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最終章 夢現
気持ち悪い。
僕は寄りかかる裕美子の身体を支えながら、ある一つの核心に辿り着いた。
「楓さん、貴方は、」
御子様、楓という名の少女はやおら振り返る。板倉はだらりと腕を垂れて、呆然と虚空を見つめていた。
「鯉隠しから、帰ってきた・・・?」
「ええ、そうよ」
「・・・ああ」
決してこの先の推測を口に出してはいけない。きっと帰れなくなる。人物の隠滅が『鯉隠し』であるなら、彼女は何らかの理由で誰かに隠されていたのである。何らかの理由。先程、板倉という男の首を絞めていたときに、彼女が唸るようにして問うていた内容。肉親からの虐待、近親相姦による妊娠。そして恐らく、我が子をその手で殺めた。自分を犯した父親を彼女が生かしておくはずもない。
なんてことだ。裕美子は僕の母親が鯉に食い殺されたのを目撃し、好奇心から鯉隠しについて調べ、彼女の決して知られたくない『秘密』に近付いてしまったのだ。母の情報の対価に裕美子を差し出せと言った理由はこれだ。僕も殺すつもりだったので平然と嘘をついていたのだろう。今にして思えば、あの老人の九相図や水死体の話は警告だったのだ。僕はそれを無視して長居してしまった。そして、楓と呼ばれる少女の半生を垣間見てしまった。
可哀想だ。僕が女だったら、僕が彼女だったのかもしれない。
「・・・殺せ」
ぽつり、板倉が呟く。
「何を呆けているんだ、皆殺しにしろ」
「し、しかし板倉さん、」
「よく見ろ、あれは神様なんかじゃない。ただの女だ。ただの女がそんなに怖いか?」
虚空を見つめたまま、酷く冷静な声で板倉が言う。老人達は御子様と板倉を見比べるしかしない。苛立ったように板倉が声色を強め、脅しを孕ませた。
「分かるだろう。こいつらに『外』に出られたら終わりだ。人の口に戸は立てられない。こいつらがここを出たら警察がわんさと押し寄せて来るんだぞ」
「み、御子様は、儂らは御子様には逆らえん・・・」
「御子様も殺せばいいだろ」
「え?」
老人達はたじろぐ。
「見ろ、十八の女だ。ガキだ。そんなに怖いか。俺より楓が、そんなに怖いのか、どうなんだ」
楓はただ目を細めて周囲を見渡すだけで、逃げようとする素振りすら見せない。切羽詰まった老人達がじりじりと土を踏んで進む。まるで狂暴な獣を駆除するかのように警戒して。何をしているんだ。相手は十八の少女だぞ。正気の沙汰ではない。僕が、僕が何とかしなければ。
「そ、そうだ。御子様さえ・・・」
「御子様さえ居なくなれば、あたしらの秘密は・・・」
「あんた達、馬鹿? 脅す人間が彼に変わるだけよ!」
付き合ってられない、と言わんばかりに盛大に溜息を吐いて楓は板倉を指差す。ぴんと伸びたしなやか指に恐れはない。
「納得出来ないね」
板倉は暗い目をして、低く低く声を滑らせた。
「心が駄目なら身体だけでも手に入れる」
「あんたなんてことを!」
裕美子の責める声を聞き流し、
「楓は生かして捕らえろ、他は殺せ。そうすれば俺は何も喋らないと血判を押す」
後ろ向きに歩きながら、板倉は楓から離れていった。代わりに老人達が少しずつ速度を上げて楓に近付く。不退転をその身で表すかのように楓はその場に立ち、自分を見上げる井上誠の髪を優しく撫でた。
「ゆ、優! どうしよう!」
裕美子は連れて逃げる。これは決定事項だ。他の二人はどうする。ああクソ、腕は二本しかない。もう片方の腕でどちらを掴んで逃げればいい。井上誠はとろくさそうだし、楓だって丈夫なようにはとても見えない。いやさっきとんでもない脚力と馬鹿力を見せてくれたが、そういう問題ではない!
時間が無い。早く、早く決断しろ!
「だ、駄目・・・」
僕が一歩踏み出そうとしたとき、井上誠が立ち上がった。ふん、と板倉が鼻で笑う。『お前に何が出来る』と言外に滲ませていた。飛びかかるのか、甲高い声で非難するか、はたまた『私だけは助けてください』と命乞いをするか。皆が彼女の動向を見守る。しかし僕の予想は全て裏切られた。井上誠は、何故か楓を守るように抱きしめたのだ。老人達も板倉も、僕自身もうっと息を呑む。
「まことちゃん・・・?」
彼女の長い髪を指で梳き、後頭部を守るように手を添え、頬と頬を寄せる。
「・・・駄目。駄目、お母さん」
お母さん。
その瞬間、楓の両目が見開いて宝石のように輝き、頬が染まるのが、何故かゆっくりと、僕の目に焼き付いた。
「私・・・」
彼女が抱いている感情はなんだ。同情、慕情、母性。僕には理解出来ない。僕という人知の域を超えている。彼女は僕の事情を知らない。僕も彼女の事情を知らない。説明がつかない。何がしたい、何をしているんだ。
「私が外に連れ出してあげる。お母さん、外に行こう? 外は素敵なことでいっぱいだよ。大丈夫、私が全部教えてあげる。ずっと一緒にいてあげる・・・」
板倉は醜いと形容できるほどに顔を歪め、視線だけで井上誠を殺してしまいそうなほどに彼女を睨みつけた。彼女は何故、何故あんなことを言っている。何に感化された、どういうわけなんだ。まさか『本当に』、『まこと』の生まれ変わり、なのか?
