第五章 説得

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第五章 説得

 翌日の午前中、布津高校では文化祭の後片付けが行われた。これも全校合同であり、準備時と似た雰囲気の中、進められていた。  だが、僕の取り巻く環境は様変わりしていた。タクヤは朝から一度も僕に話しかけてこなかった。目すらも合わせず、僕がそこに居ないかのように振る舞っていた。  ユカリも同じような感じだった。僕のほうを意識していることは伝わってきたが、積極的に絡んでこようとはしなかった。もっとも、ユカリのほうは、元々親密ではなかったため、普段通りの状況だと言えなくもなかったが。  いずれにしろ、僕にとって、クラスは居心地の悪いものになっていた。その原因が何もかも自分なので、文句を言うつもりはない。因果応報というやつだ。  そして、そのような状況であるため、僕とタクヤの変化に、親しいクラスメイトは気がついていた。後片付けも終盤に差し掛かった頃、廊下へと出た僕へ、アキトが話しかけてくる。  「なあ、ハヤト、お前たち何かあったのか?」  アキトは眉根を上げ、怪訝な面持ちでそう質問した。好奇心、というよりかは、本気で心配しているようだった。  「いや、ちょっと……」  僕とタクヤの間に何かがあったのは明白なので、思いっきり否定はできず、僕は口ごもる。  僕の反応に何かを感じ取ったらしく、アキトは神妙な空気になるのを避けるようにして、半ば茶化す口調で言う。  「もしかして、喧嘩か? 熱々のカップルでもそんなことあるんだな」  実際は、それ以上の悲劇であるが、もちろんそんなことは口にできず、僕は押し黙るしかなかった。  それを見て、アキトは触れてはいけないものだと察したようだ。手を振り、遠慮する様子を見せた。  「ごめん。深く聞くつもりはないんだ。言いたくないなら言わなくていいよ」   アキトは、細い目を少しだけ見開き、そう言い終えると、僕の元から立ち去って行った。  結局、タクヤとはその日一度も口を訊くことはなかった。雰囲気を察したサヨコやアキトも同様で、午後に入ると、向こうから話しかけてくることはなかった。  僕は、ほとんどクラスメイトと会話することなく、その日の授業を終えた。  放課後、僕は理科室へと赴く。今日はイラストレーション部がある日だった。  理科室の定位置の席に着き、普段通りにイラスト作業を行う。だが、昨夜と同様、まるで手が進まなかった。僕の中から、モチベーション全てが流れ出てしまったかのようだった。  これでは、部活に参加した意味がないではないか。そう思う、作業が進まないのであれば、家に帰って、ゲームでもしていたほうがマシだった。  僕は、今日部活にやってきたことを後悔しつつ、近くで作業を行っているチヒロへと目を向けた。  チヒロは新しいイラストを描いている。前回のイラストは、すでに寄稿し終ったようだ。  今回もチヒロは異性愛ものの絵を描いていた。男女が草原で、重なり合い、仰向けに寝そべっている風景だ。ドラマのワンシーンを切り取ったような雰囲気だった。  僕はチヒロに質問する。  「大川さん、今回のイラストも異性愛ものなんだ?」  チヒロは相変わらず、怯えた小動物のような反応を見せ、狼狽しながら頷く。  「うん。そうだよ」  「モデルはなに?」  チヒロは、セルフレームの眼鏡のつる部分に一瞬触れた後、答える。  「漫画のワンシーンだよ」  チヒロは、その漫画作品の名前を教えてくれる。大手ではなく、マイナーな出版会社から出されている作品らしく、僕は知らなかった。  「それ、どんなの?」  さして興味はなかったが、イラスト作成に対する集中力が切れている状態なので、手持ち無沙汰に訊いてみる。  僕の質問を受けた途端、チヒロは目の色を変えた。普段の口下手な様子とは打って変わって、饒舌になり、説明を始める。  チヒロの説明によれば、その作品は異性愛をメインに取り上げたものらしい。異性愛で悩む男の主人公が、それを隠したまま、同性と付き合うものの、自身の性的指向に苛まれ、葛藤をする内容とのことだ。  何だか、僕の状況と似ているなと思う。というより、よくある話なのだろう。