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彼女は、一瞬の綺羅の存在だったのかもしれない。気がつくと、僕のそばにはいなかった。
とても美しい人だ、と思った。
それは、外見よりも彼女自身の表情や動作が彼女を美しくさせているようだ。
僕が彼女に出会ったのは、大学三年生の夏だった。場所は京都で、大学のキャンパス内の食堂である。彼女はうちの学生ではなく、部外者だった。
僕より三つ年上で、東京の大学を出てから、働きもせずぶらぶらとしているが、世間一般でいうお嬢様ではなく、ごく普通の家庭だという。
それでよく暮らしていけるねと訊くと、彼女は言った。
「貯金があるから。これでも大学の時に、サークルにも行かずに馬鹿みたいにバイトばっかりしてたんだから。親と暮らしていれば生活費のほとんどは払わなくてもいいし」
少々呆れたが、働かないのにはわけがあるのか訊いてみた。
「ははは。これでも教師になりたくて勉強してるのよ。でも、友人からは向いてないって、よく言われてるから、本当はどうしようか迷っているの」
彼女が笑うと、なんとなく教師に向いていないような気がした。世間からは距離を置いている感じがしたからだ。
正直にそう言うと、彼女は苦笑した。
「やっぱり?私ね、いつもそう言われてるの。浮いてるんだってさ。クラスに一人はいるじゃない?そういう人。それが私」
僕は首を傾げた。浮いている、というよりは、彼女自身がそうしているように見えた。
僕がまた何か聞こうとすると、彼女はそれを遮った。
「そういえば君の名前、聞いてなかったよね。何ていうの?」
僕が、南周(みなみあまね)と答えると、彼女は少し考え込む表情をした。
「みなみは方角の南、あまねは周囲の周、それでいいかしら?」
僕は頷いた。彼女が訊いたから、僕も彼女の名前を訊いた。
「佐藤さんの佐に世界平和の和。水に火で、佐和水火(さわみずか)よ」
水に火なんて変な名前だねと言うと、彼女は肩をすくめた。
「ところで、どうして私に話しかけてきたの?」
僕は言葉も短く、ナンパと言った。彼女はまた肩をすくめる。
「私、そんなに見目のいいほうじゃないのに。それに年上だし。私は二十四歳、周君は?」
二十一歳だと答えると、彼女は若いと感嘆した。たかが三歳差だと言うと、すぐに抗議の声が上がった。
「三歳差は大きいわよ。私なんて、もう若さの残り火しかないわ」
そう言って、彼女は長い睫毛を落とした。
僕たちは食堂を出ると、そのまま大学内を散歩した。彼女に、どうして用もないのにうちの大学にいるのかと訊いてみた。
「学校っていう空間が好きなの。だから、教師になろうと思ったし」
僕が、それならまた東京の大学に通えばいいと言ったが、彼女は首を横に振った。
「学生なんてもうこりごりよ」
不思議で仕方がない。学校は好きで、学生は嫌。それなのに、京都まで来て、学生のふりをしている。そして、困った事にどの風景にも馴染めていない。
彼女が、熱いと言って、水色のシャツの下端を持ってあおぎ、体に風を送った。その合間から、白く柔らかそうな腹が見えて、どきりとした。
彼女は僕の視線には気づかずに、熱いと、もう一度言った。
僕はうわの空で、適当に返事をした。
京都の夏は蒸し暑い。全てのものを蒸発させたような暑さだ。
彼女は時折吹いてくる風に、気持ち良さそうに目を細めている。
校内の木々がさらさらと音を立てて鳴いた。それに合わせて、彼女の長い髪もさらりさらりと踊った。
突然、頭の中にキーンという音が響き、目が眩んだ。次の瞬間、いつもの風景が別世界に見えた。
緑は闇をまとうように深く、校舎のレンガは燃えるように赤くなった。空の青は蒼くなりすぎ、風は吹雪のように白色をしている。僕の体はその世界に馴染めなかったのか、自分自身の心とはぐれそうになっていた。世界は近く、そして遠かった。
彼女が不意に僕の腕を掴んだ。すると、普通の世界に戻って来たようで、耳に蝉の音がなつかしく響いた。
