6. 本当は知ってるんです

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 6. 本当は知ってるんです

 もう大学の近くで和を見かけることもなかった。伊藤やサークルの知り合いからは、しつこく連絡が来ていたけれど無視した。  平穏な生活が戻って来た。  でも、大学生になったばかりのときみたいに、また合コンに出たりしようとは思えなかった。そんなことをしてもし恋人ができたとしても、きっと一時のものに終わる。知り合う前からそんな風に思ってしまう。  ――好きなんだ。  俺は和のように真剣に、誰かに告げたことがあっただろうか。  「付き合いたい」とか「好き」とか口にしたことはある。でも、和ほど強くじゃなかった。  俺の「誰かを好き」という気持ちは、盛り上がりや盛り下がりがあって、少しずつ薄れていく。すぐに他の人にも目移りだってする。  和は違う。和が、俺のことを好きだというのは本気ではあるのだろう。  でも羨ましくはない。あんなものが恋なら、病気だ。  俺にできるのは勉強ぐらいだ。だったら今まで以上にやるしかない。  漠然とだが、俺はこのまま法学の道に進むことを考えていた。学部からロースクールに進む卒業生も多いという。司法試験はもちろん難関だろうが、試験は俺にとっては得意分野だ。  弁護士になりたい気持ちが強いわけではないけれど、他にできることも考えつかない。なれるならなってみようか、というぐらいの軽い気持ちだったが、目標ができることは悪くなかった。  俺は生協の書店を覗き、司法試験や弁護士の仕事に関する本を何冊か買ってみた。 「あれ……?」  生協のとなりには学生課がある。その建物の前に、中年の女性が立っていた。  大学には様々な年代の人がいて、年配の人も珍しくはない。でも、その人が目に止まったのは見覚えがあったからだった。  あの日、和と前山と三人でいた女性……前山の母親だ。確かに彼女と似た面影がある。  前山を待っているのだろうか。そわそわした様子で、何度も腕時計を確かめている。 「八木沢?」  じっと彼女の方を見ていたたせいで、後ろからの声に反応するのが遅れた。 「おい、八木沢誉。お前ライン無視すんなよ」  振り向くと伊藤がそこにいた。サークルに行かなくなってからも、同じ授業も取っているし、よく顔は合わせていた。前山と気まずくてあまり一緒にいられない分、伊藤と話すことは多かった。 「あーいや、悪い」 「先輩たちがうるさいんだよ。和君はどうしたかって。なんとかしてもう一回サークルに連れてこれないか?」 「あいつはもういないよ」 「はぁ?」 「あの」  気がつくと、俺がさっき遠目に観察していた前山の母親が、すぐ近くにいた。 「あの、失礼ですが、八木沢誉さんですか?」 「えっ、あ、そうですけど」  前山は俺のことも紹介したのだろうか。急にどきどきしてくる。  面倒な雰囲気を察したのか、「次こそ弟連れて来いよ」と釘を刺して伊藤が離れていく。 「すみません、変なことを聞くようですが、同姓同名のお知り合いがいらっしゃいますか?」  前山に似て小柄な、落ち着いた雰囲気の女性だった。 「いえ……」 「あの、急にすみません。それほどよくあるお名前でもないように思ったものでして……」 「あ、いえ……」  わけがわからなかった。どうして俺のフルネームを前山の母親が知っているのか。 「そうですよね、いえ、急にすみませんでした」 「……あの、差し支えなかったらどういう事情か、少し聞いてもいいですか?」 「いえ、八木沢誉さんっていう方と、最近ご挨拶をしたのですから」  嫌な予感がした。確かにそれほどよくある名前ではない。だとしたら、俺を知っている人間が、故意に名前を騙ったということだろう。  きっと、前山の母親と最近会った男が。 「もしかして、俺より背が高くてイケメンの……」 「ええ、そう! やっぱりお知り合いなの?」 「すみません、弟です」  三人は高いフレンチの店で食事をしていた。当然名前だって名乗るだろう。 「え? ああ、そういえばご兄弟がいるって……でも、同じお名前?」 「いえ……たぶん、勝手に俺の名前を名乗ったんですね」 「まぁ、どうして?」  それは俺だって聞きたい。前山の母親は怪訝そうな表情をしている。偽名を使われたとなったら当然だろう。 「じゃあ、やっぱり、あの子の付き合っている人、知っているんでしょう」  俺が黙っていると、厳しい口調になって前山の母親は言った。 