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第二章 日常
スマートフォンに設定してある目覚ましのアラームによって、僕は叩き起こされた。
寝惚け眼でアラームを止め、しばらくベッドの中でグズグズする。だが、いつまでもこのままだと、いずれ茂が部屋の中へ突入してくるだろうから、きりをつけて起きなければならない。親は自室に侵入させたくないナンバーワン候補である。
僕は冬眠から目覚めた穴熊のような、のっそりとした動きでベッドから出ると、その場で大きく伸びをした。
体が少しだるい。睡眠不足というほど夜更かしはしていないので、気分的なものかもしれない。
僕はカーテンを開け、残暑が残る日差しを浴びた後、一階へと降りた。
居間では、エプロンを着けた茂が、朝食の準備をしていた。孝雄とカナの姿はない。カナは相変わらず寝坊か。
「おはよう茂さん」
僕は、茂へ挨拶をし、椅子に座る。茂は僕の目の前に出来立ての朝食を並べながら、それに応じた。
「おはよう。孝雄さんはもう出たよ」
僕は、孝雄がいつも座っている席を見た。すでに空になった食器が並んでいる。孝雄は最近、仕事が忙しいらしく、朝が早い。そのため、朝食を一緒にとる機会が減っていた。
孝雄は、横浜市内にある商社に勤めている営業マンだ。茂は専業主夫なので、出勤はない。
「カナちゃんは?」
朝食を並べ終えた茂が僕に訊く。僕は首を振った。
「さあ。まだ寝てるんじゃない?」
茂は、咎める表情を僕へ向けた。
「もう。起きた時は、ついでにカナちゃんも起こしてっていつも言っているじゃないか」
僕は、ベーコンエッグに手をつけながら、茂の抗議に反論する。
「いちいち面倒だよ。カナに文句言ってよ」
朝の貴重な体力を、わざわざ妹のために使いたくはなかった。
茂はその後も、ぶつくさと文句を言っていたが、やがて、僕が頑なに動こうとしないことを悟ったらしく、自分で二階に上がり、カナを起こしてきた。
まだ夢の中にいるような様子のカナも、食卓に着き、共に朝食を食べる。
カナより先に朝食を終えた僕は、登校の準備を行い、茂に声をかけて家を出た。
朝日が照りつける中、上大岡駅を目指す。この辺りは閑静な住宅街なので、人通りは多くはなかった。
地面にスクールゾーンと書かれた通学路上をしばらく歩く。やがて小さなT路地に差し掛かった。そこにあるコンビニの手前を左折すると、京急の大きな建物が目の前に見えてくる。
僕は、そこに向かって進んだ。
京急の駅構内へいつも通りの時間に到着し、改札口を通過する。もうすでに周囲は通勤通学の人間で溢れ、祭りのように混雑していた。
僕は、三番線乗り場で列車を持つ。その間、スマートフォンをチェックした。
タクヤからLINEのメッセージがきており、僕はそれに目を通す。タクヤのメッセージの内容は、朝の挨拶と、デートについての話だった。昨日のデートが楽しかったことと、また今度デートをしようとの誘いである。
学校に着けば、いつでも会えるので、このタイミングでデートのアプローチは必要ないかのように思えるが、昨日の若干の気まずい雰囲気から、デジタルで思いを伝えるようにしたようだ。
僕は、少しだけ迷った後、それに好意的な返事を行った。僕がいくら異性愛者といえど、タクヤとのデートは決して楽しくないものではない。何より、付き合うことを了承し、彼氏となっているのだ。無下にはしずらかった。
タクヤへLINEの返信を終えたところで、赤い車体の列車がホームへと滑るように入ってくる。
僕は、他の大勢の乗客に飲まれながら、その列車に乗り込んだ。
僕の通う横浜布津高等学校は、南太田地区にある県立の高校である。男女共学で、これといって、特色するべきものがない平凡な学校であった。強い部活も存在せず、神奈川県下の高校偏差値ランキングにおいても、可もなく不可もないという、何とも微妙な立ち位置を保持しており、『布津(普通)』過ぎる高校として揶揄されるほどだ。
大学進学率も並であり、ごく一部の有名大学への進学者もいれば、Fラン大学へ堕ちる者もいる。就職者もいて、ある意味、卒業後の進路は豊富であった。僕自身は、カナのように、それほど成績が悪いわけではなく(かといって、良いわけではないが)卒業後は、横浜市にあるそこそこの私立大学へ進もうと考えていた。
