おまけ 兄が弟に看病される話

1/1

1604人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ

おまけ 兄が弟に看病される話

「兄さん、風邪じゃない?」  そう言われたときには特に自覚もなかった。  体調が悪くなってきたのはその日の授業を終え、図書館で勉強をしていたときだ。最初は夕飯を食べていないせいかと思った。だけどやけに体が重い。それにのども痛む気がする。  勉強もあまりはかどらないので早めに帰って寝た。和はバイトのようでまだ帰ってきていなかった。  翌朝になって初めて自覚した。声がうまく出ないし、頭がやけに熱くて重い。風邪だ。 「やっぱり」  いつの間にか起きて、もう身支度を整えている和が言う。  なんで俺より先に気づくんだよと言いたかったがやめておく。全身がだるかった。正確にはわからないけれど、微熱ぐらいはありそうだ。 「七度あるかな」  俺の額に勝手に手を当てて和は言う。 「そんなねぇよ」 「寝てなよ。水持ってきてあげる」  今日は絶対に出なければいけない授業もない。寝ていればたぶん治るだろう。 「俺、今日家にいようか?」  コップを差し出しながら和は言う。 「バイトは代わってもらえると思うし」 「いいから行けよ」  体を起こせないほどつらいというわけでもない。 「朝ご飯は?」  今まで、どちらかといえば体調を崩すのは和の方が多かった。 「いらない」 「何か買ってこようか」 「いいって言ってんだろ。お前がいる方が具合が悪くなる」  彼を意図的に見捨てたあの冬のことを忘れてはいないので、看病されるのは気まずい。  和は少し迷うように黙っていたけれど、そのうちに身支度を調えているらしい物音がした。 「じゃあ俺行くけど、辛かったら連絡して」  そう言って和は部屋を出て行った。たぶん学校だろう。俺はベッドで寝返りをうつ。 「子供じゃあるまいし……」  風邪くらいで看病されなくても大丈夫だ。寝ていれば治る。  浅い眠りを繰り返して、気がつくと昼過ぎだった。  熱は下がるどころか、少し上がっているように感じられる。世界のすべてがぼんやりしていて、でも重くのしかかってくる。 「腹減った……」  カップラーメンはこの間食べてしまったばかりだ。家の中にはろくな食料がないことが明らかだった。 「何もねぇな……」  ネットで宅配か何か注文しようと思った。だが携帯を手にしても頭が重く、操作をするのが億劫になる。空腹を抱えたままだらだらとベッドの上で寝返りをうち、俺はまたそのまま眠ってしまった。  目を開くとほんのりと甘い香りがした。甘いけれど、どちらかといえばしょっぱい味を連想させるような……だしのにおいだ。  何時間寝ていたのだろう。もう外は薄暗かった。キッチンに誰か立っている。 「起きた?」  後ろ姿しか見えないけれど、他にいようがないから和だとわかる。 「お腹減ってるでしょ」 「またカレーじゃないだろうな」  においで分かっていたけれど、それでも俺はかすれ気味の声で言う。目が覚めてひどくほっとしたことを否定したかった。実際、ろくに料理をしない和が今まで作ったのはカレーくらいだ。 「卵がゆだけど。食べれる?」  一体いつの間に帰ってきたのだろう。普段ならまだバイトをしている時間だった。 「腹減った」  俺はゆっくりと体を起こす。汗を随分かいていたようだった。寝ていただけなのに重い疲労感がある。 「兄さんは寝てていいよ」  頭が重いのは半分くらいは寝過ぎなせいな気がする。でもだるいのは本当だったから、俺はベッドからぼんやり和を見ていた。  しばらくして、和が器に粥をよそって持ってくる。レンゲなんてないからスプーンだ。手を伸ばそうとすると遮られ、そのまま和はスプーンで粥をよそって差し出してくる。  子供じゃあるまいし、自分で食べられる。だけど空腹には逆らえず、俺は口を開く。  だしつゆの味がする卵のおかゆは、簡単すぎるほど簡単な料理だろう。でも確かにそれは、実家と同じ味だった。 「どう、おいしい?」 「まぁ食えるな」  米を煮てだしつゆで味をつけて、卵を落としただけだ。このくらい誰だって作れる。でも、じわりと体の中が温かくなる。 「熱下がった?」  和はまた俺の額に手を当ててくる。その手は少しひんやりしていて気持ちがよかった。 「お前にうつせば治るかもな」  間近にある和の顔を見てぼんやりと俺は言う。昼間より熱は下がったような気がするが、まだ体は熱い。 「うつしてもいいよ」  風邪のせいで頭がまわっていなかった。間近にある唇に、俺はつい唇を重ねる。  一瞬、戸惑うような沈黙が落ちた。  俺は何をしているんだろう。 「――もう一回」  そう言って今度は和が唇を寄せてくる。ほんとにうつるぞ、と思ったけれど、心地がいいので黙っておく。  このじりじりとした熱が、本当にうつってしまえばいいのに。そうしたら俺は身軽になれる。唇から熱を受け渡そうとするかのように、俺は懸命にキスを続けた。  本当に和に風邪がうつってしまい、今度は俺が粥を作る羽目になったのはそれから少し後の話だ。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1604人が本棚に入れています
本棚に追加