ミサキの体験談でもそうだったように。  「大川さん、異性愛ものが好きなんだね」  熱を帯びた説明に少し引きつつ、話を変えるつもりで僕はそう伝えた。  チヒロは首肯する。  「うん。そうだよ。ここだけの話、同人誌も描いてるんだ。異性愛の」  やはり、同人にも手をつけているようだ。  「へー、凄いね」  僕は場を保つために、嘆息する。チヒロは、満足そうな顔をした。この語らいで、チヒロは随分と僕に心を開いたようだ。  「ネットにもイラストとか漫画を上げているんだよ」  「そうなんだ」  僕は相槌を打つ。そろそろ話を切り上げてもいい頃だが、チヒロはまだまだ語りたそうにしている。  僕は、話を切り上げる糸口を見つけようと、チヒロの顔に視線を注いだ。  チヒロは、その視線の意味を誤解して受け取ったようだ。急にあたふたとし始める。  「あ、でも私は異性愛者じゃないから。同性愛者だよ」  僕は頷く。チヒロは、異性愛のジャンルに興味はあるが、自分が異性愛者だと目されるのは嫌なようだ。  チヒロは続ける。  「だけど、私たちは、異性愛者の味方だから」  「味方?」  僕はその一言が気になった。私たちとは『腐女子』を指すらしいが、意味はわからなかった。  僕は訊いてみる。  「どういうこと? 味方って?」  チヒロは誇らしげな顔で、説明する。  「だって、私たちがこうやって異性愛者のイラストや漫画を描くお陰で、異性愛に対する理解が深まることになっているでしょ? 啓蒙、っていうの? そんな役割を果たしているわけだし。聞いた話では、異性愛者の人から『君たち腐女子は、我々の唯一の理解者だ』って言われた人もいるみたいだよ。だから、私たちは異性愛者の味方だって言えるんじゃない?」  チヒロの説明を聞き、僕は果たしてそうだろうか、と疑問に思う。異性愛者である僕自身から言わせれば、ただ彼女たちは、異性愛を興味やネタの対象にしか捉えておらず、自分たちがただ楽しいだけで、本当の意味で、異性愛者のことを考えている人間のようには到底感じなかった。  あくまで僕の感想なので、他の異性愛者がどう捉えるかはわからない。眉唾ではあるが、さきほどチヒロの話に出てきた「婦女子は理解者」と発言した異性愛者のような人間も実際にいるかもしれない。そのあたりは如何ともしがたかった。  ただ、僕は異性愛描写を行うことがそのままそっくり、異性愛者のためになるとの考えは賛同しかねた。しかもそれを一方的に貢献していると思うのは、愚の骨頂であると思う。それは犬や猫に服を着せ、可愛くなったねと、満足する人種と同じように感じた。  僕は、曖昧に頷くと、チヒロとの会話を打ち切る。チヒロはまだ語り足りないようだったが、僕は自分のイラストへと目を落とした。  イラストは、全く進まなかった。  部活動が終わり、僕は正面玄関を出る。外は少し肌寒かった。そろそろ衣替えが必要かもしれない、と思う。  夏至はとうに過ぎているため、日没も早くなり、正面玄関前の広場はすでに夜の帳に包まれ始めていた。  僕はその広場を通り、校門へ向かって歩く。  普段なら、部活が終わると、タクヤと共に帰ることが多かった。だが、今日は一人である。肌寒さと、辺りを覆う薄暗い寂寥感のせいで、ひどく物悲しさを覚えた。  学校を出て、南太田駅へと向かう。周りは僕と同じように、部活終わりの布津高生が大勢歩いていた。  南太田駅へと到着し、階段でホームへと上がる。  ホームでは、帰宅途中のサラリーマンとおぼしき客やOLらに混ざって、布津高校の制服に身を包んだ若者が列車を待っていた。  僕は、その中から、見覚えのある女子生徒の姿を発見した。  僕は、その女子生徒へ背後から声をかける。  「金森さん」  ミサキは、はっとこちらへ振り返る。ストレートロングの髪が、風になびくようにして揺れた。  僕を確認したミサキは、笑顔になる。  「望月君。こんばんわ。今帰り?」  「うん。金森さんも?」  ミサキは頷く。  「私もバレー部が終わって、帰宅するところ」  今、僕らがいるホームは、下りだった。帰宅する方向は同じらしい。  「金森さんは家、どこらへん?」  「屏風浦のほう」  屏風浦は、僕が利用する駅から一駅下った場所にあった。