上大岡駅を出発して十五分程度が経ち、僕の乗る列車は、布津高校最寄の南太田駅へと到着した。
ホームへと降り、階段を下って、南側にある駅口から県道218号線へと出る。そこから道沿いに、高校のある南区へ向かう。周囲は、通学ラッシュのせいか、布津高校の生徒たちがチラホラ目についた。
県道をしばらく進むと、首都高の高架下を通過する形になる。その先にある小学校横を通り過ぎれば、布津高校は目の前だ。
布津高校へ辿り着いた僕は、石で造られたフラット・アーチ型の校門をくぐり、校内へ足を進める。校門内側の広場には、カラフルなパネルや、やぐらのような物体がいくつか置かれてあった。これらは、来週ある文化祭のためのゲートである。当日これを料金所のような形に組み立てて、校門に設置するのだ。
僕は、広場を通過し、パルテノン神殿を思わせる洋風の玄関から、学校の中へと入る。
下駄箱で上履きに履き替え、二階へと上った。そして、階段すぐ近くにある二年一組の教室へ足を踏み入れる。
教室はすでに、半数以上の生徒が登校を終えていた。各々、グループを作り、お喋りに花を咲かせている。タクヤもその中におり、クラスメイトの南章人や、大塚沙代子と会話をしていた。
クラスメイトたちが発する喧騒の中、僕は後ろのほうにある自分の席へと着く。タクヤは僕が登校してきたことに気づき、アキトたちのそばを離れ、こちらに歩いてくる。
僕の目の前まできたタクヤは、いつものように、綺麗な笑みを向けた。だが、それは、少しだけぎこちない気がした。昨日の気まずさを、若干引きずっているのだろう。もっとも、それは、僕も同じであったが。
「ハヤト、おはよう。デートの誘い、受けてくれてありがとうな」
僕は、タクヤの端整な顔を見つめ、首を振った。
「ううん。僕もデートを楽しみにしているから、誘ってくれて嬉しいよ」
僕の肯定的な返答に、タクヤは、安心した表情をする。機嫌を損ねていないか、不安だったようだ。
「そうか。良かったよ。それで、行きたいところあるか?」
会話が普段通りに戻り、僕も安心する。
僕は答えた。
「うーん、僕はどこでもいいよ」
これは本音だ。特に行きたいところはない。強いて言うなら、昨日とは別のホラー映画を観たいくらいかな。
僕がそれを伝えると、タクヤは少し渋る顔をした。やはり、ホラーものは苦手らしい。
「うーん、それもいいけど、映画を観るなら、次は恋愛ものにしようぜ」
タクヤは、今話題の恋愛映画の名前を挙げた。身分違いの女性同士による愛の物語。よくある王道ストーリーの映画だ。有名な女優を起用していることもあるが、人気があった。
僕からしてみれば、他の恋愛映画やドラマとストーリー的に大して変わらないと思うが、人はそのような正統派の物語を好むものらしい。
僕は、小さく笑うと、冗談めかしてタクヤに言う。
「何でもいいって言ったくせに」
タクヤは、あたふたと手を振った。
「いや、でもホラーを続けて観るのはきついよ」
「やっぱり無理してたんだ」
「ハヤトの希望だったからな」
「じゃあ今度も行こうよ」
「それは勘弁」
冗談を交えた押し問答に、僕らは、同時に噴き出す。そんな僕らの元へ、アキトとサヨコがやってきた。
「朝から、いちゃいちゃして。妬けるね」
アキトは、細い目をさらに細くし、囃子立ててくる。アキトは最近、彼氏に振られたらしく、今は傷心中の身だ。発言は冗談そのもだが、少なからず、本心が含まれているように感じた。
「南君、彼氏に振られたからって、嫉妬しない」
サヨコもそれを感じたのか、指摘する。サヨコも、アキトが振られた話を知っていた。というより、クラス中のほとんどの人間が周知のことである。
人の口に戸は立てられぬという慣用句が示す通り、見聞というものは凄まじい速さで広まっていくのだと、僕はアキトの件でまざまざと見せつけられた気がしていた。
「サヨコ。アキトも今は落ち込んでいる時期だから、無理に責めるな」
タクヤは、堂々とした様子で、サヨコに忠告する。サヨコは、我の強そうな顔を意地悪そうに歪め、アキトに目をやる。
「そうよね。あまり責めちゃかわいそう」
アキトはしょげた。
「何だよ傷つくなー。それに、タクヤの上から目線もムカツク」
アキトのむくれた様子が面白く、僕とタクヤは顔を見合わせて、笑い合う。
その時、教室の後方にある入り口から、一人の女子生徒が室内へと入ってきた。僕は、それを目の隅で捉える。
