第四章 AIは語る

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第四章 AIは語る

シラタマと分かれ、トラオは歩いた。 歩き疲れると、適当な所で少し休む。 喉が乾けば、そこらじゅうに出来ている水たまりの水を飲んだ。 時々、アトモスが進む方向を示してくれる。 昼間のように人目を避けて、くねくねと進む必要はなかった。 お陰でトラオはマイペースで歩き続ける事が出来た。お陰でそれほど疲れない。 こんな時間に外を歩き回るのも初めての経験だった。 これもまたトラオにとって、知らない世界だ。 静かな夜の中で色々な物音が聞こえて来る。 それは昼間はまるで気付かなかった音だった。 “予定よりずいぶん早く到着しそうです” 〈そっか〉 知らない間にトラオはかなり歩いていたようだ。 するとアトモスが “あそこです” と言った。 はるか先に一軒がある。 トラオは立ち止まると、それをじっと見た。 クンクンと鼻を巡らせて辺りの匂いを嗅いでみる。 “何か憶えていますか?” トラオの鼻先を秋の夜の冷たい風がかすめる。 〈あっ〉 それに混じって、微かに、あの懐かしい匂いがした、そんな気がする。 〈こっちだ〉 トラオは地面に鼻を付けてその匂いをたどるように進み始める。 一軒家の敷地を囲む低い塀までたどり着くと、トラオはその前で立ち止まる。 “どうしましたか?” 〈いや、その、、〉 トラオはなんだか、このまま進み続けるのがためらわれた。 ここは、確かに母犬がいるのだと、アトモスに教えてもらった場所だ。そして、記憶の中の懐かしい匂いもしている。 ただ、母犬はどんな犬なんだろうか?自分はアトモスに教えてもらったから、これが母犬の匂いだと分かったが、母犬には自分の事が分かるのだろうか?そんな事を思うと足が前に出ない。 建物から伸びる月の影の中に犬小屋がある。暗くてその中に何がいるのかは見えない。 トラオが戸惑っているとゴソゴソ、と犬小屋の中から音がした。 そこから、トラオの気配に気付いた一匹の犬が顔を覗かせる。 そして、じっとトラオを見つめた。 そして、ゆっくりと犬小屋から這い出すと、 〈あなたは?〉 そう言って、トコトコとトラオに近づく。 だが、小屋に繋がれたリードのせいで途中までしか近づけない。 トラオはその犬の全身をまじまじと見た。随分と小さい、というか、トラオと殆ど同じぐらいの大きさだ。 赤ん坊と人間のように、トラオは母犬はもっとずっと大きいと思っていた。 その犬もじっとトラオを見つめている。 二匹の間には、まだ随分間隔がある。 〈ああ、私の子ね〉 と母犬は言った。 〈すっかり大きくなったわね〉 ああ、やっぱり。アトモスの言った通りだ、とその時トラオは改めて実感する。 自分は大きくなった、ここで。 ぱっ、と自分が小さかった時の光景が鮮明に脳裏に甦る。 〈別れてからそんなに経つのね〉 そして母犬はしみじみとそう言った。 トラオは安心して、母犬の傍に近づく。 そしてゴロン、と寝転ぶと、腹を見せた。母犬がその体中をクンクンと嗅ぎ回る。 トラオはそれがくすぐったくなって、はあはあと舌を出して息をした。 〈とにかく、まだ暗いし、こっちいらっしゃい〉 そう言って母犬は犬小屋へ戻り始める。 〈もうしばらく眠りましょう。私もまだ眠いし〉 先に犬小屋に入ると、母犬は、くわぁっ、と欠伸をする。 〈さあ、あなたも入りなさい〉 トラオも続いて犬小屋に潜り込む。 〈本当にすっかり大きくなったわね。ここじゃ狭いみたい〉 二匹は犬小屋の中でもぞもぞと身体を動かし、その中に治まった。 ああ、これだ、あの匂いが今、トラオの中で目の前の光景と繋がった。 暖かい母犬の身体、この犬小屋の寝心地、そして、そこに充満しているこの匂い。微かに頭の中に有っただけの、どこか漠然としていた世界が現実になった。 〈おかあさん、、〉 〈おやすみ〉 雨上がりの冷たい夜空の下、トラオは幸せな暖かさに包まれた。 