案外、近いと思う。もしかしたら、これまで何度かミサキと同じ列車に乗り合わせたことがあったのかもしれない。そういえば、ミサキが彼氏らしき人物とデートをしている姿を見たのも、南太田駅から下った場所だった。  「望月君はどこの駅で降りるの?」  「上大岡駅だよ」  「そう。じゃあ途中まで一緒ね」  僕はミサキの隣に並び、共に列車を待つ。  しばし、沈黙が流れる。向かいのホームへと入ってくる列車のアナウンスが、耳へと響く。  僕は口火を切った。  「金森さん、この間から色々とありがとう。アドバイスや励ましの言葉、とても助かったよ。結果はああなったけど」  ミサキは、首を振った。  「ううん。礼はいいわ。あまり力になれていないから。あんな結果になって、本当に残念だわ」  ミサキは悲しそうな顔をする。本当に心を痛めているようだった。  「まあ、自分で決めたことだし、金森さんは悪くないよ」  「その後、どう?」  気を遣うようにミサキは訊く。  「やっぱり今日は口を聞いてくれなかった。昨日今日の話だし、こっちから振ったんだから当然だけどね」  「そう」  ミサキは、顔を正面へと向けた。僕もつられてそちらを見る。ちょうど、向かいのホームへ、列車が到着したところだった。大勢の乗客が、列車内で立っている姿が目に映る。  ミサキが口を開く。  「それで望月君は、これから異性愛者として生きていくの?」  ミサキは周りに聞こえないよう、声をひそめて訊いてくる。  僕は首を傾けて、答えた。  「そこはまだわからないかな。はっきりとした考えはないよ」  異性愛者としてこれからを生きる――。  女性のみと交際し、体を重ね、もしかすると、一緒に暮らすかもしれない。ユカリへ告白した時はそこまで考えていなかったが、異性愛者として生きるのならば、必然的にその道を辿るのだろう。それを想像すると、いまいち、ピンとこなかった。そのため、答えは出ない。  「そうだね。これからゆっくり考えていいかもね」  ミサキがそう言うと、再び沈黙が訪れる。  近くにいる布津高校生たちのお喋りの声が、僕の耳へと聞こえてきた。  僕は、そこでふと思う。こうやって、ミサキと一緒にいる姿を見られると、僕も異性愛者として認識されるのかもしれない。  とはいえ、実際異性愛者なのは事実なのだ。その上、彼氏を振った際、異性愛者だとカミングアウトを行い、その後異性に告白すらしている。異性愛者だと認識されることを危惧するのも、妙な話ではあった。  やがて、僕らが乗る列車のアナウンスがホームへと響き渡った。  そのアナウンスが終わると、次は僕から質問を投げかける。  「金森さんは異性愛者として生きてるんだよね。恋人とかどうやって見つけているの?」  ミサキは少し考えた後、答える。  「特別なことはしてないわ。世の中には、そのような人たちのための出会い系アプリとかあるけど、使ってないよ。ただ、普通に出会って、普通に付き合う感じ」  「今、恋人がいるんだよね。どうやって出会ったの?」  僕がそう訊くと、ミサキは意外そうな顔をした。  「私は今、恋人いないわ。フリーの身よ」  僕は、あれ? と思う。以前目撃したハーフのような美形の男子生徒とミサキがデートしている光景が蘇る。あれは付き合っているわけではないのか。  僕は、正直に、ミサキと他校の男子生徒が一緒にいる姿を目にしたことを伝えた。  ミサキはふと微笑む。  「あの人は、デートに誘われて、二、三回付き合っただけよ。恋人っていうわけじゃないわ。了解した手前、私もできるだけ楽しそうに応じたけど、やっぱり無理ね。彼、私の体ばかり求めてくるんだもん。結局振っちゃったわ」  僕はそうだったのかと思う。その辺りは、同性同士の悶着と変わらない気がした。男女だろうと、やはり体目的の輩は存在するのだ。  やがて、列車が僕らの前へ滑るようにしてやってくる。僕とミサキは、一緒にその列車へと乗り込んだ。  車内は満席だったので、僕たちは、窓際に立つ。ホームへと幾分吐き出されたとはいえ、他にも立っている乗客は多かった。  列車はゆっくりと動き出し、軌条音を鳴らしながら走り出す。  「さっきの話の続きだけど……」  ミサキは言う。  