初恋の色

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『荷造りしとけよ』  そう言って樹が澪の部屋から出て行ったのは、朝食を食べ終わってすぐのこと。  ──本当に、本気なの?  今日は土曜日。土曜日、日曜日と連休で、確かに引っ越そうと思えば引っ越すことは出来る。  一応、のろのろと手を動かして荷造りを進めてはいるが、どうしてこんなことになっているか未だに納得が出来ない。樹に強く言えないのもある。  澪がまともに樹と会うのは約5年振り。姉弟間にあった距離は、一気には埋まらない。 『澪なんか嫌いだッ!』  過去の痛み。あの言葉。あの顔──泣きそうで、苦しそうで……  普通の姉弟だと思った。普通の姉弟だと思っていた。それなのに、そんな顔をさせるほど、自分の存在は弟にとって苦痛なのだと思い知らされた。  だから、離れた。  寮のある学校を選び、就職した今も実家には帰らずに独りで暮らしている。  澪にとって、樹は可愛い。幾つになっても可愛くて、大切な弟だ。  本当は寮になど入りたくなかった。実家で家族と一緒に過ごしたかった。けれどそれは弟の笑顔を犠牲にしてまで突き通すことではない。  大好きで、大切だからこそ──離れた。自分の我を通すより、弟の心と笑顔を選んだ。  なのに、どうして──?  ぐるぐると考えているうちに外に気配がして、「澪!」と叫びながら当の樹が玄関扉を叩いた。  澪は慌てて玄関に向かう。壁が薄く、大した防音などされていないアパートは響く。どこから苦情がくるか判らない。 「澪!」 「もう、樹。叩かないで鳴らしてよ」  澪の文句も樹はどこ吹く風。扉を開けた途端に飛び込んでくる。 「ここに決めてきたぜ。一週間後に引っ越しな!」 「は?」  手には白い封筒。ローテーブルの前に澪を座らせ、その隣に腰を下ろす。 「は? じゃねぇよ。ほら、これ見ろよ。2LDKだし、ちゃんと防犯もしっかりしてるぜ」  封筒からパンフレットを出し、嬉しそうに説明を始める。  身体の近さに澪は少し躊躇(たじろ)いだ。顔を見ると、樹は笑っている。こんな笑顔を見ることは、もうないと思っていたのに。こんな顔はもう自分には見せてくれないと思っていた。  例え強引な話の進め方でも、この笑顔が見られるなら、まぁいいか──そんな風に感じてしまう。 「聴いてる? 澪」  何も言わず樹の顔を見ていると、すぐ隣から顔を覗き込むようにして、肩を引き寄せられた。思わぬ接近と肩に置かれた手の力に、澪の心臓がどくんと跳ねる。 「何? 俺の顔じっと見て。何か付いてる?」  顔の近さに、咄嗟に声が出ない。 「それとも、俺に見惚れてた?」  囁くように、からかうように耳元で掛けられた言葉に、澪の顔が真っ赤に火照る。  にやっと笑った顔は、幼いころを思い出すような、全く知らない男性を見ているような不思議な錯覚を起こした。 「な、何でもない! 急に近くにきたからびっくりしただけ」  心臓がドクドクと煩く跳ねる。 「ほ、ほら、こんな掴んでなくてもちゃんと話聴くから。ね?」  急に体温が上がったような手で樹の手を退ければ、不機嫌そうに眉を(しか)められた。  そんな顔を見ると、胸がザワザワとする。この胸の騒つきは何。トクトク、トクトクと妙に熱い血液が全身を駆けている。 「じゃあ、来週。引っ越しトラックが一台来てくれるから、それに全部積み込んで引っ越しな」  樹は本当に──本気だ。  この先どうなるか……不安と期待というより、不安しかない。  弟と、樹と一緒に過ごすこと自体は嬉しい。けれど、嬉しい、楽しいだけではやって行けないのが日常生活だ。何も隠せなくなる。  もし、呆れられたら。何も出来ない姉だと思われたら。  もし、あの言葉を──もう一度、言われてしまったら。開いた傷口は、そう易々とは塞げない。  澪は樹に気付かれないように、小さく息を吐いた──……
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