第四章 別れとカミングアウト

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第四章 別れとカミングアウト

 中庭には、出店が複数立ち並び、食欲を刺激する香ばしい匂いが辺りを漂っている。今日は平日だが、昼前なので、一般客もこのエリアには多く、休日の駅前のような賑やかさがあった。  僕とタクヤは、その中で、いくつか出店を回る。出店といっても、高校生が文化祭で出展しているものなので、通常の祭りとは違い、値段はリーズナブルであった。その代わり、質はいまいちのようだが。  僕たちは、上級生が店を構えているたこ焼き屋で、二人分のたこ焼きを買うと、それまで購入した食べ物を携え、体育館前の広場へと向かった。この広場は、休憩所として解放されており、簡易ベンチが設えられている。  その中の一つに、僕らは並んで腰掛けた。  周囲には布津校生の他、老人や、生徒の家族らしき母親や小さい子供も座っており、明るく照らす陽光も含め、公園のようなのどかな雰囲気が漂っていた。  生徒がバンド演奏を披露しているらしく、体育館のほうからは、重低の楽器音がここまで聞こえてきていた。最近流行の曲をコピーしたもののようだ。  僕とタクヤは、寄り添いながら一緒に出店で買ったものを食べ始める。タクヤは普段通りに接してきていたが、僕はそうはいかなかった。心の中に秘め事があるせいだ。  一体、いつ切り出そう。その考えが、頭を占領していた。切り出すとしたら、やはり人気のない場所にするしかない。それと、できる限り、早目のほうがいいだろう。ずるずると引き延ばすと、きっかけすら失い、別れを告げる目的すら達成できなくなりそうだからだ。  僕が暗い表情をしていたせいだろう、タクヤが心配そうに声をかけてくる。  「ハヤト、具合でも悪いのか?」  僕は首を振った。  「ううん。そんなことないよ。ただ、次はどこを回ろうか考えていただけ」  僕は誤魔化すが、タクヤは納得しないようだった。僕の顔を覗き込み、病人の具合を伺うような口調で言う。  「少し前からどこか様子が変だったけどさ、もしも何か悩みがあるなら俺に相談してくれよ。俺は、ハヤトの彼氏なんだから」  「……うん。ありがと。その時はそうするから」  抱えている悩みのせいで、タクヤの好意が辛かった。針で刺したような痛みが、心に生じる。  その後僕たちは、休憩所での食事を終えると、再び校内を見て回ることにした。  布津高校の展示物や出し物は、驚くほど千差万別で、趣向を凝らしたものもあった。適当に文化祭を過ごそうという生徒もいる一方で、熱心に取り組む生徒も存在しているため、それらの生徒が主軸となり、どの展示物も一定水準以上を保っているようだった。  また、部外者を呼び込む姿勢であるため、学校側も、それなりに力を入れていることも関係していると思う。そのお陰か、予想以上に楽しむことができた。  だが、やはり、頭の中を占拠している悩みのせいで、完全に熱中することは不可能であった。  途中、アキトやサヨコと遭遇し、冷やかしを受けたりしたが、僕らは概ねメインとなる展示物を見物し終えることができた。時刻は三時近くになっており、終了が近付いている。  そろそろ切り出さないと。  僕とタクヤは、いつしか裏庭へとやってきていた。この辺りは出店もなく、人が立ち寄る場所ではない。そのため、表の喧騒が嘘のように、寂とした雰囲気に包まれている。  おそらく、無意識のうちに人気のないほうへと僕が誘導してしまったのだろう。切り出すなら今しかないと思う。  「ここら辺は何もないみたいだな。戻ろうか」  タクヤがそう言い、踵を返そうとする。僕は、それを手で制した。  「待って。タクヤ。その前に、少し話したいことがあるんだ」  「話?」  タクヤは、僕へと訊き返す。  話とはなんだろうか。しかし、俺を信頼して打ち明けようとしてくれているらしい。タクヤの表情は、そう物語っていた。微かに笑みをこちらに向ける。  だが、タクヤは僕の固い表情を見ると、その笑みは消え、神妙な顔付きになった。  タクヤはもう一度訊く。  