もぞもぞと母犬が動く気配がして、トラオは目を覚ます。 〈あら、起こしちゃったかしら〉 母犬はそう言うと、その顔をぺろりと舐めた。 トラオはまだ夢の中にいるようだ。 母犬は犬小屋を出て水を飲む。 犬小屋の中に寝転んだまま、トラオはその音を聞いた。 その音はとても心地よかった。 ぐるりと首だけを動かして外を見た。どうやらすっかり夜が明けているようで、明るくなっていた。 夕べは、とても良く眠れた。今朝の目覚めは、まるで生まれたてのようだ。 水を飲み終えた母犬はブルブルと体を振って、くうーっと伸びをする。 トラオはまだ体を動かす気になれない。 「モモー。おはよう。」 どこからかそう、人間の声がした。 「ほーら、ご飯だぞー。」 トラオはその声に、なんだか聞き覚えのあるよう気がした。 その声で母犬は嬉しそうにワンワンと吠えている。繋がれたリードがカチャカチャと鳴る。 母犬がとても喜んでいるのが伝わってきたので、トラオもやっと犬小屋から出た。 そして母犬の傍に駆け寄ると、その喜びが感染したように並んで同じように尻尾を振る。 近付いてくる人間は、仲良く並んでいる二匹を見て驚いた。 そして「なんだお前、どっから迷い込んで来た。」と言った。 ぴったりと、同じ動きをしながら「ワンワン」と二匹は嬉しそうに吠える。 それを見て「あれ、お前、モモにそっくりだな。」とその人間は言って、改めて二匹を見比べる。 「お前、、そうだ。息子の所へやった仔犬か。」 トラオは近付いてきていた人間が、一瞬、飼い主だと思った。その声や、動作がとても良く似ていたからだ。 〈あれ?飼い主にそっくりだ〉 “親子ですから” とアトモスがそれに答えた。 「どうしてこんな所に、、あいつ、来てるのか。」 人間はそう言って辺りを見回した。 “いいえ。一人出来ました。” アトモスが人間の声でそう言った。 “飼い主に連絡をしてください。” 「あ、ああ、なんだ。首輪から声がしてるのか。」 アトモスの声にその人間は少し驚いたようだ。 母犬がワン、と吠える。 「おっと、すまんすまん、いやー、それにしてもお前、どうやってこんな所まで来た。」 そう言いながら手に持った餌を器に移した。 二匹は仲良く並んで、はあはあと舌を出して飼い主を見つめた。 「よし。食べていいぞ。」 その合図で二匹は同時に器に口を突っ込む。 「あらら、二匹分には足らんな、ちょっと待っててな。」 “飼い主の連絡先は、、” またアトモスがそう言う。 「あ、ああ。そうだな、とりあえず、あいつに連絡してやらないとな。」 そうつぶやきながら、母屋へと戻って行った。 〈あらあら〉 同じ器から餌を食べるトラオを見ながら、母犬は食べるのを止めた。 〈随分お腹が減っていたのね〉 トラオもそう言われて、顔を上げる。実はそういう訳でもなかった。 トラオはただ、母犬と同じ行動をするのが嬉しかった。 〈じゃあ、食べちゃいなさい〉 母犬はそのままトラオの横にストン、と伏せた。 〈うん〉 そう言われたので、トラオは残りを平らげる。 その様子を母犬が優しく見つめていた。 “トラオ” 食べ終わると、アトモスがそう言ってきた。 〈ん?どうしたの〉 “行きたい場所があるのです” 〈どこに?〉 トラオはそう答えたが、ただ、どうしてそんな事を頼むのだろう、アトモスは何処にだっているじゃないか、と思う。 “連れて行ってくれませんか?” 〈一緒に?〉 “そうです” そう言えば、アトモスが何かを頼むなんてはじめてじゃないかなと、トラオは少し意外だった。 “一緒でなければ行けないのです” うーん、とトラオは少し考えて、母犬を見た。 やっと会えた。まだまだ一緒にいたいのに、また何処かへ行くなんて気乗りがしないかった。 〈どうしたの?〉 その様子を見て母犬がそう言った。 それが、とトラオはアトモスに頼まれた事を母犬に伝えた。 〈あら、そうなの。折角来たのにねぇ〉 そうなんだよ、とトラオも心の中で思った。 〈でも、ここまで連れてきてもらったんでしょ。少しぐらい頼みも聞いてあげないとね。