じゃあ、誠ちゃん。誠ちゃんはどうして栗野崎に?」
「・・・都会の喧騒を忘れたくて」
「ならここはうってつけの場所だね。せせらぎさえ気にならないのなら、栗野崎は怖いくらい静かな場所だよ」
「そうですね、ふふ」
人の顔色を窺うあまり『嫌』と相手に言えない性質を利用して、私は彼女の好意にどっぷりと浸かりこむ。生暖かいそれは、意外と心地が良かった。成程、私が人から好かれる理由がよくわかった。しかしその悪趣味な愉悦は長く続かない。佐伯優の存在だ。彼を見るときだけ、裕美子の瞳は潤む。声もしっとりと熱を孕んで、彼の存在を享受している。そして細胞の一つ一つをこじ開けて深く呼吸するのだ。幸せの源はどうやら佐伯優らしい。気に入らない。気に入らない。人に嫌われることが怖いんじゃないのか。だから誰にでも好かれる偶像を作り上げたのではないのか。
彼女が佐伯優と一緒に居るところを見たのは二回。その僅かな時間で判断できる。裕美子は佐伯優を好いている。男女の関係なのかはわからない。彼は小説家と聞いたから、作品に心酔しているのかもしれない。どちらにしろ面白くなかった。私は円卓で一人伏せる。佐伯優も気に入らない。私が殺人を犯したことに気付いている様子だ。どうせ死ぬんだからどうでも良いことだけれど。何もかもどうでもいい。このまま寝てしまおうかしら。
ぼうっとしていると、突然どんどんと太鼓を荒っぽく叩いたような音が近づいて、ばたんっと部屋の扉を勢い良く開けた音がした。
「裕美子ちゃん! 逃げてっ!」
飛び起きて目をやると裕美子達の部屋が見える。血だらけのおばさんが裕美子を引っ張り上げ、大きな鞄を投げるように押し付けていた。
「ちょ、ちょっとなんなんだいきなり!!」
「佐伯さんも逃げて!!」
「に、逃げる??」
「あんた達、殺されるよッ!! 駅は駄目!! 待ち伏せされてる!!」
私はぽかんと呆けてその光景を見ていた。裕美子はおばさんに腕を引っ張られて階段を降り、その後ろを佐伯優が着いて行く。階段には血の小道ができている。
「・・・え? こ、ころ?」
殺されると言ったか?
様子を見に行くために立ち上がろうとして、そこで足が震えていることに私は気付いた。
ああ、そうだ。
『死ぬ』のと『殺される』のじゃ訳が違う。
ぶわっと身体中に妙な汗を掻く。
階下からおばさんの叫びが聞こえてくる。
「山に行って!! 山を降りれば助か・・・」
「居たぞ!」
「短髪の女じゃ」
「御子様のご命令ぞ」
「殺せ!!」
私は階段を駆け下りた。
一体、何が起きているというの!?
「逃げなさいってば!!」
「うわ!?」
「ぎゃあ!!」
「行くぞ裕美子!!」
「御子様に歯向かう奴ァやっちまえ!!」
「も、もうこんな奴らァ親じゃねえ!!」
目も口も最大限に開けて、私は硬直した。
「ぎゃあああああッ!!」
老人が酒瓶で殴られている。それも何度も。馬乗りになって老人を殴る人は泣いている。灰皿で殴られた男が倒れる。老人が狂ったようにその頭に灰皿を振り下ろす。
「きゃあああああああ!!」
私は叫んだ。
「裕美子ちゃん!! 駅は駄目!! 待ち伏せされてる!! 山から!! 山から逃げて!! 絶対に生き延びて!!」
「この親不孝者がぁッ!!」
ぐえ、とおばさんは不気味に呻いて真横に倒れた。ぴくぴくと全身を弱く痙攣させている。脇腹に家庭用包丁が突き刺さっていた。
「んの、罰当たりどもがぁ!!」
よろよろの老人が何か構えたかと思うと、心臓が破れたと錯覚するような破裂音が一つ。老人はひっくり返って、地面に何かを落とす。ああ、猟銃だ。映画で見るような。倒れた老人に、何人かが集まって物で殴りつける。誰かがずっと誰かを殴るか斬りつけるかしている。
「こいつは!?」
その中の一人が私を見て声をあげた。血走った目に私は喉をひゅっと鳴らし、こわばる。
「殺すか?」
「ならん、こいつは御子様が生け捕りにせえと」
「させるか気狂い共がッ!!」
「アンタッ!! 逃がしたって!!」
「はい!!」
一人の青年が私の肩を叩いた。私は混乱の海から抜け出せず、思考が溺れている。
「こっちです!」
青年にとてつもない力でぐいぐいと引っ張られて転びかけながらも体勢を立て直し、私は走り出した。この町に来てから、若い男に良い思い出が一つもない。
「逃がすな!!」
「させるか!!」
葵荘の前は修羅場と化している。青年は迷うことなく走る。
「あっ! あのっ! 何処へ行くんですか!?」
「貴方危険です! 僕について来れば安全! 僕は走ります! この道何度も知ってます! すごい!」
主語が無さ過ぎて言っている意味が全く分からない。振り返った青年は奇妙な顔つきをしていた。顔の部品、作りが全て丸い。片目はあらぬ方向を向いている。
「・・・貴方は、私を、なんていう場所に、連れて行くんですか?」
そう聞いた瞬間、腕を強く強く握りこまれた。爪が食い込んで血が滲むほどにだ。
「うーッ! うーッ!」
「いった!! 痛いっ!!」
「んー!! んー!!」
真っ赤にした顔をぷるぷると左右に揺らしている。一目でわかった。彼は『異常』だ。
「や、やめて!! 痛い!! やめて!!」
「うんーッ! うんーッ!」
「わ、分かった、着いて行くから!!」
荒く息を吐いてどすどすと足を振り下ろし、青年は再び走り始める。私に構う気はないらしく、腕を乱暴に引っ張られて私は何度も躓きかけた。その度に、
「うーッ!!」
と言われるのだからたまったものではない。ああ、こういう手合いは一番嫌いだ。私がまだ優等生だった頃、先生に『世話役』として何度もこういう奴の面倒を見させられた。学校はクソだ。教師は人間の屑の寄せ集めだ。くたばりやがれ。
そうして暫く走り、腕を解放された頃には、私は吐きそうなほどに息が上がり切っていた。目の前にあるのは立派な日本家屋。青年はかなり興奮した様子でぴょんぴょんと跳ねている。感情を発散させなければ感覚が暴走してしまうからだろう。
「ここ、どこ・・・?」
「入って! 早く! ねえ入って! ねえ!」
「ちょっと待って、はぁ。う、動けない・・・」
「んんーッ!! んんーッ!!」
青年は地団太を踏んで私を指差した。
「・・・あんたが乱暴にするから動けないんだってば!! 分ってんの!?」
苛立ちから大声をあげると青年は気味が悪い程に震え始めた。
「どうしてくれるのよ!! この腕も!! 気持ち悪い!! 汚い爪で傷付けて!! 病気になったらどうするの!?」
