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「その蝶……この部屋に似合うと思いますよ。お義母様もきっと喜びますよ」  僕は気づかれないように大きく息を吸ってから口を開いた。 「ごめんなさい。そうですよね、急に言われても、困りますよね」  彼女はそう言って、箱を机の上にゆっくりと置き、それから僕に背を向けたまま、でも、こういうの、本当にたくさんあるから……と、独り言みたいにいい、軽くため息をついた。  僕は一呼吸置いてから、必要なところは計り終えました、と彼女に声を掛けた。  そしてその日は、簡単な見積書だけ完成させると、カタログと、何も記入されていない契約書を一枚置いて帰ることにした。  一度訪問した時点で、契約という形まで持って行かれるのは大体三分の一くらいだ。ただ、残りの半分くらいも、後日契約書を郵送してくれるか、電話をかけたときにはよい返事をくれるだろう、というレベルの手応えをくれる。  そう考えると、今回のこの訪問はどちらかというと「失敗」のケースだった。一、二週間後に退院ということは、もっと焦って手配をしてもいいはずの時期なのだが、彼女からは切迫したものは感じられなかった。 「あとでまたカタログを見て、考えてみます」 「はい、ご主人ともよく相談されてください。後日、連絡をさせて頂きます」  彼女は今までの多くのお客さんと違い、主人に相談してみないと、という言葉を口にしなかった。それが気になっていたから、僕はわざとそう言ってみた。 「あぁ……そうですね。聞いてみないと」  彼女は僕に言われて初めて思いついたというように、そう返した。  帰り際、彼女は僕を玄関まで送り、僕が靴を履こうとすると素早く靴べらを差し出した。プラスチックではなく木でできた少し高級そうな靴べらだった。仕事用の薄い靴下を通して、その固さと冷たさを感じた。 「おじゃましました」  そう言う僕に、彼女は、 「どうもありがとうございました。また……」  と言ってから、口をつぐんだ。また来てください、その言葉は、そんなふうに続きそうだった。 「また、連絡させて頂きます」  僕は彼女の言葉を遮るように言った。  外に出ると、思った以上に暑かった。そしてまだ明るかった。僕は背広を脱いで左腕に掛けた。なんだか博物館から出てきたときのような気分だった。
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