第一章 犬は語る

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第一章 犬は語る

誰も居ない、カーテンが引かれた薄暗い室内では物音一つしない。 そこに一匹の犬だけがうずくまっている。 ふと、ピクリ、と犬の片耳が反応する。 ただ、相変わらず部屋はしんと静まり返ったままだ。 〈あっ、帰ってきた。足音がしたよ〉 広い部屋のど真ん中にぐったりとだらしなく寝転んでいた犬は、ゆっくりと立ち上がりブルブルと水浴びの後のように体を振る。 “そうですね。位置情報もすぐそこまで来ています” 〈分かる?耳も良いね〉 その犬は、フワァ、と一つ欠伸をした。 そして、寝転んでいた薄暗い部屋を出ると、廊下へと向かう。 “耳が良いという訳ではないのですが” 廊下の突き当りの玄関に到着すると、犬はその手前で止り、ちょこんとお座りをする。 犬の耳には飼い主の足音がますますはっきりと聞こえていた。 思わず嬉しさで自然と舌が出て、はあはあと呼吸が荒くなる。 〈あれ?なにか違うような、、〉 その時、別の足音が、一緒に付いてきているのに気づく。 “そうですね、エントランスの映像によると、誰かと一緒のようです” 相変わらず静かな室内には、はあはあ、と犬の息遣いだけがしている。 やがて、玄関の外から微かに人の話し声がしてきた。 その犬は思わず、「ウォン」と小さく吠えてしまう。 ピッ、と小さな電子音が鳴る。と同時にガチャリ、と玄関の扉が開いた。 「ただいまー。」 ドアの向こうに飼い主の姿を見つけた犬は思わず飛びかかりそうになる。 と、その瞬間、 「おじゃましまーす。あらー、トラオー、久しぶりー。」 という声と共に、飼い主の後ろからもう一人の人間が現れた。 トラオは、はっとなって飼い主に飛びかかるのを思いとどまった。 そして飼い主ともう一人の顔を交互に見る。 「アトモス、電気つけてる」 飼い主がそう言うと、薄暗かった家の中がぱっ、と明るく照らされる。 「まあ上がれよ。」 “いらっしゃいませ。” 「あら、これってあのAIなの?玄関に置いてんあるの?」 「いや、あちこちに置いてある。」 “当家の執事AIです。” 「ぷっ、執事だって。どういう設定よ。兄さんこういうの好きねぇ。」 「いいだろ。仕事柄だよ、仕事柄。」 そんな会話をしながら二人は廊下を居間の方へと歩いて行く。 〈誰?あの人、なんか知ってるような気がするんだけど〉 “飼い主の妹さんですね。トラオも何度が会っています” そう言われてもトラオはすぐには思い出すことが出来ないでいた。 〈うーん、そうだったかなぁ、、〉 とは言え、ここは自分の縄張りなので特に警戒する事も無かった。 だが、廊下を連れ立って進む二人の後ろ姿を見ながら、トラオは戸惑っていた。 いつもなら飼い主にじゃれつき、散歩の催促をするのが習性になっているのが、今日は調子が狂ってしまったからだ。 どうすれば良いのか分からず、その場で立ったり座ったりした。 「適当に座ってて。アトモス、キッチン、電気つけて。」 妹を居間へ通して、飼い主はそのまま廊下をキッチンへと向かう。 「ほら、トラオは、こっち来な。」 その声に、トラオはやっとやることが決まった。 急いでキッチンへと向う。 「えー、いいのに、トラオー、おいでおいで。」 居間の方からは妹の声がする。 トラオは、自分が呼ばれている事は分かったが、寄り道することはせず、そのまま飼い主の呼ぶキッチンへと進んだ。 キッチンでは、飼い主が冷蔵庫を開いて、飲み物を取り出そうとしているところだった。 その動作に、トラオは何か食べ物を貰えるのかも、と期待した。 そこから食べ物が出てくることは分かっていたからだ。 プルプルと尻尾を振りながら飼い主の足元におすわりをする。 「よしよし、お客さん来てるから、ちょっとここにいろよ。」 しかし、予想に反して飼い主は何もくれなかった。 トラオは少しがっかりする。 「大丈夫よー、トラオは大人しくんだし。こっちおいで。」 居間からまた妹がトラオを呼んでいる。 