「大丈夫?」
彼女が心配そうに、僕の顔を覗き込んだ。
大丈夫だと言うと、彼女は微笑した。
あれは何だったのだろう。辺りを見回したが、もうあの感覚は戻って来なかった。
僕がぼうっと考え事をしていると、彼女が腕を引っ張った。
「ねえ。街に行こうよ。講義、もうないんでしょう?」
うわの空で、いいよと返事をすると、彼女はもっと強く僕の腕を引っ張り、大学から連れ出そうとした。
彼女の手は驚くほど冷たく、僕の熱い腕には心地よく感じた。
僕たちは四条通りまで出ると、何処に行くわけでもなく、気ままにアーケードの下を歩いていた。午後の街は人も多く、喧騒と熱を倍増させている。そんな活気ある街に耳鳴りと眩暈がした。彼女も不快そうに眉をしかめ、辛いわと呟いた。
少しでも涼しい所へ行こうと、僕は彼女を鴨川へと連れていった。鴨川には、やはり街の喧騒と熱を避けた人々が川原にたたずみ、代わりに午後の太陽と戦っていた。四条大橋近くの土手に座り、僕たちは川の流れを見つめていた。
彼女が、川に入りたい気分だわと言って、ハンカチで顔をあおいだ。そうだねと言うと、彼女は、じゃあ入っちゃおうよと言って笑った。
僕は目を丸くして、こんな街中でそんなことをする人はいないと言った。
「冗談よ。真面目に取らないでよ。でも、もし私たちが川に入ったら、みんなも次々に入るんじゃないかしら?」
僕が笑いながら首を横に振ると、彼女は残念そうに首を傾げた。
「入ってみたいなあ」
そういうところが、周りから浮いてしまう理由なんじゃないかと僕は言った。彼女は少し考え込んで、また微笑んだ。
彼女の微笑は、モナリザに似ている。見る側によって、どうとでも取れる。
僕はごめんと謝ったが、一呼吸置いて、自分からそうしているようにも見えると言った。
彼女は僕をじっと見つめると、僕の手の上に冷たい手を置いた。
僕はどきりとして、彼女を見た。
彼女の瞳の中に暗い炎が燈り、それでいて、彼女の肌は白く冷酷な氷のようだ。
僕がどぎまぎしていると、彼女はそっと手を離した。もう瞳の中に炎はない。
「別に気にしていないわ。どうにもならないし」
ほっとして僕が笑うと、彼女も笑った。
「周君の言う事、少し当たってるわ。私ね、一人が好きなの。人といることも好きなんだけど、いつのまにか一人でいることが多くて。それでいて悲しいわけじゃなくて、平気なの」
一人が平気なんて不思議だと言うと、彼女は首を傾げた。
「誰でも一人になりたいと思う時はあるでしょう?私の場合はそれが長いのよ。たぶん」
彼女がそう言ったので、僕は冗談混じりに、孤独に好かれているからいつの間にか一人になっているんじゃないかと言ってみた。
彼女は驚いて、息を飲んだ。
「一人は平気だけれども、孤独は嫌よ」
彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして、僕の腕をそっと掴んだ。僕には彼女が微かに震えているような気がした。
彼女の横顔をじっと見る。彼女はそれに気づくと大きく息を吐いて、冷静さを取り戻した。
僕はそれを見て取ると、そんなに辛いのならいつも一緒に誰かといたらいいと言った。すると、彼女は微笑した。何度目の微笑だろうか。
僕は何の気なしに、しばらくは一緒にいてもいいと言った。
「ありがとう。でも、私は大丈夫よ。これまでだって一人できちんとしてきたし、これからもきちんとできると思うの。だけど、誰にも頼らずに生きていくことは無理だとも知っているの。それでも、一人でいたいの。変でしょう?」
変だとはっきり言うと、彼女は笑った。
思うに、彼女は孤独を保ち続ける力を欲している。それなのに、彼女はその力がないということを十分に自覚している。
孤独という言葉は、夏の暑さにまいっていた僕を一瞬ひんやりとさせた。
彼女は謎だらけだ。
僕は、一人が好きなのに、なぜ集団行動をしなければならない学校が好きなのか訊いてみた。
「集団行動している間は、孤独にならずに済むでしょう?あの空間は私をこの世に引き止めておく唯一の空間なの」
