隠れんぼ絵画

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 許す気はない。冷たく言い放った内田幸助は、一向に手元の本から顔を上げさえしてくれなかった。読んでいるのは、太宰治「人間失格」。  これ以上いても無意味だと察して、クーラーの効いた図書室を出る。冷え切った身体に熱がまとわりついてきた。蝉の大合唱がわずらわしくて、廊下の窓を全部閉めてしまいたくなる。  彼に謝るようになってから一週間、同じせりふを聞き続けている。この闘いは、休みが明けたあとも続くに違いない。無意識にため息を漏らしたことに気がついた。教室に戻ろう。  二年五組の教室に入れば、冷気と共にどうだったと質問が飛んでくる。錦雅也だ。ドアの前で待ち伏せていたらしい。だめだったよ。いくらか声のトーンを落としてかぶりを振った。もう謝っても意味ないんじゃね? 絶対あいつ許す気なんてねえんだよ。節々に苛立たしさをにじませながら吐き捨てる。内田君が許してくれないのも無理はないよ。僕だって、眼鏡を壊されたら許せないと思うし。沈めた声でぎこちなく笑いかけてやる。去年からの同級生はむくれた。つったってわざとじゃねえじゃん。ちょっと優しすぎんじゃねーの。 そうだよ、聡太郎は少し優しすぎんだよ。突然、雅也の後ろから声がかかった。宮田蓮だ。他の友人たちと黒板に絵を描いていたらしい。白チョークを握っていた。あんなやつ、ほっとけよ。お前がむちゃくちゃ謝るから、調子乗ってるんだよ。  そう言うお前は許されているだろうに、とは決して口にしない。いくら悪態をついても、自分は許されているという安心感のもとでは、謝り続ける学級委員長の姿も、ただの他人事でしかないに決まっている。  席に座る。窓際の一番後ろだ。雅也は前の席だった。椅子の背もたれに肘をかけて座る。 「なーなー、祭り行かね? 内田も誘って」 「えっ、お祭り? そんなのあったっけ?」  雅也が目をみはった。あるだろ、明日とあさってに。今年で記念すべき百回目だぞ。まくしたてる。さらに百回を記念して何かいろいろと特別なことをやるらしいと熱く語り出した。適当な相づちを打ちながら、改めて自分がピアノ以外のことを全く考えていなかったことを思い知らされた。あさって日曜日にピアノの発表会を控えている。  そろそろ断る意思を告げようかと思ったら、隣の席の唐沢皆実が戻ってきた。瞬間、チャイムが鳴る。昼休み終了の合図だ。雅也って、ほんと行事ごと好きだよね、うるっさいんだけどー。永井くんが困ってんじゃーん。演技がかったように文句を言う彼女は雅也の幼馴染みだ。保育園の頃からのつき合いらしい。  予想通り噛みついた雅也に、唐沢さんはなおも続ける。お祭りもいいけど、私は早く博士が帰ってきて、いろいろと話聞かせてくれる方が楽しみかな。雅也は、あー。うなった。同感だわ。  博士――本名、堤彩葉。学年の中で今のトレンドと言ったら、彼女だろう。なにせこの一週間、身内にだまされてアメリカに行ったかと思えば、現地の水族館を観光して回っているらしいのだから。アメリカに住んでいる日本人の知り合いが危篤状態に陥ったという話を聞かされ、家族総出で様子を見に行った。しかし実際は、ただのぎっくり腰だったらしい。アメリカンジョークだとしてもたまったものではない。怒った堤家の人たちにお詫びもかねて、アメリカを紹介すると言い出したらしい。ふざけた話だ。内田もそんな桁外れなお詫びをしなければ、許してくれないような傲慢な少年なのだろうか。  校内で堤はかわいそうな女の子から、渡米してしまったすごいやつに認識が変わった。まだ中学生だからなのか海外に行ったことがない生徒がほとんどなので、現地の鮮やかな記憶が聞けるのを楽しみにしてやまないのだろう。  どうせ堤のことだから、脚色した自慢話で終わりだ。帰ってくるまでの一週間、金魚の世話を任された近藤有花からしたら、迷惑この上ないだろう。生きもの係を務めている堤は、教室に自分の家で育てたという金魚を持ち込みたいと担任教師に申し出た。生きもの係とは生きものの面倒を見るのが仕事だ。係としての自覚を持った申し出だし、もともといい加減な正確なこともあって、先生はあっさりと許可した。おかげでロッカーの隅は占拠された。真後ろにある。その際、金魚の種類について得意げに同級生に語り聞かせていた。博士との通り名はここが始まりだ。 「いいなあ、僕もアメリカに行ってみたいよ」 「えっ、永井くんは行けるんじゃない? ピアノで。いっつも賞取ってんじゃん。そういえば、あさっても発表会なんでしょ? 頑張って」唐沢さんは両腕でガッツポーズをする。  どうして知っているのか問おうとしたが、思い出す。彼女にはこちらと同じピアノ教室に通っている友人がいる。 「はあ? 発表会? マジかよー。じゃあ一緒に祭り、行けないよな?」対して前に座るクラスメイトは肩を落とす。 「あーうん、ごめん。来年また誘ってよ」ぎこちなく笑い、申しわけなさを十分に押し出そうとして頭を下げた。
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