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第一章 デート
横浜駅へと到着し、京浜線から、みなとみらい線へと乗り変える。そこから青空のようなブルーの車体に揺られつつ、馬車道駅を目指す。
今日は休日なだけあって、列車内は混雑していた。当然座ることなどできず、僕は出入り口のそばで、窓のほうを向いて立っていた。
この列車は地下鉄を走っている。そのため、窓の外は暗闇に包まれており、ちょうど窓ガラスが鏡のように周囲を反射していた。
僕はそれを使って、自身の姿をチェックする。
よし。問題なし。家を出る時にも、散々確かめたのだ。髪や服装に乱れなどはなかった。まかり間違えても、鼻毛など出ていない。僕の容姿は瑕疵なく、清潔感が保たれていた。僕はそれに満足する。
なにせ、今日は『デート』なのだ。身だしなみは特に重要だろう。
やがて、列車は小さく揺れながら、馬車道駅へと到着した。
大勢の人間が列車から吐き出され、僕はホームへと出る。人ごみに飲まれるようにしながら、エスカレーターで上へあがった。
改札口を通過し、さらに上へ進むと、万国橋出口から、外へと出る。
その途端、直射日光が顔を照らし、僕は思わず目を細めた。九月を過ぎ、近年の殺人的な暑さは幾分か和らいだものの、まだ残暑は相当厳しい。大通りは、サウナのように熱気を孕んでいた。
その中を、僕は歩き出す。みなとみらい通りを経て、交差点を渡り、万国橋通りへと入る。そこから直進した。
この先はみなとみらい地区であり、その中に有名な建築物、赤レンガ倉庫がある。そのためか、周辺の建物には、赤レンガをあしらったものが多い。ひときわ目を引く横浜第二庁舎も、レトロ風の赤レンガ造りで、美術館のように華やかだった。
その前を通過し、万国橋を渡る。みなとみらい地区に入り、万国橋交差点に差し掛かったところで、横浜ワールドポーターズが見えてきた。
横浜ワールドポーターズは、大型商業施設で、イオンシネマも併設されてある高校生にも人気のデートスポットだ。
僕はスマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。午前九時五十分。待ち合わせは、午前十時だったので、ベストタイミングである。
横浜ワールドポーターズへさらに近づくと、エントランスがはっきり見えるようになった。横浜ワールドポーターズの万国橋側エントランスは、周辺と同様、レトロなレンガ造りに、ポップなアクセントを加えた可愛らしい外観をしている。
その中にある茶色い柱の影に、見覚えのある人物の姿があった。すでに、デートの相手は到着しているようだ。
横断歩道を渡りきる直前、向こうもこちらに気づく。相手は爽やかな笑みを浮べ、手を上げる。僕も笑顔をつくり、手を振って応えた。
横断歩道を渡りきり、エントランスへ向かう。そして、その人物と相対した。
「遅くなってごめん、タクヤ。待たせたかな?」
僕は、岡部卓也にそう言った。タクヤは長身なので、自然と顔を見上げる形になる。
タクヤは首を振った。
「俺もついさっき、きたところだ。それに、待ち合わせにはまだ早いから、遅くないよ」
タクヤは気を遣うように言う。そして、整った顔に心配そうな表情を浮かべ、僕へ訊いた。
「それより、ハヤト、ここまでくるのに暑くなかったか? 熱中症とか大丈夫?」
僕は微笑んだ。
「大丈夫。駅からすぐだったから、何ともないよ」
「そうか。よかった」
タクヤは安心したようにそう呟くと、さり気なく、僕の頭を撫でる。僕は少し恥ずかしくなって、目線を逸らした。
「それじゃあ中に入ろうか」
「うん」
僕は頷き、タクヤと並んで、横浜ワールドポーターズの中へと入っていった。
僕がタクヤと付き合い始めたのは、およそニケ月くらい前。
