第一章

5/8
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
「レイ君、レイ」  ドルトン先生の声に、僕はハッと顔を上げた。いつの間にやら先生を含め八人分の目が、僕一人に注がれていた。  どうやら標準生物学の老教授は、しばらく前から僕の名を呼び続けていたらしい。午前最後の授業。集中力を切らしてぼんやりしていたところを、まんまと見つかってしまった。バツの悪さに顔が熱くなるのを覚えながら、起立する。 「はい、先生」 「思索の旅にふけるのもよいが、時と場合は考えなさい。それと‪──」僕の机の上に一瞥をくれてから、教授は付け加えた。「‪──‬今すぐにその余計な紙の束をしまえば、内職の咎は見逃すとしましょう。この問題の括弧に当てはまる言葉はわかるかね?」  やばい、バレた。  慌てて足元の手提げカバンに書き物をしまいながら、黒板を見やる。そこにはドルトン先生独特の右肩下がりの文字で、こう記されていた‪──‬飛竜属は口内に、餌を捕まえたり敵から身を守るために用いる(  )を隠し持っている。 「毒牙です、先生。(ドラゴン)の牙には、強烈な神経毒が含まれています」 「その通り。座ってよろしい」  僕は座った。 「レイ君の言う通り、飛竜の牙には獲物や外敵の身体の自由を奪う、恐るべき猛毒が含まれています。が……それはごく一部の種、たとえば天界の捕食者の頂点に君臨するワシクイヘビ属なんかに限った話です。大半の飛竜は無毒で大人しく、むしろ我々人間よりも平和的な種族と言えます。にもかかわらず、恐怖と偏見によってどれだけの人畜無害な竜が、絶滅の危機に追いやられていることか。  さて、誠に嘆かわしいことですが、世の中はここにいるレイ君のような、賢明な人物ばかりとは限らない。識者を名乗る一部の愚か者は、この括弧の中に『火袋(ひぶくろ)』だの『炎腺(えんせん)』だのと書きたがるんですな。前夭紀(ぜんようき)の戦乱期、俗に言う“ミネルヴァの惨死”にて街を焼くのに用いられたのは飛竜の吐息だ、というわけです。生物学のいち探究者として言わせてもらえば、馬鹿げた妄想です」  教授の弁舌が、いよいよ熱を帯びてきた。 「いいですか? 魔法、ことに火をひどく恐れる竜属が、なんで炎の息吹なんかを武器にできるんですか。こういうのを矛盾と言います。もしもこの講義を聞いているあなたが火を吹く竜なんて絵空事の肩を持つのなら、悪いことは言わない。私の授業の単位は諦め、伝承学の道に進みなさい。生物学というのは神秘ではなく、事実を探し求める学問なのです。さて、次に飛竜属の国際取引についてですが、これはセティック条約にて厳重に規制されており……」  それから三十分後。僕ら八人の生徒は、めいめい大きく伸びをしたり、肩をぐるぐると回したりしながら、三々五々教室を退出した。無論、講義の感想や質問がぎっしりと書き込まれた授業用カードを、専用のボックスに投函するのを忘れずに。  一クラスあたり八人、と言うと向こうの世界の感覚ではずいぶんな少人数に思えるが、これでも我が校では最も規模の大きいクラスなのである。多少の人数の変動はあるものの、ノア学園は基本的に基礎のクラスが六人、標準クラスが八人、そして発展クラスが三人で運営されている。なぜ一クラスあたりの人数がそんなに少ないのかというと、生徒がそれしかいないからだ。総生徒数一七人。それがノア学園の実態である。  魔法に関しては、教えている当の大人たちにさえわかっていないことの方が多い。後夭紀(こうようき)‪──‬この言葉の意味も、僕は正確には知らない。おそらくB.C.とA.D.の違いみたいなものだろう‪──‬以降に誕生した人間すべてに備わっているという説もあるけれど、それを自分の意思でコントロールした上で発動できる者は、そのうちの一パーセントにも満たないそうだ。  その一パーセント未満に、よりにもよってこの無能力者の僕が選ばれてしまったのだから、世の中わからない。いつか向こうの世界に戻れたら、宝くじを買ってみるとしよう──‬だがその前に昼飯だ。お待ちかねの、四五分の昼休みである。  さて、今日はどこでランチと洒落込もうか。やっぱり自室か、はたまた談話室か‪。のんべんだらりと通路を歩いていると、いきなり肩を叩かれた。 「よーう、特待生」  振り返ると、そこには先刻まで同じ生物学の講義を受けていた男子生徒が立っていた。水兵仕様の制服の着こなしがさまになっている伊達男だが、僕はその名前を知らない。 「ああ、やぁ」 「さっき、ドルトン先生に怒られてたな」にやにやと笑いながら、その何某君は言った。「授業中に何を書いてたんだよ」 「いや、別に……君に説明しなくちゃダメなのかな、それ」  できる限り、何の感情も込めずに伝えたつもりだった。けれどもどうやら僕の声には、知らず知らず苛立ちが滲み出ていたらしい。途端に何某君は、鼻白んだような表情を浮かべた。 「わ、悪い。気を悪くさせるつもりはなかったんだ。けど……その、なんだ。お前も授業中に関係ないものは見るなよな。周りの迷惑になるからさ。じゃ」  そうして行ってしまう何某君。  申し訳なさと自己嫌悪の念が込み上げてきて、僕はもう少しで彼の背に呼びかけそうになった。が、結局僕は何も言わなかった。何も言わず、一人で甲板に出る。そしてデッキチェアの一つに腰を下ろし、カバンから昼飯を取り出す。  あの何某君が僕に話しかけてくれることは、おそらくもう二度とないだろう。かくして僕は、より深く孤独になってゆく。恒常的に僕に構おうとするのは今やユーリと、あの口うるさい寮長くらいのものだ。だけどあの二人にしたって、いつかは僕に見切りをつけるだろう。  ある人は僕のことを、すごい力を秘めた特待生と持て囃す。別のある人は僕のことを、記憶喪失を装ってわけのわからない妄想ばかり並べる怠け者だと非難する。どちらにせよ、それは本当の僕じゃない。そしてそんな虚像を押し付けられるたびに、僕はひどく苛立ってしまう。なんだか本当の自分の姿さえもが、あやふやになってゆくような危機感を覚えてしまうのだ。ひょっとしたら実はみんなの方が正しくて、狂っているのは僕の方なんじゃないかと。僕が必死にすがりついている転移前の自己像の方こそが、実は虚像なんじゃないかと。  丸パンの残りを、ミネラルウォーターで流し込む。そしての舞う空を見上げる。燦々たる陽光を浴びていると、急に眠気が込み上げてきた。緑色の小さな空き瓶を抱え、僕はトロトロとまどろみ始めた。  瓶なんかを抱えて眠ったせいだろう。寝入りばなの夢の中で、僕はボトルシップに乗っていた。瓶詰めの小宇宙で久遠の航海を続ける船は、もちろんどこへも行き着くことはなかった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!