彼女はそう言うと、シャツの襟口を持って風を体に送り始めた。僕はそっと彼女の腕に触れた。彼女の腕は冷たい。それなのに、彼女は暑そうに風を求めている。
風は時折吹いてくるが、それではこの熱気を冷ますことは出来ないだろう。午後の太陽はまだ高く、誰もが熱にうなされている。
僕は立ち上がると、何処か別の所に行こうと言った。
彼女も立ち上がり、スカートの後ろを手で払った。
僕は午後の太陽に負けた。
鴨川に沿って、その上流へと歩いた。しばらくして、大学の近くまで戻って来ていた。大学がある対岸を見やる。僕は、大学に戻ろうかと言ったが、彼女はいいえと答えて、僕の腕を引っ張った
「今日は夜までこうして散歩しましょうよ」
僕が、夜までは疲れるよと言うと、彼女は呆れたような声を出した。
「なによ、若いくせに。たまには良い運動よ」
僕は苦笑して頷いた。彼女は笑って、僕の腕に自分の腕を絡ませてぴったりとくっついた。柔らかな胸が腕に当たる。
僕は照れて、やめてくれと言ったが、彼女は離してくれなかった。
「いいじゃない。恋人同士みたいで。でも、夏の暑い日にこれはないか」
そう言うと、急に彼女は僕から離れた。
僕は、代わりに手をつなごうかと言った。
「今はいいわ。そうねえ、今日の夜になったら手をつなぎましょう。今日はきっと月が綺麗よ。情緒があっていいじゃない?」
僕が、月なんて出てたったけと訊くと、彼女は怪訝な顔をした。
「出てたわよ。周君は夜空を見ない習慣でもあるの?」
夜にアルバイトをしている、そう言うと、彼女が今日もそうなのかと訊いてきたから、そうだと答えた。彼女は残念そうな顔をした。
「なんだ。それじゃあ、夜はいないのか。つまんないなあ」
彼女はため息を吐き、僕をじっと見た。その瞳は、僕の体を捕らえて身動きを出来なくした。
それならアルバイトは休むよと言うと、彼女の瞳はやっと僕を解放してくれた。
「やった!じゃあ、今日は一日中一緒に遊ぼうよ」
僕が頷くと、彼女は微笑した。
「なにとなく、君に待ちたるるここちして、出でし花野の夕月夜かな」
僕が、何だそれは言うと、彼女は学生時代に覚えた誰かの歌だと言った。
それならと、自分が覚えていた誰かの歌を詠んだ。
「わが身の影を、あゆまする、いしのうえ」
今度は彼女が、何よそれと言った。僕は笑って、わからないと答えた。
それから僕たちは黙って、川の流れに逆らいながら歩いた。
街の喧騒も、夏の暑さも、午後の太陽も、僕たちを喋らせることはなかった。
鴨川を後にして、さらに上流の加茂川のほうへと歩いた。途中、喉が乾いたので、葵橋を渡り、下加茂神社近くの茶屋に入った。彼女はアイスティーと団子を食べて、僕はアイスコーヒーを飲んだ。
それから茶屋を出て、また加茂川沿いに戻り、橋を渡らずに先ほどの反対側の川沿いを再び上流に向かって歩き出した。
川沿いには府立植物園がある。彼女が入りたがったので、植物園の中へと入っていった。
平日の午後だからなのか誰もおらず、僕たちの貸切となった。彼女はこの世の楽園と言わんばかりにはしゃいでいた。僕はなんだか違和感を覚えて、少し寂しくなった。
しばらくして、彼女が困惑気味に、夏にはあまり花は咲いていないのねと言った。僕は苦笑して、そうでもないよと言った。
「どうして?バラも散り際だし、元気にしているのはパンジーぐらいだわ」
僕が、たぶん向こうの池に蓮の花が咲いていると思うと言うと、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
僕は、植物園というとどうしても花が咲き乱れていることを想像してしまうものだ、と言った。彼女はそうねと短く答えた。
園内を散策していると、作業員らしき老人が現れて、僕たちに声をかけてきた。
老人は、こんな平日の暑い日に植物を見に来るなんてよほど暇だったのかと言った。僕が恥ずかしそうにしていると、彼女は言葉を強くして言った。