ちょうど夏休みが始まる直前だった。突然、クラスメイトであるタクヤから放課後、体育館裏へ呼び出され、そこで告白を受けたのだ。まるで恋愛ドラマのようなシチュエーションだった。
タクヤは長身で、彫りの深い役者のような二枚目である。そのため、上級生、下級生問わず、男子から非常にモテており、告白も何度か受けたことがある高嶺の花のような存在だった。
そのような人物からの告白に、僕は驚いた。これまで僕は告白などされた経験などなく、彼氏すら一度もできたことがない。そんな自分に、花形のようなモテ男が付き合おうと言ってくるなど、想像だにしていなかった。
タクヤは真剣だった。本気で僕のことを好きだという気持ちが伝わってきた。その気持ちが素直に嬉しく、気がつくと、僕は了承していた。
告白が成功した時のタクヤの喜んだ顔と、体育館裏に生えているモチの木の淡い新緑の色を、今でもはっきりと覚えている。
それから僕たちの交際がスタートした。夏休みの補習と部活の合間を縫って、僕らは何度かデートを重ねた。
次第に付き合い始めのぎこちなさは薄れていき、お互い、自然に接することができるようになっていった。
だが、それに反比例するかのように、僕の中にあったある違和感が、風船の如く膨らんでいくのを僕は自覚していた。しかし、そのことをタクヤに伝えることはできず、僕は思い悩んだ。
やがて、夏休みが終わりを迎え、休み明けに催された実力テストも済み――結果はイマイチだったが――僕らは、一息つこうと、こうして横浜ワールドポーターズへデートにやってきたのだ。
その違和感を心の中に、逆刺のように残したまま。
横浜ワールドポーターズの中は、大勢の人で混雑していた。特に家族連れやカップルが多い。
目の前を、手を繋いだカップルが横切る。そのカップルは、長身の男性と、小柄な男性の組み合わせで、僕とタクヤみたいだと思った。
僕たちは、フロアを進む。そして、中央にあるエスカレーターに乗った。
ここも満員電車のように、ぎゅうぎゅうである。タクヤは僕に身を寄せるようにして、ステップに立っていた。
そのタクヤと実力テストの話をしながら、上階を目指した。タクヤは結構、点数が良かったらしい。悔しいと思う。
それを正直にタクヤへ伝え、お互い笑いあった時に、ふと、眼前で立っている女性カップルが僕の目に留まった。
いずれも若い女性だ。幼稚園児ほどの小さい子供を二人連れており、楽しそうに会話をしていた。子供連れなので『婦婦』なのだろう。両者とも、美人でお似合いのカップルだと思った。
「子供が好きなの?」
タクヤは僕に質問する。美人の子連れ婦婦を見ていたことに対し、タクヤはそう受け取ったらしい。
「うん。子供は好きだよ」
僕はとっさに取り繕う。実際は、別の事実に目を奪われていたことは言わなかった。
やがて五階へ到着し、僕とタクヤは、イオンシネマへと足を踏み入れた。ここも他の階同様、カップルがやたらと目につく。
受付に行き、チケットを買う。タクヤは僕の分まで出してくれた。チケットを渡されながら、僕は「ありがとう」と口にする。
これから観る映画は、ホラーものだった。僕が前から観たかった作品で、僕のリクエストによるものだ。タクヤは快く同意してくれたものの、実際は、あまりホラーが好きではないらしく、無理して付き合ってくれているようだった。
目当ての映画は、三番シアターで公開されていた。僕たちはそこへ向かう。
指定された座席に並んで座ると、僕は周りを見渡した。
ジャンルがホラーなだけあってか、女性カップルが多かった。だが、僕らのように男性カップルもいて、大体七対三くらいの割合だろうか。もちろん、中には一人で観にきている客もいる。さすがに家族連れはいなかったが。
タクヤと会話を続けている内に、ブザーが鳴り、シアター内が薄暗くなる。
映画が始まった。