「話って何だ?」  「向こうで話そう」  僕は、タクヤを周りから死角となる場所まで連れて行った。これから別れ話を切り出すのだ。もしかしたら修羅場になるかもしれない。そんな姿を、他者に見せるわけにはいかなかった。  僕たちは、裏庭の片隅にある物置き小屋の影へと入った。  タクヤは、なおも、神妙な顔のまま僕を見つめる。僕が話し始めるのを待つスタンスだ。  僕の心は、嵐を前にしているように、大きくざわめいている。本当に切り出していいのだろうか。今更ながら、僕の頭に疑問が去来する。  だが、ミサキの言葉が蘇り、僕は心に決めた。言うしかない。これが、お互いのためなのだから。  「タクヤ、落ち着いて聞いて欲しいんだ」  タクヤは頷く。  僕は言った。  「僕と別れて欲しいんだ」  タクヤは、別れを切り出されるとは全く思っていなかったらしい。タクヤの目が点になるのを、僕は見た。  「ど、どうしたんだよ。ハヤト」  タクヤは、極めて困惑した様子をみせた。  「何か不満がでもあるのか? あるなら正直に……」  つんのめるようにして、タクヤはこちらへと歩み寄ろうとする。僕は、手を前に突き出し、それを押し留めた。  「違うんだ。タクヤ。聞いて欲しい」  タクヤは、動きを止め、僕の顔を凝視する。  僕は、そのタクヤにカミングアウトした。  「僕は異性愛者なんだ。だから、もうタクヤとは付き合えない」  僕は、全てをタクヤへ話した。自分が異性愛者であることや、それを隠してタクヤと付き合っていたこと。好きな女子がいること。  そして、タクヤには恋愛感情がないこと。  これが、僕の出した答えだった。タクヤには嘘はつけない。タクヤは、僕を大切に思っている恋人なのだ。正直に告白することが誠実なのだと思った。  タクヤは唖然としたまま、僕の話を聞いていたが、やがて掠れた声で言う。  「冗談だろ? ふざけてるんなら、ちょっとたちが悪いぞ。さっきも言ったように、何か不満があるなら言ってくれよ」  タクヤは、いまだ僕のカミングアウトを信じていないようだ。いや、多分信じたくないのだろう。人間は、己の信じたいものしか信じようとしないのだから。  僕は、首を振って、答える。胸が詰まるような気がした。  「違うんだ。僕が告白したことは事実なんだ。僕は異性愛者。女の子が恋愛対象の男なんだよ」  タクヤはしばらくの間、呆気に取られた顔をしていたが、静かに俯いた。沈みかけた陽光が差し、タクヤの長い睫毛が、はっきりと見て取れるようになった。  「今まで黙ってて本当にごめん」  僕は頭を下げた。  ほんの少し、間があった。微かに風が吹き、僕の頬をなでる。その風は冷たさを伴っており、これから秋になっていくのだということを窺がわせた。  タクヤは俯いたまま、肩を震わせ、言葉を発する。暗く、沈みこんだような声だ。  「つまりは、あれか? お前は俺を騙していたんだな」  僕は口を噤む。そう思われても仕方がないからだ。  タクヤは、搾り出すような声で続ける。  「おかしいと思ったよ。手も繋がないし、肩も抱けない。キスも無理。付き合っているのにさ。それにはそんな理由があったからなんだな」  タクヤは顔を上げた。タクヤの顔は、激怒の色に染まっている。怒りと屈辱。それから騙されたという思いからくる羞恥。それらが綯い交ぜになり、火を吹いていた。  「ふざけんなよ。だったら俺は何なんだよ。ああ? 自分のことを好きでもない奴と付き合って、しかも異性愛者、挙句の果てに、好きな女がいるから別れます? これじゃあ俺はただのピエロじゃねえか。ふざけんな!」  タクヤは、唾を飛ばしながら激昂した。僕は本能的な恐怖を感じ、思わず身をすくめる。  僕は何も言い返さなかった。悪いのは、完全に僕なのだ。抗弁する筋合いはない。僕はただ黙って、タクヤの罵声を身に受けた。  タクヤは肩で荒い息をしていたが、やがて唾を一度飲み込みこんだ。そして打って変わって、氷のような静かな声を発する。それまでとの落差が激しく、僕はかえってぞっとした。  「なんで了承したんだ?」  「えっ?」  