第四連鎖 「最後ノ晩餐」

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第四連鎖 「最後ノ晩餐」

くるくる…、くるくる…。 回転している紅い光が、彼の表情を交互に照らしたり隠したりしている。 その光で彼の紅くなり始めた瞳が目立つ事はなかった。 パトランプが廻っているのを見るのは初めてだった。 サイレンを鳴らさずに団地の敷地内に滑り込んできた。 救急車に続いてパトカーも入り込んでくる。 静か過ぎて、ベンチに座る彼に近付いたのに気付かなかった程である。 鈍く紅く走る光の中、彼は闇の正体を見続けていた。 直ぐ近くではシートにくるまれた少年の亡骸が運ばれていた。 仕事中で連絡が付かなかった母親から返信が在ったらしい。 遺体安置所にて身元確認が行われる。 警察官の表情が暗いのは、仕方が無い事なのだろう。 少年は自分の部屋から店舗の屋根スペースに降りて行った。 そのスペースを歩いて横切り、公園の方へ。 そこから街路樹に移り、登って縄跳び用ロープを掛けたらしい。 わざわざイジメ加害者の自宅からも見える様に。 「…自殺、なんですか?」 彼は事情聴取をしている巡査に、逆に尋ねた。 巡査の顔が一段と曇る。 「そういう事に、なりますね…。」 青年は顔も上げずに続けて尋ねてみた。 巡査には、何も答えられないのが分かっていながら。 「あの額の傷、…見ましたよね?」 その質問には返事が返って来なかった。 そこからは強風の音だけが聴こえ続けるだけだった。 少しだけ雨が混ざり始めていく。 確かに直接的な死因は自殺にまで至る行為だろう。 だが致命傷は全く別の理由ではないか…、少年は殺されたのだ。 再び彼に怒りの感情が沸き上がってきた。 その相手に少年の亡骸の写真を送り、精神的に傷は負わせただろう。 だがそれが、どれ程の効果を持つかは疑問だ…。 彼は知らなかったのだ。 少年を死に追いやった主犯もまた、直ぐ近くの頭上で亡骸となった。 店舗の屋根の上で、自らの血の海に横たわっている。 彼の送信した少年のデスマスクの写真が、結果的に復讐を果たしていた。 だが相手の亡骸は、強風で狂った様に揺れる木々に隠されている。 最上階から転落した時の音も掻き消されたのだ。 その亡骸に気付いた者は、今のところ独りだけである。 そして、その独りもまた…。 回転しているパトランプの紅い光が、瞳も紅く見せているようだ。 それ以上に彼もまた、瞳が紅くなり始めている。 くるくる…、くるくる…。 母親が帰宅した時に、ボスの部屋のドアは閉められたままであった。 部屋からは物音が聴こえていたので、彼女は夕飯の支度を始めた。 彼はゲームを邪魔されるのを、一番嫌がったからである。 ある程度の時間になったら、自分からダイニングに出て来る。 だから彼女は声も掛けずに放っておいたのだ。 だが、その時の物音は彼ではなかった。 彼が開け放した窓から入ってくる強風の悪戯である。 それは、悪意が在るとしか思えない悪戯だった。 野菜を切る包丁の音が、いつもより強く響いていた。 彼女は腹を立てていた、それで帰宅が遅くなったのだ。 匿名で、彼女の息子がイジメに加担しているという意見が出ていた。 だが学校側の見解はイジメは無いという結論だった。 彼女はPTAの副会長である。 何か問題が浮上したら、直ぐに自分に報告すべきと強弁してきた。 息子がイジメなんかに加担する訳がない。 一体全体、そんな噂を誰が流しているのだろうか。 彼女の瞳もまた、怒りで充血している様であった。 私が息子を守る…。 事情聴取を終えた巡査が、声を潜めて話し始めた。 第一発見者の彼の憤りを察しての、個人的見解である。 「実は、あの少年は我々の同僚のご子息なんです。  …その方は自分に取っては先輩です。」 全く予想しなかった展開だったので、彼も返事が出来なかった。 イジメの被害者が警察官の息子だって…? 「なので貴方よりも、我々の方が強く憤っております。  先輩は隣の区の管轄に所属されています。」 少年の母親が元の奥様との事であった。 もし此処が管轄だったら、変わり果てた息子と再会したのか…。 いつでも地獄は直ぐ近くで待ち伏せしている。 彼は連絡先を聞かれた後で、帰宅を許された。 