その際、タクヤはそっと、座席の手摺に置いてある僕の手に触れてくる。僕は、反射的に手を引っ込めてしまった。隣でタクヤが、軽くショックを受け、息を飲んだことが気配でわかる。
「ごめん」
タクヤは謝ってくれたものの、僕は、申し訳ない気持ちになった。
映画が終わり、僕たちは、1階へと戻った。一階には、レストランやカフェなど食事ができる場所が多い。
僕たちはそこで、ドリア専門店に入り、昼食をとった。映画が始まる直前の小事は、すでになかったことになり、僕らは普段通りに接することができていた。
やがて、昼食も済ませ、横浜ワールドポーターズ内の店舗を見て回る。二人共、特に欲しいものはないため、いわゆる冷やかしだ。服屋の店員が、ペアルックのTシャツを勧めてくることもあったが、タクヤと一緒に試着しただけで、結局買わなかった。リップサービスなのか店員が「素敵な恋人同士ですね」と褒めてくれたにも関らずだ。デートとはこんなものだろう。
ある程度店を回り終えた僕らは、横浜ワールドポーターズを後にした。それから、同じみなとみらい地区にある『よこはまコスモワールド』へと向かった。よこはまコスモワールドは、大観覧車で有名な遊園地である。僕たちの目当ても、その大観覧車だった。
よこはまコスモワールドは入園料が無料であるため、高校生の懐にも優しい素敵な場所だ。遊びたいアトラクションがあれば、その都度チケットを購入すればいい。
僕たちは、中央付近にある大観覧車『コスモクロック21』を目指す。入園料が無料のためか、客層は若い傾向が強い気がした。僕らと同い年くらいの男同士、女同士のカップルが特に多い。家族連れもいるが、それも比較的若年層で占められているようだ。
チケットを購入した後、龍のようにうねっているジェットコースターのレールの下を通り、コスモクロック21の乗車口へ僕らは並ぶ。
僕は、大輪の花のようにそびえ立つ大観覧車を見上げた。中央にシンボルと化した大きなデジタル時計が設置されており、時刻は午後四時を表示していた。そろそろ日が落ち始める頃だろう。
やがて、僕らの乗車の番になり、ゆっくりと回る青いゴンドラへと乗り込む。その際、タクヤは、そっと僕に手を添えて、介助してくれる。
二人が乗り込んだことを確認した係員は、ゴンドラの扉を閉めた。これから、約十五分間の空の旅が始まる。
ゆっくりと上昇するゴンドラの中で、僕とタクヤは、隣り合って長椅子に腰掛けていた。
二人共しばらく無言で過ごす。窓際には、タッチパネル式の案内ナビゲーション端末が備え付けられていたが、どちらも手を触れなかった。
ゴンドラはどんどんと上昇し、ほぼ頂点へと到達する。僕は、窓から外を眺め、息を飲んだ。
三百六十度のパノラマ風景は、絶景という他なかった。遠くに見えるのは、横浜ベイブリッジだろう。下方には、赤レンガ倉庫やマリンタワー、大さん橋などが広がっていて、職人が丹精込めて作り上げた精巧なミニチュアのようだった。それらが、黄金色の夕日に照らされ、幻想的な景色を演出している。
さすがはかつて、世界最大の観覧車としてギネス登録されただけのことはあると思う。この雄大な風景を眺めたカップルが、ロマンティズムに沈むのは、自然な成り行きだろう。
タクヤの様子を窺うと、タクヤも目を奪われているようだった。
僕たちの乗ったゴンドラは、頂点を過ぎ、ゆっくりと降り始めた。夕日が真横から直接当たり、ゴンドラ内部が、ライトアップされたかのように、明るくなる。
その時、タクヤが僕の名前を呼んだ。
「ハヤト」
僕は、タクヤのほうを見る。夕日に照らされたタクヤの端整な顔は、どこか高揚しているようだった。
タクヤは続けた。
「キスしていいか?」
タクヤの唐突な申し出に、僕は口を噤んだ。微かに心臓が波打つ。
「どうして?」
僕はそう訊いた。
「どうしてって、好きだからだ。俺たち、付き合って二ヶ月だろ? そろそろ次の段階に進みたいんだ」