「いいえ。平日の暑い日にでも見に来るほど、私たちは植物が好きなんです」
僕はなおのこと恥ずかしくなって、視線を宙に漂わせた。しかし、老人はうんうんと頷き、そんなに好きなのならいい事を教えてあげようと言い、首にかけてあった手拭いで汗をふいた。
宝ヶ池に今日だけしか咲かない花がある、今日の夜しか咲かないと、老人は京都弁で念を押すと、彼女に笑いかけた。
彼女も微笑すると、老人に訊いた。
「おじいさんも見に行くの?」
すると、老人は家にその花と同じものが植えてあるから家で見られるのだと言って、作業をしに何処かへと行ってしまった。
彼女は、良い事を聞いたわと言って、僕をじっと見た。僕は覚悟を決めて、それじゃあ探しに行こうかと言った。
「お夕食を買って、探しに行きましょうよ。その花が咲く瞬間が見たいもの」
彼女は僕の腕を引っ張り、植物園の出口へと向かった。
僕はぼんやりと、アルバイト先に電話をしなければならないことを思い出していた。
日も落ちかけの頃、僕たちはコンビニに寄って、サンドウィッチと飲み物を買った。そのついでに、アルバイト先に電話をかけて、雇い主に怒られながらも休む事を伝えた。彼女はその隣で、太陽が落ちるのをぼんやりと見ていた。
日も完全に落ちてしまうと、今度は月が冷ややかに光り、外を照らした。
月は太陽がなければ光らないのよと、彼女が言った。月までも孤独には耐えられないのねと、ため息混じりに呟く。
でも、太陽は一人で輝いているよと僕が言うと、彼女は微笑した。
「私は、太陽にはなれないわ」
僕は頷いて、そうだ、人は一人では生きていけないからねと言った。
「それでも、人は一人で生きていかなくてはならないのよ」
彼女は哀しそうに言った。
宝ヶ池公園に着くと、僕たちは老人が言っていた花を探した。池は大きくて、その周囲の何処を探しても見つからずに、僕たちを混乱させた。
刻々と時間が過ぎ、時計が九時を回った。それでも見つからずに、僕たちは疲れ果てて、水辺に突き出ている東屋のベンチに腰を下ろした。
彼女が憂鬱そうなため息をついた。
「騙されたかなあ。何処にもないわ」
僕は、食事をしたらまた探そうと励ました。彼女も頷いた。
そうして、サンドウィッチを食べ終わると、また花を探し始めた。池のほとりやその近くの林を注意深く探していく。
すると、林の中に、ぼんやりと白く輝くものが見えた。僕は彼女の手を引っ張り、木々をかき分けていった。白い光を頼りに夜の森を歩く様は、ヘンデルとグレーテルのようだと彼女は言った。
それは白い、大きな花の蕾だった。
それが、月明かりに照らされて輝いていたのだ。近くで見ると、白銀のような光だ。
僕たちはやっと見つけた安堵感から、その場に座り込んだ。しばらくは無言で、その蕾を見つめていた。
彼女がそっと口を開いた。
「綺麗ね」
僕も、綺麗だと言った。
僕たちは、白銀の蕾が開くのを今か今かと、祈るような気持ちで待った。
蕾は微動だにせず、動きを止めていた。そればかりか、時間すら止めているかのようだ。
現実の世界では違和感のあるその現象が、今この時には当り前のように感じる。音が消え、闇は次第に深くなっていく。
ふと彼女を見ると、蕾に見入ったまま微動だにしていなかった。白い肌が、月明かりに照らされて輝いていく。それは白銀の蕾とよく似ていた。
どのぐらい時が過ぎたのだろうか。先にも増して蕾が煌煌と輝き始めた。今までに見たどの光よりも眩しく、そして温かい。その輝きを得た瞬間、蕾は開き始めた。
白銀の花びらを、一枚一枚と徐々に開かせていく。そのゆっくりとした、確かな動きは僕を虜にした。
不意に、僕の手に彼女の手が触れた。はっとして、隣を見る。
彼女の瞳には、開いていく白銀の蕾が映っている。まるで揺らめく炎のようだ。彼女の手は意外にも熱く、僕の冷えてしまった手に温かさをくれた。
彼女から再び蕾へと視線を向けると、蕾は完全に開いていた。そして、周りの時間も躍動を取り戻し、虫の声と風の音が僕の耳に滑り込んでくる。