だがしかし帰る場所なんて、もう無い気がしていた。 夏休み最後の日が、こんな終わり方をするなんて…。 だがそれは、終わりの始まりだったのである。 次に到着したのは普通乗用車、いわゆる覆面パトカーである。 降りて来た私服の警官が、現場待機していた巡査と合流した。 自殺した少年の額に刻まれた相手に事情聴取する事になったのだ。 もし問題が在れば保護者付き添いで保護する事となる。 彼等は目の前の団地の最上階へと向かった。 2台のエレベーターの片方は止まっていた、点検中であった。 隣のエレベーターに乗り込み、13階を押す。 警察無線から漏れてくる音声以外は、全員が終始無言である。 最上階に到着した途端に、皆の足取りが急に重くなった。 ボスの母親はビーフシチューを作っていた、彼の大好物である。 揶揄された彼への愛情を込めて、夕飯の支度をしていた。 彼女は、いつも以上に力を込めて材料を切っていたのだ。 煮込んでいる途中でインターホンが鳴る。 夫なら出張中である、…こんな時間に誰だろう? モニターで確認すると見覚えの在る巡査と背広の人物の二人。 背広の人物がモニター越しに警察手帳を見せていた。 「主人なら出張中ですが、何の御用でしょう?」 モニターの巡査は、息子に尋ねたい事が在ると告げてきた。 …息子に? 彼女はドアを開けて二人を迎え入れた。 簡単な事情説明の後、三人で息子の部屋へと行った。 彼女が先頭で息子の部屋をノックしたが、物音はするのに返事が無い。 よく彼はゲーム中にヘッドフォンをしていたのである。 もう一度大きめのノックをしてから、ドアを開けた。 「貴方に、お客さんなんだけど…。」 部屋には誰も居なかった。 ドアを開けた途端に、霧雨で重く濡れ始めていたカーテンが揺れた。 風が流れ込んで、カーテンを窓から外へとはためかせていた。 それはまるで、彼女達をベランダへと促している様に。 「…?」 彼女は訳が解らなかった、何で此処に息子が居ないのだろう…? 霧雨が吹き込んでいる窓を閉めた。 だが思い直した様に再び開けて、そこからベランダに出た。 …出てしまったのだ。 まるで誰かに呼ばれているかの様に。 すこしの間だけ強風で荒れ狂っている景色を眺めた。 そして視線を下に落とし何かを見付け、そこで固まってしまう。 注意深く部屋を見回していた私服警官が、その様子に気付き尋ねた。 「…どうされました?」 ボスの母親は無言で無反応のまま、何の動きもしなかった。 巡査がベランダに出てから真下を見て、慌てて言った。 「もう一台、直ぐに救急車を!」 再びの緊急出動要請を受けた救急車、行先は同じ団地である。 それに伴って署からパトカーも出動した。 それと入れ違いに一人の男性が警察署に入っていった。 受付に向かう途中で顔見知りに呼び止められる。 「この度は誠に…、奥様は既に安置所の方に…。」 声を掛けたのは制服を着た巡査、彼を案内する役目であった。 男性は吐き捨てる様に小さく呟いた。 「元の、…だ。」 彼の元の妻だった女性は、先に遺体安置所に到着していた。 自殺した少年の身元確認に応じてからは、たった一言も発していない。 彼は微動だにしない彼女を、微動だにせずに見つめていた。 まさか…こんな風に再会するなんて、想像すら許さないだろう。 目の前にはシーツで顎まで覆われている少年の遺体。 …その額には呪われた傷跡。 それは隠しようもない確かなイジメの痕跡である。 少年との再会も離婚して以来であった。 かつての妻からは何の言葉も無かった、何の反応も無かった。 彼は目の前の、元妻との再会を諦めた。 少年とは最後に会えただけでも…。 …会えたのか? 涙が溢れ出てきて止まらなくなった。 まだ涙が残っていた事に、自分自身で驚いていた。 彼は、かつて最愛だった二人を残して署を去った。 ボスの母親は微動だにせず、ベランダから転落した息子の亡骸を見ていた。 台風が連れて来た霧雨が、彼女の表情を洗い流している。 巡査が一人、彼女の安全確保の為に部屋に待機したままであった。 私服警官は遺体の検視に現場に向かったのだ。 彼女は、急に何かを思い出したかの様にベランダから戻った。 その瞳は何も見ていなかった、見えていなかった。 そして血走っていた、…紅く。 慌てた巡査の横を通り抜けてキッチンへ向かった。 