タクヤは真剣な面持ちで、そう言った。
「でも」
「大丈夫。乱暴にはしないから」
タクヤはこちらを落ち着かせるように、優しく微笑む。夕日に照らされ、白い歯が覗く。
タクヤは僕の返事を待たずに、こちらに寄ると、そっと僕の両肩を掴んだ。
僕は、目を逸らし、深く悩む。
少し前からだった。デートを重ね、僕たちの間にあった垣根がなくなり出した頃。
付き合い始めた恋人同士には、よくあることだと思う。
タクヤは、僕の体に興味を示し始めたのだ。手を握ろうとしてきたり、肩を寄せ合ってきたり、肩を抱こうとしたり、スキンシップを頻繁に行うようになった。
身を寄せ合うことくらいは、何とか受け入れることができたが、それ以上の、手を繋ぐレベルになると、どうしても拒否してしまう自分がいた。タクヤと触れ合おうとすると、僕の中の違和感が、鎌首をもたげ、強く首を横に振るのだ。
僕の拒否反応については、タクヤは、ただ単に、恥ずかしがっているだけだと受け取っているらしい。そのため、僕の心を解きほぐし、安心させれば、いずれ受け入れてくれる――そう考えている節があった。
だが、本当の原因は、もっと根深い、僕自身の性質に由来するものだ。これは、自分の意思では、どうすることもできないことなのかもしれない。
そして、それをタクヤに告げた場合、タクヤはどう反応を示すのだろうか。そして、その先に待ち受ける事実が、ひどく恐ろしくもあった。僕の中にある違和感は『普通』のことではないからだ。
「ごめん。タクヤ。そんな気分になれなくて……」
僕は、タクヤの両腕に触れ、やんわりと断った。タクヤは、ひどく残念そうな顔になる。
「そうか。わかった。それなら無理強いはしないよ。ごめんな、急に迫って」
タクヤはあくまでも、こちらに気を遣っており、静かな声で謝ってくれる。僕の中に、罪悪感が渦巻いた。
タクヤの主張は理解しているつもりだ。僕らは恋人同士。スキンシップを行ったり、キスをすることは至極当然なのだろう。そして、それ以上のことも。
それなのに、いまだ僕らは、手すら繋いでいなかった。その現状に対し、タクヤが不満を抱える気持ちもわかっていた。本当にごめん。
ゴンドラ内を包む微妙な雰囲気をかき消すように、タクヤは明るく言う。
「さっきはああ言ったけど、ハヤトが恥ずかしがり屋なのは知っているから、無理矢理には進展させるつもりはないんだ。不安にならないでくれよ」
「うん。わかってる」
これまでタクヤは、僕に迫ることはあったが、無理矢理は一度としてない。タクヤの言葉は、嘘ではないと思う。
タクヤは続けた。今度は、真面目な口調だ。
「だから、いつかハヤトの心の準備ができたら、その時は、俺を受け入れてくれ。恋人として」
そこには、言外に、肉体関係を求める示唆が含まれていた。それを理解しつつ、僕は頷く。
「……うん」
いつかその時がきたら――タクヤはそう言った。だが、本当にくるのだろうか。そんな時が。タクヤを受け入れることができる日が。
もしもこないのであれば、僕はタクヤを裏切っていることになる。いや、元々からそうなのかもしれない。僕は自分の中にある『普通』ではない感情を抱いたまま、それを告げずに付き合っているのだから。
横浜港の彼方に沈みいく淡い夕日を眺めながら、僕は、自分が悪者になったような気分になった。
コスモクロック21から降りた僕らは、今日はこれでデートを切り上げることにした。
タクヤはもう少し一緒に居たいようだったが、僕は両親から、遅くならないようにと注意されているため、もう帰宅しなければならなかった。夕食は可能な限り、家族で食べようという我が家のルールがあるのだ。
よこはまコスモワールドを出て、馬車道駅から横浜駅まで一緒にいき、そこでタクヤと別れた。その際、「また学校で」と挨拶を行う。タクヤの家は、僕の家とは逆方向、反町駅方面にあった。