「異性愛者なのに、なんで俺の告白を了承したのかって聞いてんだよ」  あくまでもタクヤの声は静かく暗い。僕は答えた。  「タクヤの告白が嬉しかったし、僕を好きだという気持ちが伝わってきたから……」  僕は正直に話す。  タクヤは、嘲笑するように唇を歪めた。タタクヤのこんな表情は初めて見る。    「それで付き合うことに決めたってか? 随分とポリシーがないんだな」  「それは……」  僕は押し黙る。タクヤの言う通りだ。僕は、感情で軽率な判断を下してしまったのだ。その結果、こうなってしまっている。  タクヤは顎を上げ、見下すような仕草で言う。  「それに、嬉しかったんなら、せめて手くらい繋がせてもよかっただろ? 何もさせなかったじゃないか」  「ごめん。踏ん切りがつかなくて」  「悪いとは思わなかったのか?」  「思ったよ。本当に申し訳ない気持ちで一杯だった」  「だったら、侘びでも何でもいいから、キスやセックスくらいさせてくれてもいいものを、一切なかったじゃないか。自分は異性愛者だから仕方ないって? ふざけてんな。やっぱり異性愛者はそんなロクデナシばかりか」  この状況に陥ったのは、僕個人のせいであり、異性愛者であるかは直接関係はなかった。異性愛者を悪く言われて不快な気持ちはあったが、指摘はしなかった。この状況でそれを言ったら、なおさらタクヤの怒りを買うだろう。  タクヤはわざとらしく、大きなため息をついた。  「はー、俺もとんでもない奴に惚れちゃったんだな。まさかお前が異性愛者だったとはね。ついてないわ。これでも、本気でお前のこと好きだったんだぜ」  僕は再び頭を下げる。  「本当にごめん」  「だから、謝って済む問題じゃないだろ!」  タクヤの怒声が、裏庭に響き渡る。僕は息を呑んだ。悲しみと恐れに体が震える。  タクヤはこちらを睨みつけていた。鬼のような形相だ。僕は一歩、後ろに後ずさった。  「さっきからごめん、ごめんって、それで俺の気が済むとでも思ったのかよ」  「……」  僕は体を硬直させたままじっとしていた。ここまできたら、何を言い訳しても無駄だろう。僕は黙るしかなかった。  タクヤの口が動く。スローモーションのように、ゆっくりと言葉が形作られる。  「やらせろよ」  「え?」  聞き間違いかと思い、僕はタクヤの顔を見つめた。  タクヤは繰り返す。  「本当に申し訳ないと思っているなら、俺にセックスさせろよ。それが筋というものだろ」  僕は絶句する。どうしてそれが筋なのかわからなかったが、タクヤは本気だった。射るような視線をこちらに固定している。  「今すぐでもいい。学校が終わってからでもいい。とにかくやらせろよ。俺を騙した上に、散々勿体ぶったんだ。それくらいして当然じゃないか」  そんなことできるわけがない。僕はタクヤの申し出に、慄いていた。  僕は喘ぐように言う。  「それはちょっと……」  僕の返答を聞き、タクヤは舌打ちをした。  「それも無理なのか。別にいいだろ。お前に損はないはずだ。やらせてくれたら、これまでのことは水に流すし、別れも許してやるよ」  タクヤの顔は好色の色を帯びていた。  僕は首を振る。  「それはできないよ。ごめんなさい」  もはや話が進まないと思い、僕はそう言うと、下を向いた。それから顔を上げなかった。  タクヤの冷たい視線が、頭頂部に突き刺さるのを感じる。それが、体を槍のように突き抜け、背筋が粟立つのを覚えた。  やがて、しばらくすると、タクヤは無言で僕の目の前から立ち去って行った。  その場に残された僕は、それでもしばらくの間、顔を上げることができなかった。悲しみと罪悪感が濁ったスープのように、僕の心に渦巻いていた。  タクヤが立ち去ってから少しして、僕は裏庭から校舎へと向かった。  裏庭を抜け、中庭に近付くと、次第に人々の喧騒が増していく。文化祭も終盤に入ったとはいえ、まだまだ人の姿は多い。  僕は、その活気溢れる賑やかな光景を見て、先ほどのタクヤとの出来事が、夢だったのではと錯覚を覚えた。それほどギャップがあったのだ。  もちろん、あの出来事は決して夢などではなく、現実に起きたことである。  