都山由香里だ。僕の胸は、高鳴った。蜜のような温かい感情が溢れ、全身を包む。
ユカリは、入り口近くにいたクラスメイトの友人へ声をかけている。ユカリは、ショートボブの髪をかき上げ、猫を思わせる小さな顔をほころばせた。子供のように可愛らしい大きな目が、細くなる。
僕は、ユカリから目線を逸らした。顔が赤くなっていないだろうか。ふと、心配になり、僕は、目の前の三人の様子をうかがう。
だが、三人とも特に変わった反応を示してはいなかった。ほんの少しの間だったためか、僕がユカリに目を奪われていたことも気づいてないようだ。
僕は三人と会話を続けながら、時折、ユカリに視線を向けていた。ユカリは、僕たちや他の生徒と同じく、楽しそうに友人と談笑をしている最中だ。しかし、ユカリがいる部分だけが、特別に光り輝いているような気がした。
無意識に、僕の目はその姿にフォーカスされてしまう。
すぐ目の前に、付き合っている彼氏がいるにも関わらず、僕はその恋慕の情を抑えることができなかった。タクヤに失礼だと思う。異性愛者だと隠しているだけでなく、本当に好きな人はクラスメイトの女の子なのだ。タクヤがこの事実を知ったら、屈辱すら受けるかもしれない。
だが、それでも、僕がユカリを好きだという気持ちには――人を好きになるという気持ちには――嘘をつくことができなかった。
これは、人として当たり前の感情ではないかと思う。たとえ、相手が異性だとしても。
やがて、始業のチャイムが鳴った。ほぼ同時に、担任の大塚茂史教諭が姿を見せる。タクヤたちは、三々五々、僕の席から離れていった。
ユカリも友人たちの元を離れ、自分の席に着く。この席は後方にあるため、ここからは、クラスメイトたちの動向がよく見えた。
僕は、まだときめく胸を保持したまま、ユカリから目を逸らし、教室の前方へ目を向けた。
朝のホームルームの時間が始まり、大塚教諭が出席をとる。大塚教諭の胴間声が、教室内へと響く。大塚教諭は、熊のような大柄な体格をしており、声もそれに相応しく、野太かった。聞いた話では、パートナーも同じように大柄な男性らしいので、似た者同士で結婚したということなのだろう。
出席の確認が終わると、来週に控えている文化祭の話に移る。
文化祭では、このクラスはプラネタリウムをやる予定だった。プラネタリウムといっても、アミューズメントパークや宇宙科学館のように、スケジュールを決めて解説や講演を行うのではなく、予め録音した解説をスピーカーから流しつつ、プラネタリウムのほうは常時展開させるといった、いわゆる展示物の一つとして作成されていた。場所は教室であるため、そのほうが勝手が利くとの大塚教諭の判断が元だった。
文化祭においては、三年生が出店などの本格的な出し物の出展を行い、一年生、二年生は教室での展示が主だった。
中には、出店や劇を行う下級生クラスもあったが、それは極少数に留まっている。やはり、上級生が仕切っているため、先陣切っての行動は、及び腰になりがちなのだろう。
また、下級生はこれから先も文化祭を経験するので、今無理に出展して時間を潰すより、展示物で難を逃れ、自分たちも文化祭を楽しもうという願望の生徒が多い事実もあった。
僕のクラスは、後者にあたる。おそらく、今年の文化祭は、それなりに出店や劇を見て回れるはずだ。少なくとも、僕が一年の時は、出展の準備と管理(やったのは子供だましのようなお化け屋敷)のせいで、時間が取れず文化祭に興じることができなかった。今回は、楽しめそうで、少しワクワクしている。
ホームルームは終わりを迎え、そのまま授業に突入する。一時限目は、大塚教諭が担当する世界史の授業だった。
世界史の授業が始まって、少し時間が経った。内容は世界史Bのローマ帝国の開国と繁栄について触れている。
大塚教諭は、黒板に解説を書きながら、説明を行う。
イタリア半島から南下してきたラテン人の一派によって都市国家が建設され、これがローマとなる。当初は貴族による共和制を布いていたが、その不平等さに平民から不満が勃発、平民の権利を守る護民官や平民会が設けられた。
貴族が支配する時代でも、平民の主張はある程度受け入れられたらしい。それも、平民が基盤となっている重装歩兵部隊の存在が大きかったようだ。