「ううーッ!!」
「触らないで!!」
私は伸びてきた彼の腕を叩いて振り払った。すると彼は唇の端に泡を吹きながら威嚇するように睨みつけ始める。ああ、気持ち悪い。本当に気持ち悪い。
「ううーッ!」
「・・・最ッ低。馬鹿みたい。死ねば?」
苛立ちで我を忘れそうになったが、玄関戸が乱暴に揺れる音で私は冷静になる。はっとそちらを凝視すると、がらがらと音を立てて玄関戸が開いた。その中から老人と、老人と呼ぶには若い男と女がぞろぞろと出て来る。あっという間に私は取り囲まれた。青年はその中の一人の、精悍な顔つきの男の前に躍り出る。かなり体格の良い男だ。もう少し若ければ『屈強』という言葉を体現したような人物だっただろう。男は青年を一瞥する。本当にちらりと見ただけ。すぐにその視線は強烈に私を射貫き、私は硬直した。
「僕、こいつ連れて来た。御子様からご褒美貰うよ。どこ? 御子様どこに居るん? 御子様は? ねえ?」
「ちょっと待て、御子様は支度の最中や」
「んーッ!」
「煩いわ出来損ないがッ!!」
男が青年を殴る。吹き飛ばされた青年を、近くに居た男と女が寄って集って蹴り始めた。
「あ、や、やめて!!」
思わずそう言った私に、男が詰め寄る。
「『やめて』やと?」
「あ、あの・・・」
ただならぬ空気を感じて、私は黙り込んでしまう。私は別段、蹴られている彼を救いたいだとか、可哀想だとか、そんなことは思っていない。ただ、目の前で繰り広げられる暴力が怖い。大きな音が、悲鳴が、怒号が怖くて制止した。男の目は血走っていない。眼球の形がはっきりとわかるほどに見開かれ、横一文字に閉じた口から何と言われるのかと怖くなり、私は身構えた。しかし男は私の予想を裏切り、酷く優しい声で咳払いをする。
「そうか、お嬢ちゃんは知らんわな。ええか、こいつはな。気に入らんことがあるとすぐ唸りよる。それで思い通りにならんと、相手の顔に唾ァ吐いて、殴るようなヤツじゃ。おまけにどこで覚えたんか、四六時中、千摺りこきよる。あっちこっちに小便引っ掛けて、遊びよる。人が嫌がるの分かってやっとるんや。それだけやあない。女の身体に興味があるからって、母親に手を出そうとするような屑じゃ。こんなやつ死んだ方がええ。な、そう思うやろ?」
「え・・・?」
蹴られている青年は『御子様、御子様』とずっと言っている。私は見たくないものを見てしまった。青年は蹴られながらも勃起していた。
「知らんかったやろ? 儂らも知らんかったで。こいつ、家の中じゃどう仕様も無いあほんだらやが、外じゃ一丁前に『ええ子』でおる。なまじ頭が働くんが余計に腹立つわ。あほんだら共はこいつのこと庇いよる。『可哀想な子』や言うて、奥さんの気持ちも考えんとこいつの味方をする。奥さんも限界や。色狂いの息子に犯されかけて限界なんや。そういうときは儂らの出番や。『御子様からのご命令』をこいつにやらせる。失敗するようなヤツをや。わかるか? 現にあんた、怪我したやろ。『無傷で連れてこい』っちゅう命令を守れんかったやろ。重罪や。処刑や。わかるな?」
「あそこの奥さんも可哀想になあ。こいつ外面がええから奥さんが助けを求めても誰も信じやせん。この町ァ、表立って問題を起こさん『そういう子』には優しくせなアカンからの。ホンマたまったモンやないで」
「あほたれ共が、何かあってからじゃ遅いっちゅうんじゃ。挙句の果てには奥さんを責めよる。こんなヤツ庇いおって」
「奥さんもこいつも『あっち側』の人間の振りをさせてうまいことあんたを掻っ攫ったってわけや。わかるな。この町には『鯉隠し』したくてもできん人間もおる。そういうのは、都合見てわしらが代わりに鯉隠ししたる」
「こんな風にな」
蹴る足を踏む足に変えて、男達は青年を甚振る。
「あ、あ、や、やめ!!」
「『やめて』? 何を言う。お嬢ちゃんもしとったやないか?」
「え・・・?」
「御子様は何でも知っとる。お見通しじゃ。儂らは呪われとる。どういう訳かこいつみたいなんが年に二人は生まれる。お嬢ちゃん、こいつと似たようなんに襲われそうになって、そいつ殺したやろうが?」
「ひっ、ひぃいぃい!!」
私は耳を塞いでその場に蹲った。男は私の髪を掴んで顔を上げさせる。
「聞けやオイ」
「わ、私は、ちが、不可抗力、あれはっ、正当防衛でッ!!」
「おう、知っとる知っとる。儂らは別にお嬢ちゃんを責めようって訳やないんやで。寧ろその逆。お嬢ちゃんに感謝しとるんや」
「え・・・?」
「あのガキも、父親が鯉隠しするかどうか悩んどった。せやから御子様が直々にご忠告しはったんや。それがあのクソッタレ、『手軽に証拠隠滅出来る』と解釈しおって、女ァ犯して殺そうとしてここんところ町を徘徊しとったんじゃ。お嬢ちゃんは運悪くそれに出くわしてもうた。せやから、儂らァ責めはせん。可哀想に思っとるよ。頭ァ悪すぎると、脅しの意味も分からんなんてなあ」
「鯉隠し・・・? ・・・って。鯉隠しって、昔、口減らしの・・・」
「昔やない」
「え?」
「今もやで」
青年の短い悲鳴が連続する。そして全く聞こえなくなった。
「来い。御子様がお呼びじゃ」
私はずるずると屋敷の中に引き摺られていった。屋敷の中にも老人と男と女が大勢いる。もう逃げ場がない。何が何やらわからぬまま、私は観念した。部屋に文字通り投げ入れられて、
「ふぎゃ!」
と情けない声をあげる。ぴしゃりと部屋の扉を閉められ、私はおずおずと顔をあげた。
眼前に居るのは、どきりとするほど色の白い少女であった。『色の白いは七難隠す』というが、その言葉を抜きにしても彼女は美人である。綺麗だ。肌を際立たせる黒い着物に皺は無く、小刻みに、いや秒刻みに首を傾げていることを除けば『普通』の人間とそう変わらないように見えた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは・・・」
「あら? もう『こんばんは』かしら? この時間は、よくわからないわ・・・」
しかし、ひしひしと危険を感じる。彼女自身から漂う白い禍々しさ。
「乱暴な真似をして、ごめんなさいね。みんな、困っていたの。あの男には。身体が大きくて、力が強いからね。あなたが犯されそうになったのは、私のせいなの。許してくれるかしら・・・?」
「あの、わ、私は、」
「話が急すぎた? うふふ。ごめんなさいね。あの女、そう、あの女。裕美子から聞いたかしら。昔、口減らしの為に鯉に人を食べさせていたこと。そしてその鯉を私達が食べていたこと。聞いたかしら」
