第一章

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 その晩、僕はまっすぐ自室には戻らなかった。  ではどこにいたのかというと、消灯時間を迎えるまでずっと、人目を避けつつ船内のいたるところをウロついていたのだ。読書室を覗いてみたり、誰もいない舞踏室をぐるぐると回ってみたり。  そんな無意味極まる彷徨の果てに辿り着いたのは、結局毎度おなじみのデッキだった。平生ならばカップルが星空を眺めていたりする、この狭い船上における希少なロマンスの舞台だが、今夜は誰もいなかった。おかげで僕も、誰に気兼ねすることもなく雄大な景色を堪能することができた。海と夜空。それはこの何もかもが勝手が違う異世界において、数少ない心から信頼をおける友だった。  いやに輪郭のくっきりとした雲の群れが、まるで一つの意識を共有する群体の如く南方へ流れてゆく。白い曳波を除けば全くの闇に覆われた海上とは裏腹に、空では星が空恐ろしさを覚えるほどに強い輝きを放っていた。浅学な僕がかろうじて見分けのつくオリオン座は、今夜も見受けられない。ということは今は夏なのだろうか? 確かに厚着をせずとも平気な程度には暖かいけれど……わからない。この異世界には、はっきりと感じ取れる四季というものが存在しない。だいたいここは僕のよく知る地球なのだろうか? もしも転移先たるこの世界が、実は地球に似て非なる全然別の惑星だったとしたら、僕が今からしようとしている行為は、まったくの無駄ということになる。  ため息を吐く。今日は殊更に、ネガティブなことばかり考えてしまう。それもこれも、みんなユーリやトーマにかけられた言葉のせいだ。  仕方ないじゃないか‪。  僕は心の中だけで級友たちに反駁した。だってここは、僕の本当の居場所じゃないんだもの。向こうの世界のことはいったん忘れて、この世界での生活を享受しろだなんて、そんな器用で薄情な真似ができるもんか。  ふと、中学時代に友達に勧められた異世界ファンタジーモノの作品群に思いを馳せる。アニメやライトノベルに精通しているその友人は、実にさまざまな作品を紹介してくれた‪──たとえば同じ時間を何度も繰り返し、突破困難な危機に立ち向かう平凡な少年の冒険譚。持ち前の明るい人柄で円満な人間関係を構築し、己に迫った破滅の運命を回避する、悪役令嬢が主役のコメディ。そして、ただ異世界で喫茶店を経営するだけの、まったりとした日常モノまで。  そうした作品に触れるたびに、僕は一抹の違和感を抱かずにはいられなかった。その違和感が原因で、僕はどうしても頭を空っぽにしてストーリーを楽しむことができなかった。  その違和感を言葉に表すと、こうだ‪──この主人公はどうして、こうもあっさりと異世界に適応してしまえるんだろう? 元いた世界の人間関係から切り離されたというのに、どうしてさしたる葛藤も抱かずに、新しい日常を謳歌できるのだろう?  そしていざ、自分がそうした主人公たちと同じ境遇に置かれてみると、僕はやっぱり彼ら彼女らとは同じようにはふるまえなかった。元いた世界で曲がりなりにも築き上げてきたささやかな人間関係が恋しくて、毎晩夢に見ずにはいられなかった。今の僕は、さながら動物園に無理やり連れてこられた野生の獣だ。自由な大自然の記憶にすがっては、悲しい遠吠えを上げ続ける獣。  向こうじゃ今頃、どうなっているんだろう? 両親は捜索願いを出しただろうか? 半狂乱になってはいないだろうか? 友人や先生たちも必死になって探してくれているだろうか? それとも僕の存在そのものが最初からなかったことになっていて、誰もが平穏無事に暮らしているのだろうか? ……どちらにせよ、考えるだけで胸が張り裂けそうになる。  手提げカバンから、ここにきた目的の品を取り出す。座学の授業時間を使ってびっしりと綴り、飲料水のボトルに詰め込んだ、二枚の手紙。  この手の手紙を出すのは、これでかれこれ三百通目だろうか? 内容はどれも似たり寄ったりだが、なにしろここは異世界だ。ポストも郵便局も見当たらない以上、質より量で勝負をする他ない。  一枚目は、主に親しい人たち‪‪──たとえば両親、祖父母、友人たち。谷保高校の担任。それに中学時代の恩師たる国語科の阿波野先生‪‪──に宛てての近況報告。‪‪そして二枚目は、この瓶を運良く拾ってくれた人への伝言。  拝啓。この手紙を受け取った方へ。どうか郷里に宛てて、転送してください。郵便番号と住所は下記の通りです。敬具。  波に揉まれ、海流にのって旅を続けるうちに、いつしか元いた世界の海岸にしれっと辿り着いていた‪‪──僕が今できることは、そんな奇跡に期待してみることくらいだ。  瓶にしっかりと栓をする。そして海めがけて、思い切り放る。着水の音さえ聞こえなかった。一瞬波間に白いものがきらりと見えた気がするけど、たぶん気のせいだろう。  海に手紙を託す時、僕はいつも今生の別れという言葉を連想してしまう。ほんの一瞬だけど、胸にぽっかりと穴があいて、その穴をすうすうと風が通っていくような感じを覚えてしまう。  月夜の海に一枚の手紙を流した‪‪──寺山修司のそんな詩を、ふと思い出した。  ええと、続きはなんだったっけ。人が魚と呼ぶものは、全部誰かの手紙です、だったかな。ともかくどうか人の大事な手紙を、魚なんかに変えないでくれよ。  こんな益体もないことを考えつつ、僕はゆっくりと船室へと帰ってゆく。今夜もきっと、うまく眠れないだろう。
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