「え? 和じゃないんですか?」 「弟さん? 和さん、っておっしゃるの」 「え、はい」 「付き合っているの?」  それは俺の方が聞きたい。だが俺が彼女の母親にめったなことを言うべきではないかもしれない。  和が誰かと付き合うまでの時間は、いつもあっという間だった。だから疑問も持たなかったけれど、和が前山と付き合いだしたにしては、随分急ではあった。そして、前山は別に和の外見に惹かれているわけでもなさそうだった。 「いや……あの、俺はよく知らないです」 「何にせよ、なんで偽名なんて……まったく、好青年だと思ったのに」 「お母さん」  元々待ち合わせていたのだろう。慌てた様子で前山が駆け寄ってきた。  本当は彼女にすぐ問い詰めたかった。でも、たぶん母親の前では聞かない方がいいのだろう。 「あれ、八木沢」 「あ、俺授業なんで……」  頭を下げて俺はその場を跡にする。前山と母親が何か言い争っている声が聞こえてきた。気が付くともう次の授業まで時間がなかった。俺は慌てて教室に向かう。  少しして教室に入った頃、前山からメッセージが届いた。  〝ごめん。巻き込んじゃって。今日の夜、空いてる?〟  ・  せっかくなので、前に前山と行こうと調べたイタリアンレストランに行くことにした。  以前調べたときには、どんな注文をしようかとわくわくしながら写真を見たものだった。だがやっと前山と来れたというのに、俺の気持ちはまったく弾んではいなかった。 「ごめん……色々複雑で……結局巻き込んじゃって」 「それはいいけど」  前山はサラダからメインから、てきぱき注文していく。そしてビールを飲むと、ふうと大きな息を吐いた。俺よりよほど食欲がある。 「簡単に言うとね……和君に、恋人のふりをしてもらったの。お母さんが探りに来たっていうのはわかってたから」  前山にはもともと、南アジア出身の恋人がいるのだという。しかし、前山の母親はそのことをひどく嫌がり、別れさせようと干渉をしてきた。だから和に、恋人の振りをしてもらったのだという。  情報が多すぎて頭がついていかない。そもそも前山に恋人がいたなんて知らなかった。 「お母さんは外国の人っていうのをすごく嫌がって……でも、ヨーロッパならいいって言うんだよ!? 信じらんない。でも色々、彼にもトラブル起こしたくない事情もあって。それで和君なら申し分ないでしょ。だから協力してもらったの」  前山と和は付き合っていない。これほど嬉しいことはないはずだった。でも意外なほど、喜べなかった。  俺はトリッパの煮込みに手を伸ばす。もともと俺は、前山のことが好きだったのだろうか。そのことさえ、よくわからなかった。  どうして俺は今、こんなに落ち込んでいるのだろう。 「なんでわざわざ俺の名前を名乗ったんだ?」 「それは……和君が一応事件のことがあるから気にしたんだと思う」 「そんなの……」 「私もそう思うんだけど。でも、和君が」  申し訳なさそうに前山は言う。名字も違うのだし、そこまで前山の母親が調べるとは思えなかったが、和は気にしたのかも知れない。  俺は彼のそばから離れることができる。でも、和自身には一生事件のことはついて回る。名前が変わってもずっとだろう。  和はうなされていた。  俺が気づかなかっただけで、ずっと前からなのだろうか。俺と同じ子供部屋で寝ていたときから……いやうちに来る前からずっと、悪夢を見続けているのか。  前山はビールの次にはワインを頼み、俺以上によく食べた。おいしいはずなのに、あまり俺は食が進まなかった。せっかくの前山との食事なのに。 「ごめん、こっちの勝手な話に巻き込んじゃって……おごるから」  きっとそうだ。だから俺が、和のことをあれこれ悩む必要なんてない。 「いや、別にいいよ。俺なんて何もしてないんだし」  前山はさっき、母親を駅まで送ってきたところだという。酒が進んでいるのも、緊張から解放されたからなのだろう。  偽名の件で疑念を持たれてはしまったが、彼女が和をいたく気に入ったことは確からしい。もともと和は特に年上女性には受けがいい。 「和君と八木沢のおかげだよ。ほんとに助かった」 「……それ」 「え?」 「なんで俺のことは『八木沢』で、和のことは『和君』なんだ?」 「え? なんでだろ? なんかそんな感じじゃない? ほら一応、和君は年下だし」  前山は笑う。前山と話すのはやっぱり気兼ねしなくて楽だ。でもたぶん、彼女にとってもそうなのだろう。