第三章 猫は語る

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第三章 猫は語る

犬の親子を後にしてトラオは再び歩き続けた。 今日も見慣れない景色と新しい匂いの広がる世界の中をぐいぐい進む。 どのぐらい歩いただろう。鼻先をいい匂いがくすぐる。 〈あ、食べ物だ〉 トラオはそれに気づくと、急にお腹が減ってきた。 〈お腹が減った〉 トラオはアトモスにそう言った。 “そうですか。この辺りで餌がある所があったかどうか、、” 〈この先に食べ物があるよ〉 トラオは匂いのする方へ歩き出した。 “そんなデータはありません。何処へ向かっているのですか?” アトモスはそう言ったが、トラオは食べ物の匂いを辿ってずんずん歩き続けた。 “方向が違います。そっちではありません” それも無視して進み歩き続ける。 「クワァー、カーカー。」 その先で、カラスがゴミ捨て場を漁っている。 〈あそこだ〉 カラスを見たトラオは体に緊張が走るのを感じる。 それはトラオにとって、今まで感じたことのない緊張感だった。 トラオは、何かの衝動が体の中に湧き上がってくるのを感じた。 その衝動は、獲物だ。あれを狩るんだ、とトラオに告げている。 自然と風下に移動する。 トラオはその衝動に応えるように、体を低くして静かに、ゆっくりと近づく。 段々と美味そうな匂いが強くなる。 まだだ。焦るな、ギリギリまで近づくんだ。 「クワッ?」 一羽のカラスが、トラオに気づく。 渾身の力を後ろ足に込めて、トラオはそれに跳びかかった。 「カーカー、クワーッ。」 ゴミ袋にたかっていたカラス達が一斉に飛び立つ。 〈ちっ、失敗したか〉 飛び立つカラスを見上げてトラオは悔しそうに呟く。 カラスが飛び立った後には散らかしたゴミが散乱していた。 トラオはクンクンと散らかっているゴミの匂いを嗅いで食べ物をより分けて口に入れる。 “そんなもの食べてはいけません。” 首輪からアトモスの声がする。 しかし、トラオはそれを無視して夢中で食べ続ける。地面から直接物を食べて、ますます興奮している。 “止めてください” アトモスがまた、そう言った。 「グルルルッ。」 邪魔をするな、とばかりにトラオは唸る。 すると、タッタッ、と先程のカラスが地面に降りてくる。次々に飛び立ったカラスがトラオを遠巻きにするように戻ってきていた。 「ウゥーッ。」 トラオはカラスに向かって唸るとそれを威嚇した。 やがて、その中の一羽が、じわじわとトラオににじり寄って来た。 「グワォッ!」 トラオはそれに吠えかかる。 すると、ぴた、とカラスは近づくのを止める。そのカラスの真っ黒い目玉がトラオを睨んでいる。 負けじとトラオも睨み返す。 じっと睨み合う。 と、その時、急に尻尾に風を感じた。 振り向くと一匹のカラスがいつの間にか、すぐ後ろにいる。トラオは体を反転させると、そのカラスに飛びかかった。 しかし、カラスはすんでの所で、ぱっと飛び去っってしまう。 それを合図に、遠巻きに見ていたカラス達が一斉にトラオめがけて飛びかかってきた。 トラオは、その一羽に狙いを定めて飛びかかるが、またぱっ、と逃げられる。 その隙きに、今度は別のカラスがトラオを襲う。 反撃する空きを与えないカラスの攻撃にトラオは翻弄される。 きりがない。 トラオは、徐々に身の危険を感じ来た。このままではまずい、と思った時、 “早く逃げましょう” とアトモスの声が耳に入る。 トラオもこれは逃げたほうが良い、とやっと冷静になる。 〈そ、そうだね〉 “こっちです” 冷静さを取り戻したトラオはアトモスの声に従って走り出した。 その後ろから相変わらずカラスの声が聞こえる。明らかにまだトラオを狙っている。 しばらく走ると、 “この下に潜って” そう言われたトラオは、アトモスの言う通りに小さな小屋の床下に身体を潜り込ませる。 “しばらく隠れていましょう” カラス達はまだトラオを探しているようで、激しく鳴きながら飛び回っている。 トラオははあはあと息をしながらじっとしていた。 〈ひどい目にあった、、〉 “カラスを攻撃したりするからです” 〈だって、、〉 仕方がないだろ、止められなかったんだよ、とトラオは思った。 あの衝動、そしてそれに突き動かされ凶暴になった自分、あれは一体何だったんだろう、思い出すと体が小刻みに震えた。 “とにかくじっとしていてください” 震えを懸命に抑えながらトラオはじっとうずくまった。 カーカーと、まだカラスが鳴いている。 “もう大丈夫です。行きましょう” やっとアトモスがそう言った。 〈あー、怖かった〉 トラオはそう言って床下から這い出た。そして空を見上げる。 すっかりカラスはいなくなっているようでほっと安心する。 〈いやー、びっくりしたよ〉 さっきまでの震えはもう収まっていた。 ただ、あの衝動の正体は一体何だったのだろう、とふと思った。 “行きましょう” 〈はぁ、でもお腹へった〉 アトモスにそう言われて歩き出したトラオだったが、空腹なのは相変わらずだ。 またしばらく歩いていると、やがてトラオの耳にガヤガヤと人間の声が聞こえてきた。どうやら、再び街に近付いているらしかった。 その時、そうか、誰かから餌を貰えば良いんだ、とトラオは思いつく。 〈誰か餌をくれるかも〉 とアトモスに言ってみた。 すると “そうかも知れませんが、そうでない危険のほうが大きいです。飼い主に連絡されるか、保護されて保健所に連れて行かれるかも知れません” とアトモスは答えた。 〈どういう事?〉 アトモスの危険、と言う、 その言葉はトラオには納得が行かなかった。 “カラスよりもっとひどい目に合わされるかも知れないと言うことです” トラオにはそれはとても信じられない事だった。 〈そんな訳無いだろう〉 人間がカラスより恐ろしいなんて、と続けようとしたトラオにアトモスがぴしり、と “恐ろしいのです” と言った。 トラオは急に怖くなってきた。 “しかし、食べ物を手に入れなければならないのは確かですね” またゴミ箱を漁られても困りますし、とアトモスは続ける。 〈そ、そうだよ〉 トラオは力なくそう答えた。 “分かりました。こっちです” アトモスの声に従って歩くと人間達の声がだんだん大きくなってくる。 “こっちです” そして急に人間が沢山いる所に出た。 〈あれ?〉 突然現れた人間の波にトラオは少し驚く。 「あれ。」「あら。」「あっ、犬だ。」 そこを行き交う人々がトラオを見つけて、口々にそんなことを言っている。 〈こんな所へ来て、大丈夫なの?〉 散々アトモスに、脅かされたおかげでトラオはその人間達が少し怖くなっていた。 “大丈夫です。任せてください。ただし、走らないで。普通に歩いください” 〈う、うん〉 ざわざわとした人混みの中、トラオは、おどおどしながらアトモスの言う通りにした。 “ここで止まって” その言葉で、トラオはその場にちょこんと座る。 そこは、この商店街で待ち合わせ場所になっているモニュメントだった。 「あ、犬が。」「ホントだ。」「迷子かな。」「かわいいー。」 周りにいた人間達がトラオを目にして次々にそんな事を口にする。 「どうした、お前。」 その中の一人がトラオに近付いてくる。 トラオは思わず首をすくめる。 すると“飼い主は今、買い物中です。この犬の様子はモニターしています。ここで飼い主を待っています。” とアトモスは人間の声を出した。 「え、ああ、首輪からか。へーっ。」 その人は立ち止まってトラオをまじまじと見つめた。そして「あ、ここカメラなのね。」と呟く。 「あっ、犬だっ。」 すると、小さな子供が人並みの中からトラオに駆け寄ってきて、頭を撫でようと手を出す。 “この犬は大人しいですが、あまり触れないでください。” アトモスの声に、子供の手を引いていた母親がさっとその手を引き寄せると「ほら、駄目よ。勝手に触っちゃ。」と言った。 「だってママー、可愛いなー、うちも犬欲しいなー。」 「そうね、可愛いわねー。」 そして親子は二人並んでトラオを見た。 アトモスが人間の声を出している。人間達も何か言っている。でもトラオにはその意味は分からない。 トラオは、さっきのタウロスの言葉が引っかかっていたが、周りの人間から敵意は感じない。 次第に、ほら、やっぱり怖くなんて無いじゃないか、と人間達がもう怖くなくなっていた。 「ほらー、わんちゃん。」 すると、その子はトラオの鼻先に何かを突き出してきた。いい匂いがトラオの鼻先をくすぐる。 やった、食べ物の匂いだ、とトラオはそれを食べようと口を前に出した途端、 “食べないでください” とアトモスに止められた。 