まるで何事も無かったかの様に。 支度の途中だったビーフシチューは既に火を止められていた。 彼女は気にする素振りも見せず、シンクの下を開ける。 …愛用の料理用の包丁を取り出した。 更に慌てた巡査が取り上げようと背後から近付く。 その途端に音が聴こえ始めた。 とんとん…、とんとん…。 材料を切る音が部屋中に響き始めた。 きっと彼女は息子の為に、料理の続きを始めたに違いない。 彼女の背中越しに聴こえる音に安心し、立ち止まる。 だがしかし、油断せずに視界に入れたままソファーに座った。 刃物を持った彼女から目を離すのは危険だからである。 とんとん…、とんとん…。 材料を切る包丁の音が、いつも以上に強く響いていた。 彼女は、いつも以上に力を込めて材料を切っていたのだ。 …ただ、まな板の上には何も載っていなかった。 安置所で少年を見つめていた母親は、その場で倒れてしまった。 彼女は呼吸をする事すら忘れていたのである。 そのまま病院に運ばれて点滴を受けた。 回復後に巡査と看護師に付き添われて自宅に戻る。 その間は終始無言のままであった。 「…ただいま。」 自宅のドアを開けながら何時間か振りに声を発した。 それは、いつも先に帰宅している少年に向けてのものである。 …だが今日は返事が無い。 彼女は少しの間、玄関で動けずに固まっていた。 いつも揃えてあげている少年の靴が無い。 …やはり返事は返って来なかった。 二部屋しかない片方の少年の部屋を覗いてみる。 見慣れたカバンは机の上に置かれている。 明日からの新学期の準備は出来ているみたいだ。 …だが息子の姿が見当たらないのは何故? その横には夏休みの自由課題に使われた本が積まれていた。 駅の反対側にある図書館から借りてきた本。 少年は、いつも大量に借りてきて読書するのが好きだった。 離婚後は裕福ではなかったので、教科書以外の本は少ない。 漫画の類は全く持っていなかった。 その沢山の借りて来た本を見て、少年の母は気付いてしまった。 …もう息子はいないのだから、私が返しに行かなくちゃ。 …もう息子がいない? 急に脱力感に襲われた彼女は座り込んでしまう。 そして、そのまま虚空を見詰めて心の中で呟いていた。 …ただいま。 …ただいま。 …ただいま。 心の中でさえ少年からの返事は無かった。 そのまま彼女は意識を無くしたかの様に、うずくまって動けなくなった。 彼女の元の夫であり、少年の父親も帰宅していた。 彼は帰宅するまでの間中ずっと、一つの事を考えていた。 少年の額に刻まれた名前である。 その事だけを考えていた。 …あれは息子からの自分へのメッセージだろう。 母親では、どうする事も出来なかったのだ。 息子は最期の最後に自分に託したのであろう。 だが何を? もう彼はいない、せめて生きている間に連絡をくれれば…。 自分は父親として、どうしてやれば良いのだ? 彼は眠れもせずに考え続けていた。 その瞳が紅く染まってきているのは、寝不足の為なのか…。 少年の母親は失神したかの様に眠っていた。 だが、ほんの少しの物音で跳び上がる程に目が覚めた。 無意識に少年の帰宅を待ち侘びていた為だろう。 だがそれはリビングから聴こえてきた機械の操作音であった。 その音と連動してテレビに備え付けてあるレコーダーが動いた。 彼女はモニターを点けてみる。 そこに映っていたのは彼が大好きだったアニメ番組。 大人しかった彼が声を出して笑う程であった。 彼が録画予約をしていた為に、時間になって作動したのだ。 彼女は全く感情を持たずに画面を眺めていた。 ただ途中から涙が溢れていた、だが彼女自身は気付いていない。 録画予約は終了した。 …同時に、彼女の何かも終了してしまった。 テレビモニターを消した。 …同時に、彼女の何かも消えてしまった。 彼女は立ち上がってキッチンに向かった。 まるで何事も無かったかの様に。 そして夕飯の支度を整え始めていた。 彼女の分と、…まだ帰って来ていない息子の分を。 二人の母親が同時に子供を失った。 母親が、自分より先に我が子を亡くす程の地獄が在るのだろうか。 新たな地獄の扉が開かれてしまった。  
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