ある統合失調症者の手記〜お母さんの教科書〜

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小学生だった頃の夏休み。午前中はザリガニ釣りを始めて、昼になれば友達同士で集まってファミコンで遊び、家に帰って夕食を食べ、アニメを寝ころんで見て、また一人でファミコンやって、寝るという生活を続けていた。自分の生活になにひとつ疑問を抱くことをせず、楽しいこと、おもしろいことを追いかけて日々を過ごしていた。ずっとこんな日が続けば、と願ったけど、それは無理だろうということは子供でもわかった。今思うと、やっぱりその頃は楽しかったんだと思う。でもどこかで心のどこかに虚しさを感じていたようにも思う。 あの頃の母親は、生活に追われていても、どこかでそれを楽しんでいる節があった。自分が手塩にかけて育てた長男が、現役で国立大学に合格をして、母親は本当にうれしそうだった。   母は栃木県に籍を置く、読書好きの娘だったらしい。なんでもたまたま同じ列車に乗り合わせた母の家族と、当時役人だった父と会話が交わされたことがきっかけでつきあいをはじめたようだ。それから二人は結婚して、母は宮城県南部の僕の家にお嫁に来た。当時、世間知らずの若い娘だった母親は、近所づきあいはそこそここなせたようだが、なかなかこの土地に馴染めずにいた。後年の母の話を聞くと、農作業一辺倒だった祖母には、しょっちゅう近所に悪い噂を流されて、精神的に追いつめられていたようだった。たしかにこの土地の人々は、異質なものや文化的なものに対してはあまり好意的ではなく、そういうものを育て、楽しんでいる人に対しては、嫌がらせをはじめる人間もいる。ちょっとおしゃれをして外に出ようものなら、頭からつま先まで遠慮なく視線を浴びせられ、そこに僕がいないかのように、視線を外してなんとなく不機嫌そうな表情をするばあさんやおばさんがたくさん道を歩いている。誤解を避けるために書いておくが、近所の人たちはとてもいい人達である。しかし農村が持っている、皮肉で陰湿な空気感は、今でもこの土地に残っているように思う。   18歳になった時、僕はなんとか引っかかった東北にある私立の芸大に進み、山形で生活することになった。やがてそこを卒業した時、時代は就職氷河期で、僕はあっさりニートになった。大学時代の後半に発症した統合失調症もあって、僕は静養を兼ねて宮城に帰っていた。そこではニートに対する風当たりはきつく、床屋に行っても、酒場に行っても、「無職です」と口にした途端、男たちの目の色は変わり、ある者は憐れみの眼差しを向け、またある者には嫌味を口にされ、非難される。会社の面接を受ければ、面接の最初から「あ、きみはいらない」などと言われることはざらにあった。家にいても、外にいてもどこにも気持ちを落ち着ける場はなく、持病の統合失調症は悪化し、僕は本気で自殺を考えていた。その辺りから、さすがに母親もこれはやばいと思ったらしく、僕は母親につきそわれて精神科に通院するようになった。   3年ほど、目立った活動は何もできなかった。相変わらず世間の風は冷たかったが、たまたま地元の小学校で、教員補助という名目のアルバイトを募集していた。それで、ダメもとで試験を受けたら、運よく採用された。僕は1年間小学校に勤めることになった。まず、朝の朝礼で全校生徒を集めて新しく赴任した先生を紹介するという機会があったのだけど、僕は「新しくアルバイトにきました!○○(実名)です!一生懸命がんばりますので、よろしくお願いします!」という挨拶をすると、先生方は汗がたら~……。生徒たちは「なに言ってんだあの若い先生!?」みたいな気まずい空気を作ってしまったのを今でもよく覚えてる(笑)その後もとんちんかんな発言は続いたが、それを冷たいまなざしで見る教師や、あたたかく見守ってくれた教師、かえって好意を抱いてくれる教師など、様々だった。   その一年間勤めたバイト代を全部使って僕は東京で生活を始めた。精神科の先生は反対だと言っていた。母親は僕の言い出したら聞かないところをよく知っているので、賛成してくれた。   