タクヤは最後まで名残惜しそうにしていた。
タクヤと別れた後、やってきた列車に乗り、朝のルートと逆走する形で、列車に揺られる。夕方のためか、車内は朝よりも込んでいた。
やがて列車は、僕の家の最寄り駅である上大岡駅へと到着した。
僕はホームへと出て、京急百貨店と直結している改札口を通る。そして、東口から路上に出た。
外はすでに薄暗くなっており、夜の帳が降りかけている。街灯や近くの店の照明が斜陽のように、アスファルトの地面へ長く伸びていた。
その中を、僕は家へと向かって歩き出す。
僕の家は、上大岡東の住宅街にあった。両親が結婚してから建てたもので、少し前にオール電化に生まれ変わっている。周辺の家々と差別化されない無個性さはあるが、慣れ親しんだ好きな我が家だ。
僕は『望月』と表札が掲げてある門柱を通り、玄関を開けて家の中へ入った。
「おかえりー」
ちょうど二階から、降りてきた香奈と出くわす。
「ただいま」
僕はそう返し、靴を脱いで、家へあがる。カナは、ショートカットの髪を揺らしながら、悪戯っぽい笑みを浮べ、こちらに詰め寄った。
「お兄ちゃん、デートどうだった? キスした?」
カナの不躾な質問に、僕は思わず咳き込みそうになる。
「何言ってんだよ。カナ」
「だって、お兄ちゃん、タクヤさんと進展なさそうだもん。お兄ちゃんが奥手なのは知ってるけど、そろそろ進まないと、タクヤさんに気の毒だよ」
何度かタクヤをこの家に連れてきたことがあるため、両親やカナは、タクヤと面識があった。
「余計なお世話だ」
僕はため息をつく。妹のこういった無邪気なところは、可愛くもあるが、困惑することもあった。
その無邪気さは、外見にも表れており、童顔で小柄と、僕よりも一個下にも関わらず、幼く見える。中学生といっても通るほどだ。
「お前は僕のことより、自分のことを気にかけろよ」
「なんで? 私、桃子とは上手くいっているよ」
カナは、不思議そうな顔で、首を傾げる。
カナが口に出したモモコという人物は、カナが所属している陸上部の先輩だ。少し前から付き合い始めたらしい。カナも僕と同じく、モモコを何度か家へ連れてきたことがあったため、家族全員と既知の仲だった。
モモコは、カナとは正反対の、落ち着いたお姉さんタイプの女子である。
「そうじゃなく、お前の成績だよ。お前の高校も夏休み明け、テストあったんだろ? ひどかったらしいじゃないか」
僕がそう言うと、カナは、ショートパンツから突き出た細い足をもじもじさせ、舌を出す。
「えへへ。知ってた?」
「当然だろ」
カナの成績が芳しくないことに、両親はいつも頭を悩ませており、今回のテストの結果についても、僕に愚痴を漏らしていた。
もっとも、僕のほうも、今回のテストについては、あまり偉そうに言えた義理ではなかったが。
「あ、そうそう。もう晩ごはんできてるよ。先に行ってるね」
都合が悪くなったカナは頭を掻いた後、ペンギンのようなちょこまかとした動作で、居間のほうへ小走りで逃げていった。
僕は再びため息をつく。
居間からは、夕飯の匂いが漂っていた。今日はカレーのようだ。
「いいなー私も大観覧車、乗りたい。お兄ちゃんばかりするいよ」
食卓に、カナの拗ねたような声が響く。
「それなら、お前もデートで乗りに行けばいいだろ」
「そうしたいんだけど、モモコ、高いところが苦手らしいから、一緒に乗れないよ」
「じゃあ、今度、連れて行ってやるよ」
気を遣ったつもりで、僕がそう進言すると、カナは嫌そうな顔をした。
「兄妹で乗っても楽しくないじゃん。私は恋人とロマンティックな瞬間を味わいたいの」
カナは、夢見る乙女のような顔をして、手を組む。
せっかくの気遣いを拒否され、僕はムッとする。僕だって、大観覧車に妹と乗っても楽しくはないのだ。
「じゃあ諦めろよ。僕に文句言っても意味ないだろ」