僕は、タクヤに異性愛者だとカミングアウトを行い、その後別れを告げた。タクヤは僕を罵倒し、体を求めた挙句、それが通らないとわかると僕を残して立ち去った。  僕らは、完全ともいえる決別を迎えたのだ。それは、厳然たる事実である。  僕はつい一時間ほど前まで、タクヤと共に回っていた出店の前で、立ち尽くした。これからどこへ行こうかと思う。あれほどのやり取りを行った後なので、タクヤとは鉢合わせは避けたかったが、行く当てもない。  考えあぐねた結果、僕は一度自分の教室へ戻ることにした。そこはタクヤと遭遇する可能性が高いと言える場所だったが、逆にタクヤも同じように僕との邂逅は望んでいないはずである。むしろ安全と考えることもできるだろう。何よりも、誰かと話がしたかった。  自分からタクヤに別れを告げたにも関わらず、胸にぽっかりと穴が空いているのだ。それを少しでも塞ぎたかった。我ながら、身勝手だと思うが、どうしようもない。  僕は、東校舎にある二年一組の教室を目指し、人ごみの中を歩き出した。  東校舎の中へ入った僕は、廊下を進む。校舎の中も昼ほどではないにしろ、一般客や、フリーの生徒の姿が多かった。  僕は階段で二階へと上がる。  二年一組の教室へ辿り着くと、僕は教室の様子を見て、怪訝に思った。そこだけ人が少なかったのだ。  その理由はすぐにわかった。プラネタリウムを展示してあるはずの教室の扉が閉ざされているのだ。扉の真ん中に、急遽こしらえたものらしい、切り取ったダンボールが貼り付けられ、赤いインキで「現在停止中・関係者以外立ち入り禁止」と書かれてあった。  何かあったのかと思い、僕は扉に手をかける。鍵は掛かっておらず、するりと開いた。  僕は、開いた戸口から中を覗き込んだ。内部は非常に薄暗い。展示物の性質上、当然だが、本来はもっと明るかったはずだ。  僕は、プラネタリウムが展開されていないことが、薄暗さの原因だと気づいた。現在は、床に置かれた誘導用の照明のみが点灯しているだけである。  僕は教室内部へ足を踏み入れた。人の気配はほとんどなく、スピーカーのナレーションも停止しており、静まり返っている。これではプラネタリウムというよりかは、お化け屋敷みたいだと思った。  誘導用の照明に従い、中央の大きなドームへと近付く。ドーム内部からは、光が漏れていた。どうやら、誰かがライトを使っているらしい。  僕はドームの中へ入る。中には、人影が一つあった。人影は机の上に乗せられているプラネタリウム投影機を弄っているようだ。  僕ははっとする。薄暗くてもすぐにわかった。ショートボブの小柄な体格は見間違えようがない。  人影はユカリだった。  僕はときめく胸を抑え、ユカリに背後から声をかける。  「ねえ、どうしたの?」  投影機を弄るのに集中していたユカリは、侵入者には気がついてなかったようだ。突然、声をかけられ、小動物のように飛び上がった。  「わ、びっくりした」  ユカリは振り返り、こちらへ手にしていた懐中電灯を向ける。正面から光を受け、僕は眩しさに目を細めた。  ユカリは、声をかけてきた人物が僕だとわかると、慌てて懐中電灯を下へ向けた。無理矢理明順応した目がチカチカし、アメーバーのような虹色の斑模様が黒い空間を漂う。  「なんだ。望月君か。驚いたよ」  暗闇の中から、ユカリの安堵した声が聞こえる。  「ごめんね。驚かせたみたいで」  僕はユカリに謝った。ユカリがかぶりを振る気配がわかる。  「ううん。別にいいよ。ちょっと驚いただけだから」  僕は訊いた。  「一体、何があったの?」  ようやく目が慣れてきて、ユカリが困った顔をしていることが見て取れた 。  ユカリは、床を照らしていた懐中電灯を投影器のほうへ向けた。地球儀の形をした黒いプラネタリウム投影機が光を受け、黒真珠のように輝く。  「プラネタリウムの調子が悪いみたい。突然停止したって苦情が出て、調整しているんだ。でも直らないの。もう少しで文化祭は終わるけど、止まったままにはしておけなくて。だから今は展示休止中」  「他の調整班のメンバーは?」  「キョウコと岡田君しか捕まらなくて、他のメンバーはどこにいるかわかんない。