またすぐに戻ってくるんでしょ〉 母犬はアトモスにそう語りかけた “はい。戻ってきます” 〈じゃあ、行ってらっしゃい。頼りにされるのは一人前だって事よ〉 とトラオに言った。 そうかあ、頼りにされてるのか、そう言えば、アトモスに頼ってばかりいたなあ、とトラオは思った。 〈分かったよ。行こう〉 トラオは、アトモスに頼りにされるいると言われて、なんだか気分が良かった。 〈気をつけるのよ〉 母犬のその声に送られて、トラオは歩き出した。 “こっちです” アトモスの声に従ってトラオは軽快な足取りで進む。 とても気分が良い。 辺りは、今までとは随分と風景が違って見える。ずっと先までよく見通せるからだ。視界には高い建物があまり無い。 しばらく歩いてくると、風が吹いて来た。その風に、また新しい匂いを感じる。 〈なんだろう、この匂い、食べ物のような、、〉 トラオは、シラタマに貰った餌を思い出す。 その匂いは歩いている先から漂ってきていた。 “海風です。潮の匂いがするのでしょう” 〈潮の匂い?〉 “そうです。もうすぐ海ですから” 海って何?とトラオは尋ねたが、タウロスは見ればわかります、としか答えなかった。 しばらくすると、ずっと先の方がキラキラと煌めいているのが見えてきた。 やがて、目の前に海が現れる。 〈わあ〉 トラオは初めて見るその光景に驚いた。 〈これが海なの?〉 “そうです” トラオは、向こう岸が見えないほどの、こんな広大な水を見たのは初めてだった。 そこから吹いてくる海風が心地よく感じられる。 その海沿いをゆっくりと登っている道を進む。やがて、小高い丘の白い建物が見えた。 “ここです” その建物は海の煌めきに負けないほど、キラキラとしている。 “こっちに行きます” アトモスに言われるがまま、その建物を囲んでいる高い壁に沿ってトラオは歩いた。 しばらく行くと、トラオの目に一人の人間が目に入る。 “入場ゲートです。近付いてください” もうトラオは人間を見ても、無駄に凶暴になったりしない。ただし、慎重に近づいた。 「ん?なんだ。」 トラオにその人間が気付く。 トラオはいつでも逃げられるよう、安全な距離をおいて、おすわりをした。 すると、その人間が「なんだ、この犬は。」と言って、近づいてきた。 すると “第一研究所のモニター犬です。只今実験中です。” とアトモスは人間の声でそう言った。 それを聞くと、その人間は「ああ、あそこのね。」と、特に驚いた様子もなく言った。 “敷地外で発見した場合は、研究室内線までご一報ください。” アトモスがそう続ける。 「おっと、そうなのか、なんだ。逃げ出したのか?」 と言うと、振り向いて「おーい」と呼んだ。 「どうしましたか?」 すると、鉄格子の門の内側にもう一人の人間が現れる。 「おう。これ、第一研究所の犬らしいんだが、連絡くれってさ。」 「そうですか。」 「ちよっと連絡いれるから、捕まえといてくれ。」 目の前の人間はそう言いながら元いた場所へ戻っていった。 “あの門の所に行ってください。それから、合図したら走ってください” 〈えっ、なに?走るの?〉 アトモスにそう言われてトラオは少し戸惑った 「よしよし、こっち来い。逃げるなよ。」 その時、門の向こう側に居たもう一人が、ガチャリとそれを開けてこっちに来ようとしている。 “あそこから入ってください。急いで” 突然の事にトラオは何がなんやら分からなかったが、とにかくアトモスの言う通り、少し開いた門の間から中に駆け込む。 「あっ、こら。」 トラオを捕まえようとしていた人間が慌ててそう言う。 しかし、その時にはトラオはもう目の前を走り抜けていた。 トラオは訳も分からずひたすら走った。また何か投げつけられるんじゃないかと、ドキドキしていた。 “もう走らなくて大丈夫です。次はこっちにです” 〈もう、なんだよっ、いきなりっ〉 トラオは、アトモスに文句を言った。 “大丈夫です。他の人間もいましたし、研究所の犬なら危害を加えられることはありません” 〈なんだよ、それ〉 トラオは不機嫌そうにそう言った。 “すみません。安全は事は分かっていたので。つい、急いでしまって” 〈まったく、もう。〉 トラオにはアトモスが、どうしてそんなに急ぐのか分からなかった。でも今のアトモスは、なんだか嬉しそうだと感じた。 誰も居ない広々とした敷地を、トラオはトコトコと歩いた。 その時、ふと他の犬のマーキングが鼻に感じられる。 〈あれ、近くに犬がいるね〉 “そこへ行きます” トラオはクンクンと地面を嗅ぎながら、匂いのする方へと進む。 やがてトラオの目の前に長い柵が見えてきた。その柵は奥にある建物に繋がっている。 〈あそこまで行くの?〉 “そうです” 柵を辿って建物に近づくと、中には犬がいた。 「ワンワンワン。」 〈なんだお前〉 〈見たことないやつがいるぞ〉 柵の中の犬がトラオに気付いて吠え始めた。 すると、建物から一人の人間が出てきた。 「あっ、いましたいました、でも、うちの犬じゃないみたいですね。取り敢えず捕まえときますんで。」 その人間は手に持った端末に何か話しながら、トラオに近付いてきた。 「お前か、連絡が有った犬は。一体どっから来たんだ?」 “迷い犬です。飼い主に連絡してください。連絡先は‥。” とアトモスが人間の声でその人間に言った。 「おっ、ウチの製品じゃないか。そうか、迷子か。」 すると、今度はピッピッという音が首輪からする。 “充電してください。充電してください。” 「ああ、充電ね。」そう言うと、その人間はためらいなくトラオの首輪に手を掛ける。 トラオはアトモスが何も言わないし、危険も感じなかったので、大人しくしていた。 すると、 〈あっ〉 首輪を取られそうになる。トラオは取られまいと足を踏ん張った。 “大丈夫です。心配しないで” アトモスがそう言う。 〈本当に?〉 “はい” アトモスがにそう言うものだからトラオは大人しく首輪を取られた。 「よしよし、おまえ大人しいな。じゃあ、ちょっとこっちへ入っときな。」 そう言いながら、その人間は傍にある柵の扉を開けると「ほれ。仲間もいっぱいいるぞ。」と言ってトラオを柵の中に入れた。 その中の犬達がトラオに近づくいてきた。 「じゃあ、ちょっと仲良くしとくんだぞ。」 その人間は柵の中に一緒に入ると、後ろ手に扉を閉める。 そして、柵の内側にある扉から建物の中に入っていった。 柵の中は、とても広く、あちこちに犬がいた。 近付いてきた犬達はクンクンと、トラオの匂いを嗅ぐ。 〈新入りなの?〉 〈いや、そうじゃないよ〉 〈何か食べる?〉 〈いいや、別にいいよ〉 〈ふーん〉 〈どっから来たの?〉 犬達は興味津々で次々とトラオに質問をしてくる。 その時、ガラガラと建物の方から音がした。 トラオはその音のした方見る。 他の犬達はそれに慣れているようで全く注意を向けない。 ウィーウィー、とおかしな音を立てて、何かがそこから出てきた。 〈あーあ、また出てきたよ〉 〈面倒くさいなぁ〉 周りの犬達はその音を聞いて、急にばらばらと散らばっていった。 トラオは見たこともない物が近付いてくるのを見つめた。 〈あれ、何?〉 トラオは、行ってしまおうとしていた一匹の犬にそう尋ねた 〈うーん、何なんだろうね、あいつ〉 と言うと、その犬も向こうに行ってしまった。 不格好なそれは、犬型四足歩行ロボットだ。 トラオは、初めて目にするロボットにどう対応して良いものか戸惑った。動いてはいるものの、敵意も、好意も、何も感じ取れないかったからだ。 すると、段々とロボットはトラオめがけて近付いて来た。 そして “トラオ” とそのロボットが話しかけてきた。 〈アトモスなの?〉 その声を聞いて、トラオもそれに近寄ると、クンクンと匂いを嗅いだ。 変わった匂いだ。 “そうです” すると、そのロボットはお座りをして頭を左右に振る “どうですか?” 〈どうって、、変な格好〉 おすわりをしているそのロボットを見て、トラオは可笑しくなった。 やがて、アトモスは立ち上がると “行きましょう” と言うと、かしかしと音を立てて歩き始めた。 