有り得ない。有り得るはずもない。しかし彼女の声色は、表情は、母親と一緒に遊びに行きたいとねだる無垢な子供の顔だった。
「春はお花見に行って、夏は海に行こう。秋になったら果物狩りがいいよ。冬は雪遊びをしよう。私が服を選んであげる。美味しいものをいっぱい食べて、映画も見よう。私が働くからお母さんは家で待っててね。仕事が終わったら、お母さんが迎えに来てくれて、二人で買い物をして、お喋りしながら晩御飯を作って。そうやって、私たち二人だけで、『外』で暮らそうよ・・・」
「うん」
異様な光景であったが、僕は彼女達から目が離せなかった。
血の繋がらない親子。
年上の娘と年下の母。
それも、恐らく、初めて会ったばかりの二人。
「全部捨てる」
楓も誠の身体に腕を回してきつく抱きしめ返す。
「まことちゃん・・・。誠ちゃんの為に、私、全部捨てる」
「私も、お母さんの為に全部捨てる」
「二人で初めからやり直しましょう」
「うん」
二人はゆっくりと身体の力を抜き、まるで最初から『そういう作品』であったかのような完成度でもって、芸術品のように衆人の中で抱きしめ合った。
「あ、あ・・・」
老人達がぱくぱくと口を開閉させる。僕は彼女達にグスタフ・クリムトの絵画『抱擁』を連想した。
「何をしてるんだ! 早くしろ!」
「うわああん!! せめてヨエコ先生のコンサートを見てから死にたかったよぅ!!」
板倉と裕美子の声が幻想をぶち壊し、僕は裕美子をほったらかしにすると誠と楓の腕を掴んで走り出した。
「ちょ、ちょっと優!?」
「お前さては元気だな!?」
何とも馬鹿馬鹿しい逡巡をしたが二人を連れて逃げるのは最適解だったらしく、
「何をしてるんだ! 追え!」
「居たぞォーッ! 御子様と板倉だーッ!」
駆けだして数歩もしないうちに、山から登ってきた十数人の中年達が僕達を発見した。
「三人は無事か!?」
「無事だ!! 早く匿えッ!!」
敵ではないらしく、数人を残して彼らは老人達の群れに突っ込んでいき、すぐに乱闘する声が聞こえてきた。僕に追いついた裕美子が中年の男に対して高い声をあげる。
「お、おじさん誰ぇ!?」
「もう人殺しに我慢ならねえ連中だよ。いや、俺らも人殺しになっちまったが」
「え!?」
「町に居る御子様崇拝者は全員『鯉隠し』したさ。馬鹿は死んでも治らないからな。それより、なんであんたらが御子様を連れてる?」
男はさらりととんでもないことを言ってのけたが、裕美子は酷く安心した様子で崩れそうになる膝を叩いて己を鼓舞していた。
「あ、あのっ! この人は、あの人達に利用されててっ! 全然悪くないんです! 本当です! 本当なんですっ!」
誠が両手を振り、慌てて楓を庇うが男は訝しむことを隠しもせず『御子様』を目で撫でた。
「い、いやしかし、御子様は・・・」
楓は困ったように笑う。冷静に事情を説明出来るのは僕だけらしい。『嘘も方便』だ。僕は事実を誇張する。
「本当なんだ。板倉って奴が楓さんを犯そうと狙ってる。あいつは今日まで、楓さんを御子様に仕立て上げることで暴利を貪り続けていたんだ。楓さんは逆らえなかったんだ」
「そ、れは・・・。それを知ってるってことは、御子様はやはり、板倉の野郎に騙されとったんか?」
板倉め、日頃の行いが相当悪いな。男は僕の言うことを信じかけている。
「私、もう御子様じゃないみたいよ?」
楓が歯痛を堪えるような顔で言った。
「楓さんは外部の人間、つまり僕達に助けを求めたんです。それを知った板倉が、楓さんが自分に逆らう気が起こらないように楓さんを犯して脅そうとしているんです」
「ええーっ? よう事情が掴めんが言うてることはホンマっぽいし。よくわからんが、取り合えず山を降りるんや。俺が案内したる。こっちや!」
山の傾斜を速足で降り始めた男に僕達は着いて行く。ああ、しかし、言ってから気付いた。いや正確には男の反応を見て気付いた、か。
『本当なんだ、板倉って奴が楓さんを犯そうと狙ってる。あいつは今日まで、楓さんを御子様に仕立て上げることで暴利を貪り続けていたんだ。楓さんは逆らえなかったんだ』
『そ、れは・・・。それを知ってるってことは、御子様はやはり、板倉の野郎に騙されとったんか?』
板倉は楓に対して従順に振る舞っている。その裏で何か、楓を騙すようなことをしているのだ。楓が板倉のことをどこまで把握しているのかはわからない。ただ、男と僕のやり取りで気づいた様子はない。若しかしたら気づかないほうがいいのかもしれないが。
背後では争う声と板倉の怒号が絶えず聞こえる。
「おじさん、まさか、まさかとは思うけど」
裕美子が男の横に並んで歩き、そう聞いた。
「なんや」
「栗野崎で、葵荘の前であったみたいなこと・・・」
「してきたで」
裕美子は絶句した。御子様崇拝者とそうでない者達で殺し合いがあったのだ。
「あんたら、俺を、俺達を責めてもええ。いや責めてくれや。実は俺達ァ全く『外』に出んって訳やないのよ。だから爺婆共、俺らの親が何の病気なんか本当は知っとる」
「病気?」
何のことかと聞き返す。男は何故か少し笑った。
「爺婆共の『アレ』な、『プリオン病』いうんやろ? 牛やったら『狂牛病』いうて、羊やったら『スクレイピー』とかいう、悪い蛋白質の病気や」
今度は僕が絶句する番だった。
「人を食った鯉を食う。そんで病気になって死ぬ。治療法もない。どない仕様もない。俺らァこんなところで子供を育てたくなくて、『外』に子供を逃がして栗野崎から鯉隠しを無くすつもりやったんや。自分勝手な理由で鯉隠しして、罰が当たった親の面倒見て。この町に残った俺達でひっそり暮らしていくつもりやった。けどな、もうあかん。限界や。あの爺婆共を見たやろ? 人を殺すことを何とも思っとらん。それが我が子でもや。『御子様』はそんな連中の抑止力になる。だから俺達ァ、御子様に手出しできんかった。あんた、私利私欲の為に爺婆共を使ったことなんて、今までに一度もないやろ?」
そう言われた楓は少しきつい声で答えた。
「当たり前でしょう!?」
「俺達もそれは十分にわかっとった。あんたのやり口は『二度と鯉隠しをする人間が現れんようにしよう』っていうやり口や。だから黙っとった。けンど、板倉はそうはいかん。『御子様のため』を大義名分にしとる」
「え? どういうこと!?」