その二人も、さっき、田端先生に話を聞きに出て行ったよ。これ田端先生のものだから、田端先生ならわかると思って」  だから、この場にユカリしかいないのか。捕まらなかったメンバーは、今も文化祭を堪能中らしい。  「どう調子悪いの?」  「上手く光が出ないみたい。中のLEDが切れたわけじゃなさそうだけど」  僕は、懐中電灯で照らされている投影機へと近づき、触れる。  「わかるの?」  「うーん、ちょっとやってみるよ」  実際は、機械に詳しいわけではなかったが、ユカリに良い所を見せたいという思いがあった。また、このままユカリを放っておくこともできなかった。  僕はしゃがみこみ、スマートフォンのライトで投影機を照らしながら、弄ってみる。  だが、少し触っただけで、難物であることがわかった。球体状のプラネタリウム投影機本体には、いくつかボタンやパネルが取り付けられているが、それらを押しても何の反応もないのだ。起動のボタンを何度か押下しても、うんともすんとも言わない。電源はもちろん繋がっている。  それでも僕はボタンを弄り、他にも何か見落としたボタンがないか探すが、見付からず、結局は改善できないまま数分が過ぎた。  これらの行動は、ユカリたち調整班のメンバーも取っているはずなので、門外漢の僕が手を出したところで、無意味なのだろう。  とはいえ、ここまで操作して動かないのであれば、おそらく、内部的な問題だと思われた。だが、そもそも、調整班のメンバーたちも、単純な操作や調整だけで、バラして修理するような方法は教わっていないに違いない。つまるところ、田端教諭のところへ遣いを出したのは正解で、その答えを待つしか現時点では打つ手なしなのだ。  やっぱり駄目みたい、とユカリに伝えようと口を開きかけた僕の目に、投影機のある一部分が目に留まった。  地球儀を思わせる投影機の本体には、中央を真横に、ちょうど赤道のように、細い枠が覆っている。それが上下、少しずれているような気がしたのだ。最初はただのデザインだと思っていたが、もしかして。  僕は、投影機の南半球と北半球をそれぞれ両手で掴み、押し付けたり、捻ったりしてみた。やがて、カチリと音がして、何かが嵌った感触がした。  ビンゴだと思う。僕は、そのまま、起動のボタンを押した。  ドームの内側に、満点の星空が映し出された。南極で見るかのように、美しく、僕は息を呑む。  「わー、すごい。直った」  ユカリの歓声が上がる。僕は、嬉しさと誇らしさに包まれた。  「多分、見物客の誰かがぶつかったかして、本体が少しずれたんだよ」  投影機本体は、中央の枠から、上下に、くす玉のようにして分かれる構造のようだ。それで本格的な内部の修理や、調整を行えるのだろう。田端教諭がそのことを調整班に伝えていなかったのは、おそらく、高価なプラネタリウムなので、下手に内部に触れて欲しくなかった思惑があったのではと思われる。  「ありがとう。望月君」  ユカリは、満点の夜空に劣らない素敵な笑顔を浮かべた。  僕の中に、喜びと緊張が走る。  僕は考えを巡らせた。召集できた他の調整班のメンバーは、田端教諭の元へ向かっている。田端教諭を探し出し、事情を伝え、解決策を聞く。メモも取るかもしれない。それらを終えて、この教室へ戻ってくるとしたら、それなりに時間がかかるはずだ。  今しかチャンスがないかもしれない。  僕は、ユカリに気付かれないよう小さく深呼吸すると、声をかけた。  「ねえ、都山さん。ちょっと話があるんだけどいいかな」  今は二人共、ライトを切っている。光源は夜空を埋め尽くすプラネタリウムだけだが、充分、ユカリの姿は把握できた。  「話?」  ユカリは不思議そうな表情で訊き返す。奇しくも、一時間ほど前、話を持ちかけた時のタクヤと同じ反応だった。  「うん」  僕は、頷く。すでに心臓はトラックのエンジンのように高く鳴動し、足が震えている。手からは汗が滲み出す。  それでも言うしかない。このために、タクヤにカミングアウトし、振ったのだ。  僕はユカリの向き直り、口を開く。  「突然のことだけど、聞いて欲しいんだ。