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一瀬君が選んだ店は長野の郷土料理を出している、庶民的な居酒屋だった。
僕が長野出身だから、気を遣ってくれたのだ。一瀬君のそういう所に、好感を持っていた。
カウンター席に並んで座り、そばがきを食べながら話をした。
「そばがきってすいとんみたいなんですね」
一瀬君が珍しそうに蕎麦粉を丸めて作った団子状の物を見た。
「蕎麦の原型って言われてる食べ物なんだよ。味は全然違うけどね」
「そうですね。お蕎麦をそのまま頂いてるみたい。美味しいです。大好きになりました」
「嬉しいね。県外の人にそう言ってもらえるのは。僕は子供の頃からあたり前のように食べてましたよ。でも、東京に出て来てからは食べてなかったな」
「長野が恋しいですか?」
「少しね。単身赴任だから、子供たちと離れて暮らすのは寂しいよ」
「あら、奥様は?」
「亡くなってね」
「すみません。変な事聞いて」
「いいんですよ。もう二十年になりますから」
普段は妻の事は会社の人間に聞かれても絶対に答えなかった。酔いが回ったのか、一瀬君にはスラスラと話していた。
「じゃあ、課長が男手一つで?」
「そういう事になりますね。と言っても、身内に手伝ってもらいましたけどね」
「だからか」
一瀬君が納得したような顔をした。
「何がです?」
「課長が料理上手なの。うちのお父さんなんて、なんにも出来ないんだから」
「僕らの年代の人は多いかもね。でも、今の人は料理しますよね?君の彼氏だって」
「どうですかね。チャーハンぐらいなら作れるって言ってましたけど」
鼻筋の通った横顔を少しだけ俯き加減にして、一瀬君はため息をついた。
「私は課長の作ったきんぴらごぼうが一番好きです」
「ありがとう。調子に乗ってまた作りますよ」
「是非、作って下さい」
嬉しそうに笑った横顔を見て、胸が疼くのを感じた。こんなに喜んでくれるなら、毎日だって作ると、言いそうになった。社交辞令をそこまで本気にしたら迷惑だ。言葉を飲み込んだ。
「課長は再婚とか、しないんですか」
空のお猪口に燗した酒を注ぎながら、一瀬君が口にした。
「結婚は一度で十分」
「どうして?そんなに大変だったんですか?」
笑ってくれると思ったら、不安そうに一瀬君が眉を寄せた。結婚を控えている女性にたいして失言だったと気づく。
「いや、別に大変だったとか、そういうのじゃないんです。結婚自体は良かったですよ。好きな人と一緒にいて、かわいい子供たちに囲まれて。一瀬君が言ってたような幸せを感じられる。だけど、妻以外の女性を愛する気力がないんですよ。もう僕はそういうの、終わってるんです」
「もう誰も好きにならないって事ですか?」
一瀬君は思いつめたような目で、じっとこちらを見た。オレンジ色の間接照明に照らされた、その表情がはかなげに見える。黒々とした大きな瞳に吸い込まれそうになり、息を飲んだ。
「ええ。まあ。妻一人で十分ですから」
そう言わなければ、いけない気がした。
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