楓は今度は声を荒げた。ああ、恐らく僕の予想通りに、板倉は楓を裏切っていたのだ。
「知らんで当然や。あんたを篭絡するために、板倉は『御堂楓』を知る人間を他の人間に『鯉隠し』させた」
「う、嘘でしょう・・・?」
男は頭を横に振る。
「嘘やない。あんたどうも『人の見分け』がつかんなっとる。昔、あんたに特に親切にした連中は皆『鯉隠し』されとる」
「な、ど、どうして・・・」
「自分に縋るしかなくなるようにでしょ。貴方を庇ったり匿う人間は邪魔だったんだ」
怒りで声を僅かに振るわせて裕美子が言った。裕美子は痴情の縺れというやつが何よりも嫌いなのだ。男は裕美子の言葉を肯定して、更に楓の心を抉る。
「その通りや。板倉はあんたにべったり張り付いとった。あんたから聞いた『弱味』を武器に人を脅しやがったんや」
「・・・御子様、いや楓さん。『人の見分けがつかない』っていうのは?」
僕は楓を見る。楓の目は濁っていない。綺麗に見開かれている。『目』に問題があるようには見えなかった。
「・・・わからないの。目や鼻の形はわかるんだけれど、全体像はどうしてもぼやけて見えない。世界が揺れてる」
「若しかすると、相貌失認か」
人の顔や表情を認識できない、区別できない脳の病気だ。井上誠を『まこと』と間違えた原因はこれかもしれない。怒りか、自己嫌悪か、己を呪っているのか。楓は痛苦にもがき、吐くような素振りをする。
「嘘じゃ、嘘じゃないのね。そんな男を『賢ちゃん』と呼んでいたなんて・・・!」
「・・・念のために聞いておくけど、楓さん、貴方は板倉になんて命令しました?」
「『鯉隠しを持ちだそうとする人間が居るから捕まえて全員川に突き落としなさい』と言ったわ」
「・・・拷問しろとは言ってない?」
「なっ!? どうしてそんなことを!?」
「僕達は楓さんが来なければ板倉に拷問される予定でした」
「そんな、そんな!! なんてこと!! 間違っても私は『痛めつけろ』なんて言ってないわ!! 本当よ!! 私はそんなこと!! お願い、信じて!!」
妙に冷めた様子の裕美子が楓を見る。その目には僅かな哀れみがあった。
「この状況で言うべきじゃないのは分かってるけど、板倉曰く『鬱憤が溜まっているから』私達を過激な『見世物』にするために幾つかの提案したよ」
「なんて、なんて言ったの!?」
「あー、それは、聞かないほうが・・・」
「聞かないほうが良いようなことを言ったのね」
楓は歯を食いしばった。
「あんたの弱点や。鯉の居らんところの話はなんも分からん」
「ああ、なんてこと・・・」
板倉が楓にとってどういう存在なのか知ることはできない。しかし、板倉は楓に対して邪な考えがあり、その為に、つまり私利私欲の為に楓が嫌う鯉隠しを実行していたのだ。とてつもない衝撃であろう。楓の身体からふにゃふにゃと力が抜けていき、僕は慌てて彼女の身体を引っ張って起こした。
「おい、しっかりしろ! あんたは目が覚めたんだ! 誠さんと一緒にここを出るんだろ! しっかりするんだ!」
「お母さん、ほら歩いて。私が居るから」
苦しみ喘ぎながら、呼吸を荒げながらも楓は歩く。
「井上・・・いや、誠さん、貴方は、」
何故、楓を母と呼ぶのか。それを聞こうとして、やめた。
「彼女と必ずここを出るんだ。だからあんたもしっかりしろ」
「・・・はい」
井上誠はしっかりと頷いた。
「ねー、なんか燃えてない?」
「あ?」
間の抜けた裕美子の声に苛立って振り返る。燃えていた。本当に燃えていた。『なんか』ではない。
「お、おいっ!! 山火事になるぞ!!」
そう遠くないところで火の手が上がっている。恐らく先程まで僕達が居た場所だ。老人、中年関係なくこけつまろびつ逃げ出し、何人かは火が燃え移って暴れ転がり、余計に火の範囲を広げていた。
「なっ!! 冗談じゃねえ!! この風向きじゃ、栗野崎まで燃えちまうぞ!?」
そうだ、栗野崎はすり鉢状の地形、そして山の斜面に家を建てている。町が全焼するのが容易に想像できた。
「まずいまずいまずい!! 裕美子!! 楓さんッ!! 誠さんッ!! 走るんだッ!!」
焼死なんて絶対に嫌だ。僕は彼女達の背中を押す。
「ゆ、優ッ! 板倉が来る!」
「なっ」
切羽詰まった裕美子の声に僕は瞬時に振り返る。確かに、居た。長身の男がこちらに向かって走ってきている!
「御子様!! お嬢ちゃんッ!! 町まで行けッ!! 俺らの仲間が麓で待機しとるッ!! 匿ってもらえッ!!」
「裕美子、お前も行け!!」
「えっ、ちょっと!!」
「裕美子さんッ!!」
「ま、待って優が・・・」
誠は楓と裕美子の腕を掴むと迅速に行動した。三人が走り出して間もなく、全力疾走してきた板倉の顔が明瞭に見えてくる。距離が近付いている。僕と男は顔を見合わせて頷いた。
「兄ちゃん、持っとれ」
放り投げられたのは二つ。一つは取り逃して足元に落下した。
「防犯ブザーと防犯スプレーや」
「洒落たもの持ってますね」
板倉は走る速度を落とす。立ち止まるつもりだ。僕はゆっくりと足元のブザーを拾い上げ、身を起こしたと同時に、僕達の目の前で板倉は立ち止った。
「女を逃がしてヒーロー気取りか、え?」
衣服には血が付着している。それと焦げた臭いが強烈にした。
「ええ加減にせえよ、板倉さん。旅行客はあんたの玩具やない」
「うん? 俺がいつ旅行客を玩具にしたって?」
「とぼけるなや! 年に一人来るかどうかの客や! この狭い町で俺達が知らんはずがないやろ! あんたは『外』に出んから知らんねん。ここに来ると『行方不明』になるってんで、『外』の警察から目をつけられてるんやで、『あんた』と『ここ』は!」
「おいおい冗談じゃないぞ・・・」
こいつとんだ凶悪犯じゃないか。
「どけよ、死にたくないだろ? 今の俺は機嫌が悪いんだ。な、どけよ」
「随分と余裕がないな」
板倉は歯を剥いて威嚇した。怖いという気持ちは沸かない。僕は奮い立っている。
「そっちは余裕綽々だな。二対一だからか? ん? 老いぼれと痩せっぽっち二人で何をする気なんだよ」
「そうだな、楓さんと誠さんは親子水入らずで暮らしてもらおうと思う」
「ふざけるなよ・・・!」
飛びかかってこようとした板倉に、
「小児性愛者め!」
と言ってやった。板倉は立ち止まる。本人はいくら否定しようと、間違いない、この『板倉』という男は小児性愛者だ。僕はにやりと笑って板倉を挑発する。