僕は都山さん、あなたのことが好きなんです。付き合ってください」  僕はそう言うと、頭を下げた。  少しの間、沈黙が訪れる。教室の外から、喧騒がわずかばかり聞こえてきた。  それをかき消すように、ユカリの声がする。  「どういうこと?」  ユカリはきょとんとした顔をしていた。どうやら、僕の告白を理解できなかったようだ。無理もないと思う。異性から告白を受けるなど、想像だにしていなかっただろうから。  僕は、一度息を吸い込むと、ユカリに言った。  「僕は、都山さんのことを恋愛対象として好きなんだ。本気だよ。だから、恋人として付き合って欲しい」  ユカリは猫のように、首を傾げる。  「でも、私女だよ?」  「うん。わかっている。それでも好きなんだ」  ユカリは、僕の告白の意味をようやく理解したようだ。表情が複雑なものへと変わる。  「えっと、それってつまり望月君は異性愛者だということ?」  僕は首肯した。  「そうだよ」  「そ、そうなんだ。え、えっと」  ユカリは、動揺を隠せないでいるようだった。しどろもどろになりながら、言葉を継ぐ。  「望月君が異性愛者だったなんて知らなかったよ。それから、私のことを好きだったなんて、想像もしてなかった。びっくりしちゃった」  ユカリは、動揺しつつも、言葉を選びながら話しているようだ。  僕は謝罪する。  「ごめんね。急に告白なんてして」  そして僕は、ユカリの大きな二重の目を、正面から見つめた。ユカリの答えを聞きたかった。  ユカリは、僕から目を逸らすと、俯く。体が少し強張っているように見えた。  「えっと……」  ユカリは口ごもった。だが、やがて、はっきりと言った。  「ごめんなさい。やっぱり私は同性愛者だから、付き合えません。望月君のことは好きだけど、そんな目では見れないから」  ミスカは俯いたままの姿勢で、頭を下げる。さらりとしたショートボブの髪が揺れた。  僕の全身に、痺れるようなショックが流れる。心がズシリと重くなった。  やはり駄目だったようだ。  「そう。わかった」  僕はそう呟くと、天を見上げた。  視界一杯に、満点の夜空が映し出される。オリオン座のすぐ横を、流れ星が流れていった。高価なプラネタリウムは、流れ星機能も有しているらしい。北斗七星も確認できた。柄杓型の先端から、少し離れた位置でひときわ輝いている星は、おそらく北極星だろう。  じわりと、星空が滲む。涙が流れ出ていた。断られることは覚悟していたが、まさかそれで自身が泣いてしまうとは思っていなかった。  いつの間にか顔を上げ、僕の様子を窺っていたユカリが、気遣う口調で言った。  「ごめんね。望月君。あなたが異性愛者ということは誰にも言わないから。告白されたことも」  僕は、ユカリの顔を見て、頷いた。  「うん。ありがとう。それから僕のほうこそ本当にごめん。男なのに、女子に告白なんてして」  ユカリはううん、と首を横に振った。  その時、教室の戸口が開く音がした。そして、人が歩いてくる気配。一人ではない。  僕はとっさに涙を拭う。ドームの入り口に人影が立った。その人影は大きな声を発した。  「あれ? プラネタリウムが直ってる! どうしたの?」  調整班である篠崎杏子だ。その隣には、同じく調整班である岡田信一郎がいた。二人は田端教諭から話を聞き終え、教室へ戻ってきたようだ。  その後、僕がプラネタリウムを直したことをユカリが二人へ伝えると、二人は僕を絶賛した。田端教諭からアドバイスは聞いたようだが、いまいち直す自信がなかったらしい。  ちなみに田端教諭の見立てでは、やはり内部が原因なので、開けるしかなかったようだ。  僕が直したのはただの偶然で、しかも開口部をはめ直しただけなのだが、巧みな修理を行ったかのような受け取り方を二人はしており、褒め言葉が恥ずかしかった。  幸い、二人には、僕の流した涙は気付かれていないようで、安心する。  ユカリに振られたことは非常に悲しく、残念だった。タクヤとの別れもあり、心が割れたような気持ちだった。だが、それでも、端っこのちょっとした部分で、重りを外したような、すっきりとした気分があった。  