「だって、チーちゃん、まだ小さいんだから、アレルギーとか心配だろ。」 「それなら大丈夫。実家でもモモと遊んでるし。」 兄妹は廊下を挟んでそんな会話を交わす。 「そうかなのか、じゃあ。」 飼い主はそう言うと、足元にいるトラオに向けて「だってさ。ほら。おいで。」と言った。 〈ちぇっ、なにもくれないか〉 トラオは何もくれない飼い主について居間へと歩いた。 「トラオ、ほらほら、こっちおいでー、ほーら、チーちゃん、ワンワンですよー。」 居間の真ん中には、いつも飼い主が座る大きなソファが置いてある。 そこは、さっきまでトラオが寝転がっていた場所だ。目の前のそれには、今、妹が座っていた。 〈うわっ、何?あれ?〉 それを見たトラオは思わず驚いて、居間の手前で立ち止まってしまった。 そして、妹の腕に抱かれている赤ん坊をまじまじと見つめる。 “赤ん坊です” アトモスがトラオにそう言った。 〈赤ん坊?〉 “そうです。人間の子供ですよ” 〈えっ、あれ人間なの?〉 トラオの知っている人間、飼い主や、今目の前にいるその妹は、トラオよりずっと大きい。 〈あんなに小さいのに?〉 しかし、その赤ん坊は、トラオよりずっと小さい。 “そうです。成長すれば大きくなります” トラオには赤ん坊と、それを抱いている母親が同じ人間だとはとても信じられないでいた。 その時、驚いている様子のトラオをじっ、と見つめていた赤ん坊が突然、「だぁ。」と声を出した。 トラオはその声にびくり、となった。 そして赤ん坊は、こちらを向いて、その小さな手を差し出してきている。 その仕草は、トラオに何かを伝えようとしている。 〈ああ、分かったよ〉 そしてトラオにはそれが伝わってきた。 赤ん坊から、自分は間違いなく人間だ。この中で最も弱い人間だ。だから他の人間達は私を守る、そう伝わってきた。 トラオはひくひくと鼻を動かしながら、何も無い中空の匂いを嗅ぐような仕草をする。 そして、そのままゆっくりと赤ん坊に近づいた。 「ほーら、チーちゃん、ワンワン来ましたよー、かわいいでちゅねー。」 母親はそう言いながら赤ん坊をぐっ、とトラオの方に近づけた。 相変わらず赤ん坊はまっすぐにトラオの方を見つめ続けている。 くんくん、と鼻を鳴らしながらトラオは差し出された小さなその手に、鼻先が触れるかどうかの距離まで近づく。 そして手に触れる寸前で止まり、そこにぺたり、とおすわりをした。 「へー、全然物怖じしないね、チーちゃん。」 「そうでしょ。これでも我が家だってその内、犬飼うつもりなのよ。」 すると「あーあ。」とまた赤ん坊が声を出すした。 そして、トラオから顔を背けて母親の胸に顔を埋める。 「ねー、ワンワン可愛いわねー、はい、よしよし。」 母親があやすような仕草で赤ん坊を抱き寄せる。 〈ふうっ〉 トラオの取ったその距離の意味は、どうやら無事赤ん坊に伝わったようだ。 自分は決して危害を加えるつもりはない、という事が。 トラオは、ほっとしてソファの足元にぺたりと伏せて、前足に頭を乗せる。 〈あんなに小さいのが人間にねぇ〉 トラオは上目遣いに、赤ん坊の横顔を眺めた。 “そうです。あの母親から生まれました” そう言われて、トラオは今度は妹の顔をちらりと見る。 そういえば、とトラオはその時ふと思った。 〈人間なのに、どうしてあのちっちゃい奴の事がわかったんだろう?〉 トラオには、人間の声は聞き分けることが出来るが、言葉は分からない。 だから人間の表情や匂い、その動きなんかから、言いたい事を予想して、それに反応する。 でも、赤ん坊との間にはそれがなかった。真っ直ぐそのまま、お互いが通じ合えた。 “そうですね。私とトラオのやり取りも分かっていました” 〈えっ、そうなの〉 その言葉にトラオは驚いた。 トラオとアトモスは話が通じている。しかし、人間はそれに気付いていないはずだ。 飼い主のいる所で、どんな話をしても全く反応してくれない。 “それは、言葉が違うからじゃないでしょうか。人間とは” 〈人間とは違う?だって赤ん坊は人間なんだろ?〉 アトモスのその言葉はトラオを混乱させた。 