初恋の色

10/15
前へ
/15ページ
次へ
「かんぱーい!」 「乾杯」  近くに見付けた居酒屋で、ビールで乾杯する。まさか弟とお酒を飲むことが出来るなんて、思いもしなかった。 「これからよろしくな、澪」 「……よろしく、樹」  正面に座っている樹をまともに見れない。つい先程手の平を舐められたこともあるが、今までもまともに顔を見ていなかった。  どこに視線を向ければいいのか判らない。 「働き始めるまでは俺が色々家事やってやるよ」 「そんな、いいよ」 「いいよって、だって忙しいんだろ? 碌に買い物にも行けずに」 「今が忙しいだけだもの。もうちょっとすれば落ち着くわよ」 「そんなん判んねぇだろ。いいじゃん、やれるうちはやってやるから。俺結構料理上手いんだぜ」  それはこの前の朝御飯の時から良く判っている。 「……判った。ありがとう、樹」 「どーいたしまして」  ニカッと笑った顔をしたあと、注文した串にかぶり付く。笑顔を見せてくれると嬉しい。自分に向けられると嬉しい。  過去の痛みは忘れていない。それでも。もしかしたら、樹との関係をやり直せるかも……  それは、どうしても捨てきれない澪の願望。  この同居生活がいつまで続くかは判らないけれど、一緒に居るうちは何とか壁を取り払ってみよう。澪はそう決心した。  * * 「おはよう、澪」 「おはよう……樹」  それからの澪の日常は、樹と挨拶を交わすことから始まった。それが酷くくすぐったい。  今まで、家で誰かと挨拶を交わしたことなどなかった。  今まで「行ってきます」と告げて仕事に向かったことなどなかった。今まで「ただいま」と言いながら帰ってくることなどなかった。  それだけのことがとても嬉しい。  樹が言った通り、樹が作る料理は美味しかった。澪も自炊はもちろんしていたが、自分だけのために作る料理は味気なかった。それが一緒に食べる相手が居ると、こうも違うものだろうか。 「今日は何食べたい?」  弟からこんなことを訊かれる日がくるなんて。 「樹。嬉しいけど、毎日作らなくてもいいよ。私も作るし」  嬉しいけれど、家のこと全て樹にやってもらうのも心苦しい。 「いーよ、別に。こういうことするの結構好きだし。俺も働き始めたら澪にやってもらうから今は甘えてろよ」  これではどちらが年上か判らない。 「……ありがとう」  樹からこんなことを言ってもらえるとは思っていなくて、どうしても頬が緩んだ。  同居生活は続く。週末にはふたりで買い物にも行くようになった。 「車ねぇと不便だよなぁ。米とか水とか買う時面倒」  食料の買い出しに行った帰り道、両手に荷物を下げた樹がそうぼやく。 「樹、免許持ってるの?」  隣に並んで歩いている澪が尋ねると、樹は眉を寄せた。 「何だよ、意外? てか、免許取るの当たり前じゃん。あっちの方じゃ車ないととにかく動けねぇんだから」  あっちの方というのはふたりの実家の方。田舎の方にある実家は、確かに個別で動ける物がないと大変だろう。 「うん……そっか」  高校生になってから実家を出たきりの澪には、いまいち実感は伴わない。感じるのは疎外感── 「今度レンタカー借りてさ、ドライブでもしようぜ」  沈みかけた澪の心を、樹のそのたった一言が(すく)い上げる。 「うん」  肩を並べて歩く。笑顔で会話を交わす。  同じ家で同じテーブルにつき、同じ食事を摂る──弟と。ただそれだけの、他愛ないことが嬉しい。  この穏やかな日常が、今までの離れていた距離を埋めてくれているような気がして。  きっとこのままやっていける──弟と一緒に暮らして行ける。  そう思えた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加