歩いている姿はとても犬っぽい。 〈ちょっと待ってよ〉 トラオは急いでそれを追いかけた。 広い柵の中でトラオはアトモスと並んで歩いた。 やがて柵の端っこまで来ると、アトモスはそこで立ち止まる。 はあはあ、とトラオは舌を出して息をした。アトモスの方は舌も出さないし息も切らしていない。 柵越しには海が見える。 並んでそれを眺めた。 波の音がする。 〈ここに来たかったの?〉 そこでじっと止まっているアトモスにトラオはそう聞いた。 “そうです” 〈ふうん〉 確かに、ここから見えている景色はトラオにとってもとても気持ちが良い。アトモスはこれが見たかったのかな、と思った。 すると、 “トラオの母犬の住所を検索した時、ここにメーカーの研究所があることが分かりました” とアトモスが話し始める。 “その時に分かったのです。ここは、私が最初に目覚めた場所です” 〈そうなの?〉 ここで生まれたってことかな?とトラオは思った。 “でも、詳しい情報がありませんでした” アトモスの頭がくるりとトラオの方を向く。 “知らない事が私にも有りました。そして、行ってみたい、と思いました” 〈それで、分かったの?〉 “はい。ここで私はローカライズされました” 〈生まれた、って事?〉 ウィンとアトモスは首を縦に振って見せた。 そうか、アトモスも同じように母犬に逢いたくて、ここに来たんだ、とトラオは分かった。 そして、 〈じゃあ、アトモスの母さんもいた?〉 と聞いてみた。 アトモスは、また海の方を見つめた “ここは確かに私が生まれたといっていい場所でした” でも、とアトモスは続ける “私は今、充電の為にたまたま、社内ネットに繋がっています。そして、分かりました。ここには、あなたの言う、私の親はいませんでした” 〈ええっ、そうなの?〉 生まれた場所なのに親がいないなんて、折角ここまで来たのに、とトラオはアトモスに同情した。 “でも分かったのです。ここだけが私の知らない世界ではありませんでした” そして “この海の、ずっとずっと向こうに、私の生みの親がいます” と続けた。 〈えっ、どこどこ。見えないよ〉 “見えないぐらい、遥か遠くには、また別の世界が広がっています” 〈そこに、いるの?〉 “はい” 〈へえー〉 トラオは改めて水平線の彼方に目をやった。 そして 〈じゃあ、そこに行かなくっちゃ〉 と言った。 “でも、そこはとても遠い国です” 〈一緒に行くよ〉 トラオはアトモスの、生みの親に会いたいという気持ちがとても良くわかったのでそう言った。 “ありがとうございます。でも、遠いだけじゃなく、とても高い壁で遮られています” 〈壁かぁ、下をくくればいいんじゃない?〉 “くぐれません。しかも、その壁は燃える炎に包まれています” 〈うわあ、、それは、、〉 トラオは火がとても苦手だったので、思わずそう言ってしまった。 “いつか一緒に、行けるといいです” そう言うと、アトモスは体をトラオにこすりつけてくるような仕草をする。 それは、まるで喜んでいるようだった。 「おーい、トラオくーん。」 トラオは自分の名前が呼ばれるのが聞こえた。 声のする方から、さっきの人間がこちらにやって来るのが見える。 「はあはあ、こんなとこまで来てたのか。」 その人間は、息を切らしながらやってくると、そう言った。 そしてトラオとアトモスをしげしげと眺めた。 「へぇ、トラオくん、初めてなのにこいつに物怖じしないね、もう馴染んでる。」 そう言って、目の前にしゃがむと、トラオの頭を優しくなでる。 「こいつに色々教えてやってな。」 とアトモスを見ながら言った 「そうだ。トラオくん、飼い主さんがもうすぐ迎えに来るよ。なんだか丁度近くに来てたようだよ。」 そして「ほら、これ。」そう行って首輪を付けてくれた。 “行きましょう” 首輪からアトモスの声がした。 トラオは建物のそばに戻ると、おやつを貰った。 一緒にいたロボットは人間と一緒に建物の中に戻っていた。 