アトモスはまた人間の声で “お菓子は与えないでください。” とその子に告げる。 「えっ、ああ、そうね。」 それを聞いた母親は子供の手を取ると「ほらほら。お菓子なんかあげちゃ駄目よ。」と言った。 “与える場合は、ペット専用のおやつを与えてください。” 続けてアトモスがそう言った。 「あらあら。」とそれを聞いた母親は苦笑いをした。 「ママー、おやつあげたい。」 「しょうがないわねー、じゃあ、ちよっと買ってきましょう。」 その様子を見ていた他の人間達は「お利口ね。」「良く出来てるな。」と口々に感心している。 〈なんで食べちゃ駄目なんだよ。危ない事なんて何にもないじゃないか〉 折角の食べ物を取り上げられたトラオはアトモスに文句を言った。 “あれは犬が食べるものではありません” 〈もうっ〉 そう言われてトラオはその場にぐてっ、と伏せた。 〈あーあ、お腹減った〉 周りの人間達には、トラオが大人しく飼い主が戻ってくるのを待っているように見えていた。 しばらくそうしていると、 「はい、おやつだよー。」 と先程の子供の声がして、ぽん、と何かが鼻先に放り投げられた。 〈また食べ物だ〉 トラオはその匂いに反応してぱっと顔を上げる。だが、少しの間、アトモスの反応を待ってじっとしていた。 “これは食べていいです” 〈え、いいの、やった!〉 タウロスのその言葉でトラオはガバリと起き上がると、目の前にある犬用のおやつにむさぼりつく。 「よかったねーわんちゃん喜んでるわよー。」 先程の親子はその様子を見てそう言った。 “ありがとうございます。” 「えっ、あ。はい。ママー、わんちゃんがありがとうだって。」 アトモスのその声で、その子供は嬉しそうに母親に駆け寄る。 「よかったわね。」 母親は子供を楽しそうに見つめながらそう言った。 そして「よくできてるわね、本当に。」と呟いた。 モシャモシャと犬用のおやつを食べていると「ほら。みんなあげちゃいなさい。持って帰っても仕方ないんだから。」子供は母親にそう促されて残りのおやつをトラオの目の前に置いた。 トラオの鼻先にぽんぽん、と食べ物が置かれた。トラオはそれもガツガツと食べる。 「あれ便利だな。」「アトモスと繋がって、、」「ウチの犬にも付けるか。」トラオの様子を眺めていた人々がは、口々にそう言った 〈美味しかった。もう無いのかな〉 トラオは貰ったおやつをすっかり平らげた。 “安全な内にそろそろ行きましょう” アトモスはトラオにそう言うと続けて “では皆さんさようなら。” と人間の声で言った。 まあ、くすくす、と言う声があたりから漏れた。 トラオは、その声を耳にしながら人間の間を歩いて抜けた。 「あっ、犬だ。」「ホントだ。」 その途中でも、トラオを見つけた人間達が口々にそう言う。 やがて、トラオは商店街の端の、あまり人気のない所まで来た。 〈ほーら、大丈夫じゃないか。人間は怖くないよ〉 お腹が膨れて元気を取り戻したトラオは、アトモスにそう言った。 “そうですね。上手くいってよかったです” あの場に建っていたモニュメントは、大昔の忠犬を記念したものだった。それに辺りには監視カメラも設置してある。そんな場所で、衆人環境の中、犬のトラオが危害を加えられる確率は低い、とアトモスは予測していた。 アトモスは、群れた人間はなるべく突出した行動をとらない傾向があると学習済みだったからだ。 しかし、低い確率とは言え、危険がゼロでは無い事もまた、アトモスは知っていた。 “ほっとしました” 〈ふーん〉 トラオには、アトモスが何にほっとしたのか分からなかった。 そして再び、アトモスはなるべく人目に付かない道にトラオを誘導した。 気がつくと、街の喧騒から随分と離れたようで、人間達の声もすっかり聞こえなくなっていた。 喉が乾いたトラオは立ち止まるとスンスンと鼻を巡らせる。 〈水の匂いだ〉 その方向に進むと、トラオよりずっと背の高い草が生い茂る河原に出た。 それをかき分けて川べりへと向かう。 カサカサと身体にこすれる草の感触が心地いい。 やがて、川べりに出るとぺちゃぺちゃと川の水を飲む。 遥か遠くに対岸が見える。 “少し休みましょう” アトモスにそう言われて、トラオは川辺から少し離れた草の中に体を伏せる。 いつもの家とは違う、こんな屋外で寝っ転がるのも、もうすっかり気にならなくなっている。 