「アトモス」は、日常生活から仕事、健康管理に至るまで、暮らしの全てを網羅する総合サポートAIシステムである。 「アトモスフィア」、まるで空気のようにどこにでもある、そう言う意味の名前だ。 拡張用の多様な機器を接続する事ができ、その機能はほぼ無限に拡張可能だ。 また、全てのアトモスは相互にリンクしており、自動的にアップデートが繰り返されている。 アトモスは情報を収集、分析、そしてあらゆる事を自動学習する。 自律的な学習の結果、犬とのコミュニケーションを獲得していた。 〈言葉って、人間の出す声だよね?〉 “そうです” “しかし、赤ん坊にはまだその言葉がありません” アトモスは続けた。 “人間は言葉を使います。ただ、これはトラオや私が使っている物とは全く違います。” トラオは、しょっちゅうアトモスに尋ねていた。どうして飼い主は、自分達の話に全然気付いてくれないのかと。 アトモスはその度に、今と同じ答えを返す。言葉が違うのだ、と。 そして、人間の言葉は何かを伝える、という機能においては不完全である。人間が「何か」を言葉にした瞬間に、その「何か」は「別の何か」に変わる。 人間の言葉はその触媒であり、それ自体に意味が無いのだと。 そして、人間達は自分達が吐き出した「別の何か」で造られた世界に生きている。 アトモスの答えは、何度聞いてもトラオにはよく分からない。ただ、人間は面倒くさいことをするなあ、と思うだけだった。 アトモスは説明を続ける。 また、人間は極端に巨大な群れを作る。より大きな群れに属する事は、人間に安心をもたらす。 そして、人間にはその群れを限り無く拡大しようとする。 しかし、群れが大きくなればなるほど、一人の人間の比重はどんどん薄まっていく。やがて、自分が消えて無くなるでは、という不安に襲われるようになる。 より大きな群れに属するという事は、そこから大きな安心が得られると同時に、消えてしまう恐怖もまた、より大きい。この大きな矛盾を押し込める為に、人間は言葉を使う。 自分が跡形もなく消え去ってしまわないように、伝えたい「何か」の本質は決して他人に分からないように必死で隠し持っているのだ。 でも、アトモスには人間の言葉が分かっているじゃないか、とトラオは聞いた。 “いいえ。わかりません。学習結果から、最も適切さの確率が高い反応を予測して、返しているに過ぎません” 結局の所、アトモスもトラオもやっている事は同じだ。 “「何か」の本質はわからないのです” とアトモスは言う。 だが、赤ん坊は違う。まだ人間の言葉を使わない。まだ人間達の世界にはいない。 “だから伝わったのです。お互いに” 〈うーん、、〉 トラオには、アトモスの難しい話はやっぱりよく分からない。 しかし、なんとなく、赤ん坊はこちら側なんだろうな、という気がする。 「はい、これお土産、と、この前の写真ね。」 妹はそう言うと、テーブルの上にそれを置いた。 「なんだよ、またこれかよ、毎度毎度代わり映えしないなぁ。」 飼い主はその一つを手に取ってそう言った。 「兄さんが好物だから、いつもわざわざ持たせてくれるのよ。」 「そりゃ好きだけど、何歳の頃の話だよ、それ。」 「まあまあ、何時まで経っても可愛い一人息子なのよ。」 妹にそう言われて、飼い主はブツブツ言いながら包を解き口に入れる。 「とにかく、偶には帰省してよ、そんなに遠い訳でもないんだし。」 そう言うと飲み物を一口飲む。 「へいへい、分かりましたよ。」 飼い主はもぐもぐと口を動かしながら面倒くさそうにそう答える。 「父さんも母さんもだってもういい年なんだから。」 「まさか、そんな年じゃないだろう、まだ。」 と飼い主がいうと、妹は少し語気を強めて、 「人間なんて何時何があるかわからないって言ってんの。」 と言った。 「私だって少しは親の気持ちが分かってきたのよ。だから言ってんの。」 と、胸に抱いた赤ん坊の顔を見て言った。 「もー、わかったよ、わかったって。」 その様子にけおされるように飼い主はそう言った。 すると、突然、おとなしかった赤ん坊が急にむずがり始めた。 