「なんだと・・・?」
「女に振られたからってみっともないぞ。第一、『あんたみたいな不細工』と彼女じゃ釣り合いがとれないってもんだろ」
「テメェ!!」
「見苦しいぞこの強姦魔! 幼女強姦魔の板倉! 自分に自信が無いから年下の女が好きなのか? 上手く言い包められなかったら力で捻じ伏せるのか!」
「殺してやるッ!!」
板倉は僕に殴りかかった。身構えるが体格の差で成す術も無く僕は吹っ飛ぶ。右頬と背中に強烈な痛み。視界が急激に変化し、はっきりと目が効く頃には、板倉が僕が馬乗りになって加虐心を満たすように笑みを浮かべ、僕の顔を殴りつけた。
「こんのクソ野郎がァ!!」
男が板倉を殴りつけ、その衝撃で板倉は体勢を崩して横に倒れる。身体が自由になった僕は垂れた鼻血を手の甲で拭い、怯んだ板倉の目に防犯スプレーを噴射した。
「ぐああああああッ!!」
横に倒れた板倉の腹に男が蹴りを入れる。
「ぎゃあッ!?」
しかし三度と蹴らぬうちに男は悲鳴を上げて飛びあがり、バネ仕掛けの玩具のようにその場に落ちて転がった。板倉の手元が鈍く光って月の光を反射している。立ち上がった板倉の手にはナイフが握られていた。刃渡りは小さい。致命傷を負わせるには不十分だ。
「はぁ、さあどこから切られたいんだ優君。高い鼻か? 綺麗な唇か? 目か? それとも歯茎から歯を抉りだしてやろうか?」
己が脅威であると誇示するように板倉が言う。
「ははっ」
「何を笑ってやがる!」
「笑うだろ、欲求不満だからってそんな風にしか鬱憤を晴らせないのか?」
「お、お前・・・」
ぶるぶると板倉の全身が震える。頬の痛みなんてどうでもいいほどに僕は満足していた。
「しっかり狙えよ。それとも僕とお喋りするか? その間に三人はどんどん逃げていく。もう町に着いてるだろうな。ほら、僕に手間暇かけろよ」
「・・・っ!」
「『山火事だ』って電話で裕美子が助けを呼ぶ。この立地だ、人命救助にヘリが飛ぶ。明日を待たなくたってあの三人は帰れるって寸法だ」
「火をつけたのはまずかったな、板倉さんよお・・・」
男も足を庇いながら板倉に啖呵をきる。
「どうせあの三人は助かるんだ。僕を殺したらどうだ? それであんたは、とりあえず前科一犯」
「いんや、俺で二犯や」
「彼女達にトラウマを植え付けることができるぞ。あんた、そういうの好きだろ? 楓さんの心をマイナスで支配出来るんだ、それでマスでも掻けよ」
「この畜生共がぁッ!!」
板倉は僕らを捨てて走り出した。僕はすかさず防犯ブザーを鳴らす。
「っ!! テメエ!!」
一瞬立ち止まって板倉は振り返ったが、すぐに町目掛けて走り去って行った。それを確認してから僕はブザーを止める。
「はぁ、裕美子のやつ、救助信号だと勘違いして戻ってくるなよ・・・」
恐らくそれはないと思うが、そう願わずにいられなかった。骨折り損のくたびれ儲けは勘弁願いたい。
「あだだだだ、兄ちゃんのせいで死にかけたぞ」
男の脚はやはり深くは切られていない。引き摺ってはいるものの、一人で歩ける様子だ。
「どうするんです、これから・・・」
「・・・俺達のことはええよ。傍観も犯罪の片棒担いどるようなもんや」
「まさか、本当に御子様崇拝者を」
「嘘ついてどないするんじゃ。もうこの町は止まらん。山に火ィまでつけたんや。板倉も追い詰められとる。良くも悪くもあんたらのお陰で因習が無くなるかもしれん。俺の息子も、もうこんな町に里帰りせんで済むかもしれん」
「・・・死にかけた」
「見かけによらずやるやんけ、兄ちゃん。俺ンことはほっといて、はよ下に行き」
男は木に寄りかかり、そのままずるずる滑り落ちて座り込む。僕は身体に力を呼び戻すために強く息を吸った。
「じゃあな、兄ちゃん」
辺りの空気が熱くなってきている。僕は男の肩を抱え、痛む頬に呻きながら歩き出した。ひょっとこみたいに男は間抜けな顔をする。
「逃げましょう、火が来る」
「置いてったらええのに」
「傍観はうんたらかんたら」
「面白い子やなあ・・・」
「・・・あっ」
「どうしたの、お母さん?」
「何か、聞こえたような」
「鯉の声?」
「ううん。なんだか別のもの。聞いたことのない音だった」
「あああー・・・優、ううう・・・」
山を無事に降りきり、私達は町民に保護された。何故お母さんが、『御子様』がいるのかと訝しまれたが、『楓さんは今まで板倉に利用されていた』と裕美子が言うと、なんとあっさりとその言葉は信用された。町民達は板倉に対して不満と不信を募らせていたらしい。お母さんは自分の知らないところで、やはり板倉という男は良くない働きをしていたのだと再び知り、眉間に皺を寄せた。今は商店街の近く、目の前に小川が流れる家に身を潜めている。電気は点けていない。薄暗い台所で時々外の様子を見ながら蛇口から滴る水音を聞いている。恐ろしいことに、町中が血だらけだ。大量に人を殺した悪人を殺した人は、悪人と呼ぶのだろうか。きっと、呼ぶ。そう分かっていながら、なんとなく認めたくなかった。
「裕美子さん、しっかりしてください」
「んううー・・・」
裕美子はずっとこの調子だ。余程佐伯優が好きとみえる。お母さんも板倉の病弊を知ったからか落胆しているようで、毛虫を踏みつぶしたときの顔を何度もしていた。例えば、自分が清く正しいと信じていた人がとても愚かだったら。考えると少し嫌な気持ちになった。滑稽以外の何物でもない。
「・・・本当に助けが来るのかしら」
水滴の弾ける音よりも小さく、お母さんは呟く。不安なのだろう。私はそんなお母さんを励ました。
「来るよ、『すぐ行きます』って言ってたじゃない」
「私、本当に誠ちゃんと『外』に出られる?」
「大丈夫! 出られるよ! 暫く休んだら、いっぱい遊びに行こう!」
「ああー、いいっすねえ呑気でぇ・・・」
目に涙を溜めながら、裕美子が少し嫌味っぽく言った。
「ヘリで消火するってあんた・・・。人命救助するったってあんた・・・」
「でも、どうして『殺されそうなんです!』っていう話もすぐに信じてくれたんでしょうか・・・?」
警察には山火事だけではなく、板倉という男に三人とも殺されそうだという話も伝えている。電話から漏れ聞こえる音声に馬鹿にした感じはなく、真摯にその事態を受け取っているように聞こえた。
