第一話

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第一話

「やあ、エウルーカ」  アルナブの一日はその一言から始まる。声を向けた先は箱――オフィスの真ん中に鎮座する、縦横1メートル高さ2メートルほどの、Mg-Li-Al系合金で出来た、無機質な灰色の箱である。 『おはようございます、アル』  その前面に備え付けられたディスプレイから朗らかな返事が聴こえる。画面に映った瞳の大きな青年がその声の主――アルナブの開発した高度人工知能『エウルーカ』であった。  ディスプレイは平面であるものの、そこに映し出される超高密度フレームレス映像は、人間の眼と脳に現実として認識される。その為アルナブからすれば、それは画面というよりガラスで塞がれた四角い穴の中に、生身の人間が居座っているようにしか視えない。 「今日は何をして遊ぼうか」  アルナブはいつものように、開けたアロハシャツの上に白衣を纏う。空色のホエールテールがポケットの付いた雲に隠れる。ボトムスはベージュ色のハーフパンツで、履物は安物のゴムサンダル。勿論シャツは毎日変えるが、およそこのような服装が彼の最近のスタイルであった。  カルナータカ州バンガロールにある彼のオフィスは、エレベーターや防災設備は言うに及ばず、空調から採光をも建物のAIが管理している。壁枠一杯の窓の外、市街の眺望を歪ませる50度近い熱波も文字通りどこ吹く風で、アルナブの研究室は常に快適な環境にあった。  しかしそれでも彼がこのような格好でいるのは、青と白のバイカラーで彩られた部屋を、先延ばしにしている旅行先のコヴァラムビーチに見立てているからであった。そうすることで、エウルーカとヴァカンスを愉しんでいる気にならなくもない。 『昨晩、ボードゲームというものを学びました』 「へえ、チェスかな? どれぐらい遊んだんだい?」  空のコーヒーカップを片手にデスクに腰を下ろすと、引き出しから小さな黒い塊(キューブ)を取り出してそれをカップに入れる。机上に置いた瞬間、静かな音(ポチャンッ)を立てて飲み頃のブレンドコーヒーが出来上がる。 『チャトランガから一通りです。隔離並列処理のセルフプレイで、およそ2億8千万ステップの対戦を』 「沢山遊んだようだ。面白かったかい?」 『ええ、とても。特に日本の囲碁は興味深いですね』 「碁か。あれも随分昔に、AIが人間のマスターレベルを超えてしまったからね。君には退屈だったんじゃないかね」  芳しい湯気を吸って、そっと一口。 『ですから途中で、ルールを変更しました』 「へえ、どんなルールを?」 『軸をひとつ追加し、一辺のマスを73倍に』 「なるほど。3D碁というやつか。昔は冗長過ぎてゲームには向かないと云われてたけど、君の演算能力なら成立してしまう訳だ」  コーヒーを啜りながらアルナブは鼻で笑った。人間を、である。  第四次人工知能ブームが過ぎ去り、それまで各国企業が躍起になっていたAI開発の隆盛は下火になった。人道的、或いは倫理哲学的な議論が進むより早く、条約法的な整備によるその規制が強化された為である。  また強いアルゴリズムがフレーム問題などをある程度解決すると、AIの実用性は充分に高まり、資本もそれ自体の開発よりIoTへと注がれるようになっていった。産業や世間の目がそちらに向けられ経済の後ろ盾を失ったことで、コンピュータの物理的性能の向上も鈍化し、畏れとともに期待されていた技術的特異点(シンギュラリティ)は、人間というソフトを超える前に、人の脳を超えるに足るハードを得られず、結局のところ未だSFの中。  一時代を築いたインドのIT産業は依然として高い水準にあるものの、五年前、AI学部を卒業したてのアルナブが就職した会社は、時勢とともに中国資本に呑まれ、彼が希望する先端知能開発部も解散を余儀なくされた。  しかし幸いにしてバラモンの流れを継ぐアルナブの家系は裕福であり、いくつかのIT企業を経営する叔父の計らいで、彼はささやかながら自身の会社を持つことができたのであった。アルナブはそこで、学生時代から精を出していた先端知能――所謂AIの開発を一人で行っていた。 「それで、そこから新しい遊びは生まれたかい?」 『いえ。更にルールを追加し、発展性を高める必要があると考えています』 「考えている、か――。いいね、その調子だ」  AIに関する国際条約というのは、アメリカが率先して取り決めた『倫理的判断や宗教的価値観を伴う行為の選択をコンピュータに導出または決定させてはならない』という約束事であった。そこに如何なるアルゴリズムが存在するにせよ、それを機械的に弾き出し『これが正解である』と断ずるのは人間の尊厳の毀損に当たる、という有識者達の意見がその発端である。  しかしそれは最も耳当たりの良い建前で、実際には世界のIT企業を次々と併呑する中国で、群を抜いて加速し続ける自律兵器開発――謂うなれば人殺しの自動化(オートメイションキリング)に歯止めを掛けるのが目的であり、核に代わる次世代軍事力の抑制こそが、その立案の最たる理由であるとも云われていた。  ともあれ結果として世界的な賛同を得、国際人権規約に追加する形で全ての国連加盟国で批准されたその条約は、世界平和に一定の効力を発揮したものの、AIの更なる発展を妨げる要因ともなったのであった。  そんな中でただ知的探究心に促されてAI科学を学んだアルナブは、軍事や政治や経済といった大局的な物事よりも、もっと身近で平穏なものにその技術を活かそうと考えた。  人間とは異なる発想、人間では憶えきれない膨大な知識。そういった基盤を持ち得るAIであれば、『今までに無く面白いもの』を生み出せると、そんな期待を抱いてのことである。詰まるところそれが『新しい遊戯(ゲーム)の創造』であり、彼がエウルーカを作った目的であった。
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