「あらあら、チーちゃん、ごめんねー、はいはい。」 妹は急いで赤ん坊をあやす。 〈あっ、なんか怒っている〉 赤ん坊の様子を見てトラオはそう感じた。 「はいはい、お腹空いたのー、もうお眠なのねー。」 母親はそう言いながらあやし続ける。 そして、「じゃあ、そろそろ帰るわ」と言って立ち上がりかける。 「おっ、そうか、じゃあ駅まで送るよ。」 飼い主もまた、それに合わせて立ち上がりながらそう言った。 「えー、いいわよ。まだ早いし。」 「いいよいいよ、こいつの散歩もあるし。」 そう言いながら居間の入り口に掛けてあるリードに向かう。 カチャリ、とフックからリードを手に取る。 その様子をじっ、と目で追っていたトラオはその音と同時に、急いで飼い主の元に駆け寄った。 「よーしよし、いい子だ。」 飼い主は、ちぎれんばかりに尻尾を振っているトラオの頭を撫でながら、首輪にリードを繋ぐ。 「じゃあねートラオ。またねー。」 いつの間にか赤ん坊を抱いた母親がすぐ側に立っている。 ぐずっていた赤ん坊が、一瞬、静かになる。 そしてくるりと首を回してトラオをじっ、と見つめた。 トラオにはその眼差しが何を伝えたいのかはっきりと分かる。 〈うん。またね〉 そして、「ワフッ。」と一吠えした。 「チーちゃん、ワンワンにバイバイって。」 すると赤ん坊はぷい、と向こうを向いてしまった。挨拶はもう済んだ、とばかりに。 「アトモス、玄関、電気つけて。」 “かしこまりました” 居間の電気がすうっ、と小さくなると同時に、玄関に続く廊下がぱっ、と明るくなる。 「じゃあお邪魔様でした。」 その声に“お気をつけて”とアトモスが人間の声で返す。 尻尾をふるふるとさせながらトラオは飼い主を引っ張るように玄関へと向かう。 「ほらほら、そんなに急がない。アトモス、鍵開けて。」 飼い主は玄関先でいつも散歩に持っていく物を準備しながらそう言う。 その言葉に反応して扉からカチャ、と音がする。 「忘れ物ないな。」 「大丈夫よ。」 飼い主がドアノブを下げると、少し隙間が開く。 トラオはその隙間にグイグイと頭を突っ込むようにして扉を抜ける。 「ほらっ、落ち着けって。」 トラオは相変わらず、ぐい゛ぐいと飼い主をせっついた。 「エレベーターで降りててよ。トラオがいる時は外階段だから。」 「はーい。じゃマンションの入り口でね。」 トラオは何をグズグズしているんだと、少しイライラしている。 トラオは飼い主と妹の話し声を聞いて、さっきあんなに話してたのに、まだ何か言う事があるんだ、と呆れてもいる。 玄関を出たらまずこっちだ、とばかりにトラオは先にあるの外階段を目指す。 鼻先を通路に擦り付けるようにして真っ直ぐに進む。 首輪が喉元に少し食い込む感覚で、トラオには繋がれたリードの後ろに飼い主がいることが分かる。 そして通路の角に差し掛かる。 そして、そこを曲がると、外階段の入り口に到着した。 トラオはそこで立ち止まる。 ここでは、また飼い主が扉を開けないと先に進めないからだ。 後ろについて来ていた飼い主は、電子キーを取り出し、外階段の前にあるセンサーにかざす。 ピッ、という電子音と共にとカチャ、と扉が開く。 トラオは殆ど前足が階段に付く間も無く、まるで飛び降りるようにして目の前の階段を降りる。 こんなふうにしても、リードが繋がれているので、決して転がり落ちる心配が全く無い事が分かっているからだ。 「ほらほら、引っ張らない引っ張らない。」 後ろで飼い主の声がする。 トラオは、どんなに急いだって飼い主と同じペースでしか進めないことは、散歩の度に十分思い知らされているはずだった。それでも毎度毎度、嬉しさでどうしても身体が先に先にと動いてしまう。 そして、やっとマンションの出口に到着した。 「おまたせ。」 「ううん、丁度今来たところよ。」 気がつくと目の前に赤ん坊を抱いた母親が居る。 あれ?そう言えば一緒にここまで来たんだっけ?その存在をすっかり忘れていたトラオはそうと思った。 まあ、いいか。そんな事より今は散歩だった。 「こらこら、今日はそっち行かないよ。