「彼と出会ったのは、東京レインボープライドのボランティアの場なの」  あまり聞きなれない言葉を耳にし、僕は訊き返す。  「それはなに?」  「プライドパレードって知ってるでしょ? レインボーパレードとも言うけど、それを主催している団体」  僕の脳裏に、昨夜見たプライドパレードの夢が思い起こされる。確かそこにはミサキもいた。  それから、図書館で借りた『プライドパレードの歴史』のことも記憶に蘇る。あの本は、借りたままで、まだ目を通していなかった。タクヤへのカミングアウトや、ユカリへの告白のことで頭が一杯で、手に付かなかったのだ。  ミサキは話を継ぐ。  「今度渋谷で、プライドパレードがあるの。その参加も兼ねて、ボランティアで支援も行っているわ。そこで、彼と出会ったけど、多分、もう彼は参加しないわね。盛大に喧嘩して別れちゃったから。彼もそんなこと言ってたし」  「金森さん、プライドパレードに参加するんだ」  ミサキは頷く。  「少し前に、アメリカで異性婚を容認してもらうためのパレードが行われたでしょ? 今度、日本でも同じように、異性婚の法制化を求める運動と、異性愛やトランスジェンダーなどのマイノリティーへの差別をなくす働きかけのために、パレードが催されるの。それに参加するつもり」  ミサキは、積極的に、異性愛問題へと取り組んでいるようだ。その行動力に称賛を覚える。  ミサキは尋ねてきた。  「望月君も参加してみる気ない? プライドパレード」  思いもかけない誘いに、僕はしばし答えに窮する。  僕は、自分がプライドパレードへ参加している姿を想像した。大勢の人間が視線を注いでくる中、通りを歩くのだ。レインボーフラッグを掲げ、他の異性愛者や支援者に混ざりながら。  パレードへ参加することが、そのまま自身の異性愛を証明することにはならないだろう。だが、それでも、見ている側はそう受け取るはずだ。何より、僕は異性愛者なので、それを否定しての参加は矛盾があるだろう。  僕にできるだろうか。自身が異性愛者であることを晒しながら人前を歩くことが。  プライドパレードへ参加している僕の想像は、やがて、昨夜の夢と重なる。大勢の人間からの罵声とつぶて。現実にはそこまで起き得ないだろうが、それでも僕を不安にさせるには、充分な妄想といえた。  できるわけがない。僕は首を振った。  「ごめん。せっかく誘ってもらったけど、やっぱり参加する勇気はないよ」  「そう。わかったわ。そこは望月君の意思なんだから、謝る必要はないわ」  ミサキは、僕を傷つけないように配慮した物言いをし、整った顔に笑みを浮かべた。  「でも、もしも参加したくなったらいつでも言ってね。その時は、他のメンバーにあなたを紹介するから」  ミサキの進言に、僕はわかったと、頷く。  ミサキとの会話が途切れ、僕は列車の窓から、流れ行く外の景色を眺めた。  外はすっかり夜に覆われている。明かりをたたえた温かな街並みが、イルミネーションのように広がっていた。  それからも、僕とタクヤの状況には変化がなかった。僕らは全く接することはなくなり、連絡も取らなくなった。  反面、僕はミサキと接することが多くなっていた。部活が終わると、一緒に帰ったり、LINEなどで頻繁にやりとりを行うようになった。  それらは同志のような関係であった。同じ異性愛として、シンパシーを持つ者同士、親交を深めていったのだ。  それと同時に、僕はプライドパレードについて調べるようになっていた。ミサキからプライドパレードの誘いを受けてから、少しずつだが勉強を始めたのだ。  だが、ある程度詳しくなっても、僕の中ではプライドパレードに参加する勇気は生まれなかった。衆目へ自身が異性愛者だと晒すことへの抵抗が、拭えないのだ。  僕は描き続けていたイラストから顔を上げて、時計を確認する。時刻は夜の九時近くになっていた。  夕飯を食べ終えたのが七時頃だから、ほぼ二時間以上集中してイラスト作成を行っていることになる。お陰で、ほぼイラストは完成しており、後は細かな修正くらいしか残っていなかった。  僕は色鉛筆を持ったまま、猫の鳴き声のような声を漏らしつつ、伸びを行う。今日中にイラストは仕上げられそうなので、明日には部誌へ寄稿できるはずだ。