僕は、カレーを口に運びつつ、そう言う。
カナは膨れっ面をした。
「どうしようもないから、羨ましいって言ってるの!」
僕とカナの、間抜けなやりとりを眺めていた茂と孝雄が、向かい側の席で、ほぼ同時に笑い声を上げた。
茂と孝雄は、僕の両親で、共に四十二歳の男性だ。茂のほうは、中肉中背の穏やかかつ、中性的な顔をしており、孝雄のほうは、背が高く、男らしい容貌だ。
息子の僕から見ても、二人共素敵な『夫夫』だと思う。
僕とカナは、代理出産を通じ、この二人の子供となった。茂の実子が僕で、武雄の実子がカナである。僕は親と比較的容姿は似ているが、カナは違っていた。おそらく、代理母のほうに似たのだろう。
代理出産制度は、男性同士の親の中で、もっともポピュラーな出産方法だ。任意による代理母となった女性へ、男性側が精子を提供し、人工授精により子供を授かる。
女性同士の親はその逆で、子供を希望する女性が男性から精子提供を受け、人工授精により自ら身ごもり、出産する。
いずれにしろ、異性との性交は一般的ではないため、人工授精の技術が発達した今では、子供が欲しい場合、もっとも多く利用されている制度だった。
ちなみに通常、両親それぞれの遺伝子を受け継いだ子供を持つもので、ほとんどの家庭が二人以上の子供を授かっている。
「まあまあカナちゃん、他にも楽しいところが沢山あるから、無理に大観覧車デートにこだわらなくてもいいじゃないか」
茂がとりなすように言う。孝雄もそれに同意した。
「そうさ。好きな人とならどこでも楽しいいぞ。大観覧車に乗りたい気持ちはわかるけどさ」
孝雄は、クールな笑みを浮べ、茂と意味ありげに目配せする。もしかしたら、二人もかつて、デートでコスモクロック21に乗ったことがあるのかもしれない。
「わかっているよー」
カナは、めんどくさそうに答えた。そして、カレーを口に運ぶ。
孝雄がカナを微笑ましそうに見つめた後、僕のほうに精悍な顔を向けた。
「とりあえず、ハヤトはデートを楽しめたみたいだな」
「う、うん。そうだね」
僅かに歯切れの悪い返答をしてしまう。だが、三人ともそれに気がつかなかったようだ。
カナは大観覧車に乗ったことを羨ましがってはいたが、僕の心には、まだその時の出来事が、しこりとなって残っていた。
タクヤに対しても思ったことだが、この家族に僕の中にある違和感を告白したら、どのような反応を見せるのだろうか。家族だから応援してくれる? それとも……。
「それはそうと」
茂が、穏やかな二重の目を鋭く尖らせ、カナを睨む。
「カナちゃん、あなたの成績のことだけど」
茂の詰問に、カナはゲッとした表情をする。まさか、ここで不意打ちを受けるとは思ってはいなかったようだ。
僕のほうも、嫌な予感を察知していた。僕は急いでカレーを平らげ、席を立とうとする。だが、孝雄が逃さなかった。
「ハヤト。お前もだぞ。今回のテスト、随分と悪かったらしいじゃないか。彼氏ができたからと言って、うつつを抜かしてたんじゃないだろうな」
脱出する機を失い、僕はカナと共に、両親からたっぷりと説教を受けるはめになった。
二人から絞られた僕は、自室へと戻った。電灯を点け、そのまま勉強机に座る。
机上には、ケント紙とイラストを描くための色々な道具が載っていた。
僕は、ケント紙に目を落とす。そこには、人気アニメのキャラクターが描かれており、ラフ画まで完成していた。これから下書きを行い、その後ペン入れと進んでいく。
僕は、自身が通う高校のイラストレーション部に所属していた。元々、イラストに興味があり、また他の部活とは違って、比較的マイペースで参加できるため、この部を選んだのだ。
マイペースで済むとはいえ、決して楽ができるわけではない。毎月『部誌』を発行しており、それに合わせてイラストを仕上げる必要が出てくる。そのため、夏休みの間も、部誌作成の打ち合わせなどで、学校に赴く必要があった。