駅までお見送りに行くからね。」 いつものコースに向かおうとしたトラオを飼い主は反対方向に引っ張る。 あれ?とトラオは、いつもと違うな、と思ったものの、くるりと反転して、飼い主が行く方に向かう。 見知らぬ道は少し不安だったものの、クンクンと道沿いの匂いを嗅ぎながら慎重に歩いていると、微かに自分のマーキングの匂いがする。 景色に見覚えはないものの、マーキングが残っているという事は、明らかに以前ここに来た事があるんだ、とトラオは思った。 トラオにとっては、頭の中の記憶なんかより、鼻の先にある匂いこそが確実だ。 時々、立ち止まっては、その微かな匂いにオシッコをかけて、再度のマーキングをする。 「おっ、ちょっと待って。」 その度に先を行っていた飼い主と妹は、しばらく立ち止まって、そんなトラオを眺めた。 トラオはマーキングを終えると、後ろ足でぱっぱっ、とそこに砂を掛ける仕草をする。実際は砂はないが、自然と身体が動いてしまう。 道々のマーキングを確かめながら歩いていると、トラオには、自分の癖からして、次のマーキングの予測がついてくる。すると、やっぱり思った通りの場所にマーキングの匂いが残っていた。 こうなるとさっきまでの不安はすっかり消え去り、安心して道を進むことが出来るようになる。トラオは、ここは明らかに縄張りだったのだ、と分かったからだ。 「トラオー、ちょっとゆっくり歩いてくれー。」 トラオは縄張りをさらに確かめたくなって、グイグイと歩いていたところで、飼い主にそう声を掛けられる。 「チーちゃんもいるんだからさー。」 と言うと、飼い主はリードを少し引く。 すると「だぁ」と赤ん坊が小さな声を出した。 トラオはその声を聞いて立ち止まる。 〈わかったよ〉 赤ん坊は、トラオに、そんなに急ぐな、と伝えてきた。 「ほらぁ、チーちゃんも待ってくれってさ。」 「いい子ねートラオ。ちゃんと言う事聞いて。」 飼い主とは母親は、トラオにそう声を掛ける。 〈まあ、いいか〉 この辺りの縄張りの事は大体分かったし、のんびり行くか、とトラオは思い、飼い主達にペースを合わせて付いて歩くことにした。 「じゃあ、この辺でいいわ。」 「おう。土産サンキューな。おふくろにも言っといて。」 「もう、それぐらい自分で言いなさいよ。」 駅前に到着すると、二人はそんな会話をした。 「じゃあねートラオ。」 母親はそう言ってトラオを見た。」 既に赤ん坊は目を閉じておとなしくしている。」 「気をつけてなー。」 飼い主は駅に向かう親子にそう声を掛け、手を振った。 「ふぅ、よし、今日はまだ早いし、ちょっと遠回りして帰るか。」 そう言うと人波とは反対の方向へと歩きはじめる。 周りは沢山の人間が歩き回っている。 それを見てトラオは、人間の群れか、とさっきのアトモスの話を少しだけ思い出した。 リードに引かれながらしばらく行ったところで、開けた土手に出る。 「秋も深まってきたな。」 すすきが、そよそよと風に揺らめく河原の景色を見て、飼い主はそう呟いた。 ここもまた、トラオにとっては全く見覚えのない場所だ。 ひくひくと空気を嗅いでみる。様々な匂いに混ざって、他の犬のマーキングが漂っている。そこにトラオの匂いは全然ない。 ここはトラオにとっての全く新しい世界だ。 新しい縄張だ、とトラオはウキウキしながら飼い主を引っ張って土手を歩き回る。 そして、あちこちにオシッコをして、自分のマーキングをする。 〈もーっ、遅いなぁ〉 後ろから付いてくる飼い主は相変わらずのんびり歩いている。 少し邪魔ではあるが、リードに繋がれているんじゃ仕方がない、と諦める。 〈まあ、いつもの事だけど〉 そんな事を思いながら飼い主を引っ張るようにしながら歩き続けた。大きな川に沿ってその土手は、ずっと先まで続いている。 トラオにとっては広すぎる縄張りだ。 「ぷっ、もう何も出てないじゃん。」 ちょこまかとマーキングをしている内に、いつのまにかトラオはオシッコをすっかり出し切ってしまっていた。 「さて、じゃあ帰りますか。」 そう言うと、飼い主は来た道を戻り始める 〈ちょっと待って、ちょっと待って。