3 三年前の居酒屋【上村】

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 一瀬君が選んだ店は長野の郷土料理を出している、庶民的な居酒屋だった。    僕が長野出身だから、気を遣ってくれたのだ。一瀬君のそういう所に、好感を持っていた。  カウンター席に並んで座り、そばがきを食べながら話をした。 「そばがきってすいとんみたいなんですね」  一瀬君が珍しそうに蕎麦粉を丸めて作った団子状の物を見た。 「蕎麦の原型って言われてる食べ物なんだよ。味は全然違うけどね」 「そうですね。お蕎麦をそのまま頂いてるみたい。美味しいです。大好きになりました」 「嬉しいね。県外の人にそう言ってもらえるのは。僕は子供の頃からあたり前のように食べてましたよ。でも、東京に出て来てからは食べてなかったな」 「長野が恋しいですか?」 「少しね。単身赴任だから、子供たちと離れて暮らすのは寂しいよ」 「あら、奥様は?」 「亡くなってね」 「すみません。変な事聞いて」 「いいんですよ。もう二十年になりますから」    普段は妻の事は会社の人間に聞かれても絶対に答えなかった。酔いが回ったのか、一瀬君にはスラスラと話していた。 「じゃあ、課長が男手一つで?」 「そういう事になりますね。と言っても、身内に手伝ってもらいましたけどね」 「だからか」    一瀬君が納得したような顔をした。 「何がです?」 「課長が料理上手なの。うちのお父さんなんて、なんにも出来ないんだから」 「僕らの年代の人は多いかもね。でも、今の人は料理しますよね?君の彼氏だって」 「どうですかね。チャーハンぐらいなら作れるって言ってましたけど」  鼻筋の通った横顔を少しだけ俯き加減にして、一瀬君はため息をついた。 「私は課長の作ったきんぴらごぼうが一番好きです」 「ありがとう。調子に乗ってまた作りますよ」 「是非、作って下さい」  嬉しそうに笑った横顔を見て、胸が疼くのを感じた。こんなに喜んでくれるなら、毎日だって作ると、言いそうになった。社交辞令をそこまで本気にしたら迷惑だ。言葉を飲み込んだ。 「課長は再婚とか、しないんですか」    空のお猪口に燗した酒を注ぎながら、一瀬君が口にした。 「結婚は一度で十分」 「どうして?そんなに大変だったんですか?」    笑ってくれると思ったら、不安そうに一瀬君が眉を寄せた。結婚を控えている女性にたいして失言だったと気づく。 「いや、別に大変だったとか、そういうのじゃないんです。結婚自体は良かったですよ。好きな人と一緒にいて、かわいい子供たちに囲まれて。一瀬君が言ってたような幸せを感じられる。だけど、妻以外の女性を愛する気力がないんですよ。もう僕はそういうの、終わってるんです」 「もう誰も好きにならないって事ですか?」    一瀬君は思いつめたような目で、じっとこちらを見た。オレンジ色の間接照明に照らされた、その表情がはかなげに見える。黒々とした大きな瞳に吸い込まれそうになり、息を飲んだ。 「ええ。まあ。妻一人で十分ですから」  そう言わなければ、いけない気がした。
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