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タクシーがマンションの前に到着していた。課長と家が近いから、飲み会の後はいつもタクシーで送ってもらっていた。今夜は飲み過ぎた。何だか気持ち悪い。それに今、課長の顔を見たら泣きそうだ。
「一瀬君?」
課長の心配そうな声がする。柔らかくて、深くて、やさしい声。
涙腺が緩んだ。
どうして、振り向いてくれない人を好きなんだろう。
「一瀬君、具合悪いの?」
喉元に熱い物がこみあげて来て、黙って頷く。
「わかった。わかった。じゃあ、一緒に降りよう。部屋まで送るから」
課長に支えられるようにして、タクシーを降りた。肩に触れる課長の手が温かい。そういえば去年の忘年会もこうやって課長に支えられてタクシーを降りた。あの時は部屋の前まで課長が来てくれて嬉しかった。「良かったらお茶でも」と、言おうとした時、課長は「タクシーを待たせてあるから」とすぐに帰った。でも、今夜は違う。清算を済ませて課長はタクシーを降りた。
もしかして、あがっていくの?
よろよろとした足取りで歩きながら、急に酔いが覚めてくるのを感じる。
「一瀬君、大丈夫か?」
そう言いながら、課長はエレベーターのボタンを押した。
「気持ち悪いです」
嘘をついた。本当は全然気持ち悪くない。足元はフラフラだけど、吐きそうとか、そういうのはなかった。
「動ける?」
エレベーターの扉が開き、さらに心配そうな課長の声がした。俯いたまま頷くと、課長はゆっくりとエレベーターの中に連れて行ってくれた。思い切って課長の肩に寄りかかる。いつもの日なたの匂いがする。健康的で、清々しくて、安心する匂い。日なたの匂いに混じって、整髪料の微かな匂いと、アルコールの匂いがした。
恋しい人の匂いだ。
我慢していた感情が、勢いよく振った炭酸水みたいに溢れ出した。
次の瞬間――課長の唇を奪った。
好きです。
好きです。
三年前からずっと。
思いの丈を込めた。
肩を支えてくれていた課長の手が逃げるように離れ、課長から唇を放した。
課長は嫌悪するような表情を浮かべていた。
血の気が引いてく。
課長に嫌われたくない。何か、何か言わなくちゃ。
「あの……」
言葉を遮るように課長の呆れたような笑い声がした。
「こんなオッサンにキスして酔いが醒めた?」
冗談めかしているけど、課長の声は冷たかった。
課長は怒ってるのかもしれない。
無礼なやつだって思われたかもしれない。
「す、すみませんでした。あの、酔ってるみたいです。本当に、本当にすみませんでした」
なかった事にしたい。お酒のせいにすれば課長に嫌われなくて済む。
「あの、何て言ったらいいか、その……」
「着いたよ」
エレベーターが5階に到着した。
「ここまでで、大丈夫だね?」
開ボタンを押したまま、課長が言った。早くエレベーターから降りろと言うみたいに。これ以上一緒にいるのは迷惑だと私を見る瞳が言っている。胸が締め付けられた。
「すみません」
慌てて、エレベーターから降りた。すぐにドアが閉まる。ドアが閉じる直前に見た課長の顔に、いつもの穏やかな笑みはなかった。
終わった。
嫌われた。
拒絶された。
誕生日に。
1DKの部屋にたどり着くと、気が抜けたように玄関で座り込んだ。悲しくて涙がどっと溢れ出た。課長に嫌われた。頭の中にはそれしかなかった。
30才の誕生日は、人生で一番、最低だった。
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