その重装歩兵部隊の活躍もあり、ローマは次第に他国を支配、繁栄を極めていった(重装歩兵部隊は異性愛者で占められていたらしい)。
その辺りまで説明を終えた大塚教諭は、ふと思い出したかのように、豆知識を披露する。
「ローマ帝国では、異性愛が一般的だったとされています。五代目皇帝のネロは、男性でありながら、女性と結婚した記録も残っています」
教室のいくつかの場所で、えーっという侮蔑と好奇の声が上がる。
大塚教諭は、生徒から豊富なリアクションを貰えたことが嬉しかったらしく、ローマ時代の異性愛傾向について、饒舌に話し始めた。
「当時のローマは他国と比べて文明が発達していたことでも有名です。上下水道なんかも完備されていました。そのため、今で言うところの大衆浴場も存在し、市民に親しまれていました。そこで、発展したのが、異性愛だったのです。当時は混浴が当たり前だったので、男女共に同じ浴槽に入り、そこで男女による性行為が行われていたらしいのです。今で言うハッテン場ですね」
大塚教諭は、羆のような強面の顔を歪ませながら、肩をすくめた。
クラスメイトたちの中から「ありえない」「キモイ」「男女でそんなこと」といった言葉が漏れ聞こえる。
大塚教諭は続けた。
「これは古代ローマに限ったことではないのですが、近代以前は今のように人工授精の技術が発達していたわけではないので、子供が欲しい場合、異性との性交を行わなければなりませんでした。今では考えられませんね。私は現在、子供が二人いますが、もしもローマ帝国時代に生まれていたら、浴場で女性と小作りをしなければならなかったかもしれません。こればかりは、現代に生まれたことを感謝しています」
大塚教諭の言葉に、教室中から笑い声が上がる。だが僕は、笑わなかった。
そこで、一限目の終了を告げるチャイムが鳴り、世界史の授業は終わりを迎えた。
休み時間に突入し、タクヤが僕の元へやってくる。
タクヤは、大塚教諭の話に言及した。
「大塚の話を聞いたけど、本当に俺らって、良い時代に生まれたよな。もしも昔なら結婚しても、子供を作る時、女とやらないといけないんだろ? ぞっとするよ」
タクヤは、凍えるような仕草で、両腕を擦った。
「それに、そうなると、両親も異性とやっていることになるから、親をまともな目で見れなくなるよ」
タクヤの両親は、女性同士の『婦婦』だったことを僕は思い出す。前にタクヤの家へお邪魔した時に、顔を合わせた記憶があった。
二人共、優しい素敵な両親だったと思う。ちなみに、タクヤには、県外で一人暮らししている大学生の兄が一人いるらしい。
「そうだね」
僕は、話を合わせるため、短く同意した。
そこで、背後から声がかかる。
「異性愛の話をしてんのか。タクヤ、お前、そっちの気があんのか?」
いつの間にか、アキトがサヨコと共にそばに立っていた。
タクヤは、しかめっ面で応じる。
「馬鹿言うなよ。ちゃんと彼氏がいるのに、異性愛者なわけないだろ」
アキトは、狐のような細い目を見開き、からかい混じりで言う。
「わからないぞ。異性愛を誤魔化すために男と付き合っている可能性もありえるからな」
アキトの発言に、僕はドキリとする。それと同時に、ユカリのほうを反射的に見てしまう。ユカリは、僕の視線に気づくことなく、友達と会話をしていた。
「そんな可能性より、フリーの奴のほうが怪しいだろ。サヨコとか」
タクヤは、サヨコに矛先を向けた。しかし、サヨコは、負けじと舌を出す。
「残念でしたー。私、つい最近彼女ができたから。異性愛者なんかじゃないよ」
「え? マジ? 相手は誰?」
「言うわけないでしょ」
三人のやりとりを眺めながら、僕は早く異性愛の話題から離れてくれないかと願う。あまりこの話題には加わりたくなかった。かといって、無理に話を変えるのも不自然に映るだろう。
だが、僕の願望と反比例するかように、タクヤたちの異性愛ネタは、さらに深みを増していった。
「そういえば異性愛で思い出したけど、二組にいる女子の話知ってる?」
アキトは、声をひそめるようにして、そう言う。
「二組? 何のことだ?」
タクヤは、眉根を寄せた。
「二組にいる金森美咲って女子が、どうも異性愛者っぽいらしいぞ。噂で聞いた」
アキトの言葉に、タクヤは目を丸くした。
「マジで? そんな奴がいるのか」
「あ、私も聞いたことがあるかも」
サヨコが、人差し指を頬に付け、天井を眺める仕草をする。