音楽の勉強をしに東京に出てきたわけだが、週に2~3度の学校の中で、僕はあっという間に落ちこぼれ生徒になっていた。そのくせプライドだけは高く、冗談の一つも言えず、心はかたくなで、愛矯も持ち合わせてない当時の自分は、典型的な田舎者だったんじゃないだろうか(笑)と想像している。アルバイトなどをやっても孤立し、反感を買い、あまり長くひとつの職場に留まることはできなかった。   当時福島で不眠不休で仕事をしている大学の先輩がいた。宮城にいた頃、再会して連絡先を交換した同じサークルの先輩だった。先輩とはなぜか馬が合った。彼とよく朝方まで電話をしていた。きわどい映画のブラックユーモアのネタで笑い、お互いの失敗談などをしながら笑った。彼と話をしてる時は自分の不幸を笑い飛ばせた。だけど本当に言ってはならないこと、してはいけないことをするとよく叱られた。それ以外は誰とも喋ることができなくなっていた。喋る相手が誰もいないので、読んだ本に赤線を引いておいて、その部分をまる写しすることをした。それがせめてせめての自分のコミュニケーションの手段だった。すると対人とのコミュニケーション能力はどんどん衰えていき、かわりに本を読むことが楽しくなった。よく東京のマクドナルドなどで、夜が明ける頃コーヒーをすすって本の書き写しをしていると、同じように勉強をしている人たちがいた。あちらさんは司法試験とか、医師免許取るとか、僕とは土台違う種類の勉強をしているのだろうと思うけど、妙な連帯感を感じていた。ほんのわずかだけど勇気をもらえた。そしてそういう人たちに決して非難の目を向けず、無関心でいてくれる都会の空気が、あたたかく感じた。   本を書き写す習慣が身についたころ、東洋思想の大家で教育家でもある安岡正篤の本を知ることになった。当時の自分は西洋の哲学や思想に強い憧れがあって、なんとかそれを自分のものにしたかった。だけど安岡さんの本は妙に納得がいった。彼は何度も平尾厚康という人の言葉を取り上げていたように思う。その一節。   「足ることを知れば、家は貧しといえども、心は福者なり。足ることを知らざれば家は富めりといえども、心は貧者なり。ここをよくわきまえ、かりにも奢らず、物好みをすべからず。ことわざに好きが身を亡ぼすといえる心得べし」   また、本を読み始めの自分は「一隅を照らす」という考え方にとても共感させられた。こんな一節がある。   「人間は誰でも、自分の使命を果たすために、この世の中に遣わされているのだ。右顧左眄(右を見たり左を見たりして、ためらい迷うこと)したり、人をうらやんだり、自分を卑下してごまめの歯ぎしりをするのではなく、自分の持ち場の一業に徹すれば、かならずいい仕事ができる。そして人生を実りあるものにすることができるのだ。大言壮語するのではない。足下を見よう。そして自分の足から踏み出そう。一燈を掲げて、一隅を照らそう。そうすればそれがいつか万燈となり、国をも明るく照らすようになるのだ。天のご加護があることを信じてがんばろう。すべてはそこから始まるのだ」   今の世の中、自分の努力や、自分の力を、自分の意志で役立てようと考えると、かえって社会から置き去りにされる危険もある。自分が何をするべきなのか目標が決まって努力を続けていても、社会に参与していなければそれはエゴである、と受け取られかねない。一方で、経済的価値を優先させる世界では、自分の能力は自分の意志とは関係なく、数字に置き換えられる。学生はテストや通信簿で数値化され、社会人の能力やスキルは年収や月収というかたちで反映される。価値を生まない行為や言葉を何度繰り返したところで、それは黙殺され、組織の中でそれを行えば、非難の対象でしかなくなる。昨今ではブラック企業についてテレビで目にする機会も多い。社員を休みなく働かせ、残業代はカウントせず、健康を崩したら、解雇。そしてまた大量に社員を募集する。マスコミだけでなく、一人一人の市民も、組織の横暴には監視の目を光らせる必要があるのかもしれない。  だからこそなおのこと自分の足下を照らすということが大事に思える。