今は、九月発行の部誌に掲載するためのイラストを描いている。表紙やメインページの担当は部長や三年生だが、それでも出来栄えが良かったら、誰でも採用してもらえる。そのため、頑張ろうという意欲が湧く。
また、たまにコンクールへの出展もあり、運動部ほどではないにしろ、なかなかにハードだ。
僕は、先端が錐のように尖った鉛筆を手に取ると、ケント紙に下書きを描き始める。両親からテストの結果について、あれだけ絞られたものの、今は勉強をする気にはなれなかった。
しばらく作業を継続するうちに、精神が落ち着いてくることが自覚できた。創作活動は、精神安定に強い効果を発揮するのだ。作業に集中することで、悩みを一時的に忘れる作用があるためらしい。
僕がここ最近、イラスト作業に偏重しているのも、そのせいなのかもしれない。酒やドラッグに溺れる人間のように、直視したくない何かがあり、それから目を背けるための逃避行動なのだろうと思う。
少し手が進み、そして止まる。現在モデルとなっているアニメキャラクターの別アングルの構図が必要になったためだ。
ここの服飾はどうなっていたんだっけ?
僕は、机の引き出しからノートパソコンを取り出し、起動させる。無線LANで繋がっているため、ネットを使用することが可能だ。スマートフォンでも検索はできるが、画面が大きいため、イラストに纏わる調べものの時は、ノートパソコンを使うのが常だった。
検索サイトを開き、検索バーにキャラクターの名前を入力しようとする。そこで、ふと手が止まった。検索サイトのニュース欄に、気になるトピックが表示されていたのを発見したからだ。
『米国、プライドパレードが本格化。日本もそれに追従か』
そういった見出しだった。僕は思わず眉をひそめる。そして、そのトピックをクリックした。
記事が表示され、僕はそれを読む。
『昨日、ニューヨークを始めとする米国各地で、セクシャル・マイノリティーによるパレード、通称、プライドパレードが開催された。米国の著名人や政治家も参加し、異性婚を法的に認める要望書が米政府に対して提出された。これを受け、日本のプライドパレード団体も同運動を行う模様』
記事内の写真には、虹色に染色されたレインボーフラッグを掲げ、通りを歩く人々の姿が写し出されていた。そのほとんどが、男女ペアで、お互い手を繋いでいる。
別の写真には、男女が抱き合い、キスを交わしている光景もあった。また、僕も知っている有名なハリウッド俳優が、パレードに参加し、演説を行っている写真も載せられている。その俳優は、異性愛者であることをカミングアウトしているらしい。
記事を読み終えた僕は、自身の心拍数が少しだけ上がっていることを自覚する。
現在、世界各地でヘテロセクシャル(異性愛者)やトランスジェンダー、バイセクシャルなど性的マイノリティーによる解放運動が増加していた。
理念は、性的マイノリティーが差別や偏見に晒されず、前向きに生きていくことを目指すものだ。また、同性婚と同じく、異性同士による結婚も公に認定してもらおうという目的もあった。今のところ、世界で異性婚が認められている国は極少数に留まっているためだ。日本もまだ、異性婚を認可する動きはない。
僕は、画面を下方にスクロールさせる。そこには、ユーザーたちが自由に書き込めるコメント欄が設置されていた。
僕はそのコメント欄を見て、つい眉間に皺を寄せてしまう。
コメント欄には、プライドパレードの記事を読んだユーザーたちの、非情なる差別発言で溢れていたからだ。
『異性愛なんてキモすぎ』
『男と女がキスしている写真なんて載せるんじゃねーよ。目が潰れるだろ』
『こいつら自分たちが普通じゃないって気づかないのかな?』
『男と女が結婚するなんて普通じゃありえない。ただの変態です』
『お前らの性癖を押し付けるな!』
