第一章

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 気が滅入ることの多い学園丸での生活だが、幾ばくかはいいこともある。そのうちの一つが、学園の就業時間外であればいつでも自由に利用できる大浴場だ。  なんといっても、海を眺めながら浸かる朝風呂ほど気持ちの良いものはない。僕はたっぷりと時間をかけて洗顔を済ませ、髪を洗い、身体を流した。そして十五分ばかり湯に浸かった。  他に誰もいないのをいいことに、思いついた曲を鼻歌でうたう。歌を忘れたカナリヤの歌だ。  歌を忘れたカナリヤは、船にのっけて月夜の海に浮かべるべし。そうすれば忘れた歌を思い出すだろう──確かそんな歌詞だった。どこか身につまされて、うたいながらつい苦笑してしまった。  からすれば、僕もまた一羽のカナリヤなのだろう。けれどもそれはひどい勘違いだ。僕はそもそも、なんて何一つとして持ち合わせていないのだから。  湯からあがり、寝巻きがわりのローブを着直す。そしてタオルで髪を拭いつつ、寮区画の通路を自室に向かって歩く。せめてドライヤーが使えればいいのにと、かれこれ百ぺんは思ったことをまたぞろ心の中でぼやきながら。  ドライヤーだけではない。この世界にはほとんどすべての電化製品が存在しない。よってスマートフォンもなければパソコンもない。友達とLINEで会話を楽しむことも、ゲームアプリで暇を潰すことも不可能だ。生き地獄である。  足りないものはまだまだある。たとえば、サブカルチャーの知識を共有できる友達。  この通路を最初に歩いた時のことだ。僕は真っ先に映画の『シャイニング』を連想して、嬉々としてその感想を案内役の級友に伝えた。漆喰塗りの白い壁だのシンメトリーを成す扉や吊りランプの列だのが、あの映画に登場するお化けホテルにそっくりだ、と。  けれども僕のそんな感想を聞いた級友の反応は、訝しげなものだった。 「シャイニングってなんだい?」  ここまではまだ、納得できる。僕が好きな作品は、相手も当然知っているだろうと思い込んだ僕の落ち度だ。だが、この先に続いた文句には、ほとんど卒倒させられそうになった。  その小柄な男子生徒は、黒縁眼鏡の向こうの神経質そうな目を細めて、こう言ったのだ。「それにその、エーガってのは何のこと?」  ああ、ああ、なんたることだ! よりにもよって娯楽の王様たる、映画が普及していないとは! まったく、この世界の連中はどうやって余暇を過ごしているんだ?  僕のそんな失望や望郷の念は、知らずしらず顔や態度にあらわれていたらしい。初めは「記憶喪失のみなしご」に同情的だった級友たちも、いつしか僕から離れていった。連中が僕のことをどう思っているかは、なんとなく察しがついている──(おか)の上で得た知識をひけらかす、鼻持ちならない嫌な奴。 「レイ」  もっとも僕にしたって、連中にどう思われたって構いやしない。どうせこの船は、かりそめの居場所にすぎないんだから。僕の本当の居場所は別にあって、そこには両親も愛すべき友達も、尊敬すべき先生もちゃんといるのだ。いつになったらみんなのもとに帰れるかはわからないけれど、いつかは必ず帰ってみせる。 「レイ!」  ただまぁ、そうはいっても、中にはなかなか僕のことを見限ってくれない、もの好きな生徒も存在する。たとえば、入寮の初日から何かとお姉さんぶって離れようとしない、あのお節介焼きの同級生の──。 「レイっ!」  唐突に背後で上がった女性の大きな声に、僕は驚いて振り返った。  そこに立っていたのは、邪悪な笑みを浮かべた青いドレス姿の双子の姉妹‪──‬などではもちろんなく、同じクラスのユーリだった。  そうら、お節介焼きのお出ましだ。
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