どこかの知らないお客を満足させるより、自分をよく知る友達や家族と心地よい関係性を築いて、時に迷惑をかけあいながら、一緒に成長していける関係。そしてそれを維持して発展させるためになら、自分を数値化され、自分の意思とは違った評価をされてもいいと思う。その延長で、自分の労働の成果が、どこかの知らないお客さんを幸せにできたら、自分も幸せになれるかもしれない。  間もなく、安岡正篤の本を母親が僕ら兄弟のしつけのネタ本にしていた、つまり教科書の一つにしていたことがわかった。このような哲学を一番最初にインプットされていたようだ。時が経って子供の頃説教された言葉や教えを自分の意志で学ぶことができた。だからと言ってドラマのように人生が劇的に変わることはないが、なんとなくいろんな物事に納得がいくようになった。自分の境遇、社会の不条理、身に起こる不幸は、自分だけのものではなく、各時代を生きた人々が千年単位でそれらと対峙してきたことがわかった。安岡さんの本にはそれらを乗り越える模範例が示されていた。私的な感想だが、彼の教えは摂理を説いていながらもどこかとてもあたたかい。読者に、むやみに批判を加えるでもなく、やたらと教え諭すのではなく、過去の賢人たちはこのような心構えで難局を乗り切っていったのだよ、というメッセージがそこかしこに見てとれる。    母親が亡くなる前の数年、安岡さんの本の教えを何気なく二人で話して、自分達の実人生に照らし合わせて吟味することがよくあった。何が正しかったかとか、何が妥当だったかとかどうでもいい。ただ母親といっしょに探すことできた。その時間は母親と息子という関係ではなく、読書好きのばあさんと本好きの野郎っこでいることができた。当時は気づかなかったが、とても大切な時間だった。そしてとても幸せな時間だった。歳を重ねるごとになおさらそう感じる。  亡くなった吉本隆明さんという思想家が、読書の功罪について「真贋」という本で語っていた。一般的な価値観で言うと、本を読んだ方が教養が身につき、思考が深くなって、人生が豊かになると考えられている。しかし本を読むことには利(よく働く面)と毒(悪く働く面)がある。悪く働く場合、本が持っている毒気にやられて、実業的な利益(具体的には生活や就業のことだと思う)ことに関心がいかなくなって、現実離れしたものが好きになる人はよくいる、ということを指摘していた。なんだか自分のことを書かれてるように感じた。しかし一方で、哲学者の田島正樹さんが「教育について」という文章でこのような言葉を残している。  「(前略)反抗的な子供のせりふは、しばしば「生んで欲しいと頼んだわけじゃない」「こんな私に誰がした」という形をとる。教育は、「こんな私になることを欲したのは私自身である」と断言する主体を生みだすことである。教育は、教育を欲したのだと断言する主体をあらしめることによって、教育自体を出し抜かせるであろう。(後略)」 読書や教育については以上のようにたくさんの考え方があると思う。だけど自分の母親が、あるいは父親が子育ての中で教科書にしていた本を知ることはとても有益だと思う。たった一冊の本が親子のコミュニケーションを促し、子供の頃捉えきれなかった教えを、後年自らの意志で受け取るようになる。それを通して自分は孤独な存在ではないことを知ることができた。歴史の表舞台に現れない人物たち、あるいは表舞台で能力を発揮した人たちが、不遇の生活の中、厳しい運命の只中、どう臨んでいったのか?その中で得たそれぞれの人の答えは誠実で、その人ならではの品性を備えているように思える。それを知ることができて、読書を続けることができて、僕は本当によかったと思う。 大概の家庭ではお父さんやお母さんが大事にしてた本は子供たちも読むことができると思う。読書が好きで何を読もうか?などと案じている人には、ぜひ、お父さん、お母さんが大事に読んでた教科書のような本を手に取ってみることをお勧めしたい。読書好きならではの不思議なサプライズが待っていると思う。
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