「男の人と手を繋いで歩いている姿を見た人がいるんだって。あと、公園でキスしているところもも目撃されたらしいよ」
「えーマジか……」
タクヤの顔が、嫌悪の色に染まる。それを目にした僕の胸中に、不安と不快感が陰のように差す。
タクヤのこの表情は、純粋に心から浮かび上がったものだ。自然に生まれた表情は、言葉よりも本音を物語る。本当に、異性愛に対し、拒否感があるのだろう。
サヨコは肩をすくめ、注釈する。
「まああくまでも噂だけど」
口には出さなかったが、僕もその噂を聞いたことがあった。
僕は、金森美咲のことについて、知っていることをいくつか脳裏に思い浮かべた。
彼女は確か、バレー部に所属していたはずだ。スラリとしたスタイルの良い美人で、ストレートロングの艶やかな髪が特徴的な、大和撫子を思わせる女子だった。
異性愛者というイメージで言えば、確かに男からモテそうな雰囲気はあった。だが、そのような理由でミサキを異性愛者扱いするのは偏見だろう。それはサヨコのように、噂だけで決め付けることと同義である。
タクヤもアキトから、金森美咲の風貌について説明を受けていた。もしも、タクヤが金森美咲と邂逅することがあれば、すぐに彼女だと特定できるだろう。
「なあ、ハヤトは金森についてどう思う?」
説明を聞き終えたタクヤは、僕にそんな質問をした。
僕は、タクヤの顔に目を向ける。タクヤは、好奇心と気遣いの中間のような表情を浮かべていた。探りを入れるというよりかは、黙ったままの僕が気になって、声をかけたようだ。
「うーん、よくわかんないかな。噂は噂だし」
「だけど、事実だったら怖いだろ。相手は異性愛者なんだ。告白されたらどうする? 俺なら嫌だわ」
タクヤは、心底迷惑そうな口調でそう言う。
タクヤの今の意見は、異性愛者に対し、同性愛者がよく抱く感情そのものだった。異性愛者が自分を好きになったら困る、といった危惧。
だが、それはおごがましい思考だと思う。相手が異性愛者という理由だけで、自分に恋愛感情を抱くかもしれない――そう言っているのだ。
同性全てが、自分を好きになると危惧する痛い奴と同じである。自惚れを通り越した、的外れな感覚だ。
もちろんそんな意見を発するわけにもいかず、僕は言葉を濁した。
「異性愛者だからといって、僕を好きになるとは思えないけど……告白されても断るかな」
僕こそが異性愛者なのだが、同性愛と同じく、当然異性なら誰でもいいわけではない。ユカリという好きな人がいるのだ。告白されたからといって、意中の人以外と軽々しく付き合うほど軟派ではない。
タクヤは、端整な顔を頷かせる。
「そうだよな。ハヤトは俺と付き合っているし、異性には興味ないもんな」
タクヤの言葉に、僕の心は鉛のように、ずしりと重くなる。
やがて、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
放課後を迎え、僕はタクヤと一緒に帰る約束をした後、部活へと赴く。
イラストレーション部は、専用の部室はなく、理科室を活動の場に利用していた。
僕は、イラストの道具が入った通学鞄を携え、西棟一階にある理科室へ向かった。
理科室の扉を開け、中へ入る。お馴染みになった、古びた薬品のような臭いが鼻腔をつく。
中では、すでに部員のほとんどが揃っており、皆思い思いの形で作業を行っていた。
イラストレーション部は、特に部活開始の合図などなく、それぞれ好きに作業を始めるのが常態化していた。その自由な風潮こそが最も僕の気に入る要素であった。
僕は定位置の席に着き、背もたれのない木製の椅子に座る。そして鞄から、イラスト道具である3Bの鉛筆やケント紙、トンボの色鉛筆セットなどを黒塗りの机の上へ広げ、準備を整える。
理科室特有の幅広い実験台のお陰で、余裕を持った作業環境を構築することが可能だった。それもあって、イラストレーション部は、理科室を活動の場の対象にしたのだろう。
僕はイラスト作業に移る。部誌掲載への締め切りにはまだ間があるが、後手後手に回ると、後がきつくなってしまう。できるだけ早めに完成させたかった。
途中、部員全員が揃ったことを確認した部長から、部誌やコンクールの話が出て、作業の妨害があったものの、概ね集中してイラストを進めることができた。頭に渦巻いている雑念が原因で、作業に支障が出ると思ったが、むしろイラスト作業に没頭するお陰で、その雑念を頭の隅に追いやることができていた。やはり創作活動は、精神安定に一役買っていると思う。