「そーんなの、しーらなーいわー・・・。二十分で着くって言ってたけど、そろそろかな?」
この部屋に時計はない。
「うーん」
私の体内時計なんて全く当てにならない。せめて時間の経過が分かれば不安と緊張が和らぐかもしれない。『時計を探しましょう』と提案するために私は口を開いたが、音が言葉になる前にお母さんが裕美子のシャツを引っ張った。
「・・・ねえ、栗野崎に来る『外』の人、今まで一度も『帰った』ことがないの」
「え?」
「あの男が、全部『鯉隠し』したって・・・」
「おいおいおいおいおい、冗談でしょ!?」
「しーっ! 裕美子さん、静かに!」
裕美子が四つん這いでお母さんに近付く。正座の姿勢を保ったまま、お母さんは首を横に振った。
「鯉を持ちかえろうとしたり、鯉隠しの話を知ったとかって言って」
「成程、成程。それで『外』の警察は板倉のことに気付いているのかも。にしても、そのうちの何人があいつの性欲の捌け口になったんだろうね」
「ちょっと裕美子さん!」
「いいのよ。彼女の言う通り。彼を善人と信じ込もうとしていた私が悪いの」
「・・・実は、『御子様』の情報提供者が板倉なんだけど、貴方は箝口令は敷いてないの?」
「・・・敷いてるわよ」
「成程ねえ。貴方への心証を良くするために態々獲物を拵えて、自作自演してたって訳かあ」
お母さんは何も言えないようで、強く唇を噛みしめた。裕美子はそんなお母さんを特に気にしていないようで、自分の足首を撫でながらまるで他人事のように呟いた。
「二ヵ月前、私が優の母親を探すためにここに来たときに板倉から話しかけてきたのは、情報収集のためで、私が『弟』を連れて戻って来る、つまり獲物の数が増えると分かったから、私を『外』に出したんだろうね」
「どうして・・・優しい人だと思ったのに・・・」
「そりゃ『ある側面から見れば誰だってそう』だろうよ」
「えっ? ・・・うふふ」
「何を笑ってんだか・・・」
「いいえ、その通りだと思って」
二人ともそれきり黙り込んで、裕美子は身体を横たえた。お母さんも壁に凭れて目を閉じる。寄り添うように座り、私はお母さんの手を握った。白魚のように細い指がぎゅうと私の指に絡まる。じんわりと疲れが身体から滲みだし、私は眠りそうになった。鬼気迫った状況なのに、我ながらなんて呑気なのだろう。
「誠ちゃん、傍に居てね。この時間は、怖いの。私が私でなくなる」
「うん」
「貴女が居てくれるなら、私、きっと大丈夫」
「うん」
優しくて、少し怯えた声が可愛い。私達は生まれる順番を間違えただけだ。お母さん。私のお母さん。二人で頬を寄せて、暫くお互いの呼吸を聞きあった。
若い女達の声が聞こえる。
「楓、良かったわね」
「外で幸せになるのよ」
「達者でね」
私の門出を祝っている。
少し、寂しそうだ。
私も少し、寂しい。
「変な音が聞こえるわ」
「蠅の羽音をすごく大きくしたみたいな」
「空に何かあるわ、きっとお迎えね」
私の耳にも聞こえる。
女達の声よりもはっきりと聞こえる。
女達の声が段々と薄れていく。
もうお別れね。
若い女達は沈黙している。
私の耳は聞こえている。
何故、沈黙している。
伝わる。怯えている。何に、何に。
「楓!!」
「今すぐ!!」
「逃げてッ!!」
何もかもが現実味を失っている。優が居ないからだ。私だけ助かってどうする。優の居ない世界。死んだも同然じゃないか・・・。
考えるだけでも恐ろしく切なくて退屈だ。絶望で息を止めてしまいたくなる衝動を何とか抑え込む。疲れから眠りそうになる意識を目蓋を開くことで覚醒させた。ヘリコプターの羽音が聞こえる。警察に電話した。山火事の件はすぐに対応してくれた。しかし何故『板倉という男に殺されそうになっている』のを警察はあっさりと信用したのか。板倉に前科でもあるのか。楓や町民の話から考察するに、板倉は町民達から不信感を抱かれていた。旅行者を手慰みの道具として弄んでいたとすれば、鯉隠し否定派は板倉の暴走を止めたかったはず。それができなかったのは、楓の傍に板倉が居たからか。
町中血だらけだった。あちこちで殺し合いがあったんだろう。鯉隠し肯定派は殆どが老人と、中年世代は僅か。否定派はまだ体力も腕力も残っている年齢の人間が多い。多勢に無勢だが量より質、か。死体は一つも見なかったが(見たくない)恐らくは水の中へ。さっきから鯉が跳ねる水音が煩いくらい聞こえる。鯉は満腹で喜んでいるだろう。明日の食事が少なくなると嘆いているかもしれない。町での殺し合いに加わらなかった肯定派、山で板倉が引き連れていた老人達は山火事から逃げきれたとは思えない。恐らく駆け付けた否定派の数人を始末するために敵味方構わず放火したのだろう。或いは、私達の逃げ道を塞ぐために山に火を放ったのかもしれない。
滅茶苦茶だ!
私は叫びたくなるのを堪えた。しかしこれで栗野崎の禍根は全て断たれる。御子様である楓はそもそも人殺しを推奨するどころか激しく憎悪している。やり方を間違ったとはいえ、被害が増えないように尽力したことに間違いはない。否定派の町民も自衛隊によってヘリで救助される。町民の証言と、私達の証言。水を、鯉を調べれば全てが明るみになるだろう。楓がどうなるかは想像できないが、板倉は重犯罪者だ。そうなれば楓は井上誠と安心して暮らす未来もあるかもしれない。良いことなのか悪いことなのか、それは私には分からないけれど。早くこいこい、自衛隊。
「きゃああああッ!!」
悲鳴で私は飛び起きた。どちらの声か判断はつかない。井上誠が勝手口のドアに飛びついた、ドアが怖いほどがたがたと軋んでいる。
「開けろッ!!」
板倉の声だ!
すると、外の町民達は、
優は。
「か、楓さんッ!!」
「い、嫌・・・。もう犯されるのは嫌ァ・・・!!」
「ッ畜生があ!! やめろ!! 入ってくるな!!」
私も体当たりするように勝手口のドアを押さえた。絶対に中に入られてはいけない。もうすぐ救助が来るんだ!
「楓ちゃん!! 中の二人に開けるように言ってくれ!! 俺は怒ってないよ!! 今なら許してあげるからさあ!!」
「ひ、ひぃいぃ!! ひぃいいぃい!!」
楓はなるべくドアから距離を取り、自分の頭を西瓜のように抱えて縮こまっている。彼女がこれだけ怖がっているのを見て、板倉は心が痛まないのか!?
あれだけ純愛がどうのとか言っていたくせに!!