彼女はそっと花のそばに顔を近づけると、花びらにキスをした。僕もその仕草を真似て、花びらにキスをした。
そして、僕たちは顔を見合わせて笑った。
白銀の花は風に揺らされて、さらさらと鳴いた。
ここには僕たちしか存在していない。白銀の花と彼女と僕。そして、それぞれが違う存在だ。一緒にいるのに、独りでいる。
彼女は言う。
「この花も、独りでは輝けないのね。月の明かりを必要としているわ」
僕が頭を振って、それでいいんだよ、太陽にならなくてもと言うと、彼女は黙って頷いた。
僕たちは再び黙り込んだ。
月が雲に隠れて光を与えなくなると、花は輝きを落とし、徐々に閉じていった。もう、あの白銀の、気高い輝きは見られなかった。
僕が帰ろうかというと、彼女は頷いた。
来た道を逆に辿って、加茂川へと出ると、川の流れ同じ方向へと歩き出した。
陰っていた月が、また光を放ち始める。
彼女の額の汗が、白銀の花びらのように輝いていた。
僕たちはずっと無言で、月明かりに照らされていた。人々も徐々に増えていき、僕たちを現実へと引き戻した。
僕は彼女と約束通り手をつないだ。彼女の手はまだ熱く、僕の手も熱かった。汗のせいで互いの手は吸いつき、ぴたりとくっついた。
加茂川から、鴨川まで歩いて来ると、彼女は突然に手を離した。
「周君は何処に住んでいるの?」
大学の近くだと答えると、彼女は微笑した。
「そう。じゃあ、ここでお別れね。私は祇園だから」
送っていくよと言ったが、彼女はいいわと言って、走り出した。
「さようなら!勉強とバイト、頑張ってね!」
彼女は振り向きさまにそう言い、去っていった。
佐和水火という名前だけを残して、彼女は僕の前から消えた。
あの月の夜から三年が過ぎて、僕は彼女と同じ歳になった。
大学を卒業し、実家には戻らずに神戸の銀行に就職した。京都は、僕と彼女をつなぐ唯一の接点だから、なるべく離れたくはなかった。
今なら、彼女が感じていた事がわかる。
彼女は、現実に埋もれていく自分を必死で守ろうとしていた。しかし、世の中に馴染まなければ生きていけないことも、身に染みて感じていたのだろう。
僕はネクタイを締めて会社へと向かい、家に帰れば孤独を味わう。結局、あまた多くの人々の外に存在できたとしても、人々は確実にどこかで生活をしているし、僕たちは生きている限り、それを否応無しに認識していかなければならない。
もし、孤高というものを達成できるとすれば、それは自分一人しかいない世界だ。
僕たちが許されるのは、人々の中で感じる、苦しいだけの孤独だ。孤高は許されない。皆とは違う自分で居たいのに、皆が孤独に怯えている。
月の夜には、いつもあの夏の夜を思い出す。あの時だけは、僕たちは白銀の花と一緒に、孤高だった。
二十四歳の夏、あの日と同じ日に、僕は京都にいた。そして、月明かりの下を同じように歩いた。
鴨川の川原を歩いていると、月明かりに照らされて、白い服が銀色に輝く女を見つけた。背中まである長い黒髪も、月明かりを絡ませている。
僕は高鳴る胸を押さえきれずに、思い切り叫んだ。
その声に、周囲の人々と女が振り返る。
女は微笑んだ。
「こんばんは。周君」
彼女は以前と違い、ずっと落ち着いていた。美しいと感じていたあの姿は少しばかり色褪せ、それで、僕を少しだけ困惑させた。
彼女は、今は大学院で勉強をしていると言った。僕は、神戸で銀行員をやっていると言った。
それから、僕は彼女の手を取り、鴨川の流れに逆らって歩き出した。
彼女は言った。
「なにとなく、君の待ちたるるここちして、出でし花野の夕月夜かな」
僕は言う。
「わが身の影を、あゆまする、いしのうえ」
僕は彼女を手に入れた。
彼女は孤高を捨てた。
月の下には、僕たちと同じように月光に照らされた人々が、変わりもなく往来していた。
綺羅の彼女はいなくなり、代わりにこの世界に馴染んだ彼女が、僕のもとにいた。
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