川面を吹く風がさらさらと周りの草を揺らす。 ぼんやりとその音を聞いていると、急にずうっとずうっと昔、はるか昔はこんな場所で自由に走り回っていたような、そんな気がしてきた。 とても不思議な感覚だった。 どれぐらいそうしていだろうか。 “そろそろ行きましょう” というアトモスの声でトラオははっと我に返る。 眠っていたような目覚めていたような、そんな不思議な時間だった。 〈分かった〉 トラオはそう言うと、ぱっ、と立ち上がり、身体をぶるぶると振る。 “こっちです” そして、タウロス声に従ってトラオは歩き始めた。 土手沿いを歩くと風が気持ちいい 「カーカー。」 と、遠くからカラスの声がする。 鳴き声の大きさや匂いからして随分遠いな、警戒するまでもないな、と、自然とトラオにはすぐにそれが分かった。 “もうすぐ目的地です” 〈そうなの〉 アトモスの言う通りしばらく歩いていく。 “あそこに行きます” 少し先に河を横切る大きな橋がある。トラオは土手を登り、橋の下にたどり着くと、クンクンと鼻を巡らせた。すると微かに食べ物の匂いがする。 〈あれ、ここ食べ物が有ったんだ〉 “そうなんですか。ここには監視カメラもないし、詳しい情報が無いので” てっきり食べ物にもありつけると思っていたトラオは、がっかりした。 “降水確率が高く、通り雨の可能性もありまので、濡れない事を優先しました” 〈お腹減ったよ〉 おやつを貰ってから、もう随分時間が経っていた。 しかし、アトモスは “今夜は我慢してください” と、そっけなく答えるだけだった。 〈ちぇっ〉 仕方なくトラオは空腹のまま、冷たいコンクリートの上にうずくまった。 橋の上は自動車の通り過ぎる音がしている。トラオにはそれがとても耳障りだ。 しばらくそうしていると、何かが近付いて来る。自動車の出す騒音の中からそれを聞き分けたトラオには、それが人間が近付いているのだと分かった。 〈誰か来るよ〉 トラオは無意識に尻尾を振っている。 “人間ですか?” 〈そうだよ〉 ひょっとしたら、また餌が貰えるかも、とトラオが言うと、 “危ないかも知れません” とアトモスが答える。 “この場所に人間がわざわざ来る必要などないはずです” 〈でも、来てるよ。さっきみたいに餌が貰えるようにしてよ〉 トラオはアトモスにそう言った。 “いいえ。監視カメラも無いし、ここは情報が少なすぎます。どんな人間が近付いているのか全くわかりません。一人ですか?” 〈うん。一人だね〉 近づく足音に耳を澄ませ、トラオはそう答えた。 “それはまずい状況です。衆人環視にない人間は何をするかわかりません。ひとまずここを離れましょう” またぁ、そんな大げさな、とトラオは返した。 “大げさかも知れませんが、十分な情報がない以上何が起こるか私には予測できません。ですから逃げましょう” 〈またさっきみたいに脅かすつもりなの?〉 そう言われても、トラオはきっとアトモスが上手くやってくれると期待していた。 すると「ほーら、ニャンコ共ー。」と足音のする方向から人間の声がした。 やがて遠くに人影が現れる。 「ほーら、ほーら、ごはんだぞー。」 と、その人間は手に持った袋からガサガサと何かを取り出しはじめた。 その時、「ん?なんかいるのか」とトラオに気づくと目を凝らし、「うわっ、なんだっ。」と言って驚いた。 そして、「このぅ、野良犬め。」と言うとゆっくりとしゃがみ込む。 トラオはてっきり「こっちおいで。」とでも呼ばれるものだとばかり思って、行儀よくお座りをしてその人間を見つめた。 ところが、その瞬間 「しっ、あっちいけ!」 という声と共に、石がバラバラとトラオに向かって飛んできた。 その人間は、足元の小石を拾い、それをトラオめがけて投げつけてきたのだ。 ばらばら、とトラオの近くに小石がばらまかれる。 ぴしっ、とその一つがトラオに当たる。 〈いてっ〉 トラオは一瞬、身をすくめる。 と同時に「グルルッ。」という唸り声が反射的に喉から漏れる。そして身を低くして威嚇の姿勢をとった。 「このやろう、やるのか。」そう言って立ち上がった人間は片手に棒きれを拾っていた。そして、それを振り上げる。 トラオは、その動きに強い敵意を感じる。 またトラオの中に凶暴な衝動が沸き起こる。 いつの間にか牙をむき出していた。 “危険です。