第一章

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「見つけたぞ、レイ・ロセッカス!」  この世界における僕の名前を大声で叫ばれ、驚いて振り向くとトーマが仁王立ちをしていた。それもめいっぱいにしかめっ面をしながら。  午後の清掃の時間である。彼に聞こえない程度に小さく舌打ちをすると、僕は努めて朗らかな声を上げた。「やぁ、トーマ。君もこの楽しい楽しい大浴場の掃除に一枚噛みたいのかい。君とお楽しみを分かち合いたい気持ちは山々だけど、残念ながらもうとっくに済ませちゃったよ。ごらん、もうじき湯も張り終わっちまう」  “寮長”トーマ・アーレンドルフはそんな軽口ではぐらかせる相手ではない。この、丹念に撫で付けられた黒い髪と高い鼻がチャームポイントの優男は、端的に言えばルールブックが服を着て歩いているような人物である。我らが聡明なる堅物。目に静かな怒りを湛えながら、しかし彼はどこまでも穏やかに言った。 「ケンとアンナの二人から、連絡があった。君が午後の魔法実践演習の授業を、二日連続で欠席したと。だからこうして俺が探しに来た。そして君を発見した。君は見たところ体調不良だったり、どこかに怪我を負っているわけではなさそうだ。しかも船員さんの一人から聞いたところによると、君は船倉にいるべき時間帯、ずっと甲板のデッキチェアで眠って過ごしていたそうだな」そこまで言ってから、彼は手を開いて僕の方へ差し出した。「さて、君の言い分を聞こうか」  彼はこういう男である。どんなに言い逃れのしようがない状況でも、こちらの言い分を必ず一聴する。決して相手の話を遮ったり、頭ごなしに怒鳴りつけるような真似はしない。尊敬すべき態度だとは思うけれど、しかし、回りくどいことこの上ない。とっとと処罰の言い渡しなり説教なり、本題に入ればいいものを‪──うんざりした声色を隠そうともせず、僕は言った。 「語るに足る言い分なんてなんにもないよ、トーマ。あんまり気持ちのいい午後だったから、つい寝入ってしまった。それだけのことさ。残念ながら起きた時には、とっくに午後の授業はみんな終わっていてね。で、せめて掃除だけはきちんと参加しようと思って、まっすぐにここにやってきたってわけ。アラームでもあれば、こんなことにはならなかったんだけどねぇ。いやはやままならないよ」  僕と同じ掃除の班の連中は、おしなべて何も言わなかった。一様にブラシやスポンジを持ったまま、事態の推移を見守っている。しかし‪──僕とトーマ。彼らがどちらの肩を持っているのかは、その目が雄弁に物語っていた。彼らの視線にははっきりと、トーマへの同調と僕への非難が表れていた。  ちなみに、目を覚ました時にはすでに手遅れだったというのは真っ赤な嘘だ。本当はデッキチェアから起き上がった時にはまだ授業時間は半分以上残っていたのだけど、指導教官への謝罪も途中参加も面倒臭かったので、そのままバックれたのだ。 「レイ。君、本当にいい加減にしろよな」  まるでこのノア学園の良識を代表するかのように立ちはだかって、トーマ大先生はなおも静かに詰った。「授業は無断で欠席する。朝夕のミーティングは真面目に聞かない。提出物の期限は守らない。この頃の君の態度は、はっきり言って目に余るぞ。なんで君はそうなんだ。なんで真面目に学業に取り組もうとしない。みんながどれだけ君のことを心配しているか、少しは理解しようとしたらどうなんだ」 「そうかい、僕は君たちに無用の心配をかけているのかい。ならそれは謝るよ。少しはみんなの気持ちも考えろ、ね。お説ごもっとも。……けどな、だったら僕の気持ちも少しくらいは、みんなに理解してもらいたいんだがね」 「君の気持ち? 言ってみろよ」 「ああ、言わせてもらうさ‪──絶対にできっこないことをやれと強要するのは、そろそろやめにしてくれないかな。