今回はメインページを飾りたいと願う。  僕は色鉛筆を置くと、イラストへ目を落とした。今回のイラストは、オリジナルのキャラクターだった。雨の日に濡れたままバス停で佇む少女の絵。コピックと色鉛筆を併用しているため、鮮やかさと深みが生まれ、雨と水に濡れた質感がよく表現できていた。  僕自身、叙情的な感じに仕上げるつもりだったが、全体的に暗い雰囲気を纏ってるようにも見える。しかし、そのお陰で絵が退廃的な良さを醸し出し、雨との親和性が取れるようになったのは僥倖だった。  とはいえ、どうしてこの絵を描こうと決めたのだろうと思う。梅雨の時期でもないのに、自分でも不思議だった。  雨の絵は、悲哀を表すとどこかで聞いたことがある。僕が心に抱えているもののせいで、無意識に雨の絵を選択したのかもしれない。  それに、ハマーの『雨中人物画』によれば、雨はストレスを意味するらしい。雨にずぶ濡れになったこのキャラクターが僕の投影だとすれば、僕は相当なストレスを抱えていることになる。  僕はホッと息を吐くと、机の本立てスペースへ手を伸ばす。そして、そこに置いてある『プライドパレードの歴史』を手に取った。  一休みもかねて、僕はしおりを挟んだページを開き、読み始める。  現在読んでいる項目は、プライドパレードが起こるきっかけとなった『ストーンウォールの反乱』について触れられていた。  『ストーンウォールの反乱』とは、1969年6月28日に、アメリカのニューヨークにあるストーンウォール・インという異性愛者が集まるバーで起きた事件である。  当時のアメリカでは、異性愛者やトランスジェンダーなどの性的少数派の権利は極めて抑圧されていた。ソドミー法を始め、異性間での性的交渉だけでも犯罪とされ、性的指向に基づく解雇も平然と行われていた。  そして、『ストーンウォールの反乱』が起こる。事件当日の夜、ニューヨーク市警の警察官数名が、ストーンウォール・インへと令状を片手に踏む込んだのだ。理由はそれまでの踏み込みと同じく、異性愛らが集うバーであったという理由からだった。  警官たちの侮辱する言葉と、理不尽な逮捕に、異性愛者たちはこれまで耐えていた。耐えるしかなかった。だが、その夜は違っていた。理由は諸説あるが、大きな抵抗が起きたのだ。それは、たちまち暴動へと広がった。  結局は、異性愛者側に逮捕者が出たものの、その暴動は『ストーンウォールの反乱』と後に呼ばれるようになり、性的少数派が権利獲得を推進させるきっかけとなった。そして、それは今日では、プライドパレードとして発展している。  僕は本を閉じ、天井を見上げながら、当時の情景を思い描いた。  性的マイノリティという理由だけで、警察官から捜査を受け、逮捕される。当時の異性愛者やトランスジェンダーたちは、さぞや不愉快で、理不尽に感じたことだろう。  現代ではそこまでの差別はない、といえるかもしれない。しかし、それでも、差別が確実に減少していると断ずることができないのが、悲しいところなのだ。  ふいに、スマートフォンから着信音が鳴り響いた。僕は、痙攣したようにビクリと小さく跳ねる。  びっくりした。一体誰だろう。  僕は本を元の位置に戻すと、スマートフォンを手に取った。通知を確認する。  LINEだった。差出人を見た僕の心は、さざ波立つ。  差出人はタクヤだった。  今頃、何だろう。僕は不安になった。  僕はLINEを開き、メッセージに目を通す。  『明日、少しだけ話がしたい』  それだけ書かれてあった。  僕は返信する。  『どうして?』  すぐに既読が付き、返事が来る。  『やっぱり、あんな別れ方じゃ納得できない。それに、お前に無理に迫ったことを謝りたい』  僕は少し考える。僕もあのような形の別れは、望んでいなかった。何より、僕が原因でのいざこざなのだから、ちゃんとけじめを付ける姿勢を取るべきだと思った。  『わかった。明日話そう』  『オッケー。明日の朝、体育館裏にきてくれ』  『了解』  そうして、僕たちは久しぶりのメッセージのやり取りを終えた。  タクヤが言う話の内容は気になったが、何にせよ、もう一度タクヤに対する弁明の機会を得られたのだ。ありがたかった。