逃げて” アトモスはそう言っが、トラオの耳には全く入っていないようだ。 牙をむき出し、人間をにらみ続ける。 “駄目です。逃げてください。逃げてください” アトモスがいくら繰り返してもトラオはうなり続けた。 じりじりと人間がトラオに近付いてくる。トラオも四肢に力を溜めて、今にもそれに飛びかからんとしている。 その時、キーン、と甲高い音が首輪から鳴った。 〈うわっ〉 あまりの音にトラオは、思わず首をすくめる。 “逃げましょう。早く。早く” アトモスの声が耳に入ってきた。 トラオは、はっ、と我に返る。目の前には敵意をむき出しにしている人間がいる。 〈わ、わかった〉 今にも手に持った棒きれをトラオめがけて振り下ろそうとしている人間からぱっ、と離れると、一目散に走った。 「このやろーっ。」 トラオの後ろで人間の怒鳴り声がする。そして逃げるトラオに向かって棒きれを投げつける。 トラオの後ろの地面にそれは落ち、カラン、と音を立てる。 はあはあと舌を出しながらトラオは走り続けた。 そして、土手を駆け下り、また草むらの中に身を隠す。 “ここまで来れば大丈夫です” トラオはアトモスのその言葉にやっと立ち止まる。 “大丈夫でしたか” トラオにアトモスはそう声を掛けた。 しかし、トラオは返事が出来ない。それは、人間にあんなふうに敵意をむき出しにされた事があまりにもショックだったからだ。 一体何が起こったんだ、トラオはさっき投げられた石が当たった所をぺろりと舐める。 小石が当たっただけなので、大した痛みは感じてない。 心臓が激しく脈打っているのが分かる。そして 〈どうして、あんな事を、、〉 と呟く。 人間が強い敵意を持って攻撃してきた、そんな目に遇ったのは初めてだった。 おまけに、自分もまた、人間に向かってに牙をむいた。 それもまた、トラオにとって、とてもショックな出来事だった。 そんな自分が急に恐ろしくなったトラオは、ぺたり、とその場に座り込んだ。 心臓がドキドキしているのを感じながら。 そうしてしばらく草むらの中に横たわっていた。 〈あっ〉 トラオは辺りの空気に雨の匂いを感じ取った。 〈雨が振りそうだね〉 トラオは鼻をひくひくさせると、そう言った。 “そうですね、雨雲レーダによると、こちらに近付いています” ここじゃ濡れてしまいますね、とアトモスが続ける。 “橋の下でやり過ごす予定だったのですが” 〈あそこに戻るのは嫌だよ〉 トラオは頭を前足に乗せたまま、ぐったりとしてそう答えた。 “そうですね。付近で安全な場所がないか検索します” トラオは、取り敢えず立ち上がると、ガサゴソと草むらから抜け出した。 〈雨か、嫌だなぁ〉 雨が降ると散歩に連れて行って貰えないので、トラオは雨が嫌いだった。 でも今なら、雨が降ろうと自由に走り回る事が出来る。だが、とてもそんな気になれなかった。 いつもはずっと家の中にいるから、たとえ雨に濡れるとしても散歩に行きたいと思っていたが、こうやって一日中歩いていると、そうは思わない。雨になんか濡れたくない。 結局は雨が嫌な気持ちは同じだ。 〈どっちへ行けばいいの?〉 トボトボと土手を登りながらトラオはアトモスに尋ねた。 “検索中です” アトモスの指示がないのは心細かった。 “はぁ” あてどもなくふらふらと土手を登り、ため息をつく。 すると、 「ウニャ?」 たまたま目の前に居た猫と目が合う。 あまりにも咄嗟の事態に、二匹はしばらく目を合わせたまま固まってしまった。 “待って、トラオ、落ち着いて” “待ってください。あなたに危害を加えるような事はしません” それを聞いてトラオは、また体の中に湧き上がりかけていた衝動をぐっ、と抑え込んだ。 〈わっ、なんだ、こいつ犬のくせに喋った〉 猫の方もアトモスの声に驚いて、警戒するのも忘れ、キョトンとしている。 アトモスを設置している場所には当然、飼い猫がいる所も沢山ある。 そして、犬のそれと同様、当然のようにアトモスは猫とのコミュニケーションもまた、自動的に学習していた。 “何もしません。ただここを通っているだけです” 〈なんだ、そいつが喋っている訳じゃないのか、ああ、あれか〉 その猫もどうやらアトモスには慣れている様子だ。 〈こんな所に犬がいるなんて、飼い主はどこだよ〉 “ここには居ません” 〈何だって?じゃあ、迷子か?〉 “違います” 〈逃げ出したのか?〉 トラオの目の前では、ミャアミャアと猫が何か鳴いている。 どうやらアトモスと話をしているようだが、トラオには何を言っているのかさっぱり分からない。 ただ、トラオはさっきまた、反射的に出てきそうになった凶暴な衝動を思い出していた。 自分が知らず知らずの内に、やたらすぐに、そんな風になってしまう事が恐ろしかった。 またぷるぷると体が震えてきた。 〈あれ?こいつ震えてるのか?〉 トラオの様子に気付いたその猫はそう言った。 そう言われても、アトモスにもトラオが何故震えているのか分からない。 その時ぽつり、と雨粒が猫の鼻に落ちてきた。 〈うわっ、降ってきたか〉 そう言うと、目の前で震えているトラオに 〈雨降ってきたぞ〉 と声をかけた。 ぽつぽつと落ちてくる雨粒は、次第に辺りを濡らす。トラオは、震えながらただ、濡れるに任せている。 〈寒いのか?うーん、なんだか放っとけないなぁ〉 その猫は、まさか犬が猫にこんなに怯えるはずなんてないのに、変な奴だと思いつつ、トラオにそう声をかけた。 〈仕方ない。行く所無いんだったら、付いて来な〉 震えているトラオの周りをうろうろしながら猫はそう言った。 〈雨宿りの場所ぐらい知ってるから〉 すると、きゅるるっ、とトラオのお腹が鳴る。 〈なんだ。腹も減ってるのか。なんか食べるか?〉 猫はそう言って、トラオの顔を覗き込んだ。 “食べ物がありますか?” アトモスがそう聞くと 〈おう。あるよ。付いて来な〉 そう答えると猫はトコトコとトラオの前を歩き出した。 “食べ物があるようです。付いていきましょう” アトモスが猫の言ったことをトラオに伝える 〈食べ物、、〉 きゅるるっ、と、またトラオのお腹が鳴る。 空腹を思い出したトラオは、前を行く猫の後を仕方なく付いていった。 〈オレも家に帰るところだし〉 〈ちょうどよかったな〉 〈まあ、この辺の事なら任せとけって〉 猫は歩きながら、元気の無いトラオをチラチラと気にしながら話しかけてくる。 しばらく猫について歩くと、 〈よーし、着いたぞ〉 二匹は一軒の民家にたどり着いた。 すると猫は、その家の低い塀にヒョイ、と飛び乗ると、 〈遠慮せず入んな〉 といって中に消えていってしまった。 “ここのようです。入りましょう” とアトモスに言われたものの、トラオは困ってしまう。 猫のように塀を飛び越えたり出来ないからだ。 仕方なく猫が飛び越えた塀に沿ってしばらく歩いてみた。すると、塀の途中に古びた木の門があった。 “あの下から入りましょう” その下には随分と広い隙間が空いていた。アトモスの言う通りにトラオは少し身をかがめて隙間を通り抜けた。 その中は広々とした庭だった。 〈こっちだ〉 待ち構えていた猫がトラオをそう呼ぶと、 “あっちみたいです。行きましょう” アトモスがそれをトラオに伝える。 トラオは猫がいる方に歩いていく。 あまり手入れの行き届いていない庭を横切ると、やがて縁側が見えてくきた。 〈おまえ、ちょっとこの下に隠れて。じっとしてろよ〉 猫は、そう言うと、ニャアニャアと鳴きながら、縁側の木戸をかりかりと爪でひっかき始める。 “この下に隠れてください” トラオは大人しくそれに従って縁の下に潜り込んだ。 カラカラ、と木戸が開く音がした。 「おやおや、シラタマ、返ってきたのかい。」 その声に「ニャア」と猫が返す。 〈よし。優しい方が出てきた〉 「あら、降ってきたんだね。よしよし。入るかい?」 猫は縁側に昇ると、またニャアニャアと鳴く。 「よしよし、餌が欲しいのかい?分かったわ。ちょっと待ってて。」 キシキシとトラオの頭の上を人間が歩く音がする。トラオは少し緊張してきた。 しばらくして、人間は戻ってくると「はい。どうぞ。」と言って餌の入った器を縁側に置く。 すると猫は、とん、と縁側から地面におりた。 そして〈おい、餌だぞ。出てきていいぞ〉とトラオに声を掛ける。 “餌を準備してくれたようです” 〈えっ、でも、人間が、、〉 トラオはすぐ側に人間がいる事は分かっていたので少しためらってしまう。 〈大丈夫た。こっちは優しい方だから追い払われたりしないって〉 トラオが人間を警戒している事がわかった猫がそう言ってニャアニャアと鳴いた。 “大丈夫だそうです” だが、トラオはまだためらっていた。 