そりゃあ君たちはちょいとチチンプイプイを唱えりゃ、水でも火でもなんでもござれかもしれない。けどな、僕には無理だ。その僕に、君たちは魔法を使えるようになれと言う。まともに魔力を発動できるようになるまで、教室の隅っこでみじめに一人で体力作りをしてろと言う。それが僕に対してどれだけ残酷な仕打ちか、ちょっとは理解してほしいんだがね」 「何度も言うようだがな、レイ」聞き分けのない我が子に噛んで含める口調になって、トーマが言う。「君は厳正な検査の末に素質を認められて、ここに入学したんだ。それなのに魔力が発揮できないのは、きっと練習の精度に問題があるのか、あるいは単に気持ちの問題かのどちらかで‪──‬」  あからさまなため息を吐いて、僕は肩をすくめてみせた。またそれだ。またしても忌々しい、無意味な根性論。やる気さえあれば、誰もが一〇〇メートルを一〇秒で走れるのか。努力さえすれば、誰もがイチローや大谷翔平みたいな超一流の野球選手になれるというのか! 「もう放っておけよ、トーマ。どうせ言っても聞かないんだから」誰かがぼそりと言った。「こいつ、いったい自分を何様だと思ってるんだ? ちょっと座学ができるだけの穀潰しのくせに」  僕の頭に、サッと血が上った‪──‬穀潰しだと? 「そんな言い方はよせよ、ジョー!」トーマが叫んだ。 「いいや、今日という今日は言わせてもらう。おい、レイ。俺も前から、お前の態度が気に食わなかったんだ。全体の空気が悪くなるようなふるまいは、いい加減に慎め。さもないと‪──‬」 「さもないと、なんだよ?」僕は吐き捨てた。「ここから出て行ってもらうってか? おお、そうかよ。そいつはありがたいや」 「レイ、やめろっ!」  トーマはおそらく、僕のことを庇ってくれようとしていたのだろう。それは十分に伝わってきた。けれどもそれは、衝動を抑える役には立たなかった。 「上等だ、次の港で降ろしてくれ。厄介払いができてよかったね。僕もこんな薄汚いボロ船からオサラバできて、まことにせいせいするぜ」  途端に轟々たる非難の声が上がったので、僕は決定的にまずいことを口走ってしまったのを察した。が、今更取り繕ってももう遅い。僕は腕を組み、挑戦するように全員を睨み返した。 「もういっぺん言ってみろ!」ジョーと呼ばれた大柄な男が、顔を真っ赤にして怒鳴った。  僕も負けじと声を張り上げる。「ああ、何度でも言ってやる。僕がこんなところに、自分の意思で来たとでも思ってるのか? だとしたらとんだお笑い種だ。この学校は僕が選んだわけじゃない。頭のおかしい大人たちが、勝手に入学を決めたんだ。でなきゃ誰がこんなボロ船に、好き好んで留まるかよ!」 「レイ、てめぇっ‪──‬!」  怒れる猛牛の如く、ジョーの巨体が突進してきた。僕は迎撃すべく身構えた。体格差から察するに、数分後には僕はボコボコに打ちのめされているだろう。が、そうなる前に、その角ばった顎にパンチの一発や二発くらいは叩き込んでやる。  けれどもジョーの拳は、いつまで経っても僕の顎で炸裂しなかった。彼のパンチは僕の目と鼻の先で、まるで止まっているように見えた‪──‬否、実際に止まっているのだった。不意に空中に現れたが、彼の手首に絡みついてその動きを封じていた。蔦はいつの間にやら、僕の腕や脚にもまとわりついていた。  ハッと気がついて、浴槽の方を見やる。果たしてそこでは、張られたばかりの湯がまるで生けるゼリーの如く躍り上がっていた。ゼリーの一部は触手となって、僕とジョーが接触するのを阻止していた。  液体の性質を自在に変化させ、己の道具とする。トーマお得意の水魔法だ。 「こいつを……解除しろ……トーマ!」温かく強固な触手から逃れようともがきながら、ジョーががなり立てる。 