今度こそ、ちゃんと説明し、納得してもらおうと思う。  タクヤは体を求めたことを謝罪したいとも言っていたが、僕のほうも改めて謝罪が必要であるはずだと感じていた。  僕はスマートフォンを置き、再びイラストへ手を付ける。  心なしか、スムーズに作業が進んでいる気がした。そして、あっという間に最後の仕上げが終わった。  翌日、僕は早めに家を出て、学校へ向かった。普段より早いはずだが、上大岡駅の構内は、すでにいつもと変わらないくらい混雑していた。  僕はホームへ行き、タイミングよくやってきた上り列車に乗り込んだ。座席は埋まっているため、僕は通路に立つ。  こんな時間でも座席が空いていないのだから、一体どの駅から乗れば、座席に座れるのだろうかと疑問が頭をかすめた。  ほどなくして、列車は南太田駅へと着いた。それとほぼ同時に、タクヤからLINEの通知が届く。  確かめると、タクヤは今、教室へと到着したらしい。随分早いなと思う。これから僕が教室へ辿り着くには、十分から十五分はかかる。待たせることになるだろう。  僕は現在位置と共に、その旨をタクヤへ伝えた。タクヤからは先に体育館裏で待っている、とのメッセージが届いた。  僕はスマートフォンを制服のポケットへ入れ、南太田駅から外へと出た。それから通学路を学校へと急ぐ。あまりタクヤを待たせたくなかった。  校門を抜け、下駄箱から教室へと直行する。  教室内は、人が少なかった。学校が好きなのか、もしくは時間帯の関係で早く登校せざるを得ないのか、早出組みがチラホラいるくらいである。  その中の一人が、僕を見ると、不思議そうに話しかけてくる。アキトだった。  「よう。今日は早いな」  アキトは、糸目をパチパチさせながら、そう訊く。  「まあね」  僕は通学鞄を机のフックに掛けながら、答える。  「何かあるのか?」  「んー、別に」  「そういえば、さっきタクヤも……」  アキトはそこまで言うと、はっと口を噤んだ。失言だと気付いたらしい。  僕は聞こえなかったふりをして、二、三言アキトと会話を交わすと、その場を離れる。そして、教室を出て、待ち合わせ場所の体育館裏へ向かった。  途中、登校してきた生徒たちと廊下ですれ違う。その中で、僕は自身が緊張していることを自覚した。修羅場めいた別れ方をした元彼とこれから会うのだ。当然かもしれない。どこか言い知れぬ不安があった。  下駄箱を出て、東棟のほうへ歩く。体育館は、東棟の先にあった。正面玄関からそのまま東棟の横を通るルートが最短である。  そういえば、タクヤから告白を受けた時も、同じルートを通った気がする。あの時は、告白を受けるとは微塵も思っていなかった。  やがて、古ぼけた鉄筋コンクリートの体育館が見えてくる。  僕はその体育館の脇に入り、裏を目指した。早朝なので、用もない限りこんな場所にくる者はおらず、周囲は閑散としていた。  僕は角を曲がり、体育館裏に辿り着く。  見覚えのある男子生徒がそこにいた。  「待たせてごめん。タクヤ」  僕はそう言った。デートの時と同じような言葉を吐いたため、一瞬だけ、付き合っている状態に戻ったような錯覚を覚えた。  タクヤは僕のほうへ振り返る。  「気にするな。急に呼び出した俺が悪いんだから」  タクヤは笑みを浮かべて応じる。相変わらず、男性アイドルのような爽やかな雰囲気を纏っていた。  僕はタクヤの元まで行く。タクヤは僕が目の前にくると、申し訳なさそうな顔をして言った。  「わざわざ本当にすまないな。こんな早くから。どうしても話したいことがあって」  僕は頷く。  「大丈夫だよ。僕も話したかったし」  しばし、沈黙が流れる。朝日が辺りを照らしており、早朝特有の落ち着いた雰囲気が漂っていた。遠くから、車道を走る車の音が微かに聞こえてくる。  タクヤは、口を開いた。  「まずは、あの時のことを謝るよ。無理に関係を迫るようなこと言ってごめん。混乱していて、本心じゃないんだ。どうかしてた」  タクヤは、沈痛な面持ちで、頭を掻く。本当に後悔している風情だ。  僕は首を振った。  「僕のほうこそごめんなさい。突然、一方的に別れを切り出して。タクヤが怒るのも無理がないから」  再び沈黙。