「き、聞きました・・・」
「うん。じゃあわかるよね。栗野崎の鯉はね、人を食べるの。あなたが首の骨をへし折って殺して、川に突き落としたあの男も、鯉が食べて、綺麗さっぱり無くなっちゃったの」
「う・・・」
「あらあらあら、大丈夫?」
なんてことを言っているんだ。何を言っているんだこの人は。裕美子のあの話は、本当だったのか。吐き気を堪える私に、彼女はおろおろと手を伸ばす。挙動の一つとっても『人間臭い』。
「でもね、誰もあなたを責めないわ。あなたは被害者だもの。そうでしょう? とっても可哀想。あなたは何も悪くないのに」
「・・・え?」
「正当防衛ってものでしょう。あなたはか弱い人。女にとって、犯されることは、死ぬよりも辛いことだわ」
彼女は私の手を遠慮がちに、そうっと握った。とても、冷たい。
「あ・・・」
吐き気が引っ込んでいく。清涼感すら私の胸に沸きあがった。彼女に対する恐怖が腐敗していく。
「あなたは何も悪くないわ」
締め括りの一言は特に強烈だった。
「認める?」
「え、何を、ですか?」
「罪を」
「は、あの・・・」
「あなたが、たとえ不可抗力だったとしても、あの男を殺してしまった罪の意識はあるのか」
「意識」
「難しい言葉ね。解釈は砂の粒ほどあるでしょう。『人を殺したことを悪いと思っているのか』。究極にわかりやすく言えば、こうなるかしら?」
「わ、私は・・・、はい。私は、あの男を殺しました」
「悪いと思ってる?」
私は御子様の目を見た。すぐに伏せてしまったけれど。
「・・・あの男に対しては、いいえ。あの男の、家族や友人に対しては、はい、です」
「詳しく聞かせて」
躊躇いながらも私は言葉を選び、吐いた。
「私は、あの男がどう生きてきたのかを知りません。あの男も私がどう生きてきたのかは知らないと思います。だから、あの男に、例えどんな理由があっても、見ず知らずの女を犯して、殺して良いはずがない。事実、私が彼を殺さなければ、私は彼に殺されていた。それも犯されて。だから、あの男に対しては・・・」
「うん。貴方の言う通りだと私は思うわ」
「でも、家族や友人は。あの男を大切に思っている人も、いるのかもしれない」
「本当にそう思う? 女を犯そうとするような男よ?」
「・・・愛情は目を瞑ること、だと思います」
「成程」
「だから、私、私は・・・!」
「もう十分よ」
御子様は絵画の貴婦人のように微笑んだ。私の罪は許された。この人に許されたのだ。その証拠に、こんなにも優しく御子様は笑っている。
「貴方は十分、苦しんだ」
「あ、ありがとうございます」
私は礼を言う。言ってから『何故礼を言っているんだ』と馬鹿な自分を叱りたくなった。赤面する私を御子様は笑う。
「ああ、そういえば名前を聞いていなかったわ」
「名前、ですか?」
「これからなんとお呼びすればいいかわからないもの。落ち着くまで、少しわたくしとお喋りしませんか?」
「えっと」
「ね、聞かせて?」
「・・・誠、井上誠です」
私が名を告げると、御子様は魂が抜けたように呆けた。
「あ、あの、どうしたんですか?」
嘘でしょ。
帰って来た。
私のまことが帰って来た!!
生まれ変わって帰って来たんだわ!!
ああ、嬉しい!!
まことは男の子だったのね!!
だから栗野崎の鯉に産まれなかったのだわ!!
まさか『外』に居たなんて!!
ああ、立派になって!!
髪の色が私にそっくり!!
なんて素敵なの!!
とても幸せだわ!!
そうだ!! そうだ!!
お母さんに知らせなくちゃ!!
若い女達にも知らせなくちゃ!!
やはり輪廻はあるのだわ!!
私は罪を償っている!!
来世はきっと幸せだわ!!
ああ!! ああ!!
今日が人生最高の日だわ!!
「ひ、ひい!!」
私はずるずると畳の上を這って後ずさった。御子様は突然けたたましく笑いだしたかと思うと、人の言語とは思えぬ呪詛のような声を喉で奏でている。歯を剥き出しにし、細い手足を奇妙に捩じらせて。ばさばさと振り回される長い黒髪がまるで命を得たように宙を蠢き、獣の爪のように空間を引き裂いて揺れた。怖い。私が今まで見たどんなものよりも怖い。ゆらり、御子様は立ち上がる。両の脚をぴったり揃えて膝から上はぐわんぐわんと乱回転している。まるで『死の象徴』だ。枯れ木の化け物のように笑いながら揺れている。両目がぐるぐると非対称に動いている。ああ、そんなに無理に動かしたら折れるだろうに。細い身体のどこにそんな体力があるのだろう。彼女は『けきゃけきゃ』と形容しがたい笑い声と呪詛を途切れず繰り返し、尋常ではない速度で身体を動かしている。
「あっ!」
そして力いっぱいに部屋の引き戸を開け、盛大に足音を立てながら屋敷の外に走り出していった。
「御子様!?」
「ど、どこへ!!」
彼女の崇拝者がその後を追いかける。私は這って(腰が抜けてしまった)廊下から顔を出し、御子様の後姿と呆ける信者達をただただ見ていた。よく手入れされた床板はつるつると光っている。手の平に触れる感覚は心地良い。掃除が行き届いているのだ。ああ、何を呑気なことを考えているのだろう。私は。
みしり、と控えめに軋む音。私の後頭部から長い長い影が差し、
「何してるんだ?」
低い男の声が降りかかった。私は男を見上げる。蜥蜴のような顔をした男がつまらないものを見る目で私を見て、鼻で笑った。それと同時にばたばたと慌ただしい様子で何人かの男達が屋敷に入ってくる。そのまま私に目もくれず、彼らは話し始めた。
「板倉さん、すまん。取り逃した」
「駅に居る人たちはそのまま待機。それと、葵荘にもう数人送ろう。他は山狩りだ。人海戦術といきましょう」
「し、しかし板倉さん。山は無理だ。俺達ァ、膝や腰をやっちまってるもんばっかだ。女衆も夜は寝たきりの親をみてやらねえと」
「あいつらを『外』に出せばどうなるか」
「うっ・・・」
男達は言い淀み、下がる。
「あのねえ、いいですか、川から死体があがらなくても、寝たきりの老人達の身体からどっさり証拠が出るんだ。そうなりゃ何もかもお終いだ。あんたらそうなったら、『外』で生きていく伝手や自信はあるのか? うん?」
「そりゃない、板倉さん。山に登ったら爺婆共は死んじまうぞ」
「好きにすればよろしい」
「・・・クソ!」
「そこの女は」
「俺の仕事です。取り分はそちらに」
「・・・そうですか、頼みます。おい!」