しかし、それでも、ずっと鉛筆を走らせ続けると、疲労が蓄積されていく。
キリの良いところで一旦手を止め、肩の凝りをほぐしながら、僕は周りを見渡した。
理科室内は、図書館のように静まり返っている。時折、部員同士の相談やアドバイスを求める声が聞こえるが、ほぼ全員が作業へ集中していた。
そんな中、隣の机に座っている女子部員のイラストが目に入った。男女が抱き合っているやや扇情的な絵柄だ。
僕は、その女子部員に尋ねた。
「大川さん、そのイラストって、どんなの?」
唐突に質問を受けた大川千尋は、はっと顔を上げてこちらを見た。セルフレームの眼鏡の奥にあるあどけない目と、僕の目が合う。
チヒロは一学年下の女子生徒だ。大人しい性格をしており、人見知りでもあるようだ。
チヒロは、戸惑ったように、コピックを持った指をもじもじさせながら、僕の質問に答える。
「これ、少し前から人気が出てきたアニメキャラクターのイラスト」
チヒロは、アニメのタイトルの名を口に出す。その名前は僕も知っていた。漫画が原作の、バスケットボール部を題材にした作品である。
だが、彼女が描いているようなヘテロ的な描写はなかった気がする。スポ根ものの青春アニメで、合間に挿入される恋愛群像劇も、全て同性愛で描写されていた。
おそらく、彼女は『腐女子』なのだろう。腐女子とは、同性愛(ノーマル)ではなく異性愛(アブノーマル)を好みとする女性を指した呼称である。『婦女子』が語源だ。
そして、腐女子によくあるパターンとして、カップリングなるものがある。アニメや原作漫画では描写されていないキャラクター同士の恋愛や性交を、二次創作として描くものだ。それらは大抵、性愛の対象がノーマルではなく、異性同士のアブノーマルな形で構成される。
以前から薄々わかっていたが、チヒロもその手の題材が好きなのだろう。イラストが漫画チックなので、もしかすると、ヘテロ的な内容の同人誌すら描いている可能性もある。確かめる気は毛頭なかったが。
その後、挙動不審気味なチヒロと二、三言葉を交わし、僕は再びイラスト作成へと戻った。
イラストは、すでに下書きを済ませ、色塗りの段階に入っている。僕は、ケント紙の横に置いてある参考元のアニメキャラクターが載った雑誌を見ながら、色鉛筆で色を塗り始めた。
色鉛筆を横に寝かせ、一方向に引くようにして薄く肌を描いていく。ある程度色が乗ると、複数の色鉛筆を使い、カケアミと呼ばれる技法で色を重ねる。陰影の部分は、濃い目の色でベースを作り、その上から、さらに濃い色の色鉛筆を上塗りし、立体感を持たせるようにした。これは、典型的な色付けの手法だ。
僕は黙々とイラスト作業を続ける。チヒロと会話をしてから、ほとんどノンストップだった。その甲斐あってか、部活が終わるまでに概ね満足する形で、ほぼ色塗りを終えることができていた。
残るは背景の一部であり、ここまでくれば、完成は目前である。
僕がケント紙から顔を上げ、時計を確認しようとしたところで、部活終了のチャイムが鳴り響く。
僕はため息をつきそうになった。もう少しだったのに。仕方がない。次の作業時には完成するだろうから、その時までお預けだ。
僕は、作業を止め、色鉛筆を机の上に置いた。
部長の短めの連絡と挨拶が行われた後、その日の部活は解散となった。イラストレーション部は、隔週で活動しているため、次の部活の日は明後日である。
僕はイラスト道具を鞄に収め、理科室を後にした。下駄箱で靴を履き替え、校舎を出ると、約束通り、校門のすぐ近くでタクヤを待った。
時刻はすでに午後六時を回っている。周囲はすでに薄暗くなり始め、水の中に沈んだような静謐な雰囲気が漂っていた。
空を見上げると、黄昏色を背景に、鳩の群れらしき鳥の一団が、悠々と飛んでいる姿が目に映る。
僕は視線を戻し、校門周辺の地面に置いてある文化祭のゲートへ目を落とした。今朝見た時よりも、パネルの数が増えている。来週に迫った文化祭に向けて、本格的に準備を整えているようだ。僕のクラスの展示物も、着実に制作が進んでおり、明日の午後に設けられた作業時間を経れば、ほぼ準備は終えるだろう。
僕は校門のほうを見た。部活を終えた布津高校の生徒たちが、石造りの門を抜けていく。その中には、恋人と思われる同性同士のカップルが、中睦まじく帰っている姿もあった。