ゼミの話ができる同い年の友人。彼女にとって俺は、それ以上じゃない。 「仲良くやってる?」  笑いながら前山は聞いてくる。仲良くどころか追い出した、なんてさすがに言えなかった。  俺はただ黙ってワインを飲む。度の強い酒は飲み慣れなくて、アルコールくささが鼻につく。 「和君、言ってたよ。ほら、八木沢兄の名前名乗って、設定としても八木沢兄ってことに彼の中にはなってたらしいのね。そんで、兄弟仲はいいんですかって話になって」  前山は俺以上にするするとワインを飲んでいく。 「弟なんて本当はいるはずじゃなかったんです、って」  どきりとした。それは俺が、和に投げつけた言葉とそっくりだった。  まるで俺がそう言うのを、わかっていたみたいな言葉だ。あんなこと、口にしたのは初めてだったのに。 「そんなことないよね。兄弟ってほんとよくわかんない」  私は一人っ子だから、と前山は笑う。  どうせ偽名を名乗るなら、もっと全然別の名前を使えばよかったはずだ。身近な俺の名前など騙るから、今日だって前山の母親にばれてしまった。  なぜ、わざわざ俺の名前を騙って、まるで俺のように振る舞ったのだろう。どうせ嘘なら、仲のいい兄弟という設定にしたってよかったはずだ。 「和君、言ってたよ。……『弟のことは、嫌いなんだ』って」  そんなところまで、俺のふりをしなくたってよかったのに。  ・ 「ただいま」  口にしてからはっとした。和は出て行ったまま、やはり戻って来てはいなかった。  狭い部屋だ。二人で住むのにはもとから無理があった。やっと一人になれてせいせいする。  カレーの匂いももうしない。でも、俺は一人で好きな店に食べに行けるし、前山を誘ったっていい。前山だけじゃなく誰だっていい。俺が心から望んでいた自由であるはずだった。 「はー」  俺はベッドに寝転がった。大学に入学してから、それまでの自分から変わろうと、めまぐるしい日々だった。女性に好かれようとか、今まで以上に勉強もしないととか、いつも気を張っていた気がする。  だから気づかなかった。生まれて初めての一人暮らしを始めても……寂しいなんていう感情には。  部屋はしんと静かだった。他人の気配がない。そんなことに、どうしてこんなにそわそわした気持ちになるのだろう。自分だけが裸で取り残されているような心細さだった。ここは俺の部屋の中で、何も問題なんてないはずなのに。  手持ち無沙汰で携帯をいじる。でも、誰からもとくに連絡がない。  実家は子供部屋で、母は二段ベッドを入れた。もともと両親は子供を二人以上作るつもりはなかったから、その部屋は狭かった。 「何だよ……」  前山とのことは誤解だった。でも、和には前科がある。誤解したって仕方がないと思う。和は俺に何もいいわけすることもなかった。言えばよかったのだ。  ……でも、和に言われても俺は信じなかったかもしれない。 「あーもう」  俺はぼんやりと部屋の中を眺める。ふと、見覚えのない本に目がとまった。 「あいつ、忘れてるじゃん……」  それは明らかに俺のものではない本だった。映像技術の教科書らしい。  和が進学先に関西を選んだのは俺がいたためだろうけれど、学校にも一応通っていた。映像を学ぶ学校のはずだった。  でも俺は、何を学んでいるのかは少しも聞いたことがなかった。聞こうとしたこともない。学校で友だちはいるのかとか、バイト先で知り合いはできたのかとか、何一つ、聞かなかった。  うんざりするほどそばにいた気がするのに、本当は何も知らない。 「難しそうだな……」  専門的なソフトの解説などが続いている。そもそも和は、それほど映像が好きだっただろうか。映画をたまに見に行っていることは知っていた。でも、何の映画が好きなのかさえ聞いたことがない。  本の中に、一枚の紙が挟まっていた。授業の課題として、映像を公開するというものらしい。動画共有サイトのアドレスとアカウント名が書いてある。  俺は携帯で一文字一文字それを入力し、開いてみた。他にすることもなく、暇だったからだ。  最初は、ドキュメンタリー映像なのかと思った。  青い、空とも海ともつかない景色が広がっている。かすかにもの悲しい音楽が聞こえていた。じっと見ているうちに、風景は少しずつ変わっていく。青く見えるのは氷のようだった。  万華鏡のように景色が移り変わっていく。だけど人間はずっと写っておらず、氷の青はやがて画面のすべてを覆い尽くしていく。タイトルは「幻氷」とある。  