「仕方がねえ、山狩りだ」
男達は再び慌ただしく出掛けていく。
「そういう訳だから、ちょっと来てもらおうか」
「えっ、あ!」
男は作り笑いを浮かべて私の手にガムテープを巻き付けた。目の奥が笑っていない。背骨が凍るような恐怖を感じる。私は抵抗する手段を失った。
「ああー、山登りなんて小学生以来かもぉ」
「はあ、はあ、クソッ、今になって疲れが・・・」
「二人ともよく喋るじゃないか、元気で結構」
板倉はけらけら笑いながら慣れた様子で山の夜道を進む。獣道を道標にしているわけでもないというのに足取りは淀みなく、通いなれた道を行くような気軽さがあった。やはり山には生きているものの気配がしない。不気味だ、不気味なほどに静かである。腐葉土を踏みしめる足音と、互いの呼吸音が聞こえるほどに。
「そっちの君が、裕美子さんが話してた、『弟』の優君?」
「そうだけど」
「へえー、綺麗な顔してる。そこいらの女より綺麗だ。成程成程。裕美子さんが惚れこむのも分かる気がするね」
「惚れ込む?」
板倉に優のことは『弟』としか話していない。彼の『事情』は広く知られるべきではない。『血の繋がった弟』ということにしている。だから板倉のその言葉が引っかかった。
「いや、俺はてっきり、『許されない仲』なのかと」
とんでもないことを言い出す板倉に私は顔を最大限に歪め、大きな声が出そうになるのをなんとか堪えた。
「勘違いを。私と優は男女の仲じゃない。そういう『薄汚れた』のじゃないよ」
「愛情とは常に見返りあっての物だよ。彼の容姿ならその見返りに十分足りてるんじゃないかとね」
「それがあんたの主義? 良い考えだね」
「だろ? それにそもそも、兄弟や姉妹ってのは競争相手だぜ」
「私はそうじゃない」
「どうだかね。自分は賢いと思ってる奴ほど馬鹿だし、自分は馬鹿だと思ってる奴ほど賢いものさ。君のその愛情に性的な欲求が無いと言える? どうだ?」
「おい、僕本人の前でなんて話をしてるんだ」
「近親相姦がどうのって話なの? だったら『無い』と言えるね。私はあんたとは違う」
「うん?」
「言うことを聞かないからって、懐かないからって私は猫を殺したりしない。『それ』は『そういう生き物』だ。性質を捻じ曲げてまで飼い慣らしたいなんて気持ち悪いね」
「へえ、随分はっきり・・・」
「下衆な勘ぐりは感心しないよ」
「不老不死に憧れたりはしないのか?」
突拍子も無く、というわけではないだろう板倉の問い。私はそこに彼の焦燥を感じた。何故焦っているのかは皆目見当もつかないが。
「はあ?」
「永遠に老いぬ身体、決して死なぬ身体」
「馬鹿馬鹿しい。何を言ってるんだか。成長や老化を嫌いだしたら人間お終いだよ」
「成長を嫌う、か。じゃあ、俺はもうお終いかな?」
「話の筋がいまいち見えないね」
「好きな人はずっと幼く純朴なままのほうがいいだろ?『すれた』大人より、何も知らない子の方が可愛いだろ」
「幼く?」
その部分を復唱すると、板倉は舌打ちをした。
「さっきから何を喋っているのか、意味が分からないよ。それにさっきのは『ロリータ・コンプレックス』みたいだ」
「性的に倒錯することはいけないことかい?」
板倉は否定しないどころか、肯定ともとれる問いかけを投げてきた。話に付き合うのが面倒くさくなってくる。
「お互いに納得してるならいいんじゃない?」
「・・・幼女や少女に性の事情を説明するのかよ」
優がぼそりと呟いて、それもそうだと私は頷く。
「ああ、言う通りだわ。小児性愛者は悪だね」
「全くだ」
優を見て、板倉はよくわからない顔をした。笑っているのか、憐れんでいるのか。暗くて見えない。
「悪、悪か。劣情を向けられる幼子達は被害者か」
板倉は私に何かを言わせようとしている。問いかけているようで、実は違う。自分の考えが肯定されるか否定されるかを調べているのだ。何の言葉を、言質を、私から引き出そうとしているのだろう。
「君はどう思う」
望む答えを返さない限りこの問いは続くだろう。しかし、私は板倉を満足させるために板倉に賛同するつもりはない。性犯罪者の葛藤に同情、つまり『肯定』する人間だと思われては困る。誰に困るってそりゃ優にだ。私一人のときなら適当に相槌を打って、それっぽいことを言って終わらせる。面倒は嫌いだ。疲労で喋るのも億劫だが、私は板倉に付き合うことにした。
「どうとは」
「俺はね、愛情と性欲は別物だと思っていたわけだよ。性欲は生理欲求だ。単純なものだから言及のしようがない。愛情は違う。環境、教育、遺伝的なもの。例えばの話だが、歳の離れたいとこの面倒を見るうちに、彼女に対して性的な興奮を覚えるようになったとする。それはいとこを『一人の女』として認識しているから起こっている事象なわけで、これは愛情の延長にあるのさ。そして、気付く。成人女性には魅力を感じない自分に。世間に憚る愛だが、純愛だ。異常と自覚しながらも、その子のことが好きなんだから。君ならそう思うだろ?」
「ええ? そうは思わないけど?」
「ん?」
「あんたが言う、子供にしか性的興奮や恋愛感情が向かないってのは『性癖』の話でしょ?」
「性癖だと?」
「あんたの話、潜在的な性癖が対象の児童と触れ合うことで露呈、つまり当の本人に認識できるようになったって話じゃないの」
板倉は沈黙する。
「そもそもおかしいでしょ。『世間に憚る愛』って。本人はそれで悶えて狂うほど葛藤しようと、『性行為したい』と思われてる子供やその親からすればとんでもない危険人物、いや犯罪者予備軍にしか見えない。無知を利用して性欲をぶつける、事実はそうじゃない?」
「君は『正常』なんだな」
「そうでもない」
「・・・ま、いいや。そのいとこが成長するにつれて、段々我儘を言うようになる。『外』の世界に興味を持ち始める。言うことを聞いてくれなくなる。愛情が、彼女に対する『興味』が薄れていく。これって、小児性愛者だからかな」
「小児性愛者だからでしょ。第一『我儘を言う』とか、『言うことを聞いてくれない』とかってのがおかしい。自我が芽生えて、意思表示をするようになった子供に一体何を期待しているんだか。気持ち悪いったらないね」
板倉は目と眉毛をぴくぴくさせながら私を見た。不毛だ、この会話は不毛でしかない。疲れて頭が回らなくなってきた。呼吸が荒いのが分かる。
「小児性愛者は、君が見るに完全な異端者なんだな」
