ー前ぶれー

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ー前ぶれー

春の女神は空回りがお好き ー前ぶれー 「 アチっ! 」 「 うわ、コウちゃん水、水流して 」 「 ごめん……床溢して、コーヒーが 」 「 あー、そんなのいいから!早く冷やさないと 」 春の芽吹きの前、 一番に躍り出る桜の花がその蕾を開き始めた三月の、 それはもう最後の週。 公園前のアパートの一室からは朝から賑やかな声が聞こえてくる。 築20年にはなろうかという四戸建の小さなアパート。 南側の公園には煤けた緑の常緑樹の植え込みのはるか上に、 伸び伸びと天にその梢を広げる桜の木が見える。 台所の水道の蛇口を捻るキュッという音。 そして安物の薄いシンクの上に水がパンパンと跳ねる音。 如何にもその労働に相応しく節くれた男の手首を掴み、 その指先を蛇口から迸る水に浸すもう一つのも、 やはり指こそ長いがしっかりと節のたった男の手だった。 「 悪りぃ、 つい外の桜をぼんやり見ちまったからカップが傾いてたんだな 」 「 コウちゃん、 指先を大切なんだから、 気をつけないと 」 やや下を向いた男の顔は端正で、 流れる眉とそれに伴う目尻に朝特有の少し気だるい愁が残っていた。 「 リョウ、お前、泣いた? 」 「 え? まさか 」 「 でも、涙の跡?濡れて 」 水に晒してないもう片方の中指がリョウと呼ばれた男の眦を薄く履くと、 「 まさか、 あくびしたからだろ?」 と形の良い唇が柔らかくその口角を上げた。 キスができるほどの距離…… ガタイの良い二人が立ったら、 殆ど隙間のない台所に水が流れ、 それがシンクにランダムに打ち付ける音が響いている。 俯いたまま真剣に掴んだ手の指先を検分している男とその横顔を見つめる男。 それは、 男が少し高い位置のその膝を詰め向き合う肢体のそこに触れれば、 そして、俯く顔が訝しむように少し顔を上げれば、 それはキスができる距離だった。 「 リョウ…… 」 呟くように漏れた言葉は迸る水の音に消される。 口もとだけがその余韻を甘く残した。
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