何の解説もない。アップロードしたのが誰なのかもわからないけれど、きっとこれが和の作った映像なのだろう。それはほとんど確信だった。  氷はCGのようだった。課題で作ったものだし、作品というより習作に近いのかも知れない。どういう意図で作ったのか、聞いてみたかった。  他にもそのアカウントがアップしている動画を見てみる。舞台は都会の風景だったり、何気ない路地裏だったりした。でも、やっぱりその全体は青みがかかっていて、ひび割れたような筋が入っている。氷に覆われているのだ。  どれも同じだった。人の写っているものも、いないものも、全部の動画は氷に覆われていた。かすかに、氷の隙間から青みがかかっていない風景が見えることもある。でも、それはほんの一部だけですぐに消えてしまう。  見て楽しい映像というわけではないはずだった。でも俺は、いくつかの動画を繰り返し見た。そうすれば何か答えが手に入るかのように。  和が出て行ってせいせいしたはずだ。なのにどうしてこんなに気持ちが落ち込むのか。俺には何もわからなかった。  だけど何度も、見続けた。  またチャイムが鳴ったとき、今度こそ和かもしれないと思った。もう戻って来たのだろうか。何と言い訳するつもりだろう。  どんな文句を言ってやろうかと思いながら俺は足早に玄関に向かう。  だが、玄関先に立っていたのは若い男だった。 「お忙しいとこすみません」  どこかで顔を見たことがある気がする。だが、大学の生徒ではないような気がした。 「できたらちょっと、お伺いしたくて……」 「ああ」  男の差し出してきた名刺には、ライターと書いてあった。前に和と話していたところを見かけたことがある。数日前にネットに出た、和に関する記事を書いた男だった。  だが、不思議と苛立ちは感じなかった。少し前だったら、殴りかかるくらいのことはしていたかもしれない。でも、何度も繰り返し見た冷たい風景が、不思議と俺を冷静にしていた。 「和ならいませんよ」  和は最初から、ネットとか、世間とか、そんなこととは全然違う場所にいる。誰が何を言おうとも、きっと最初から彼には届かない。  俺と和の生きている場所は違う。 「あなたにお聞きしたいんですよ。お兄さんですよね?」 「俺が話すことは何もありません」 「でも、お兄さんならではのお話というのもあるでしょう」 「何もないです」 「私には広く真相を知らせる義務があるんですよ」 「そんなの、みんな知ってますよ」  男が初めて表情を変える。 「それは……」 「警察がそんなに無能だったと思いますか? 真相はすぐにわかったけど誰も書かなかった。書けなかったからですよ。みんな、本当は知ってるんです」  認めたくないけれど、俺はがっかりしている。チャイムを鳴らしたのが、和ではなかったから。  追い出したのは俺なのに、何か少し文句でも言って、迎え入れるつもりだった。  待っていてもきっとこの部屋に和は帰ってこない。  本当は誰より和が、思っていたんじゃないだろうか。兄弟なんているはずじゃなかった、八木沢家の人たちは家族なんかじゃない、と。きっといつかは離れる日がくるのだと。  ――好きだよ。  暴力のような、縋るかのような、痛々しい和の思い。俺とまるで違っていて、誰からも好かれる和。  なぜ、ここに和がいないのだろう。彼がそばにいても、俺はやっぱり自分と比べてしまって、きっと何も変われないのに。  でも、和に会いたかった。  話がしたかった。 「みんな、知ってた。最初から……知ってたんです」  ・ ・ ・ 「普通に暑いじゃん……」  よっぽど寒い、極寒の地なのだろうと思っていた。だが周囲にもTシャツの人が多いし、日差しは夏のそれだ。秋物のジャケットを引っ張り出してきた俺は、明らかに浮いていた。  一人で飛行機に乗ったのは初めてだった。国内だとはいっても緊張する。  だが幸い、何事もなく俺は北海道に着いていた。小さな町の空港は思った以上に小さく、オモチャみたいだった。海産物の広告が俺を出迎える。 「腹減ったな……」  ――そういえば和は、家のこと何か言ってた?  電話で母から聞かれた。実の両親から和に残されたものは、彼が成人したら相続することになっているらしい。そう多くではない。数十万程度の預金と、土地と家屋だ。  もともとは彼が成人した後、処分するかどうかは決めさせるつもりだったという。だが最近、落書きや投石などもあるので、地元の自治体から早めに何とかしてくれと言われているらしい。