「ざっけんなロリコンがぁ!!」
「やめて!! お母さんをこれ以上苦しめないで!!」
「黙れッ!! テメェらが余計なことを吹き込むから!!」
「た、助けて・・・!!」
楓がずりずりと這い、勝手口に近付く。ドアの上部は小さな覗き窓があり、板倉がそこから中を覗いていることに私は気づいた。四角く異常を放っていた板倉の目が、少し柔らかくなる。
「楓ちゃん・・・。ほら、出ておいで、怒ってないから・・・」
「助けて、誠ちゃん!」
楓は板倉に命乞いをしたのではなく、自身を守ってと井上誠に願ったのだ。楓が井上誠の身体に縋りつき、井上誠が一瞬油断した。
「あっ馬鹿ッ!!」
「ひっ・・・!」
「悪い子だね」
板倉は目を月のように歪ませて笑っている。井上誠の頬に平手打ちをし、彼女が怯んだ隙に楓の腕を掴んで乱暴に引っ張った。私は後先考えず飛びかかったが、男の腕で振り払われ尻餅をつく。
「よせ板倉ッ!! あんたのやってることはその子の父親と何ら変わらないんだぞッ!!」
「ふざけるな!! 俺には愛がある!!」
「やめろつってんだろうがロリコン!! 嫌がってるだろ!! クソ野郎!! 死ね!!」
「何とでも言え!!」
「彼女に見返りを求めるなッ!!」
楓を取り返そうと何度も板倉に纏わりつくが、揉みあううちに腹に肘を喰らい、私は倒れて動けなくなる。立ち上がりたくても身体が言うことを聞かない。
「地面にへばりついてろ、馬鹿が」
ああ、優に言われる馬鹿は心地良いのに。こいつに言われる馬鹿は不愉快極まりない。
「は、はは・・・。なんて回りくどいことをしてきたんだろう」
「ひ、ひい!! ひいい!!」
「最初っからこうすればよかったんだ!!」
楓はかつて味わった恐怖の再体験をしている。過呼吸になりながら身体を硬直させ、不自然に痙攣していた。板倉は彼女の胸元、着物の襟を乱暴に引っ張り、闇夜に楓の真っ白な肌を浮かび上がらせた。舌なめずりをしている。これのどこに愛があるというのか。
「ははははは!!」
板倉は満足げに笑う。
「ぐっ、畜生、やめろ下衆が!!」
「なんだ? 裕美子、若しかして楓に嫉妬してるのか? お前から犯してやったっていいんだぞ。ははははは!」
シャツのボタンを外し、ベルトを緩めて板倉は笑い続ける。
「そこで見ていろ」
「んっ、のお!!」
『そこっ!! 何をしているんだ!!』
突如上空から降り注いだ機械音に、私は砂漠でオアシスを見つけた旅人の気持ちになった。
ヘリコプター。自衛隊の、救助隊員達。
楓の窮地を救える。板倉の犯行が目撃されている!
『そこの男!! 今すぐその女性から離れなさいッ!!』
「ッ!! なんでヘリが・・・!!」
「山に火ィつけたでしょうがバーカッ!! 殺人に放火、強姦までいきゃあんた死刑かもね!!」
「フン」
しかし板倉は上空の自衛隊のヘリを気にもせず楓を肌蹴させようと無理に着物を引っ張っている。
「オイッ!! やめろ!!」
「馬鹿共が」
楓はどんどんと白い肌を露出させていく。板倉は一度彼女の太腿を撫でると、酷く興奮した様子で笑い声が裏返った。
「ああ、そんな・・・!」
言わないと、何か言わないと!
板倉は止まらない。
だったら楓さんに行動させないと!
「楓さんッ!! 私の声を聞いて!! しっかりして!! 貴方、誠ちゃんと外に出るんでしょう!? そんな男に負けないで!! お願いだから・・・!!」
楓は動くことができない。『動け』と言うほうが酷だ。板倉が下穿きをずらした。やめろ、やめろ見たくない。私は無力だ。自分のことが嫌いで嫌いで堪らなくなった。
現実から逃避しようと目蓋を閉じかけた、須臾の時。
視界が急激に明瞭になり、目に痛いほど色彩が鮮やかになる。私の両目蓋は可視できない力で限界まで見開かれ、全ての物質が三分の一の速度で動き、私は井上誠の姿を捉えた。
両手でしっかりと握ったキッチン鋏。
彼女は走りながらしゃがむ。燕が滑空するように。自らの脇腹のあたりで構えていた鋏を、突撃するとともに腕を伸ばし、刃を押し出すように板倉の脇腹に突き刺した。彼女の髪が重力と空気抵抗に従ってふわりと舞い、落ちる。明瞭であるのに、色彩が酷く滲んで、そして透けていた。
どん。
混ざった水音は形容の仕様がない。今度二度と聞きたくもない。
「っ!」
井上誠が何事か呻いた。当の本人が刺されたわけでもないのに、腹に鋏を突き立てられたような苦悶の表情で井上誠は呻いた。何を言っているのか、全く聴き取れない。そもそも彼女は何も言っていないのかもしれなかった。一度だけではない。二度、三度。滅多刺しだ。今はもう楓の悲鳴も遠く、残響している。全ての音が響いて、私の脳細胞は今どうなっているのか。
脱衣しかけていた板倉の身体が揺れる。血飛沫が誠と楓の身体に降り注ぐ。私の鼻腔は、何の匂いも嗅ぎとっていない。いや、正確には何もかもがぼやけて香った。血、川の水、炎。自分のにおいもどれも強烈で分からない。
渾身の力で立ち上がった板倉が彼女を払おうと手を振るが、誠は板倉の顔に目掛けて血塗れの鋏を投げつけ、それに怯んだ板倉の身体を両の腕で突き飛ばした。大きな水音が一つ。鯉達が喜び暴れ踊る。その音がまるで嬌声のように聞こえた。誠は憮然と立ち、板倉を『見下した』。楓は胸元を手で押さえながら上体を起こして川に落ちた板倉を見る。呆けていた表情は板倉と目が合うと強烈に歪み、拒絶を露わにした。
嫌い。
気持ち悪い。
汚らわしい。
死んでほしい。
鬱陶しい。
煩い。
死ね。
楓は視線を逸らした。板倉が酷く沈痛な面持ちのまま、鯉に覆い尽くされていく。何か言っている。何を、聞き取りたくもなかった。私は板倉を完全に軽蔑した。ドップラー効果のように板倉の絶叫が聞こえる。水飛沫が上がる。せせらぎが聞こえない。酷く臭い。なんのにおいだろう。嗅いだことのないにおいだ。酷い苦痛を齎すにおいだ。
「うふふ」
楓の声でも、誠の声でもなかった。私のものでもない。『きぃん』と一瞬耳が強烈に痛み、煩すぎるヘリコプターの羽音と、自衛隊員の良く通る声で私は、私は、今までどこに居たんだ。彼岸か。ならば、此岸に帰ってきた。
「君、しっかりしなさい、大丈夫ですか!?」
「あ、う」
言葉が出ない。手振りすら、脳と身体が連結していない。意味不明な言動を繰り返して私は息を吸った。目が見える、音が聞こえる、においがする。五感が『いつも通り』に戻ることで、漸く私は言葉を話すことができた。
「ま、誠ちゃん・・・」
血に塗れた真っ赤な井上誠が振り返る。笑っていた。まるで眠る前の心地良い一時を味わうような顔で。彼女の背後、遠く、炎が聳え立っている。
「裕美子さん、ごめんなさいね」
山からゆるりゆるりと炎が降りてくる。ぞくぞくと死の気配を感じた。何故だか、それは悪いものではなかった。
「私、貴方に嘘を」