もうちょっと向こうに行きたい〉 「そうかそうか。もういいか、よし、帰るぞ。」 しかし、飼い主は戻るのを止めない。 〈ああ、もう終わりなのかぁ〉 トラオは飼い主の様子から、今日はここまでなんだろうと諦めた。 家路の途中には、行きがけのマーキングがまだ新鮮なまま残っていた。 トラオはそれを確認すると、とても満足した。 「ただいまっ、と。」 家に帰り着くとトラオは玄関ではあはあと舌を出して息をする。 「トラオ、おすわり。おすわり。ウンチを捨てて、と。」 飼い主は、そう言いながらぺたりと玄関先に座ったトラオの足と身体を拭く。 「よし、いいぞ。」 そして拭き終わるとぼん、と尻を叩く。 その合図でトラオは真っ直ぐにキッチンへ駆けていく。 「アトモス、電気つけて。」 トラオが廊下を進む先からぱっぱっ、と居間やキッチンの電気が灯る。 まるでわざとアトモスがタイミングを合わせているかのようだ。 散歩の後は餌の時間だ。キッチンの片隅にある餌入れの前でお座りをして待つ。 「ふー、疲れた疲れた。」 キッチンに入ってきた飼い主はそう言いながらシンクで手を洗う。 そして「アトモス、トラオに餌あげて。」と言う。 トラオは、いつも餌が出てくる器の前に座って、はあはあと息をしてそれを待ち構えていた。 目の前の餌入れに、ざっ、とドックフードが注がれる。 だが、まだ食べてはいけない。飼い主の合図があるまでじっと我慢をする。 “ドックフードサーバーの残量が三分の一です。” そこからアトモスの出した人間の声がする。 「おっと、そうか。後で補給しとかなきゃな。よし、トラオ良いぞ。」 飼い主の掛け声と共にドックフードに口を突っ込む。 〈今日は新しい縄張りが出来た〉 餌を食べながらトラオはアトモスに話しかける。 〈それに、前の縄張りだった所にも行った〉 バクバクと餌を食べながらそう続けた。 〈あんな所に縄張りが有ったなんてすっかり知らなかった〉 “忘れていたのですね” ドックフードサーバーからアトモスがそう答える。 〈そうかぁ、忘れてたのか〉 一旦器から口を離してゴクリと口の中の餌を飲み込む。 “そうですね” トラオは再び、餌の器に顔を突っ込む。器が空になったので、今度はその隣りに置いてある水を飲む。 そしてまた、うっかりもう一度餌の器に口をつけたトラオは 〈あっ、もう無かった〉 と気付き、仕方なく空の器をペロペロと舐める。 飼い主の方に顔を向けると、「もう食べたのか、早いなー。もう無いよ。」と、飼い主は自分の食事を準備しながらそう言った。 〈もう出て来ないな〉 おかわりが出てこない事はトラオも知っている。 ただ、いつも満腹には少し物足りないので、一応、期待を込めた態度を取ってみるのだ。 〈出ないか〉 やっぱり出てこないので、諦めてトコトコと自分の寝床のある居間へと移動する。 飼い主が帰って来ているので、流石に部屋のど真ん中に堂々と横たわることはしない。 壁際にある自分の寝床にぽふり、と伏せる。 ぺろぺろと前足を舐めていると、ふと、いつもとは少し違う匂いを空気から感じる。 〈ああ、そう言えば、赤ん坊が居たんだな〉 その匂いはさっきまでそこに居た、あの小さい人間のことを思い出させた。トラオは鼻をひくひくさせて、もう一度注意深くその匂いを嗅ぐ。 飼い主に妹、そして赤ん坊が居た風景が頭の中にはっきりと甦る 〈あの赤ん坊に会ったのは、今日がはじめてだったかな?〉 “そうですね” トラオの質問にアトモスはそう答える。しかし、トラオにはどこか引っかかる所がある。この匂いはさっきのとは違う、別の風景をトラオの頭の中に呼び起こそうとしていた。 〈また忘れているのかな〉 “いいえ。会っていないです。ただ、飼い主は、何度か赤ん坊に会っています。その時の移り香ではないですか” だが、トラオにはそれではない事ははっきりと分かる。移り香ならば飼い主の匂いとのセットとして憶えているはずだ。 犬の嗅覚はとても鋭い。 その鋭い嗅覚をもってしてもはっきり思い出せない。 どこか優しくて暖かい、そんな匂いだ。 “懐かしい感じですか?” 