一陣の風が僕らの間に吹き、そばに生えているモチの木を揺らした。あの時――告白を受けた時よりも、やはりモチの木は栄えているようだ。青々と茂っている樹冠が、さざ波のような音を立てる。  やがて、タクヤは真っ直ぐ僕を見つめた。  「そして、話っていうのが……」  タクヤは一旦言葉を区切り、真剣な表情で言う。  「ハヤト、俺たち、よりを戻さないか?」  思いもかけない言葉に、僕は耳を疑った。僕は異性愛者だとカミングアウトをしたはずである。  「え? でも、あの時言ったように、僕は異性愛者だし……。もう付き合えないよ」  僕の返答を聞いても、タクヤは表情を崩さなかった。真剣な顔のまま、諭すような口ぶりで話し始める。  「俺、やっぱり思うんだ。異性愛者は間違っているって。だって、そうだろ? 世の中、男同士、女同士で付き合うのが普通じゃん。それなのに、異性と付き合うだなんて、絶対異常だよ。人生上手く行かないことが目に見えている。だから、ハヤト」  タクヤは、端整な顔をこちらに真っ直ぐ向けた。  「俺たちまた付き合おう。俺がまともな道へお前を戻してやる。異性愛なんかじゃなく、普通の同性愛の道へ。矯正ってやつだ。お前のために、俺が手を尽くしてやるよ」  タクヤの言葉に、僕は呆気に取られる。  異性愛者であることはおかしいことではない。ミサキの言葉が頭の中に蘇った。  ミサキの言葉は真実だと思う。異性愛者であることは、矯正されることでも、是正されることでもないはずなのだ。  「ち、ちょっと待って」  僕は慌ててタクヤを制する。  「僕は別に異性愛者であることが嫌でも、同性愛者になりたいわけでもないんだ」  タクヤは目を尖らせた。舌打ちせんばかりの勢いだ。  「わかってねえな。言ったろ? 異性愛者であることがそもそも駄目なんだって」  それに、とタクヤは話を続ける。  「お前が好きだっていってた女子とはどうなった? 告白したのか? 上手く行ったのか?」  痛いところに触れられ、僕は俯く。タクヤはその仕草で察したようだ。見透かしたような口調になる。  「やっぱりな。どうせ駄目だったんだろ? そんなもんだって。異性愛者なんてそうそういないし、成功なんてするわけがない。もし万一付き合えたとしても、異性愛者は普通じゃないから、どうせすぐに破綻するさ」  あまりの言い草に、僕は顔を上げ、反論しようとする。だが、タクヤはそれを遮るようにして、質問を行う。  「お前、このまま異性愛者として生きていくつもりか?」  奇しくも、少し前にミサキから受けた質問と同じ内容だった。僕は口ごもる。  「それは、まだわからない。でも、わざわざ同性愛者になりたいとも思っていないよ」  タクヤは目を細めた。  「異性愛者として生きていくなら、大変だな。異性愛者には結婚制度が認められていないから、好きな相手と付き合っても結婚できないし、親や親族には何て説明する? 絶対もめるぞ」  異性愛に纏わるトラブルや障害は多い。それは理解しているが、それをはっきり指摘されると、反論しようがなかった。  無言になった僕へ、タクヤは出来の悪い生徒を諭すように、優しく言う。  「だからハヤト。今のうちに普通に戻ろう。それがお前の将来のためになるんだ。俺を信じてくれ」  僕は目を瞑りたくなった。そうじゃないんだ。タクヤ。本当のところで、君は僕を理解していない。  僕はうな垂れるようにして、首を振った。  「ごめん。やっぱりその意見は受け入れられないよ。だからタクヤとはよりを戻せない」  タクヤは、ため息をついた。心底呆れた、といった様子だ。  「まだわかってないな。俺の言う通りにするのが一番なんだって。なあハヤト、不安がらず、もう一度付き合おう」  そう言うと、タクヤはこちらに歩み寄る。そして、手を広げて僕を抱き寄せようとした。   僕は後ずさった。タクヤの顔は悲しそうに歪む。  「ハヤト」  「ごめん」  僕はタクヤにそう告げると、背を向けその場を離れた。タクヤが後ろから何か言っていたが、僕は立ち止まらなかった。  僕の心は雨の日のように、ざわついていた。悲しみだけがそこにあった。
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