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その夜は、混乱の夜だった。判らない。樹の考えていることが判らない。
澪を姉として見ているわけではないのか。だったらどうして自分のところに来たのか。
姉弟だから、と同居を始めたのに。同居も上手くいっていると思っていたのに。それは澪の独りよがりの思いだったのだろうか。
堪えようとして涙が溢れる。何の涙か判らない。過去の言葉が何度も何度も澪を切り付ける。拒絶された腕。拒否している背中。見えない刃が、心臓目掛けて振り下ろされている。
「……ッ」
嗚咽が漏れないように、ベッドの枕に顔を押し付けた。樹に姉として認められていない、という現実が哀しくて。未だに姉と思ってもらえない自分が情けなくて。
だから──自室の扉が音もなく開いたことに気付かなかった。
「……澪」
小さなその呟きが聞こえてきた瞬間、澪は痙攣を起こしたかのように激しく震えた。
「い、いつ……」
樹、と名前を呼ぼうとしても、泣き続けていた舌は上手く回らない。泣き腫らした顔も見られたくない。慌てて毛布を頭まで被るが、樹の行動の方が早かった。
「……ッ!」
「澪」
容赦なく毛布が剥ぎ取られる。
「澪。泣いてんの?」
「や……ッ、泣いてなんか」
「泣いてんじゃん。何で? どうした?」
さっきは冷たく突き放したくせに、どうして今は優しい言葉を掛けてくる?
顔を隠そうとした澪の両手をベッドに押し広げた。のし掛かってくる樹から顔を背けることしか出来なくなる。
「微かだけど何か変な声が聞こえたから来てみたら……何でこんな風に泣いてんだよ」
樹の言葉に、嗚咽が隠しきれていなかったことを知る。
「で、出てって……」
鼻声で、小さな囁きのような声だったが、樹の耳には届いた。
「何で」
「……いいから、出てって。お願い」
「何で。俺には言えないこと?」
樹の言葉に振り回されているのに、どうして本人にそれを言えようか。唇に力を入れて引き締め、言う意思がないことを伝える。
「本当に何でもないから。もう寝るから出てって」
「澪」
「わ、私も色々考えることあるの。それで感情が高ぶっただけ。何でもないの。手離して」
樹に上から押さえられている手はびくともしない。樹から離してくれるまで、抗うことは無駄だ。
何も口を開こうとしない澪に諦めたのか、樹の手の力が緩んだ。緩んだと同時に、樹の顔が近付く。避けることも出来ずに、澪はまたそのまま頬に樹の唇を受けた。
「樹!」
「お休み、澪」
苦しい。苦しい。苦しくて堪らない。離れていた時は思い出したとしてもここまで辛くなかったのに。
樹と一緒に暮らせるようになって嬉しかった。けれど、浮かれていたのは自分だけだったら? 樹にとってはただ暮らすためだけの日常。会社に通うための都合の良い場所。
何て滑稽……馬鹿みたい。
弟に姉とも認めてもらえていない。認めてもらえていないのに、姉と呼んでもらいたいなんて。結局、弟との距離は縮まっていない。
『絶対、呼んでやらねぇ』
樹の言葉が何度も何度も繰り返される。胸が痛くて堪らない。
──私は姉として認められていない。どうすればいいのか判らない。
澪は混乱する頭を抱え、枕に縋り泣き続けた。
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