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「時間ないから、早く」
ゴールが見えた方が人のやる気は出るんだぞ少年。小絵の質問はあっさりと流されて、もはや視線すら向いていない。年長者としてアドバイスをこめた文句を言いたくなったが、桶の縁に手をかけてスタンバイする姿に、小絵はそれを諦めた。
「……何すればいいの?」
「この器、もうちょっと動かしたいんだ」
「はあ」
「中の、こぼさないようにね」
「嘘でしょ」
「本当」
無理だろうと思う小絵に構わず、少年は左に三十五度だのあと三センチだのやたらと細かい指示を出した。そして動かす度にお尻のポケットに差した懐中電灯のようなもので、光を瞬かせて水面を照らす。その光は暗がりには強く、一度まじまじと見てしまった小絵はまぶたの裏がちかちかした。しかし少年には何かが見えているのか、首をかしげたり小さくあごをひいたりしている。
そんなことを繰り返して十分ほどたっただろうか。ようやく満足のいく配置になったらしく、少年はよしと呟いた。運のいいことに、小絵が見ていた限り水の一滴も失われていない。
「終わり?」
小絵は大きく伸びをした。曲げ続けていた腰が痛い。年齢と運動不足はこういうところで出てくるのかと嘆きながら、拳の背で軽く腰を叩いた。
「うん。でもこれからが本番」
少年はにこりと微笑んだ。大人びた笑みが薄明かりに照らされる。小絵に向けられたはずのその表情は、小絵だけでない、どこか別の場所も見ているように思えた。
少年は斜めがけした横長の鞄に懐中電灯を入れて、出す手で小さな巾着袋を連れてきた。鞄、持っていただろうか。小絵は思ったが、真剣な横顔にはささいなことのような気がして、口をつぐんだ。
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