夕飯のメニューが食卓に並んでいる。焼き魚に、肉じゃが、それからいつもの如く、サラダの付け合わせ。  今日は家族四人揃っての夕食である。最近遅くに帰ってくる孝雄も食卓に着いており、茂も満足気だった。  食卓での会話は弾んでいた。カナが身振り手振りで、学校であった出来事を両親へと話す。両親もそれに楽しそうに応じている。僕はその会話には、あまり参加することはなかった。  やがて、カナの話は一段落し、家族の視線は、点いたままのテレビへ注がれる。  しばらくすると、僕の耳に、カナの笑い声が響いた。  大根の味噌汁を啜っていた僕も、テレビへと目を向ける。  テレビでは、ゴールデンタイムのバラエティ番組が流れていた。カラフルなスタジオの風景が映し出されており、最近売り出し中のお笑い芸人がネタを披露している。  そのお笑い芸人は、異性愛者を下地にしたキャラクターで人気を博した存在だった。筋骨隆々とした容姿に、濃い髭面で、異性をかどわかす異質な人物。それが、面白おかしく演出されていた。  テレビは、ネタを披露し終ったその芸人が、他に出演している異性の芸人に、無理矢理セクハラを行う姿を映していた。スタジオ内は下品な笑い声で包まれる。  それを観ていたカナも爆笑した。つられるようにして、茂と孝雄も笑い声を上げる。  「キモーイ」  カナの嬌声が居間へと広がった。  「この芸人、面白いな」  孝雄が、カナの発言に賛同するようにして言う。茂も頷いて同意を示す。  このように、異性愛者をネタにしたキャラクターは、芸人に限らず、漫画やアニメ、映画に至るまで様々な媒体に存在していた。それらは大抵、笑いものの対象として、コケティッシュに描かれている場合が多い。色物の、異質な存在として認識されているということだ。  なおも、居間には三人の笑い声が響く。  僕は、テレビから目を逸らし、箸を置いた。食事はまだ半分以上残っている。元々食欲がなく、今は完全に失せていた。  「ごちそうさま」  僕は席から立ち上がった。僕の残された食事を確認した茂が目を細め、心配そうに声をかけてくる。  「ハヤト、どうしたの? あまり食べてないじゃないか」  僕は胸を擦る仕草をして、正直に伝える。  「ごめん。食欲がなくて」  孝雄が眉をひそめた。  「もしかして風邪か? 最近夜は冷えるようになったからな」  「うーんそうじゃないと思うけど」  食欲のない原因は、タクヤとユカリの件だったが、さすがにそこまで話すつもりはなく、僕は言葉を濁した。  そこに、カナが、悪戯っぽい笑みを浮かべて、無邪気に言う。  「さては、タクヤさんと何かあったな」  僕はドキリとする。事実そのままの、ズバリとした指摘だったが、何とか表情に出さずに済んだ。  「そんなんじゃないよ」  僕は手を振り、カナの言葉を否定する。  それから、なおも心配気な両親の質問をかわし、僕は部屋へと戻った。  部屋の電灯を点け、ベッドへと腰掛ける。  部屋着のポケットから、スマートフォンを取り出し、LINEを開く。トーク画面へ移行し、タクヤのアイコンを確認した。  タクヤからの新着メッセージはなし。  当然だろうと思う。あれだけ悲劇的局面を迎えたのだ。交わす言葉などないはずである。  僕は、ベッドへ仰向けに寝そべると、タクヤとのトーク履歴をぼんやりと眺めた。高校生のカップルらしく、スタンプをまじえた和気藹々としたやりとりが表示されている。もう、このようなやりとりがこれから先、二度と行われないと思うと、自分が撒いた種とはいえ、一抹の寂しさを覚えた。  僕はそれから、ミサキへとメッセージを送った。タクヤへ異性愛者だとカミングアウトをし、別れを告げたこと、それから、ユカリへ告白し、見事玉砕したこと。それらを伝えた。本来、他者に話すような内容ではないかもしれないが、誰かに聞いて欲しかった。  ミサキへメッセージを送り終った僕は、体を起こし、机に向かう。  椅子へ座り、イラストに手をつけた。  少し前まで描いていたイラストは、すでにイラストレーション部に寄稿し終わっている。現在は、別のアニメキャラクターの絵に着手していた。  