1. 兄が弟に厳しいのは普通のことなんだって

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 1. 兄が弟に厳しいのは普通のことなんだって

 弟と自分が、違っていると気づいたのはいつからだろう。  僕たちはたった1歳違いだった。だけどたくさんの違いがあった。  気が付いた時から、いつも弟の周りには人がいた。  勉強はできないけれど、いつも笑って許される。 「誉、宿題があるんでしょう、早くやりなさい」 「和は?」 「和のことはいいの、あなたに言ってるのよ」  でも僕は、和がいつも宿題をしないことを知っていた。  だけど母は、僕ばかりを叱るのだ。テストの点数だってそうだった。僕は90点以下なんて取ったことがないけれど、弟は20点とか30点。それでも褒められるのは弟の方だった。 「どうして100点を取れなかったの?」 「和は……」 「誉、あなたの話をしてるの」  どうしてなのだろう。弟はニコニコ笑っているだけで、いつも誰からも好かれた。  彼と自分とはとても違っているらしい。僕はだんだん、そのことに気づかざるを得なかった。  僕だって、良い点数を取るために必死に勉強している。頑張っているのは僕の方だ。なのに誰も、僕を褒めてはくれない。 「お兄ちゃん、遊ぼうよ」  どこまでわかっているのか、弟は無邪気に笑いかけてくる。こっちはお前の顔なんか、二度と見たくもないのに。だけど暮らす部屋は同じ。毎朝毎晩、見ずにはいられない顔だ。  僕とはまるで違う顔。 「誰が遊ぶかよ」  弟の大きな瞳に、みるみる涙が浮かぶ。 「うわああ」 「ちょっと誉、和を泣かせないで……!!」  泣きたいのはこっちの方だった。 「だって、勉強が」 「たった一人の弟に優しくすることさえできないの?」  たまに思う。弟は、本当は全部わかっているのではないか。僕が和に冷たくすると、母に怒られる事を。泣けば言うことが通ると。全部わかっていて、余裕のない僕に嫌がらせをするためにまとわりついてきているのではないか。 「遊んでくれるの?」  僕はしぶしぶ、弟のプラレールに手を伸ばす。  線路を片端からばらばらにしてやった。それでも、弟はそれを新しい遊びだと思ったのかきゃっきゃと喜んでいた。  中学生になって僕の顔にはニキビがたくさんできた。 「男の子だからね、しょうがないのよ」  母はそう言って薬を塗ってくれたが、増えるばかりで全然よくはならかった。  僕は相変わらず、勉強に打ち込んでいた。他にできることもなかった。100点を取れば、母は怒らない。  弟は、ずっと小学校でも人気者だった。僕は、「和の兄」と呼ばれた。和は、これといって勉強ができる得意なわけでも、スポーツができるわけでもないのに。  僕は一足先に、中学生になった。  弟がいない中学校で、僕はのびのび過ごしていた。別に人気者になれたというわけじゃない。でも、和の兄とは言われない。それだけでよかった。  だが、一年たつとすぐに弟は僕を追いかけてきた。  中学は義務教育だから、同じところに通うのは当たり前だ。わかっていても、嫌でたまらなかった。  弟は、中学に入っても人気者だった。  彼の何がそこまで人を引き付けるのか。  人懐っこく明るく、人見知りはしないが、長所と言ったらそれぐらいだ。あとは、俺と違う顔立ちだろうか。  中学に入っても弟にはニキビができなかった。  それどころか彼女ができた。  僕は、クラスの女子とまともに話すことさえできないのに。連絡先なんて一人も知らない。  どうして、弟と僕はこんなに違うのだろう。  彼のテストの点数は、僕が1年生だった時よりずっと悪い。 「だせぇな、赤点かよ」  僕は弟のテスト結果を、これ見よがしにあげつらう。 「俺は100点だった」 「誉、あなたが勉強を教えてあげればいいじゃない」 「なんでだよ」 「一年前にやったばかりで、100点を取ったんでしょう? 和はがんばってやってるのよ」 「知らねぇよ」 「誉……!!」  