そのカップルたちはこれからちょっとしたデートに行くか、あるいは、どちらかの家にお邪魔するのかもしれない。その内の何組かは、性交に及ぶ者もいるのだろう。高校生といえど、恋人同士なのだ。別におかしな話ではなかった。
時折、異性同士で帰っている生徒たちも目に付いた。しかし、それらは付き合っているわけではなく、ただ単に友達同士なのだろうと思う。
僕はそこで、ふと以前目にした異性愛者のデータを思い出した。
日本における異性愛者(正確にはバイセクシャル、トランスジェンダー含む性的マイノリティー)の割合は、七・六%ほどらしいのだ。これは、意外なほど多い数である。約十三人に一人が異性愛者となる。六百人ほど生徒がいるこの学校でいえば、およそ四十六人程度の異性愛者が存在している計算だ。
異性愛者の僕からしてみれば、頼もしい話である。しかし、そこに違和感があった。計算通りなら、一クラスに二人ないしは、三人もの同性愛者がいることになる。それほどの数ならば、いくつか表層化してもおかしくはなかった。だが、今のところ、異性愛者だと称されているのは、金森美咲くらいである。
僕がそうであるように、残り四十四人の異性愛者たちも、ことごとく、性的指向を隠すことに成功しているというのだろうか。かなり懐疑的な数値だった。
元々、そのデータの出自がネットである上、調査を行った企業(ダイバーシティを掲げる有名な広告代理店)の恣意的な操作が背景にある可能性も排除できないため、信憑性は不確かといえた。この辺りは、少し調べてみようと思う。
しかし、それでもそのデータを真実と捉えると、希望が湧いてくる。なにせ、一クラスに二、三人の異性愛者がいるのだ。もしかすると、ユカリだって、異性愛者の可能性があるのだから。
もしもそうならば、どんなに嬉しいか……。
僕がユカリの可憐な姿を思い浮かべた時だ。背後から声をかけられ、僕は飛び上がった。
僕は弾かれたように振り向く。いつの間にかタクヤが背後にやってきていた。
僕の驚いた顔を見て、タクヤもギョッとしたように、目を瞬かせる。
「どうした?」
僕は胸を撫で下ろし、タクヤに言う。
「考え事をしてて、タクヤがきていたことに気がつかなかったよ」
タクヤは、興味深げな顔をする。
「考え事?」
「う、うん。色々とね」
僕は曖昧に答える。まさか、好きな女子のことを考えていたなんて、言えるわけがない。
「ふーん、そっか」
タクヤは考え事の内容を聞きたそうにしていたが、しつこく質問すると嫌われると思い直したのだろう、話を変えた。
「それはそうと、早く行こうぜ。遅くなると店が閉まっちまう」
これから、僕とタクヤは、井土ヶ谷にあるスポーツ用品店へいく予定だった。目的はタクヤが部活で使うバッシュの見繕いである。僕はそれに付き添う形だ。
井土ヶ谷は、南太田駅から一つ下りの駅で降りた地域にあり、ちょうど僕の帰宅路線の途中になる。そのため、時間はさほど潰れることはなかった。しかし、タクヤのほうは、家が逆方向にあるので、僕よりも時間を食う計算になる。
「さあ、出発しよう」
タクヤは、そう言うと、僕が手にしている鞄をさり気なく持つ。
そして僕らは、他の生徒に混ざりながら、校門を出て、学校を後にした。
井土ヶ谷駅前にあるショッピングモール内のスポーツ用品店を出た時には、すでに七時近くになっていた。
タクヤが事前に僕へ伝えていた通り、タクヤはバッシュを選定しただけで、買うことはなかった。本格的に購入するのは、まだ先にするらしい。どうやら、僕とのちょっとしたデートが、本当の目的だったようだ。
スポーツ用品店を後にした僕らは、少しだけショッピングモール内を歩く。もう用事は済ませたのだから、帰路に着いてもよかったのだが、タクヤはまだ僕と一緒に過ごしたいようだったので、付き合うことにする。
ピークを少し越えたとはいえ、ショッピングモール内は、大勢の客で賑わっていた。平日の夜にも関わらず、学生カップルも目に付く。
彼らや彼女たちからは、甘酸っぱい青春の香りが放たれていた。学生時代という、儚く短い時期に訪れた輝く一瞬を、精一杯堪能しているのだ。そして、おそらく、周りの人間からは、僕たちもその中の一組に映っていることだろう。
僕とタクヤは、二階へ上がり、本屋のテナントへと入った。