鉛筆を手にし、続きを描こうとしたが、上手く進めない。頭の中に、不安があった。  明日、学校へ行くと、タクヤと会うことになる。それが、気にかかってしょうがなかった。  タクヤは、どのようなアクションを取るのだろう。ただのクラスメイトとして、接してくるのを期待するのは虫のよい愚かな考えだ。  シカトか、あるいは、カミングアウトした時のように、きつく当たってくるのか。それとも……。  様々な憶測が、目まぐるしく脳内へと展開されていく。そのどれもが、いずれは僕が不快な思いをするネガティブなものだった。  気がつくと、全くイラストは進んでおらず、時刻は九時近くになっていた。  そろそろ風呂へと入る時間帯である。  僕は、握り締めたままであった鉛筆を置くと、風呂へと向かった。  風呂から上がった僕は、再びLINEをチェックする。ミサキから返信がきていた。  僕はそのメッセージを読む。  『話はわかったわ。残念だったね。でも、仕方がないと思うの。相手が同性愛者である以上、異性からの告白を受け入れられないという考えは当然だから。無理かもしれないけど、クヨクヨ悩まず、元気を出して欲しい』  その下に、次のメッセージが表示されていた。それも読む。  『それから、カミングアウトした彼氏のことだけど、よく勇気を出して伝えたと思うわ。このまま隠して付き合っていても、相手に悪いままだし、カミングアウトは正解だったのかも。いずれにしろ、正直に事実を伝えたのだから、あなたが気に病む必要はないわ』  ミサキのメッセージは、励ましの言葉が並んでいた。僕を元気付けるために、気を遣ってくれている様が画面越しに窺えた。  少しだけ元気が出た僕は、ミサキへお礼のメッセージを送る。それから、再び机へと着いた。  しかし、イラストを描く気がまるで起きず、僕はスマートフォンのアプリゲームで気を紛らわせた。  そして、眠くなってきたところで、ベッドへと入る。  その夜、僕は妙な夢を見た。  いつか画像で見たプライドパレードの光景だ。脈絡はわからないが、僕はそのプライドパレードの行列へ参加していた。  参加者は皆、異性愛者だ。男女ペアになり、手を繋いで大通りを歩く。それぞれ、レインボーフラッグや、プラカードを掲げている。  いつの間にか、僕の隣にはミサキがいた。凛とした表情で、前を向いて歩いている。  大通りの歩道には、見物客がいた。その人々は、同性愛者たちなのだとわかる。  彼らや彼女らは、男同士、女同士身を寄せ合い、あるいは肩を抱き合い、パレードする僕らを嘲笑の目で眺めていた。  その中には、タクヤもいた。見知らぬ男性と抱き合いつつ、キスをしている。中睦まじげだ。  だが、パレードの中に僕がいることを確認したタクヤは、晴れやかな顔から一変、怒りに満ちた形相になり、こちらに罵声を浴びせてくる。  その罵声は、観衆へさざ波のように広がり、いつしか大規模なブーイングへと発展した。  ブーイングの中を、プライドパレード参加者は歩いていく。誰も動じておらず、自信に満ちた様子で、パレードを続けている。  何かが飛んできた。それは空き缶だった。次々に飛来するものが増えていく。観衆は、手に持った物をこちらに向けて投げ込み始めたのだ。  ブーイングとつぶてが浴びせられる中、僕は強い悲しみに包まれた。どうして彼らや彼女たちは、これほどまでに異性愛を嫌悪するのだろう。ただ、愛する対象が同性か異性かの違いのはずなのに。自分たちとは違うことが、よほど気に食わないのか。  それでもパレードは止まらない。確固たる意思を持って、皆が歩んでいる。  その反面、僕は不安に包まれた。このままここにいていいのだろうか。  僕の手を誰かが握った。隣にいるミサキだった。ミサキの顔を見ると、ミサキは、聖母のように穏やかな笑みを僕へと向けた。  勇気が出た僕は、ミサキと手を繋ぎ、前を向いて歩く。パレードが進む大通りの彼方には、大きな虹がかかっていた。  皆、そこを目指して進行しているのだとわかった。
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