〈なんだよ、食わないんならオレが食っちまうぞ〉 「どうしたの、シラタマ、ほらご飯よ。」 縁の下に向かって鳴き続けている猫に人間はそう声を掛けた。 仕方なくトラオは、おずおずと顔を出した。 「あらまあ、お友達を連れてきたの。」 その人間は少しも驚いた様子も見せずにそう言った。 「だからシラタマが上がってこなかったんだねぇ。」 と言いながら、たたきにシラタマの餌を置きなおす。 「ほら。お食べ。」 ここならトラオにも届く。 「立派な首輪をしてるわねぇ。ちょっと少ないかしら?、ちょっと待っててね。」 そして、そう言って、再び奥へと引っ込んでいった 〈ほら。食べていいぞ〉 トラオは目の前に置かれたシラタマの餌をクンクンと嗅いでみる。今まで食べたことのない匂いだったが、とても美味そうだ。 “食べていいようです” アトモスにそう言われて、トラオはその餌に口をつけた。 “あなたは良いのですか?” アトモスはその側でペロペロと前足を舐めている猫に尋ねた。 〈ああ、オレは外で食べてきたからな〉 “ここで飼われているのではないのですか?” アトモスはまた、そう聞いた 〈まあ、ここでも飼われているし、いろんな家で飼われている事になってるかな〉 猫はそう言って「ニャァ」と鳴いた。 〈たまには野良猫の連中と一緒に外で食べたりもする〉 そんなやり取りを余所に、トラオはもぐもぐと餌を食べた。変わった味だったが、とても美味しい。 やがて、人間がまた戻ってきた。 「ほら。それじゃ足らないでしょ。よっこらしょ。」 とたたきに下りると、殆ど無くなり掛けていた器に餌を注ぎ足す。 餌に夢中になっていたトラオはっ、となる。また唸り声が出てしまうんじゃないかと思ったからだ。 しかし、不思議なことにそうはならなかった。 その人間はまた縁側に上がり、そこに腰掛けて、美味しそうに餌を食べるトラオを眺めた。 トラオはその人間に見守られて、不思議な安心感を覚える。 雨足が強くなったようで、ぽつりぽつりと、縁側から突き出た軒の先から雨粒が滴っている。 〈そう言えば、お前、捨てられた訳じゃないんだよな〉 アトモスがトラオにその事を伝えると、 〈捨てられるって?どういう事?〉 トラオは餌を食べながら聞き返した。 “飼い主が望んで一緒に暮さなくなる、ということです” アトモスのその言葉にトラオはぎょっとした。 どういう事だ?犬はそんな事は思わないのに。 〈飼い主がそんな事を望むの?〉 すると 〈ははっ、お前、ずっと同じ飼い主か?〉 と猫が笑った。 〈そうだよ〉 トラオとシラタマはアトモスのお陰で話が通じ合うようになっている。 トラオは、今の飼い主以外の事なんて考えた事も無かった。 〈ふうん。オレは野良猫の仲間も沢山いる。みんな捨てられたか、捨てられた親から生まれた連中だ。 犬だって、捨てられたり、どこかで殺されたりしているんだぜ〉 殺される、その言葉にトラオは、ぞっとなった。 〈そうなの?〉 トラオはまさか、そんな事があるなんて、と思ったので、そうアトモスに尋ねてみた。 “本当です。だから人目を避けるルートを選択してきました” トラオは、その返事に呆然となる。 〈なんだ?そんなことも知らないのか〉 シラタマはトラオの驚いた様子を見てそう言った。 〈いいか、人間はな、オレ達も同じ世界にいるつもりらしいけど、本当は全然違う〉 違う世界、そう言えばアトモスもそんなことを言っていたような気がする、とトラオは思う。 〈人間はオレ達の何倍も長い間生きるんだ。その間に、オレ達なんか何度も生まれたり死んだりする。そんなのとずっと一緒に暮らすなんて、元々おかしな話なんだ〉 〈だから、捨てるの?〉 〈そうさ。途中で飽きちまうのさ。その気になりゃ何度だってやり直せるからな〉 人間と一緒に暮らす事は、トラオにとっては一回限りでも、人間にとってはそうじゃないなんて、思っても見なかった。 〈まあ、人間の世界に暮らすって事はそういう事なんだよ。何事も人間次第、って訳さ〉 シラタマはそう続けた。 〈それに、知ってるか?人間だって、ずっと同でいる訳じゃない。群れ次第でコロコロ変わる。自分勝手に自由にやってると思いこんでるけど、そうじゃない。オレ達が飼い主次第なのと同じ目に合ってるのさ〉 〈群れ?〉 〈そう。群れてるだろ?人間って。その群れの掟次第なんだよ〉 それもまた、アトモスから聞いたような気がした。 