「被害者の気持ちを推し量れないのかあんたは。何の罪もない子供が気違いの玩具にされるんだぞ」
「裕美子、口が悪くなってるぞ」
優に咎められて私は口を噤む。今のは言うべきでなかった。優自身がそういった子供なのに、彼の前で過去を回想させるような発言をしてしまった。ああ、駄目だ、落ち着け。深呼吸をして、酸素を、血液に行き届かせないと。
「君にはがっかりだよ」
板倉は言った。
「え?」
「君なら俺を理解してくれると思ったんだが」
「はあ? それどういう気持ちで言ってんの?」
振り返り、立ち止まり、笑う。板倉は何を考えているんだ。
「どうも俺は『女性』という存在が苦手でね・・・。母親が居ないから、経験値が不足しているんだろう。しかしなんだろうな。自分でもよくわからないんだ」
「何を言っているんだ、あんたは」
「裕美子さん、君に抱く両価感情は。優君、君に感じる嫉妬の意味も」
優は前髪を掻き上げ、頬の汗を拭った。
「あんたが、僕に?」
「何故かな」
「・・・いや、聞かれても困る」
「そうだね、俺は」
次第に性急になってきた板倉に違和感と不信感が強まり、歩き始めた板倉と距離を取るために私も優も歩幅を落とした。
「自己分析するのが嫌いだ。裕美子さんに感じているのは同族嫌悪と劣等感かな。君に感じているのは恐らく羨望だ」
「何が言いたいんだ」
「『裕美子』って良い名前だよな。なあそう思ってるだろ? 『裕福で美しい子って書きます』って人に説明するのか?」
ゆらり、何かが屈折している。板倉の背中から空間が歪む靄があがったように見えた。それは真夏の逃げ水のようにも見えた。目の錯覚だ。脳が危険を知らせるために見せた警告だと私は判断した。板倉は前屈みになって立ち止まっている。
「俺が君みたいに見目麗しかったら、俺があんたみたいに高潔であったら。俺のこの葛藤ですら、害悪なんだろう!?」
語気鋭く板倉は叫ぶ。
「出てこいッ!!」
山は不思議で不気味なほどに生き物の気配がしなかった。人間を恐れて逃げていたのであろう。猟や山菜取りで慣れているのか、常軌を逸した執念から人間性すら抑え殺しているのか。私達は幾つもの懐中電灯で照らされる。自身の手元からの光源で薄っすらと光る栗野崎の住人達の、老人達の顔は、面を貼り付けたように皆、同じ顔をしていた。違うのは髪と皺と服だけだ。不気味を通り越して怖い。この人数で、音も無く私達を追走し、或いは待ちかまえ、暗がりの中で月の光だけを頼りにしていたというのか。見られている。監視されている。鑑賞されている。私は何故か、水槽の中に居る鯨になった気がした。形を変える丸い光がゆっくりと動いている。まるで身体を撫でまわされているようだ。目を潰されないようにと咄嗟に手で遮ったが、真横から光で射貫かれた目は容易く眩んだ。何も見えない。畜生、何も見えない!
「ゆ、裕美子さんッ!」
老人達に引き摺られながら登った山は、妙なにおいがした。そう感じるだけで、私の鼻が麻痺しているのかもしれない。ずっとあの鈍痛を促す川水のにおいを嗅いでいたから、鼻がおかしくなってしまったのだろう。きっとそうだ。あの川水のにおいは、嗅いだことのあるにおいだ。中学生の頃、登下校の最中に、よく。
大きな家の、大きな庭の、大きな栗の木のにおい。あまり良いにおいではなかったと記憶している。強い風が吹き、においを顔に浴びて咽たこともあった。卒業式の少し前にその栗の木は切り倒されていて、もうあの匂いを嗅がなくていいんだと安堵した。安堵してから、もう卒業するんだから栗の木の匂いを嗅ぐことも無いんだと気付いて一人で笑っていたっけ。ああ、当時は環境が変わるのが怖くて、高校が嫌で。『何か出会いがあるかも』と少しだけ期待していた。
私はこれからどうなるのだろう。死ぬのか。殺されるのか。死体が見つからないのは困る。鞄の中に遺書がある。それを捨てられると困る。一番卑屈なやり方でもって、復讐めいた結果を齎してくれなくては。身動きは取れない。両手を乱暴にガムテープで縛られ、猿轡を噛んでいる。お願い、せめて遺書だけは。
「出てこいッ!!」
男の鋭い声が聞こえて、暗闇の中で私は身を竦ませる。老人の一人が私の頬に鋏の刃を差し込み、じりじりと嫌な音をたてながら猿轡を切った。自由になった口で頼みごとをしようと息を吸ったのも束の間、私の目が強烈な痛みを覚えた。全てが真っ白になった。ちかちかと点滅し、視界が効くようになると、老人達が懐中電灯で一か所を照らしていることに気付く。射線上に入っていたために光を直視してしまったのだ。
「ゆ、裕美子さんッ!」
そこに居たのは、裕美子と佐伯優だ。私に声を掛けられ、裕美子も私の名を呼ぶ。
「ま、誠ちゃん!」
「ど、どうして、なんで?」
私は背後から持ち上げられ、文字通り放り投げられた。受け身が取れなくて一瞬身体が冷える。地面に摩りおろされるように着地し、私は痛みに呻いた。
「ぎゃっ!!」
「ちょ、ちょっと、板倉さん、これはどういう、」
板倉、そう呼ばれた男は無機質な瞳で私を見下ろした。鯉達と同じ目だ。私はこわばり、震える。父と母と同じ目だ。
「どうせみーんな死ぬんだから、面白おかしく死んでもらわなきゃ勿体ないだろ」
「な・・・」
裕美子が動こうとすると、じり、と誰かが地面を踏みしめた。
「栗野崎に入って、鯉を食った。ここまでは良い。けどお前らは『御子様』を知ってしまった。そのときからお前らを始末することは決まってたんだよ」
「お生憎様だけど、私と優は食べてないよ」
「ふうん、威勢が良いね。どうやったら『もう殺してください』って言う?」
板倉はしゃがみこみ、私の顔を覗き込む。
「みんな鬱憤が溜まってるんだ。そうだな、どうしようかな。屎尿を食ってもらうのもいいし、サンドバッグでもいい。ハハ。なんならそこの優君も含めて、男に犯されてみる?」
「お、お前・・・」
佐伯優が声を震わせた。私は沈黙する。
「裕美子さんが喋ったんじゃないよ。君の馬鹿な母親がぺらぺらぺらぺら、聞いてもいないのに喋ってくれたのさ」
心底楽しそうに板倉は笑った。
「殺し合いってのも面白いよな。生き残りたい一心で互いを罵倒しながら泣いたり言い訳したりするのって良いよなあ。見世物として頑張ってもらおうか。生きたままの鶏や蛇を食ったりとか。今ここで蚯蚓を食べてもらおうかなあ」
私は肺いっぱいに空気を吸い込み、震える唇を開こうと努力する。歯がかちかちと音を立ててぶつかるだけだった。
「最ッ低」