救助隊員が立てない楓を抱えている。私の肩を救助隊員が叩いている。
「死ぬために来たんです、本当は」
「・・・・・・え?」
「私、都会の喧騒を忘れたかったんじゃない。だから、いいんです。いいんですよ。あのときのことも、今のことも、私は」
それ以上はなんと言っているのか聞こえなかった。変化する唇の形を追うことすら今の私には苦行だ。ヘリの数が増えている。もはや爆音と言っていいだろう。羽音と、救助隊員の怒号に近い声のやり取り、生き残った町民達の悲鳴で、私は体力の限界を迎えた。
「あ、あああー!? なんだありゃあ!!」
「ヘリコプターですよ、見たことないんですか?」
「テレビかプラモデルでしか見たことねえ!」
名も知らぬ男にうんざりしながら、僕は山の麓から栗野崎へと歩みを進めている。肩を貸している男は足の痛みを忘れたのかヘリコプターに興奮し、僕を疲弊させていた。ここに来るまでの道中、栗野崎のことや、鯉隠しのこと、楓と板倉のことを男から聞いた。ここまではいい。男は話すことが無くなると陽気になり、自分の息子の自慢話をしはじめ、僕が息子と同い年だとわかると泣きだしたりした。感情の起伏が激しいというか、人情派というかなんというか。
「アンタァ!!」
「おー、迎えや」
中年の女性が涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃにしながら走ってくる。その脇にはかなり体格のいい男がいた。見たことのない制服を着ているが、救助隊員だろうとわかる。
「救助が来たんだ・・・!!」
「やったぜ」
奇妙な連帯感を感じながら僕達は二人で喜び合った。男の細君と思われる女性は『おかめ』のような顔をしている。ストレスで脳が現実逃避をしているのだろうか、女性が怖いはずの僕は細君の顔を見て『可愛い』と思った。おかめの細君は救助隊員の肩をばしばし叩いている。
「お、お巡りさん! うちの人、足に怪我してますわ!」
「だからお巡りさんじゃないってば!」
「ははは。安心せえ、都会のハンカチで巻いとる」
それは僕のハンカチだが、まあ、いい。このまま彼にくれてやろうと思う。
「しかし、一体どうなってるんだこの町は」
癖の強い細君からの追撃をかわしながら、未知の経験に戸惑うように彼は言った。僕は何と聞けば欲しい答えが返ってくるかわからず、
「今、どうなっているんですか?」
彼の疑問と同じことを口にした。疲れてもう頭が回らない。
「・・・血塗れなんだ。どこもかしこも。山火事もあれでは消し止めらないかもしれない」
まだ若い隊員だからなのか、守秘義務というのが無いのか、喋って良いことなのかはわからないが、彼は実に饒舌だった。
「生きてる人はあんた達を含めて二十人も居ないよ。こっちまで火の手が回りそうだからさっき応援を呼んだところだ。『ヤツ』もまだ見つかってないし・・・」
「あの、若い女を見ませんでしたか? 三人で固まってたと思うんですけど」
「あー、それは・・・」
その彼が何故かここにきて言い淀む。すると上司か先輩であろう隊員が険しい顔をして駆け付け耳元でぼそぼそ囁くと、若い隊員は眉を八の字にした。
「はあ、とんでもないっすねえ」
「・・・担架!」
「ハイッ!」
返事だけは良い。あれは脊髄反射なのだろう。
「ちょ、ええてええて! 歩けるから!」
「アンタァ!! しっかりしてェ!! 死んだら嫌やぁ!!」
「おどれのへちゃむくれ面ァちゃんと見えとるわアホ!!」
男は隊員に回収されていく。ほっとした。肩の荷が文字通り降りたわけだ。別の救助隊員が僕に近寄り、威圧感なく顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「二発殴られただけです」
「大丈夫じゃないじゃないですか!」
ああ、しまったと僕は思った。『イエス』と『ノー』以外で答えるヤツは馬鹿だ。
「歩けますね? こちらに」
「はい」
自衛隊員達が大声で指示を出し合いきびきびと動いている。彼らを『素晴らしい』と心の中で称賛しながら、僕は少し早いがひと心地ついていた。ヘリコプターの数が増えて羽音が膨張して聞こえる。炎は恐ろしい速度だ。消火活動が間に合わなければ、このまま栗野崎は燃えてしまうだろう。いっそ燃えてしまえばいい。破壊と浄化を共に齎す炎から逃げるように、僕は隊員の背中に続いた。
燃えている。
私の生まれた土地が。
私の死んだ土地が。
女達の声は、もう聞こえない。
『そのとき、砂利の鳴る音が鼓膜を震わせた。私はまさかと振り返る。沼に落ちたはずの、鰻に食い殺されたはずの男が、蜥蜴のように水から這いだしていたのだ。肉が削げ、右の眼球が飛び出ている。最早『人』とは呼べぬ。
「京子ォ・・・!」
男は執念深く想い人の名を呼んだ。
「京子ォ・・・!」
上等の外蓑も襤褸となり、かつての相貌は見る影もない。百鬼夜行絵巻に描かれた鬼か異形の者であった。ずるりずるりと沼の淀んだ水を滴らせ、腐臭を身に纏い、それでいてなお京子を犯そうとしている。死してなお男は京子を欲し、得ようとしているのだ。
「ひぃっ!」
京子は実に女らしく叫んだ。それが男の欲、自分は優位にあるのだと思わせたのか、態と怖がらせるように男はげたげたと耳障りに笑った。私は化け物となった男にえいやと棒切れを振う。
「京子ォ・・・!」
男は勇敢と呼ぶには些か情けない一太刀をいとも簡単に払いのけ、私は怪力で吹き飛ばされた』
「朗読するな馬鹿ッ!」
「えー?」
物語には起承転結よりも三幕構成の方が良いとされている。序破急といい、詳しく語ると長くなると言うと、裕美子は両手の小指を両の耳に突っ込んで遠慮した。不機嫌だということを隠しもせず、裕美子は荒く鼻息を吹く。
「なんだかな、あっけない」
「何が納得いかないんだ」
「いろいろあるけど、あの町が、ついにダムの底に沈んだことさ」
西暦2002年、六月某日。栗野崎はダム建設によって深く沈んだ。悪性プリオンで満たされた水も、人食い鯉達も雲散したのだ。今はどこにいるのだろうか。どこにもいないのかもしれない。僕はふと思い出した一節を諳んじる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人のすみかと、またかくのごとし」
「『方丈記』なら学生時代に嫌というほど朗読させられたよ」
「この世は無常だな」
「おまけにさあ」
裕美子は一冊のノートをカウンターの上に滑らせる。受け取った僕は野菜ジュースを飲みながら頁を捲った。
「カルト教団の悪魔崇拝儀式、集団催眠、自殺サークル、UFOの目撃情報、宇宙人の地球人実験施設。『「まったり」と喋る謎の生首妖怪』・・・?」
「どこも真実を報道してねーの!」