僕があんな点数を取ったら、母にきっと殺される。なのに弟はへらへら笑っている。 「お兄ちゃんはすごいもん」 「気持ち悪い呼び方すんな!」  僕は和に掴みかかろうとする。 「誉! あなたはお兄ちゃんなのよ」 「違う!!」 「何言ってるの!」  どうにか合法的に弟を殺せないだろうか。  僕は次第にそう考えるようになってきた。  僕と和はひとつの子供部屋を一緒に使っている。僕に逃げ場所はない。中学校のあと二年、同じ学校に通うというのは僕には永遠のように長く感じられた。 「兄貴、勉強教えてくれない?」  僕がベッドに伏せっていると、和が近づいてくるのがわかった。 「なんだよその兄貴って」 「だってもう中学生だし、お兄ちゃんって言うのも恥ずかしいかなと思って」  彼女ができて調子に乗っているんじゃないだろうか。 「持ち悪いんだよ」  お兄ちゃんも兄貴もくそくらえだ。 「じゃあなんて呼べばいい?」 「お前に呼ばれたくなんてない」  和は最近、ぐんと背がのびたみたいだった。僕とは骨格からして違う気がする。  僕の弟のはずなのに、どうしてこんなに違うのか。  僕はやつの顔をじっと見る。大きな目、やわらかそうな髪、ニキビ一つない肌。  弟が憎かった。彼女と手をつないで帰っているところを見かけた。僕は中学でも次第に、「和の似てない兄」と呼ばれるようになっていた。  和はどこにいても目立つ。  せめて、もっと年齢が離れていたらよかった。  そうしたら、同じ中学に通うようなこともなくて済んだのに。あと二年間、ずっと和の存在を感じながら過ごさなければならないなんて。 「勉強くらい、一人でやれよ。俺は忙しいんだよ」 「でも……」 「でももクソもあるか!!」  思い切り怒鳴りつけると、和がひるむのがわかった。  いい気味だった。 「でも……」  和はまだ何か言いたげだった。 「お前の顔、不愉快なんだよ!」  そう言い放って、勉強道具をカバンに放り投げて部屋を出る。図書館で自習をすると言えば、さすがに母も文句は言わないだろう。  とびきり難しい高校受けよう。できれば寮があるとなお良い。絶対に和は一緒に通えないような。  なるべく早く、和と離れたかった。  僕が中学三年の冬、両親は親せきの法事で出かけていた。  僕は高校受験を目前にして、毎日勉強に追われていた。難関校を受けることを、母は応援してくれていた。教科書代でも、塾代でも、お願いすれば出してくれた。  だが、塾でも僕はあまり馴染めなかった。  難関校コースは勉強ができることを鼻にかけた嫌なやつばかりだった。友達はできなかった。  僕は両親がいないのを幸い、リビングのテーブルで参考書を開く。外は雪が降っていたので、図書館まで行きたくなかったのだ。 「ただいま」  弟が学校から帰ってくる。今日の夕飯は二人で食べるように言われていた。だが、和と一緒に食べる気なんてない。さっさと一人で食べて、眠るつもりだった。 「兄さん、薬知らない?」  和の声はかすれていた。弟からの呼び名は、いつの間にか「兄さん」で定着していた。  和の身長はますます伸びて、もう俺よりもでかい。  ちらと見ると、リビングのドアのあたりに立った和の顔は真っ赤だった。 「風邪っぽくて……」 「近寄んじゃねぇ」 「うん、そうだよね……ごめん。でも、薬だけ出してもらえないかな」  和がこんな風に調子を崩したところは初めて見た。バカでもたまには風邪を引くらしい。 「ごめん、お願い。自分で探してはみたんだけど……本当に体調が悪くて……」 「わかったよ」  乱暴に答えると、和はふらふらした様子で、部屋に戻っていった。  だが、僕はそのまま勉強を続けた。体調が悪い? ざまあみろだ。そのまま高熱が出て死んでしまえばいい。  僕と和の部屋は同じだ。  だが幸い、今日は両親がいない。両親のベッドで眠ってやろう。  だって僕は受験生だ。風邪がうつったら大変だから。  和は、食事を食べにリビングに来ることもなかった。きっと、眠っているのだろう。夕飯を食べ終えて、一人だけで風呂に入って水を抜いた。  