「唸るなよ裕美子。可愛いぞ」
「私があんたを理解するわけないだろこの異常者!」
裕美子の威勢の良さも、この状況では虚しいだけだ。
「で、どうするんだい?」
板倉の問いかけに、私は・・・、
私は、沈黙した。
お母さん。
「なあに?」
幸せだわ、私。
「ええ、私も」
うふふ。お母さんにとっては、孫ですものね。
「どんな子かしら。早く会いたいわ」
残念だけれど、あまり私には似ていないわ。
「あら、それはそれで良いじゃない」
そうね、それもそうね。
「楓の子だもの。きっととても素直で優しい子だわ」
うん。
「さあ、足元に気を付けて。お母さんが導いてあげる」
私の愛しい子。
もう二度と貴女を離したりはしない。
もう二度と貴女を苦しめたりはしない。
もう二度と同じ過ちを犯したりはしない。
私の胸に抱いて、お乳を吸わせてあげたい。
ほら、こんなに濡れてる。
あの子と、私と、お母さんと、若い女達。
それだけでいい。
それ以外は要らない。
ずっと一緒に居ましょう。
私だけが貴女を生かせる。
貴女だけが私を生かせる。
私だけが貴女を満たせる。
貴女だけが私を満たせる。
あの子を想えば夜道だってなんてことないわ。
それに、お母さんも居るんですもの。
もう百人力ね!
ああ、若い女達も私達の帰りを待っているわ。
「おい、あれを見ろ!」
老人の一人が叫び、懐中電灯の光を裕美子達から逸らした。
「何をしてるんだ! 照らし続けろ!」
板倉の命令も聞かず、つられるように光が逃げていく。私達は真っ暗な闇に包まれ、虫の声さえ聞こえない夜の山に浮かび上がったのは、御子様だった。黒い着物、疎い私にはそれしかわからない。とても人とは思えぬ速度で山を駆け上がりながら、満面の笑顔で、息一つ切らさず。その胸にはずっしりと重そうな鯉が抱かれていた。水からあがって長いのか痙攣すらしていない。黒と銅の混じった鱗が、僅かに濡れた身体が懐中電灯の光でてらてらと光り、はっきりと浮き上がった。
「まことちゃん!!」
御子様は何故か私の名前を呼ぶ。取り囲んでいた老人達はぽかんとしている。
「どいて! どきなさい!」
御子様に命令され、老人達が飛ぶようにその身を躱した。小さな悲鳴すら聞こえる。ただの少女に大人達が怯えている。御子様は私の前で立ち止まると、この場においては異物でしかない満面の笑みを般若のような形相に変えた。
「なんで縛ってるのおおおおおッ!!」
びくり、と老人達が身を竦ませる。
「なんで縛ってるのって言ってるでしょおッ!?」
「すすす、すいません!!」
転ぶように一人の老人が私に近寄り、手首のガムテープを剥がし始めた。その手は重度のアルコール中毒患者のようにぶるぶると震えている。彼も怖いのだ、御子様が。引っ張るようにテープを剥がされて少し痛みを感じたが、私は御子様の顔が怖くてそれどころではなかった。
「か、楓ちゃ、」
「お黙りッ!!」
板倉が彼女に何かを言いかけたが、耳が『きいん』というほど甲高く鋭い声で御子様に言われ、板倉もなにがなにやらといった顔で二歩後ろに下がった。手が自由になる。御子様はさっきお屋敷で見た『作られた』微笑みではなく、慈愛に満ちた、暖かさすら感じる眼差しで私の目を見た。
「あ、あの・・・」
「まことちゃん、ごめんね。怖い思いをさせたわね」
「あ、いえ・・・」
「あのね、あちらの方達は、貴女のお友達?」
御子様の視線を追うと、吃驚して腰が抜けた裕美子と、それを支えている佐伯優が居た。二人とも困惑している。私は裕美子の顔を見て、細かく頷いた。
「そ、そうです。友達です」
「まあ! まあ! まあ!」
御子様は鯉を片腕で抱えて裕美子に握手を求める。五キロは軽く超えていそうな鯉だ。若しかしたら十キロあるかもしれない鯉を、その細腕にだ。
「嬉しいわ! 今度遊びにいらしてね!」
「あ、は、はあ」
引き攣った笑みを浮かべて裕美子は御子様の手を握る。がくんがくんと裕美子の身体が揺れるほど、御子様は握りしめた裕美子の手を振った。とても嬉しそうに。
「あなたもお友達なのね!?」
「えっ!?」
佐伯優も握手を強要された。
「ど、どうも。佐伯優です」
「うふふ! これからも仲良くしてやってくださいね!」
もやしのように細い彼は大股を開いて踏ん張り、御子様の謎の握手に耐えきった。
「お母さん、見た? まことちゃんには素敵な友達が居るわ!」
お母さん、と呼ばれた鯉はぐったりと動かない。ただ、思い出したように時折呼吸している。
「か、楓ちゃん!!」
板倉は御子様の両肩を掴んで佐伯優から引き剥がす。途端に御子様は不快感を露わにして、卑しい者を見るような瞳で板倉を睨みつけた。
「どうしたんだい? しっかりするんだ!」
「何を言っているの?」
「こいつらは鯉隠しを知って、それを『外』に持ち出そうとしているんだよ!」
「あら、あら、もうお帰りなの。何かお土産を持たせてあげないと」
「はあ!? 何を言っているんだ!?」
「貴方こそ何を言っているの? 二人ともまことちゃんのご友人よ。遊びに来て、もう帰るって言っているのだから。ああ、でも今日はもう遅いわ。もうこんな時間だわ。市川さん、佐伯さん、よかったら家に泊っていかない?」
「えっ」
「えっ」
全く同じ調子の声で二人は戸惑う。
「大丈夫。浴槽もご不浄も毎日掃除しているから綺麗よ。帰ったら湯を浴びて、汗を流すといいわ。その間に夜食を作るから、それを食べたら寝ましょう。使ってない布団が、ああ安心して。私の予備のなの。ああ、そうだわ!! 朝は家でゆっくりして、昼前にお土産を選べばいいんじゃないかしら!! 正午丁度に電車が来るから、それで帰ったらどう??」
「そ、そうします。なっ、裕美子?」
「ええっ!? あぅ、あ、あ、はい!!」
「決まりね決まりね!! さあ、まことちゃん。お家に帰りましょう。お母さんと一緒に帰りましょうね!! 大丈夫よ、こんなにたくさんの人が居るんですもの。迷ったりしないですぐに着くわ。ほら、おいで!!」
「ふえ?」
「誠ちゃん! 今日は家に泊めてよ! 皆でカードゲームやろう! お母さんも一緒に!」
「いいわねえ!」
「ね! 誠ちゃん!」
引き攣った笑いを元に戻せない裕美子に言われて、
「あ、あ、はい! そうします!」
私は提案にのった。何故か御子様は私を我が子と間違えている。老人達や板倉は彼女には逆らえない様子だ。この町の神様なんだから当たり前か。
いや、当たり前なのか?