だから母はどうしたいか、和に聞いたということだった。  和はあと一年で成人だ。  落書きはきっと、事件の起きた場所だと知っている人たちがしたのだろう。そんなところが高値で売れるとは思えないし、和が住むこともないだろう。そう思ったが、不安だった。  何度も見た和の作った映像の中の風景が、脳裏に焼き付いていた。  歩いていると「流氷のまち」という看板が目につく。流氷はもちろん冬でないと見れないが、博物館には年中展示されているらしい。  空はよく晴れていて日差しも強い。  俺は適当に目についた店で、海鮮丼をかきこんだ。和には何度か電話をしたり、メッセージを送ったりしているが返信がない。 「和のくせしやがって……」  母から送ってもらった地図の写真を携帯で開く。この小さな町の外れの、海の近くにその家はある。  和が幼少の頃を過ごしたのは、あまり望まれた環境ではなかった。  和の両親は、少し変わった人たちだった。  母親は元モデル、父親は売れないアーティストだった。もともと制作の過程で知り合った母親に、父親が猛烈に惚れ込んでのことだったという。  二人は結婚し、父親の家に住むことになった。でも二人の暮らしは経済的にも厳しく、東京以外に住んだことがなかった母親も周囲から浮いていたらしい。彼女は目立ちすぎるほど美人だった。この家に無理やり押し入ってこようとした男もいたらしい。  こんな人里離れたところで、子供を育てるのは大変なことだっただろう。父親は彫刻や絵画を作成していたがなかなか売れず、酒を飲んでばかりいた。生活が破綻するのは時間の問題だった。 「遠いな……」  一軒一軒の距離が離れていて、思ったより町の中心からは距離があった。更に、目的地は小高い丘のようになっているので体力が奪われる。  和が本当にいるかどうかはわからない。確証のないまま来てしまった。  両親を頼ることも考えた。いくら和だって、両親からの連絡を無視したりはしないだろう。でもそうしなかったのは、罪悪感なのか何なのかよくわからない。  専門学校までやめてしまうとは思えないし、そのうちひょっこり戻ってくるかもしれない。どうして俺がわざわざ北海道にまで来るような、面倒な方法をとっているのか。 「くそっ……」  無駄足かもしれない。でも、ただ待っているよりはマシだった。  丘の上に見えてきたのは、一目で人が住んでいないとわかる家だった。二階建てのこじんまりとした洋風の家で、白い壁には意味のわからない落書きがされている。こんなところにまでわざわざやってくるとはご苦労なことだ。  庭には雑草が生い茂り、タイヤや段ボールなどが好き勝手に投げ捨てられていた。 「ひどいな……」  強い日差しが、家の影を黒く落としている。  一応ドアや窓は閉まっているようだった。 「和? いるのか?」  玄関ドアを叩いてみるが、何も反応はない。 「おい、和?」  俺は家を迂回して、裏口の方に回る。家の裏手はすぐに海だった。きっと、こんな町はずれに家を建てたのも、海が見えるところにしたかったからなのだろう。 「いないのか、和!」  灰色がかかった青い海が、ごつごつした岩の向こうに広がっている。家は丘の上にあるので、海に面して崖のようになっている。  ふいに、ずっと昔のことを思い出した。  〝兄さん……お願い〟 「和?」  ひゅうひゅういう息の音。いつのことだったのか、すぐには思い出せなかった。  ――あの頃はなるべく早く、和と離れたかった。  俺は、どうして和を探しているのだろう。  せっかくだから寿司でも食って、すぐに帰るのはどうだろう。そしてまた平穏に大学生活を続ける。前山と付き合うのは難しそうだけれど、もしかしたら外国人の彼氏とはそのうち無理が来るかもしれない。前山以外だって、女の子はいくらでもいる。  和がもしこのまま帰ってこなかったとしても、俺には関係がない。  俺の生活は平穏なまま続く。まるで和なんていなかったかのように。  ――和はベッドに横たわってぐったりとしていた。でも僕は何も、見なかった。  〝お願い……苦しいよ〟  遠いこだまのような声がまとわりついている。  俺はあのとき、和の声を無視してドアを閉じた。  俺は海に面した裏口のドアに目を向ける。波が打ち寄せる音の他は静かだった。ノブを握って引くと、ドアはゆっくりと開いた。
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