すがすがしい気持ちだった。早く難関高校に入って、和のことなんて忘れたい。  子供部屋の前を通ると、弱弱しい声が聞こえた。 「兄さん……」  僕はそっと、部屋のドアを開ける。  寝ているとばかり思っていた和は、はぁはぁと荒い息をしていた。よっぽど具合が悪いらしい。ベッドに横たわったまま、ぐったりとしているように見えた。 「兄さん……お願い」  足音に気づいたのか、僕の方を見て言う。 「苦しいよ……」  息をひゅうひゅういわせながら、途切れそうな声で弟は言う。  だが、僕はそのまま部屋のドアを閉めた。  僕は何も見なかった。  勉強に熱中していた。体調が悪いなんて気づかなかった。それだけだ。どれだけあいつが辛かろうと関係ない。  翌朝も、和のことを無視したまま学校に行った。和の部屋からは、何も物音が聞こえてこなかった。寝ているのだろうと思った。  その日、和は帰宅した両親によって病院に運ばれた。  風邪をこじらせ、肺炎になりかけていたということだった。僕は何も気づかなかったと言った。  両親も疑うことはなかった。  和も両親に何も言わなかった。僕に薬を持ってくるように頼んだとか、そういうことは何も。  だがその日以来、僕に話しかけてこなくなった。  そのくせたまに、じっともの言いたげな目で僕を見ていた。  解放の日はもう少しでやってくるはずだった。  だが、僕は本命の高校に落ちた。受験の日に、高熱を出して倒れたのだ。  薬を飲んだけれどとてもだめだった。受かったのは、母から一応申しこむように言われていた近所の公立高校だけだった。誰でも願書を書けば合格すると言われるところだった。  目の前が真っ暗になる。  一年間は和が追い付いてこない。だけど、たった一年だけだ。こんな、自分よりずっと偏差値の低いクラスメイトたちに囲まれて和が来るのを待つのか。  どうせ和が同じところに通うことになるだろうことはわかっていた。  永遠かのように長い二年がまた、僕の前には横たわっていた。  僕……いや、俺は高校の三年間、ずっと勉強にかかりきりだった。  もう友達などどうだってよかった。彼女なんてどうせできない。体調管理にだけは気を付けた。体力をつけた方がいいと聞いてジムにも行った。  ひとりでできることなら何でもやった。  そのかいあって無事に、難関大学に受かった。  自宅からは通えない、関西の大学だ。わざと家から通える範囲の大学は受けなかった。 「やっぱり誉はやればできる子ね」  両親も、すごく褒めてくれて嬉しかった。  やっと、和と離れられるのだ。  はしゃぐ気持ちをぐっとこらえながら荷造りをした。関西では念願の一人暮らしだ。そう広い家ではないが、まったく構わなかった。  新しい環境が楽しみだった。こんなに自分の人生に希望を感じたことはない。  高校の間は、勉強ばかりで友人も彼女もできなかった。  だけど、これから俺の人生は始まるのだ。  俺はすっかりうかれていた。母とは違う、重くゆっくりとした足音が近づいてきたときも、だから最初は気づかなかった。 「俺のこと嫌い?」  弟が、部屋の入り口に立っていた。  どんなにいやでも、毎日見なければならなかった顔。俺よりずっと整っている、隣の学校からも見物人が来るような顔。やっと、もう見ないですむ。 「何だよ」 「答えてよ、イエスかノーで」  今更何を言っているのだろう。どうせ、とっくにわかっているくせに。  彼の身長は、もう俺より高い。中学の頃の彼女とは別れて、高校でもとびきり美人で知られる俺の学年の女子と付き合っていることは知っていた。  俺と和はまるで似ていない。  俺の顔にはニキビ跡が残っている。だが和は、街を歩くだけでスカウトされる。体つきが、顔のつくりが違う。  できることなら和を殺したかった。  でも、もうさよならだ。俺は自由になった。  俺は短く答える。 「イエス」  和はぴくりとも表情を変えなかった。愛想がいい、誰にでも優しいなんて言われているけれど知っている。  こいつはときどき、ぞっとするほど暗い目で俺を見る。 