「そ、そうじゃそうじゃ、儂の家から酒をお持ちしましょう」
「あっああっ、あたしは家で漬けてる胡瓜と大根をお持ちしますわ!」
「まあ、ありがとう」
御子様が礼を言うと、老人達は安堵と喜びと怯えの表情を二転三転させた。老人が少女に媚びているその状況は違和感しかない。
「儂の家に古い碁盤がありますゆえ、どうですかな? そこの、え、えー」
「す、すいません。囲碁は知らなくて」
話しかけられた佐伯優が困惑している。
「なら将棋はどうですかな!」
「あたしの息子がくれたチェスがありますよ!」
「洒落てるわ、今時の若い子はそっちのほうが」
「庭で育てているプチトマトがありますので!」
「若い子は卵焼きよりオムレツかしら」
「ああ、なら家の芋を油で揚げましょうか」
「卵と酢を合わせればマヨネーズが出来ますわ」
「ならトマトと合わせてポテトサラダにでも」
「そうじゃの! 若い子にはそっちの方が」
「総出でおもてなしせんと、ねっ、ねっ!」
老人達が地面に這いつくばり、殆ど四つん這いになって私達にじわじわと近づいて来る。頭を下げすぎだ。御子様との距離を測りかねているようで、愛想の良い笑みを浮かべているが細い目からは怯えがはっきりと読み取れた。声も若干震えているし、無理して楽しそうな声を出している。私は彼女の恐怖の本質を味わっていない。ほんの少しだけ、ほんの僅かに『御子様』の恐ろしさを『見ただけ』だ。私よりも若くて細い少女が、たった一人の少女が、恐怖によって町を掌握し、神として畏怖されている。
異常だ。異常すぎて何が正しいのか分からない。
いや、おかしいのは、私のほうなのか?
若く美しい御子様は痺れるような恐怖を身に纏っている。
これが正常なのか?
『ここ』の、正常、なのか・・・?
「楓ちゃんッ!!」
老人達の声が、板倉のどすの効いた声に掻き消された。威圧感たっぷりに御子様(楓という名前らしい)を見て、板倉は再び彼女の肩を強く掴み、握りしめる。
「正気に戻るんだ、彼女は君の子供なんかじゃない! どう見たって君の方が年下だろうが! 落ち着くんだ、名前が一緒だからって、彼女は君の、」
「・・・やめて」
御子様は、板倉と目を合わしたくないのか顔を逸らした。
「気持ちはわかる。けれど、現実を見失うんじゃない」
「気持ちはわかる、ですって?」
御子様は僅かに空を見上げた。彼女の長い長い黒髪が、柳のように揺れる。
「・・・そうね、彼女は私の子供じゃないわ」
「あ、ああ。そうだ」
板倉は『ほう』と深く溜息を吐き、微笑む。御子様はふらふらとした足取りで私に近付き、未だ立ち上がれずにいる私の前にしゃがみ込んだ。
「ちょっと持ってて」
「は、はい」
鯉を差し出され、受け取る。私の腕は重力に従って地面すれすれに落下した。五キロなんてものじゃなかった。確実に十キロは超えている。あんまりにも軽々と御子様が抱えているのと、緊張で油断して、私は腕に力を込めなかったのだ。なんとか鯉を地面に落とさずに済んだ。抱えてから思ったが、気持ち悪い。濡れている。どうやらまだ生きているようだ。目が動いている。私の目を見ている。下瞼を僅かに持ち上げ、まるで微笑むように。御子様は再びふらふらとした足取りで板倉に近付いた。
「賢ちゃん、両腕を広げて」
「え?」
「ほら、私を抱きしめて」
御子様が見本として両の腕を広げる。無邪気な笑顔で、父親に抱っこをせがむ幼子のように。板倉はそれに倣い微笑みながら腕をゆっくりと動かして、御子様を囲おうと、抱きしめようとした。その時だった。
「げっ!?」
「え!?」
呻き声は板倉が、短く叫んだのは裕美子だった。目にもとまらぬ速さで板倉と御子様は倒れる。御子様を抱きしめようとした腕は、自身の首を絞める御子様の腕を反射的に掴んでいた。
「気持ちはわかるですってえ・・・!?」
地の底から響くような恐ろしい声、とはこういうことか。一瞬漏らしてしまったかと思ったが、鯉の身体から滴る川水が私の腿に垂れていただけだった。身長が二メートルありそうな長身の男が、私よりも小柄な、細すぎる少女に成す術も無く縊り殺されようとしている。本気で抵抗しているのか、足を盛大にばたつかせていた。御子様は微動だにしない。暴れ馬に乗ったように身体が、髪が揺れても、強く握るだけで折れそうな細い腕は鉄骨でも入れたかのように真っすぐに伸び、板倉の首を逃がすまいと締めあげていた。裕美子は二人を止めようとするが、激しく暴れる板倉とそれを凌駕する恐ろしい御子様相手に手が震えている。佐伯優は悪夢にうなされて歯ぎしりをするような表情で二人を見ている。老人達も板倉を助けようとはしなかった。私は鯉を抱きしめ、ひゅっと息を吸い込んだ。
「何が、何がわかるのよ!! 親に犯されたことがある!? 血の小便が止まらなくなるまで痛めつけられたことは!? 飢えて野草と川水を口に入れたことは!? 子供を産んだことも無いあんたなんかにッ!! 子供を殺すしかなかったことも無いあんたなんかにッ!! 女達の声も聞こえないくせにッ!! 私を馬鹿にしてッ!! あんたが私を助けなければよかったのにッ!! この小児性愛者の衒学者ッ!! 馬鹿にしないでッ!! 口煩いだけの醜男があッ!! いちいち煩いのよッ!!」
老人達がざわつく。その中の一人が、
「み、御子様、いや楓ちゃんは、やっぱり・・・」
と呟いた。どういう意味かは分からない。
「や、やめろ!!」
意を決した裕美子が御子様の肩を引っ張ると、御子様はあっさりと板倉の首から手を離した。そしてけろりとした様子で上品に微笑み、恥じらうように眉を寄せる。裕美子が少しふらついた。
「あら、あら、あら。ごめんなさいね。娘のお友達にこんなところを見られたなんて、恥ずかしいわ・・・」
「あ、貴方、楓さん、っていうの?」
「ええ。そうよ」
