オンゾウシ・クライシス

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オンゾウシ・クライシス

ドーナツは好きだ。殊にこの国のドーナツは…… 人間界にはそこそこ降りてきている黒江だったが、ここ日本という国はとみに食べ物が美味しく、それを知ることが出来たことを思えば、あの宝珠をうっかり落としてしまったことにも少し意味があったかもしれない。 などと……父親の前では口が裂けても言えない黒江である。 悪魔としては名の知れた家に生まれ、もうじき家督を継ぐことになっていた。 「アスタロトの名を継ぐからにはセイブジェムの扱いにも慣れねばならぬことは、お前もよく分かっているはず。最初は短時間から。無理はするなよ」 見るからに厳格そうな父親から家宝のセイブジェム、つまりあの源内に奪われた宝珠を受け取った時、黒江は自分が一人前になったという思いに武者震いをしたものだった。 セイブジェムとは魔界のある地方から産出される、魔力を貯蔵できる石である。個々の石によって貯蔵量は異なるが、持ち主の扱える魔力を何倍にも増大させる石としてその名を知られていた。 ただ、扱いが大変に難しく、往々にして主の方が石の妖力に取り込まれてしまうため、つまりは魔界に名を轟かせる家々というのは、このセイブジェムを扱える血筋、という事なのだった。 最初の一週間は一日三時間が限度。ある種の拒絶反応なのか、セイブジェムの方が勝手に持ち主の気を奪ってしまい到底立っていられなくなる。 黒江がコツを覚えて一日中持っていられるようになったのは父親から受け取った日から百日以上が経った頃のことだった。 その時、よくぞものにした、と滅多に褒め言葉など零さぬ父親が微かに微笑みさえ浮かべたものだから……喜びに多少気持ちが浮ついてしまったのかもしれない。 友人と祝いの酒を交わそうと気に入りのバールに出かけた晩の、セイブジェムをネックレス型に所持できる鎖の留め金のかけ方が、その日は甘かった。 トイレではっと気づいた時には、もう胸元のジェムは失くなっていた。 良くも悪くも身に馴染んでしまっていたから、その存在がなくなったことにも全く気付いていなかったのである。 店内を探そうとしたものの暗さと人の多さで難しく、黒江は友人に断わってバールを飛び出し、すぐに屋敷の自室に閉じこもってセイブジェム捜索のための魔法陣をフロアに描いた。 ところがいくら探しても見つからない。 バールに着いた時に友人にジェムを見せたのだから、失くしたのは確実にあの店の中のはずなのに。
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