「まずはその拳を下ろせ。話はそれからだ」 「何を言ってんだ? お前だって聞いただろう? こいつは、こいつはな、俺たちの学舎を愚弄したんだぞ! いっぺん懲らしめてやらないと、腹の虫がおさまらねぇ!」 「だとしても、暴力は絶対にダメだ。冷静になれよ、ジョー。すぐカッとするのが君の昔からの欠点だ」  しばしもがいた後に、やがて相手が悪いと判断したのか、ジョーは力なく拳を解いた。他の連中も毒々しい目つきで僕を睨みこそすれ、一向に彼の後に続こうとはしなかった。無理もない。水の魔法にかけては、この学園でトーマの右に出る者はいないのだから。  それで万事解決、とはもちろんいかなかった。未だ腕に絡みつく触手から逃れようと腕をよじりながら、僕は言った。「僕の分の拘束がまだ解けてないぜ、トーマ」 「ああ、もちろん解いてやる。だがその前に、ちゃんとみんなの前で謝るんだ。そして今放った暴言を撤回しろ」 「嫌だと言ったら?」 「残念ながら、全員の入浴時間がなくなる。俺は本気だぞ、。たとえ先生方がなんと言おうと、今日という今日は、俺のマナが尽きるまで君のその捻じ曲がった根性を叩き直して──‬」 「二度と僕のことを──」制御しようとしても、どうしても声は必要以上に大きくなってしまう。「──ロセッカスなんて呼ぶな! そのいかれた苗字には虫唾が走る。僕には親から与えられた、名前があるんだ。この世界の名前を受け入れて、この世界に染まれなんて言われたって、そうはいかないぞ! 僕は、僕にはな──」  僕には、の後に続けようと思っていた文句は言えずじまいに終わった。というのもちょうどその時、脱衣所に通じる引き戸が勢いよく開かれ、誰あろう、ユーリア・フォン・エスタロッテが姿を見せたからだ。 「廊下まで怒鳴り声が聞こえてきたわよ。何の騒ぎなの、これは!」男どもに負けず劣らず、ユーリは大きな声を上げた。そしてあっけに取られて硬直する僕たちの様子を見てとるなり、文字通り髪の毛を逆立てた。「喧嘩に魔法を使うなんて!」 「えっ、違うよユーリ! 誤解だ!」  こんな状況でさえなければ可笑しくて吹き出してしまうくらい、トーマはてきめんに狼狽えた。彼の動揺は、そのまま魔力の働きにも乱れをもたらした。僕を拘束していた半液体半固体の不思議な触手が、たちまちただのぬるま湯に戻って床のタイルを打った。  急に怖気付いたように、ジョーがじりじりと戸口の方へ逃れはじめた。他の生徒たちも同様である。いったい何をそんなに恐れているのか──その正体に気づいた時には、もう遅すぎた。  ハッと気がついた時には、不吉な生暖かい風が僕とトーマの周りで渦を巻いていた。初めはつむじ風程度だったそれは、あれよあれよという間に立っていられないほどの暴風となった。  そうだ。この大浴場は何も、トーマだけの独壇場ではない。湯気が立ち込めるこの空間は、火の魔法や風の魔法を増幅させるにはうってつけの環境ではないか。  僕たちの身体が、凄まじい上昇気流に乗って宙に浮き上がった。他の連中が、悲鳴を上げて我先にと逃げ出す。  くるくると木の葉の如く舞いながら、僕は風魔法のエキスパートが声を上げるのを聞いた。 「少しはその頭を──」  大浴場の景色が目まぐるしく回る。どんなにもがこうと、掴まるよすがもない。傍ではトーマがめちゃめちゃに腕や脚を振り回しながら、なおも「誤解だ、誤解だ!」と訴え続けていた。 「──冷ましなさい!」  まるで合唱を止める指揮者の如く、ユーリが空中に小さく円を描いた。次の瞬間、僕たちを浮遊させていた温風の掌が、一瞬にしてかき消えた。  凄まじい水音を立てて、僕もトーマも、張られたばかりの湯に頭から突っ込んでいった。
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