攻撃性は鳴りを潜め、世間話を楽しむ主婦のような余裕すら御子様は見せている。
「あんた、大丈夫か?」
「げほっ、げほっ」
佐伯優が板倉に手を伸ばしたが、板倉はその手を振り払うように叩いて拒絶した。拷問の末に殺されそうになっていた男が、その犯人を気遣う。御子様という闖入者のおかげで訳のわからない状況になっている。裕美子は二人の様子を見て眉を顰め、御子様に向き直る。御子様はにこにこ微笑んでいる。
「楓、さん。私達は鯉隠しなんて信じてない。オカルト話が好きで、ちょっと好奇心で、その、」
「あら! 私、そういうのには疎いの。でも面白そうだわ。市川さん、今度、本を勧めてくれないかしら?」
「はい。ええと、あの、私達、明日の昼には帰ります。迎えを呼びますから、電話を貸していただけますか?」
「どうぞどうぞ。実家に帰るのかしら?」
「そうです」
「なら、ご両親によろしく伝えておいてくださいね。お土産は、そうね、食べ物はあまり良くないわ。鯉を模した小物があるから、それなんてどうかしら?」
「え、ええ。ありがとうございます。誠ちゃんも連れて帰るんですけど、いいですか?」
「え? どうして?」
急に首を振り出した御子様に、私は息を呑む。
「で、出稼ぎしてるじゃないですか、彼女。こっちに戻ってくるったって、急に会社を辞めるわけには、ね、ねえ?」
しかし裕美子のその言葉で振りはぴたっと止まった。
「あらあらそうなの、まことちゃんはお勤めしているのね。偉いわ、立派だわ。ならまことちゃんも一度帰らないと。向こうの荷物をこっちに持ってこないといけないものね」
「は、はい・・・」
私を見た御子様がゆっくりと目を閉じる。そして鋼鉄で出来ているのだろう細く白い腕で、私の腕から鯉を抱き上げた。
「・・・あ、うふふ」
短く呟き、乾きつつある鯉に頬を寄せる。磁器の肌が濡れることも気にせず、愛おしそうに。
「お母さん、死んじゃった」
とても嬉しそうに、うっとりとそう呟いて。まるで桃源郷にいるような、水蜜桃を齧ったような、甘く蕩けた顔で。
綺麗だ。そう思った。愛しい我が子に、愛しくて仕方がない我が子に、乳飲み子に頬を寄せる慈愛に満ちた母の表情。娘である人の表情なのに、それ以外の何物でもなかった。しん、と辺りが静まり返る。私の視界に映る裕美子が開口して驚いた。老人達がだらしなく呆けてゆっくりと膝から崩れ落ち、御子様に向かって手を合わせていたのだ。
ああ、成程。神様と言われる所以はこれだったのか。
鯉の言葉が分かる事実が彼女を現人神たらしめているのではない。純粋に彼女は美しいのだ。人を捻じ曲げる力を持つほどに。
白い肌。
黒い髪。
濡れた瞳。
魔性。
つまりそういうことなんだろう。
「おかあさん・・・」
私は誘われるように呟いた。御子様が私を見る。ぬるま湯につかったように全身の緊張が解れ、冷たい水を飲んだように喉と胸が透き通り、仄暗く柔らかな布で包まれたような気がした。
抱かれてみたい。あの人の胸に。
眠ってみたい。あの人と一緒に。
「ふ、ふざけるなあああッ!!」
現実から乖離しかけていた私を恐怖と共に正気に戻したのは板倉の怒号である。
「おっ、俺が君の為にいったいどこまで!! 何をやってきたのか忘れたって言うのか!?」
ずんずんと足音を立てて御子様の背後に立ち、怒り心頭といった様子で身体を震わせている。
「何? 恩着せがましい」
しかし御子様はそれを唾棄した。
「お・・・、恩着せがましいだとッ!? 俺が、君のためにどれだけの時間と労力を割いてきたと思っているんだッ!? 君が少しでも幸せになるのならと思って!! 楓!! そうやってやってきた俺の人生を踏みにじるのかッ!?」
「それが恩着せがましいって言うんでしょ?」
「・・・っ!」
御子様が板倉を見る目は、自分の苦手な生き物を見る目だった。私なら蜥蜴だ。蜥蜴を見るときにあんな目になる。
「はっ、あんた私のことが好きなの?」
「・・・ああ、そうだ! 首を絞められた今だって君以外ない程にな!」
「気持ち悪い」
「な、なんだと・・・!」
「あんたが私を好いた分、私はあんたを好かなきゃいけないの?」
「・・・そ、れは」
何故か裕美子がばつの悪そうな顔をした。
「自分の理想に私を重ねて、思い通りにいかないと怒鳴る。その後はどうするの? 殴る? 力で捻じ伏せる? 言うことを聞かない、懐かないからって、あんたが一方的に私に劣情を抱いていただけで、どうしてあんたが被害者面するの? 押し付けられた私が加害者になるの? 愛情には常に代償を支払わなければいけないの? どうしてそんなに薄汚れているの? 馬鹿みたい・・・」
御子様は、唯一彼女を『楓ちゃん』と呼ぶ存在の、その彼の人格の否定をしたのだ。板倉は右の下瞼をぴくぴく痙攣させながら後ずさり、憎悪ともとれる表情を浮かべて御子様を見ている。剥き出しにした歯が言葉を作ることはない。限界が近いのか、ぐったりした裕美子を佐伯優が支えている。老人達もどうしてよいのか分からない様子で、若干の好奇を孕んだ視線で板倉を見ていた。これではただの野次馬だ。痴話喧嘩には到底見えない。しつこい男を公衆の面前で追い払う女、にしか見えない。彼と彼女の関係性はわからないが、言葉のやり取りを聞く限りはどうも『そう』で間違いなかった。
「・・・馬鹿、俺が?」
「はあ、私が今、あんた以外と会話をしているように見える?」
御子様は鯉を地面に捨てた。先程までの慈しむ態度はなく、『死ねばそれで終わり』という価値観がはっきりと分かった。
「私は」
御子様が一言一言はっきりと、少し薄い、薔薇の花弁のような唇を動かす。
「貴方が」
ゆっくり、ゆっくり。板倉は刹那、酷く怯えた様子を見せると、御子様を睨みつけながら耳を塞いだ。
「嫌い」
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