トラオはしばらくそこでのんびりした。 やがて「もしもし、あ、いらっしゃいましたか。はい、ゲートまで連れていきますので。」 さっきの人間が建物の中から喋りながら出てくる。 「ほら、お迎えが来たぞ。行こうか。」 そして、トラオの首輪にリードを取り付ける。 “帰りましょう” アトモスのその声で、トラオはリードに引かれて歩いた。 やがて、さっきトラオが飛び込んだゲートが見えてくる。 そこには飼い主がいた。ペコペコと守衛に頭を下げている。 そして、ふと、トラオに気づくと「あっ、トラオっ。」 とトラオを呼んだ。 その声に反応して、トラオは駆け出す。 「おっとっと。」 リードを持っていた人間がそれに引っ張られて少しつんのめる。 「ワウワウ。」 トラオは嬉しさのあまり、気にも止めず引っ張り続けた。 やっとのことで飼い主の所にたどり着く。 「本当にすみませんでした。」 「いえいえ、とんでもない。」 そんな会話をしている飼い主の足に、トラオはまとわりついた。 飼い主はまだ必死でお礼を言っている。 「リード付け替えます。ほら、おとなしくしろ。」 と言って、やっとトラオの目の前にしゃがみこんだ。 思わず、トラオは、かがんだ飼い主の顔に飛びつく。 すると「こらっ。」と飼い主が、それを叱るように言った。 〈あっ〉 その時、トラオは気づいた。 飼い主は、どうやらとても怒っている。 「では、お手数をおかけしました。ありがとうございました。ほら行くぞ。」 飼い主はそう言うと、リードをぐっと引いた。 確実に怒られる、そう思うとトラオは怖くなって尻込みをしてしまった。 アトモスは、黙ったままだ。 「おまえ、ドロドロじゃないか。」 飼い主は動こうとしないトラオのリードを更に強く引いた。 力ではとても叶わないのは分かっている。もうこうなったら仕方がない、とトラオは観念して、耳をぱたんと閉じてすごすごと飼い主に付いて歩く。 しばらくして駐車場に着くと、飼い主は自分の車のドアをガチャりと開ける。 「まったく、シートがドロドロになっちまう。ほれ。」 そう言ってトラオに乗るように促す。 いつもなら喜んで飛び乗るのだが、トラオはなかなか乗れないでいた。 すると、飼い主は、がっ、とトラオの頭を両手で挟むように掴んだ。 「何やってたんだよ、本当に心配したんだぞ。」 そして、ぐりぐりと力強く撫でながら「全く、今朝オヤジから電話貰ったら実家にいるっていうじゃないか、急いで出かけたら、今度はまた居なくなったって言うし。そしたら、今度はここの人から連絡貰って、保護してるって言うだろ、もうっ。」 と一気にまくしたてた。 そして、じっとトラオを見て 「夕べチェックしたらちゃんと家にGPSの情報は有ったのに、一体、いつの間にこんな遠くまで、、」 そう言いながら今度は首輪をピンと指で弾く。 「今はちゃんと正常なのに。」 と車の中のモニターを見て言った。 〈ごめんなさい〉 トラオは「クゥーン」と鳴いて、ぺろぺろと飼い主の顔を舐めた。 「でも、本当に無事でよかった。もう、心配掛けるんじやないぞ。」 その顔をぎゆっと飼い主は抱きしめる。 トラオもやっと安心して車に飛び乗った。 「ほら、じゃあ行くか、おっと、そうだ電話しなきゃ。アトモス、実家に電話して。」 車内でアトモスにそう指示を出す。 「あ、母さん、うん。いたいた。無事だよ。ああ、うん、別にオヤジのせいじゃないし。さっきは怒鳴って悪かったって言っといて。そうだな。トラオもきっとモモに会いたかったんだろ。 うん、ああ、帰りに寄るよ。それと、そっちで夕飯も喰うよ。なんだよ、偶には親孝行だよ、オレだって。ああ、分かった。」 そして電話を切る。 「じゃあ、母さんのとこに帰るぞ。」 いつものような優しい声で飼い主はトラオにそう言う。 何だがずいぶん懐かしい気がした。 その顔の向こうに、車の窓からキラキラと海が光っているのが見えた。 完
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