〈なんでそんな事知ってるの〉 トラオは自分が思ってもいなかった事をシラタマが当たり前のように話すので、そう尋ねてみた。 〈そりゃ、オレは色んな人間に飼われている。いろいろな飼い主を見てるし、たまには野良猫仲間とつるんでると、それ以外の人間にもよく出くわすからな。しっしっ、って追っ払おうとする奴や、野良猫にだって餌をくれる奴もいる〉 〈それって危なくないの?〉 追っ払われるか、、トラオはそう聞いてさっきの人間のことを思い出していた。 〈そりゃ危ない目にも何度も遭ったさ。どの飼い主も、いつ気が変わるかも知れないし、知らない猫の縄張りに入れば、何をされるかわかったもんじゃない。あんまり遠出すると、帰るのに苦労するしな〉 だったら、ずっとここに居ればいいじゃないか、とトラオは言った。 〈バカ言え。知らない仲間はまだまだ一杯いるし、食べてみたい物もある。まだ忍び込んでいない家だって何軒もあるんだ。まだまだオレは知らなきゃならない事がいっぱいあるんだよ〉 そう言われてトラオもはたと気づいた。自分だって、こうやってあの安全な家からわざわざこんな所までやって来たている。そう考えると、今のシラタマの話はとてもよく分かる。 〈アトモスは、もうなんでも知っているよね?〉 そしてふと、アトモスにそう尋ねてみた “はい既にかなりのデータを収集しています” それに、未知の部分に関しても予測により高い精度で再現可能だ。 予測によればアトモスには、全く新規の未知のデータというのはそれほど多くないと結論している。 やっぱり、とトラオは思った。そして、 〈どれくらい知らない事がまだあるんだろう〉 とアトモスに聞いた。 トラオのその質問にアトモスは “トラオの「知らない事」は何ですか?” と返した。 〈それが知りたいんだけど、、〉 トラオは返事に困ってしまった。 すると、 〈はっは、バカな事言ってんなあ、お前たち。そんなの決まってるだろ〉 とシラタマが口を挟んできた。 〈お前がなんか知りたい、と思うだろ?そりゃ知らないからだ。〉 〈つまり?〉 〈知りたい事が知らない事なんだよ。簡単な話さ〉 うーん、とトラオはシラタマの言葉に少し考え込んでしまう。 〈なんかあるだろ?今、知りたいと思っている事〉 〈うーん、そうだなぁ、あっ!〉 そう言われてトラオは改めて思い出した。 あの匂い、懐かしい匂い、母犬の所、、 それが知りたかったんだ。 〈あるっ!あるよ!〉 トラオは思わず立ち上がって尻尾をピン、と立てる 〈うわっ、なんだよ。いきなり〉 それに驚いたシラタマは、ぴたり、と顔を洗うのを止めた。 そして 〈じゃ、じゃあ、それだよ、それがお前の知らない事さ〉 と言った。 「なんだか仲が良いねぇ、お前たち。」 と縁側の人間が二匹を見ながらそう言った。 「雨も降っている事だし、こっちへおいで。」 そして、縁側をとんとんと叩く。 シラタマはぴょん、と縁側に飛び乗った。 トラオにも、あの人間が、傍においで、と呼んでいることが伝わってくる。 “入ってもいいそうです” アトモスがそう言った。 〈おう。入れよ。〉 言われるまでもなく、それはトラオには分かっていた。 〈あの人間は、、〉 “私の端末が付近に全くありません。他に誰かいるのかもわかりません。でも、今の状況から危険はないでしょう。正確にはわかりませんが、随分年を取っています。あなたよりずっと長く生きている事は確かです” とアトモスが答えた。 なんだか人間なのに、とてもこちら側に近い、トラオにはそう感じられた。 “計画とは違いますが、ここで寝ましょう” 〈いや、行こう。〉 トラオはなんだか気分が晴れ晴れとして、体中に力が湧いているのを感じていた。 知りたい事だらけの、つまり、知らない事だらけの世界が目の前に広がって見えた。 だからここまで来たんだ、とトラオは強く思った。 ふるふると体を振ると、「ワン。」と吠えた。 「おやおや、行くのかい?気をつけるんだよ。」 〈なんだ。行っちまうのか?まあ良いけどよ〉 〈うん。ありがとう〉 トラオはくるり、と振り向くと、もと来た門へ向かう。 いつの間にか雨が上がり、雲間から月の光が射していた。
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