栗野崎の『大量殺人』についての切り抜きらしい。新聞、雑誌だけでなく、インターネットからも印刷したものが年代も日付もばらばらに貼られていた。苛立った裕美子ががたんがたんと煩く椅子を鳴らすので、カウンターの奥で洗い物をしている店員が咳払いをする。怒られてしょんぼりする裕美子に、僕はちょっとにやついてやった。
「僕が報道してるだろ」
「この物語はフィクションではありません。実在の人物、団体、地名があります。ってかぁ?」
「まあ、無理があるよなあ・・・」
酒を呷る裕美子の横顔を見つめて、僕は頬杖をついた。
「病院どうだった?」
「んー、うーん。あまり良くはないな。一人で外を出歩けるようになったのは大した進歩だと褒められたが」
僕は相変わらず女性恐怖症で、裕美子の実家に暮らしている。裕美子は家を出ていってしまった。健全かつ良好に見えた親子の仲も、当の本人達は問題を幾つも抱えているようで、裕美子は殆ど家に寄りつかないし、たまに帰ってくるとなると両親は大慌てだ。稼ぎがよく弁の立つ娘に緊張するらしい。
「それより、今日は何の用なんだ?」
「あー、うーん」
「分かるぞ、ただ単に呑みたいときと、喋りたいときと、何か用事があるときじゃ、全然顔が違うんだからな」
「楓ちゃん、先月死んだってさぁ」
「・・・そうか」
御堂楓。彼女は『外』にカルテがあった。
捻じ曲がった『嘘』が『真実』だったと信じられることほど恐ろしいものはない。彼女は父親に強姦されて妊娠したが、世間一般には『板倉賢二に拉致監禁され、強姦されて妊娠した』ことになっている。彼女が入院していた付近の店の防犯カメラに板倉と彼女の映像が幾つもあり、目撃者の証言もあった。その結果、板倉は『世紀末最悪の少女誘拐・監禁者』として趣味の悪い本や雑誌に名を連ねている。被害者である楓の顔は出ていないのが救いか。僕はそれを若干腹立たしく思う。
「そうか、四年、か・・・」
「彼女、直前まで元気だったって」
「奇妙なもんだな。あの二人、本当に『母子として』暮らしただなんて」
御堂楓という母。井上誠という娘。あれから会っていない。会いたくもなかった。裕美子は連絡を取っていたようだが僕としては思い出したくないことの連続なので、なるべくその手の話は聞かないようにしていたのである。
「・・・誠ちゃんからアルバム貰ったんだけど、見る?」
「アルバム?」
「『家族写真』だってさ。なんかあの子も複雑な家庭環境だったみたい」
人の生活を窃視するような気もして、
「いや、いい」
とだけ僕は答えた。裕美子は無理に勧めることもなく手の内でグラスを転がし、酒を遊ばせる。
「・・・彼女、自首したのに罪にならなかったのか」
「状況が状況だったからね。『最初の』ことも喋ったらしいけど、取り合ってくれなかったって」
「はぁー。どうなってるんだこの国は」
井上誠の殺人は罪に問われなかった。それだけではない。『鯉隠し』ですら何一つとして世間には知られていない。生き残ったかつての町民達も、今はどこかで暮らしている。彼ら彼女らの中に、私利私欲の為に『鯉隠し』を実行した人物は『いない』とはっきり言いきれるだろうか。その問題は永久に謎のままになってしまった。後ろめたいことなど『あの夜』以外は一切なく、今はどこかで幸せに暮らしていると、そう考えたい。
「もやもやする」
酒が入って愚痴っぽくなった裕美子を尻目に、僕は自分のしたことが今になって恥ずかしくなっていた。人物の名前と魚を変えて、栗野崎でのことを本にしたのだ。挙句の果てには、なかった結末まで付け加えて。裕美子から下った評価は『三文小説』。『ハムレットに出る大根役者が書いたみたい』とまで言われた。僕自身全くその通りだと思っている。だから自身の名前から『人偏』を取った名前で本を出した。担当や編集には『面白い』と言われたが、作者である僕自身は全く面白いと感じていない。
当時はいろいろ混乱していた。強烈な出来事が多すぎたのだ。僕は頭の中を整理するために紙に起こし、時系列を面白可笑しく繋げて台詞を肉付けした。折角書き上げたのに勿体無いと、『小説っぽく』出来上がったそれをお節介な担当が見つけてしまい、恥ずかしながら今に至る。
「『事実は小説よりも奇なり』、かあ?」
感覚が麻痺してあの結末が『あっさり』なのか僕にはよく分からない。分からない、が、
「事実の方があっさりしてることだってあるさ」
と答えておいた。
「・・・板倉のこと、優はどう思う?」
「それは何を聞きたいんだ?」
「可哀想と思う、か、かな」
裕美子は腕を組んで寝そべり、僕を見る。写真に撮ればどこぞに飾れるだろうほどにその姿は『様』になっている。やはり裕美子は美しい。
「あー・・・」
言い淀んだ。どうだろうか。板倉は楓の為に全てを捧げた、とは到底思えない。しかし板倉の人生を捻じ曲げたのも楓である。美しく、純粋で、幼い。そして抗いがたい母性を全身から放っていた。井上誠はその母性に魅入られた。楓は板倉の人生も人格も全てを否定した。一方通行の愛情、自分勝手な劣情を向けられて板倉という男に辟易していた。その点では確かに楓は被害者といえる。事実、暴走した板倉に犯されかけたし、板倉は楓を犯すために栗野崎を焼いて人を殺した。
善良な一般市民の間では、板倉賢二という男は『少女の誘拐、監禁、強姦』、そして『栗野崎の大量殺人犯の可能性がある』と考えられている。
鯉隠しは無かったことになった。事実と共に栗野崎をダムに沈めたのだ。だからこそあの夜のことは謎の事件として今でも扱われいて、板倉がその犯人なんじゃないかという推測がたてられている。何故、事実を揉み消したのか。偉い人間が何を考えているかなんて知らないし、知りたくもなかった。
僕は少し考えて、
「 」
そう答えた。
「ふうん、そう」
裕美子はこの話題に興味を失ってしまったのか、寝起きの猫のように身体をぐいと伸ばし、ふあ、と吐息を零した。それから暫く二人で下らない話をして、僕達は店を出た。七月が終わろうとしている。空が高く、青が深い。コンクリートジャングルにいるから空を見るのも一苦労だ。僕は見上げる首が痛くなってぐるぐると回し、裕美子に手を振って別れ、歩き出した。
今となっては、あの出来事全てが夢のようにも思える。僕は『最初から』姉がいて、両親がいた気すらするのだ。未だに女は怖い。けれども今は会話をすることができる。女性と身体がぶつかってもパニックにならない。
街路樹に、ふと小さな違和感を見つけた。油蝉だ。気の早い油蝉が鳴き始める。夏だ。四年前の出来事を胸に、僕は並木道を行く。
郭公の雛が鳴いている。
親鳥はいずこ。
郭公の親は泣いている。
小鳥にはもう会えぬか。
托卵と云う罪深い交際をもって、
郭公は産まれいづる。
毛色の違う我が子を見る鳥の目は。
左白憂作『母性』より
(了)
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