「そっか」  一体何を聞きたかったのか。和はそれだけ言った。ほかの答えなんてあるはずはないことを、彼だってわかっているはずなのに。  そうして重い足音が離れていく。不気味だとは思ったが、もうどうでもよかった。この先、できれば二度と会いたくない。可能な限り、顔を合わせないようにするつもりだった。  俺は、大学の近くで一人暮らしを始めた。  誰も弟のことを知らない。同じ高校から、その大学に進学した同級生はいなかった。  心細さよりも、喜びの方が勝っていた。俺は自由だ。 「なぁ、急に一人欠員出たんだけど、合コンとか興味ある?」 「え、あ、うん」 「よかった、N短大の子たちだから、かわいい子多いよ」  大学というのは素晴らしいところだ。  その大学には、様々な地方から生徒が集まっていた。俺は、自然と周囲になじむことができていた。  男女分かれて三対三で、テーブル席に座る。女性とまともに話すのなんてしばらくぶりだったけれど、弟と物理的にも離れて、俺はずっと気が楽になっていた。 「みんなK大なんでしょ? 頭いいんだね、すごい」  彼女たちが俺を見る目は、かつて、中学や高校で弟を見ていた女性たちの目と似ていた。  やっと、解放されたのだ。  天国はここにあったのだと思った。俺は、焦ったように、女性を追いかけた。もちろん失敗もした。  だけど、次のチャンスもすぐにやってきた。  こんなに人生は楽しかったのかと思った。  初めてのセックスは気持ちが良く、女の子は柔らかかった。大学の授業も、高校までの勉強よりよほど面白かった。俺はやっと、自分の生きる場所を見つけた。  実家には帰らなかった。正月が来ても、母からいい加減帰ってきなさいと言われても、意地でも帰らなかった。弟と連絡はとっていない。どこの大学に進学するのかも知らない。  だが、頭がいいわけでは無い弟に、俺と同じ大学に通う事は無理だろう。  俺は勝ったのだ。  そう思っていた。  俺はじきに、母からの連絡も無視するようになっていた。  だから本当は事前の連絡があったのかもしれない。だけどわからなかった。  俺は大学2年生になり、合コンに行くことにも飽きて、1人の女性と付き合い始めていた。落ち着いて聡明で、可愛らしい人だった。  長い髪が、弟の最初の彼女と少し似ていた。  俺が授業から帰ると、見慣れない靴が玄関に二足あった。一足は彼女のものだ。もうひとつは大きなスニーカー。誰か大学の友人だろうか。 「誰か来てるのか?」  部屋に入りかけた俺は固まる。そこには二人の人間がいた。俺の頭は、見ているものをとっさに理解するのを拒否しようとする。  二人は身体を寄せて、唇を重ね合っている。  もし、彼女の腕が男の背に回されていなかったら、無理矢理だと思うこともできただろう。だけど、どう考えてもそういう雰囲気ではなかった。 「なに……して」  あっけにとられて、声はほとんど出てこなかった。 「あ……」  彼女が気まずそうに俺を見返してくる。 「違うの……!」 「何が?」  俺は思わず、冷たい声で聞き返す。  そこにいたのは、弟だった。  和は、しばらくぶりに見てもやっぱり美しかった。狭い下宿の部屋にいても、着ているのが安い量販店のシャツでも。俺とは、そもそものパーツが違うのだ。  その理由は考えないようにしてきたけれど。 「ごめんなさい……!」  俺の顔をまともに見ずに、彼女が部屋を駆け出していく。その背を追うべきだったのかもしれない。だけど俺の目は、弟から動かなかった。  彼女が出て行ってばたんと扉が閉まり、部屋が一瞬静寂に覆われる。 「久しぶり」  弟は唇を拭って言った。 「何してんだよ……」  全身が怒りで包まれて、破裂しそうだった。 「何って?」 「人の部屋で……! お前は……!!」  まともに言葉が紡げない。次の瞬間には、俺は彼に掴みかかっていた。  弟がいないここは天国だと思っていた。女性たちも、ちゃんと俺を見て付き合ってくれていたのだ。  だがこいつがいたら何もかも台無しだ。 