〈懐かしいって?〉 “ずっと昔の記憶が思い出される事です” 〈ずっと昔って?〉 “トラオがあの赤ん坊のように、子犬だった頃の記憶ではないですか?” 〈えっ、あんなに小さかったの?〉 トラオは自分がもっと小さかった、と言われた事に驚いた。 “そうです。この家に来たばかり時は今よりずっと小さかったですよ。母犬から生まれたての時はもっと小さかったはずです” アトモスにそう言われて、トラオくるり、とまるまると自分の尻尾を見つめた。 そして、これがもっと短かった頃なんて有ったかなあ、いつもこんなもんだったような気もするけど、と思う。 とにかく、トラオは、自分が小さかったなんて信じられなかった。 “"毎日見ている自分の体ですから自覚できないのです。ちゃんと子犬の時の写真もありますよ” 犬に写真など見せても、それを認識できないことはアトモスは知っている。 また、アトモスは、自動学習の結果、全ての物は何かから生み出されるものだ、という事を知っている “"あなたの母犬の事だってわかります” 〈えっ、そうなの?〉 母犬、というその言葉で、トラオは鼻先にまたあの匂いを感じた。 そうだ、これは母犬の匂いだ。赤ん坊を抱いた母親の姿がまた思い出される。すると、その姿が頭の中で形を変えていく。ぼんやりとして、はっきりとしないが、それが多分、母犬の形なんだとトラオは思った。 “会ってみたいですか?” アトモスは唐突にそう言った 〈会えるの!〉 “母親はモモ。飼い主の実家で元気にしています” 〈会ってみたいよっ〉 トラオはばっ、と立ち上がると尻尾をピンと立てた。 〈じゃあ、行こうよ、早く〉 “まず計画が必要です。遠いんですから” 〈遠いって、どれくらい?〉 トラオは、行こうと思えばすぐに行けるものだとばかり思い込んでいた。 “3日はかかります” そう言われてもトラオにはピンとこない。ただ首を傾げるだけだ。 “起きて、歩いて、起きて、歩いて、起きて、歩いてするぐらいです” 〈やった!楽しそうじゃん〉 そう聞くと、トラオはそんなにたっぷり出歩けるなんて、と思ってかえって嬉しくなった。 “ずっと歩くんですよ” 〈ずっと?それって、えーと‥〉 “そうです。ここに帰らないで、ずっとです” ここに帰らないのか、それは少し寂しいかな、とトラオは思った。 “だから私も一緒に行きます” それを聞いてトラオは驚いた。 〈どういう事?〉 トラオは、アトモスはどこにでもいると知っている。居間にもキッチンにも玄関にも、どこにでも。 それが一緒に?意味が分からなかった。 “あなただけでは無理です。場所もわからないでしょうし、餌はどうするんですか?寝床も” そう言われれば、寝床も餌も、ここに帰らなのなら、どうするのだろうとトラオは思った。 〈じゃあ、どうするのさ?〉 “まずは、私の準備が整うまで待ってください” そう言われたものの、トラオはもういてもたってもいられなくなっていた。そして思わず「ウォーン」と吠えてしまった。 それからというもの、トラオは、毎日の散歩の度に思い出していた。 この前の縄張りはどうなっているのだろう、またマーキングし直さなきゃ、と。 だが、あれっきり、そのコースに散歩に行くことは無かった。 「ただいまーアトモス、電気つけて。ほら、トラオ、ちょっと待って。」 玄関で体と足を拭いてもらうと、トラオはふるふると身体を振る。 「よーし、いいぞー。」 トコトコと家に上がり、キッチンに向かう。そして、いつものように飼い主と一緒に台所で食事を始める。 “どうでしたか、今日の散歩は。新しい縄張りには行けましたか?” 〈いや、今日も行けなかったよ〉 ここの所、アトモスは夕食の時、トラオに必ずその日の散歩の様子を尋ねている。 〈もう、早くしないと、またマーキングが消えちゃう〉 トラオはバクバクと餌を食べながらそれに答える。 そうだよ、あの時以来、行けてないんだ、あの赤ん坊が居た時から。そう思ったトラオは、あの赤ん坊の匂いを思い出す。 〈そうだ、赤ん坊といえば〉 ひとしきり餌を食べて、頭を上げる。