タクヤと地域情報誌を立ち読みしながら、今度のデートの予定を立てる。結局、次は映画やテーマパークではなく、水族館などの定番のデートスポットに落ち着きそうだった。
僕が、地域情報誌の記事内容を読んでいると、タクヤが何かに気がついたように、はっとした様子で僕に身を寄せ、囁いてきた。
「おい、ハヤト。あそこを見てみろよ」
タクヤは、目立たない動作で、本屋の一角を指差す。僕は、その指先が指し示す方向を見てみる。
そこには、布津高校の制服を着た、黒いストレートロングの美少女がいた。
金森美咲である。
しかし、ミサキは一人ではなかった。隣に、別の高校の制服を着た男子学生がいたのだ。
マッシュ風の髪型をしたその男子生徒は、ハーフのような精悍な顔立ちと、長身を持つイケメン男子である。
ミサキは、その男子と親しげに会話をしながら、本を選んでいた。
二人が醸し出す雰囲気により、傍から見れば、友達などではなく、恋人同士のように思えた。
「あの女がアキトの言ってた金森美咲か。噂は本当なのかな?」
タクヤは、ミサキのほうへ目を向けたまま、そう呟く。
「わからないよ」
僕はそう答えた。
その時、男子生徒が、さり気なく形の良いミサキの腰へ手を回した。その光景を僕らは確かに見る。僕ははっとし、心臓が波打つ。
腰に手を回されたミサキは、優しく笑みを浮べ、楽しげに男子生徒と会話を交わす。二人の近くにいた人間も、奇異な目を向けるが、二人は気にしてはいないようだ。
それは、噂が事実になった瞬間だった。
「やっぱりあいつ、異性愛者だったのか……」
タクヤは呆然とした様子で言う。僕は何も答えられなかった。
僕とタクヤは、息を潜めるようにして、しばらく二人の姿を窺う。男子生徒は少ししてミサキの腰から手を離したが、恋人然とした親密な様子は変わらなかった。
やがて、二人は和気藹々と会話をしながら、本屋を出て行った。最後まで、二人は僕たちが見ていたことに気づくことはなかった。
二人が完全に立ち去ったことを確認したタクヤは、大きく息を吐いた。そして、心底軽蔑したかのような口調で、言葉を放つ。
「驚いたよ。まさか実際に金森が男とデートする姿を見るなんてな。あいつ、噂どおり、本当に異性愛者だったんだな。キモくね?」
タクヤの辛辣な物言いに、僕は曖昧に頷きながら、手に持ったままであった地域情報誌を本棚へ戻した。
僕の胸は、まだドキドキしていた。異性愛者がデートをしている姿なんて、初めてみたからだ。
タクヤは、なおも嫌悪の表情を崩さない。
「しかし、公衆の面前でいちゃつくなんて、迷惑だと思わないのかな。嫌なもん見ちまったぜ」
やはりタクヤは異性愛嫌悪者(ヘテロフォビア)なのだろうか。よほど拒否感があるらしい。
次にタクヤは、悔しがる口調になった。
「だけど、相手の男、格好良かったな。イケメンじゃんか。あれで異性愛者なんてもったいないよ。あんな男と付き合えるなんて、一体どんな手を……」
そこまで言い、タクヤははっとした顔で口を噤む。己が失言したと思い込んだようだ。急に慌てたように、あたふたと弁明を始める。
「いや、別に羨ましいとか思っているわけじゃないぞ。どんな男よりもハヤトが一番素敵だってわかっている。ただ、もったいないなってだけで……」
タクヤの早とちりな弁明は、僕の耳に届いていなかった。
僕の脳裏には、いまだミサキと男子学生の親密な姿が刻み込まれている。やがてそれは、蜃気楼のように揺らぎ、いつの間にか僕とユカリの仲睦まじげな姿へと変貌した。
仮に人から後ろ指を差されようとも、好きな人間と付き合えるのは幸せなことなのかもしれない。あの二人がそうであったように。
僕は、ユカリと一緒にデートしている光景を思い浮かべる。僕らは手を繋ぎ、同性愛者のカップルが周りにいようとも、気にせず街を歩くのだ。
そして、人気がなくなったところへ赴き、暗がりでキスをする。甘く優しい感触がすることだろう。それから僕の家に行って、雰囲気が良くなったところで、僕はユカリをそっと押し倒す……。
そこまで、妄想を行い、僕ははっと我に返る。無意味な弁明をしていたタクヤが、怪訝な面持ちでこちらを見ていたからだ。
僕は、自分の顔が赤くなっていることに気がついた。
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