『異性同士が手を繋いで街を歩く姿を見るようになるなんて、気持ち悪くて無理です。隅っこで隠れてやってください』
僕は、呪詛の如く、異性愛に対する否定的な言葉が羅列されている様を見て、胸を悪くする。中には擁護派もいるようだが、ことごとく否定派の罵詈雑言に似た反論を受け、暴言の海へと沈んでいた。
これこそが、今の社会における異性愛者の立ち位置なのだろう。
先進各国において、プライドパレードを始めとする性的マイノリティーへの差別撤廃運動が増加し、昔――通りを男女が手を繋いで歩いていると逮捕されるような時代――と比べれば、あからさまな差別は減っていると思う。だが、このコメント欄のように、人々の奥底には、いまだ強く性的マイノリティーへの差別意識が根付いているのが現状なのだ。
それは、身近なところでも、遠いところでも同じだった。インターネットでの異性愛者に対する差別発言は、世界中至るところで散見され、時折問題になることもあった。
ネット以外でも同様だ。あからさまな差別は減ったとは言え、道を歩くカップルの中に、仲良く手を繋ぐ男女がいたら、後ろ指を差す人間は必ずいる。そういうものなのだ。
海外では、さらにハードな事例もある。十八世紀に遡ったような出来事だ。
少し前、フランスで異性愛の男女カップルが、男たちに突如暴力を受け、怪我を負う事件があった。犯人たち(高校生くらいの若者らしいが)から動機を訊き出すと、異性同士で手を繋いで歩いていたから襲った、とのことだ。このカップルは異性愛者なので『普通』ではなく、だから暴力をふるって構わない――そのように判断したという。
その思考は、このコメント欄の人間たちと同じものではないだろうか。
『普通』ではないのだからこそ気持ち悪い。『普通』ではないから糾弾する。『普通』には見えなかったから攻撃した――。
そこには、普遍的な差別のみが存在しているのだ。
そして、僕は自分自身のことについて考えた。
僕は異性愛者だ。男でありながら、女性が恋愛対象であるセクシャルマイノリティー側の人間だ。つまり『普通』ではない性的志向の持ち主。
そして、異性愛者のくせに、それを隠し、僕は他の『普通』の人間と同じように、同性と付き合っている。これは矛盾した行為だと思う。僕は、タクヤのみならず、自身の気持ちすら裏切っていることになるのだから。
カミングアウトを考えたこともあった。だが、どうしても差別に対する怖さが先立ち、二の足を踏んでしまう。異性愛をカミングアウトした結果、いじめを受けるようになり、自殺した人の話も聞いたことがあるからだ。
僕は、自身が異性愛者であることを、他者に告白した際の光景を想像する。
お前、男のくせに女が好きなのか? 気持ち悪い。近寄るなよ異常者。おい、あいつ異性愛者なんだぜ。普通じゃないよ。
そのような恐れがあるため、両親や妹などの家族にすら、いまだカミングアウトはできていなかった。
もしかすると、家族だから受け入れてくれるのかもしれない。そんな希望的観測はあるが、もしもそうじゃなかったら? 僕の人生は、脆くも崩れ去ってしまうだろう。
僕はため息を一つ吐き、モニターに表示されている記事を閉じる。それから、再び検索サイトを開き、バーに当初の目的通り、アニメキャラクターの名前を入力した。複数の画像がヒットし、その中から良さそうな素材を探す。
ちょうどいいアングルの素材が見付かったため、それを元に、下書きを再開する。
だが、一度水平線の彼方に飛んでいった集中力は、もう二度と戻ってこなかった。インターネットによる匿名の差別発言は、見事に僕の心を削いでいた。
僕は、沼の底に沈んだようになっている心を抱えたまま、何度もイラストを書き直し、やがては止めてしまった。
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