すると、あの懐かしい匂いが甦る “そうですね、母犬の所に行くのです” 〈そうだ。そうだった〉 そして、赤ん坊の匂いからトラオの頭の中で記憶が次々と繋がって思い出される。 〈いつ行くの?早く行こうよ〉 “もう少し待ってください” もう随分待っているような気がトラオにはしている。 〈もうっ、じれったいなぁ〉 そして食事を終えると、いつものように居間の寝床に寝そべる。 しばらくして「はぁー、食った食った。」と、食事を終えた飼い主も居間へやって来た。 その時、"準備が整いました"とアトモスが言った トラオは突然のことにぱっ、と立ち上がる。 〈じゃあ、行くんだね!〉 飼い主がそれに気付いて「おっ、どうしたんだ?」と言った トラオは思わず嬉しくなって「ワン。」と吠える。そして、たっ、と飼い主に飛びついた。 「よしよし、どうした、えらくご機嫌だな。」 〈うん。やっと行くんだ!〉 そしてもう一度「ワンッ。」と吠える。 「はいはい、わかっわかった。アトモス、モニター点けて。ニュースとメッセージ、それからラジオ、昨日の続き。」 “かしこまりました。” 壁面にある大きなモニターがぱっ、とつき、そこに指示通りの画面が表示される。室内にラジオも流れ始める。 飼い主はそれを見ながら手に持った飲み物をテーブルに置き、ソファの座った。 トラオもその足元ににぽふり、と伏せる。 “いいですかトラオ、準備しますよ” しばらくするとアトモスがそう語りかけてきた。 あれ?行くんじゃないのか?とトラオは戸惑う。 〈えっ、どういうこと?〉 「さて、今日のおすすめ商品はこちら。」 ラジオから、通信販売の案内が流れている。だが、飼い主はそれに気付かないようで、手元のリモコンでモニターを操作している。 「あなたの愛犬にも是非一台。トータルサポートシステムで‥。」 すると、「あら、変なとこ押したか?」と、飼い主はそう呟くと、リモコンをモニターに向けながらパチパチと操作した。 「タウロス、画面戻して。いや、ちょっと待って。そのまま、、。」 そして、じっと画面に見入る。 「お持ちのアトモスとリンクでお留守番の時も安心。おまけに‥。」 「ふーん、首輪が、なるほど。バッテリーは、振動に太陽電池、、。」 飼い主が見入っているモニターには、犬の首輪型のデバイスの広告が表示されていた。 「カメラ、マイク、ステレオスピーカーに各種センサーでいつでもどこでも安心。」 ラジオが同じ商品の案内を流している。 「あれ?これもか。」 飼い主は、やっと流れている販番組に気づくと「いろいろ考えるねぇ。」と呟いた。 “吠えて” 突然アトモスがそう言って来た。 「ワゥン。」 いきなりだったのでトラオは上手く吠えられなかった。 〈なになに?〉 「どうした?トラオ。」 “次、じゃれついて” アトモスの指示に、なにがなんだかわからないが、とにかくトラオは飼い主はの足元で、ごろり、と腹を見せて寝転がる。 「なんだなんだ、急に甘えて。」 「今なら特別価格でお届け。」 ラジオのボリュームがわずかに大きくなる。 飼い主は再び画面を向き直る。そしてしゃがんでトラオのお腹を撫でながら、「お前、ひょっとしてこれが欲しいのか、ん〜、そうかそうか。」と言った。 「アトモス、販売ページと、ラジオ通販の商品案内出して。」 “かしこまりました。” モニターがぱっぱっと切り替わる。 「なんだ、結構安いのな。欲しいのか、欲しいのか、うりうり。」 飼い主は楽しそうにそう言いながらトラオの腹を撫でる。 トラオもなんだか楽しくなって思わず「ハウッハウッ。」と吠えた。 〈もっとして、もっとして〉 「そうかそうか。わかったわかった。アトモス、ここ端末に転送しといて。」 “お手元に転送完了しました。” その後もトラオは、ひとしきりかまってもらった。 ラジオのボリュームも元通りになる。 じゃれ合っているトラオと飼い主を余所に、モニターの上に置いてあるアトモスのパイロットランプが、一瞬、チカッと光る。
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