「お前が……! お前さえいなければ……!!」  和がいるところに俺の自由はない。誰も彼も弟ばかり見る。何もできないくせに。俺よりずっと、劣っているくせに。  俺のことなんて、ずっと誰も褒めてくれなかった。 「くそっ! 何なんだよ!」  殴りかかろうにも、暴力をふるったことなどない俺はどうしていいかわからない。  体格がいいのは和の方だ。俺はあっけなく、和に体勢を逆転されていた。畳に頭を押し付けられる。  和は、俺を殴ったりはしなかった。  ただじっと、俺を見下ろしていた。 「僕は、兄さんのこと、すごいって思ってたよ」 「は?」 「勉強できるの。すごいと思ってたんだ。家族みんなそうだよ」 「でも、母さんだって誰も……」 「期待してるから叱るんだよ。僕の成績なんて、母さんは最初からどうだってよかった。だからまともに見もしなかった。兄さんの成績表は、隅から隅までチェックしてたのに」  でも俺が欲しいのは、そんな扱いじゃなかった。  ただ弟にするのと同じように、褒めて欲しかったのだ。 「僕は、実の子供じゃないから、どうでもよかったんだよ」  俺と和はあまりに違う。俺と両親は似ているのに。和はあまりにも外見が整いすぎている。どこにいても明らかに目立つほどに。 「どうでもいいから、優しかった。でも兄さんだけが違った」  母は俺に厳しく、和に甘い。  陰で何と言われているかはずっと知っていた。詳しい事情までは知らない。でも、子供でもそういう話には敏感だ。いつからかわかっていた。  弟は両親の子供ではないのだ、と。 「兄さんは、僕のこと特別扱いせずに、ずっとちゃんと自分の弟として扱ってくれた」  そんなつもりじゃない。単に嫌いだったから。許せなかったからだ。 「なんでここに来たんだ……」 「嬉しいな、また兄弟一緒に暮らすことができて」 「何言って」  たちの悪い冗談にしても、おもしろくも何ともない。俺は強引に体を起こそうとした。だけどあっけなく、和にまた押さえつけられる。 「母さんから連絡あっただろ?」 「は?」 「僕も、こっちの専門学校に通うことになったから」 「冗談だろ?」  だが、和はまるで笑わなかった。 「専門なら家の近くにもある……」 「どうしても、ここの学校じゃないといけなかったんだよ」  淡々と和は語った。  俺は話についていけない。認識したくない。そんなことあるわけがない。 「近くの学校に通う兄弟がいたら、同じ部屋に住むのは自然なりゆきだ」 「だとしても、なんで俺の家に……!」 「うち、そんなに余裕ないからさ」 「でも」 「ここの家賃は母さんが払ってるだろ?」  確かにそんなに裕福な家でないことは知っている。この部屋の家賃も払ってもらっていた。  この一年遊んでばかりいた俺はバイトもろくにしていない。もし家賃を払わないと言われてしまったら終わりだ。仕送りだってもらっているし、授業料だって両親頼みだ。 「こんなとこ、狭くて二人は……」 「さっきの人、彼女? それとも元彼女?」  もう話は終わったとばかりに、弟は話題を変える。 「間接キスだなぁって思ったらすごい興奮した」  肩に手が食い込んでくる。逃げられない。  俺はもがいても抜け出せず、畳に押さえつけられる。  和はゆっくりと屈みこんできて、あろうことか俺の唇にキスをする。 「な……」 「兄が弟に厳しいのは普通のことなんだって。だからいいんだ、僕のこと嫌いでも」  違う。俺は和を身内だと思ったから邪険にしたんじゃない。ただ嫌いだっただけだ。  呆然と動けないまま、俺はまるで自分に似ていない和の顔を見上げていた。俺を押さえつける和の体重は重い。  痩せて不健康な自分とはまるで似ていない。  朝も昼も見飽きるほど見ても、やっぱりわからない。どうしてこんなに、弟と俺とは違うのか。  どうして和だけが、こんなに美しいのか。たった1歳違いなのに。どうして。 「優しくしないでくれて、ありがとう。兄さん」
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