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 世の中は平等ではない。  "生まれた環境、親、容姿。すべて自分では選べないモノ"  それを悟ったのは、小学生一年の頃だった。 「波瑠。今日、これで好きなの食べてきなさい」  母が千円を差し出した。  覗けば谷間が見えそうなほど胸元が開き、膝よりも短いタイトスカートを履き、「綺麗な脚だ」と客から褒められると自慢している白い細い脚をこれを見よがしに曝け出す。客から貰ったらしい高級ブランドの香水は、吐き気がするほど甘い匂いがする。 「夜の9時まで帰ってきたらダメよ。わかった?」 「……うん」  波瑠は差し出された千円を受け取った。  母が千円を手渡し、「帰ってくるな」と言う日は、家に付き合っている男が来る日だ。  今、付き合っている男は、優しい大人の男性、とはお世辞にも言えない。何度か自分の家から出てくる母親の男と家の前ですれ違ったことはあるが、その男は波瑠のことを見ても笑顔ひとつ見せることのない人だった。 (この人が父親になったら嫌だなーー)  もし、母が再婚したいと言ったらあの男が父親になる。ただでさえ家に居場所がないのに、さらに波瑠の居場所がなくなるということが目に見えていた。  波瑠は物心ついたときから父親はいなかった。家族は母のみ。他県の田舎に母の親や親戚がいるらしいが、一度も会ったことはない。  父親がいないうちの家庭は、母が稼ぎ頭だ。シングルマザーの母は、仕事で忙しくほとんど家にはいない。小学生の頃は、誰もいない静かな部屋で母の帰りを毎晩待っていた。  波瑠は母が少しだけ苦手だった。なぜなら、母は天気のように機嫌がころころ変わるからだ。母が機嫌のいい日は帰ってきたときに「ただいま」の「ま」が少しだけ音量が上がる。でも、期限の悪い日は、その「ま」が下がるのだ。そして、最大級に期限の悪い日は眉毛の角度がいつもよりも5度ほどつり上がってる。  小学生の子供ながら、波瑠は空気を読むことに長けていた。なので、小さいながらも余計なことは言わず、母親の機嫌を損ねない言葉を選んで言う、という社交スキルを手に入れていた。たった一人しかいない家族の母に嫌われないために波瑠は必死だった。  波瑠の母親は、気分屋である。学校の休みの日に波瑠をどこか遊びに連れて行く約束をしても、その日の気分次第では外出することすら億劫になるらしく、約束は守られないことも頻繁にある。そんなことは日常茶飯事のため、もう波瑠は怒りすら感じない。  もっと酷いときは、波瑠の運動会すらすっぽかしたこともある。クラスメイトは家族に囲まれて昼食を摂っている。早朝に目覚めて作ったのであろう手の込んだ弁当を家族で食べている光景が波瑠には眩しく映った。波瑠の弁当は、コンビニで買ったおにぎり弁当だ。波瑠は母に運動会の日は給食が出ないため弁当を作ってほしいと頼んでいた。母はその日は機嫌が良く「いいよ」と返事をした。母は波瑠に運動会に来る約束をした。波瑠は嬉しくてためらなかった。なのに、朝、母からお金を手渡された。 「急に仕事が入っちゃって、運動会に行けなくなったの。ごめんね」  申し訳なさそうに謝る母。波瑠はすぐに母親が嘘を言っているのだということを見抜いた。なぜなら、母のメイクがいつもよりも丁寧だったからだ。仕事ではない。きっと、波瑠の知らない、波瑠の運動会よりも大切な誰かと会うのだと悟った。 「これでお昼好きなのを買ってね。運動会なんだから、お弁当だけじゃなくてお菓子も買ってお友達と食べなさい」  差し出されたのは千円二枚だった。お詫びのつもりなのだろう。波瑠は差し出された二千円を受け取った。  最近、母は金の羽振りがよくなった。羽振りがよくなった理由は、昼間の仕事の他に夜の仕事も始めたからだ。昼間の仕事だけでは自分と子供が生活できるほどの給料は貰えず、週に何日かは夜の仕事で働いている。見た目が良く、話し上手の母親にとっえ、夜の仕事は天職だったらしく、それなりに稼いでるようだった。 「私、料理下手じゃない? 不味い弁当よりコンビニ弁当の方が美味しいし、波瑠もいいでしょ?」  波瑠は母にバレないように、小さく下唇を噛んだ。  「不味い弁当でもいい。僕はお母さんの弁当が食べたい」、と波瑠は言いたい言葉を呑み込む。  楽しみにしていたのだ。母が作ってくれる弁当が、どんなに不格好な弁当であれ、"母が作ってくれた弁当"に意味があるというのにーー。  運動会の昼休憩中、クラスメイトが家族でご飯を食べている横を通り過ぎ、波瑠は校舎の裏のコンクリートに腰掛けてコンビニで買ったおにぎり弁当を食べた。  波瑠が中学三年になった頃、母が衝撃的な告白をした。 「結婚することにしたの」  マスカラで縁取られた眼を三日月型に細め、自慢するかのように左手薬指にはまったダイヤの指輪を波瑠に見せた。結婚相手はそこそこの金持ちらしい。自慢したように言った指輪のブランド名は、ジュエリーに興味のない波瑠でさえ知っている高いと知っているブランド名だ。  嫌だと思っていた男が父親になる。これからのことを考えると頭が痛くなる。  更に母は照れたように頬を染め、「もう一つ、報告があるの」と言い、自分の腹部に手を当てた。波瑠は嫌な予感がし、顔面が真っ青になった。 「波瑠に弟ができたの」  照れ臭そうに笑う母とは真逆で、波瑠は今にも失神しそうなほど頭の中が混乱していた。 「……おめでとう」  思わず口に出したのは、まったくこれっぽっちも思ってもいない偽りの言葉だった。 「ありがとう。波瑠ならそう言ってくれると思ってたの」  こんなに母が嬉しそうに笑みを浮かべる表情を波瑠は見たことがなかった。 「……あの人と一緒に住むの?」 「あの人だなんて他人行儀な言い方やめなさい! あなたのお父さんになるのよ!」  あの男をお父さんなんて呼びたくない。家族になんてなりたくもない。向こうだってそう思ってるはずだ。いつも俺のことウザそうな眼で見ているから。 「それでね、彼と話し合ったんだけど、波瑠はもう立派な男の子じゃない? だからね、彼がそろそろ波瑠に一人暮らしさせないかって言うの」  なにかがピキッと割れる音がした。 「……俺に出て行けってこと?」 「人聞きの悪いこといわないの。独り立ちよ。親がいなくても一人で生きていけるように今から教育しようって彼が。いい提案だと思わない?」  ピキッピキッと音を立てて崩れる。  あぁ、この音、俺の心の音だったのか。  邪魔者である俺を家族の輪から弾き出したかったのは、あの男だけじゃない。母も同じだった。  母は最初から俺を愛していなかった。  この言葉が妙にしっくりきた。  母親に好かれたくて、わがままも言わずに勉強もスポーツも頑張っていたのに、すべてが無駄だったと理解したとき、一気に心の中のなにもかもが氷のように冷えていった。  愛されたいと思ったことが間違いだった。  母は優しく己の腹を撫でる。惚気たように旦那になる男とまだ産まれてもいない子供のことを話す。幸せそうに未来を話す母の話の中には、俺の話は出てこない。目の前の息子には愛情は注がず、まだ産まれてもいない腹の子には愛情を注ぐ。  世の中は不平等で、理不尽で、望んでいるものは手に入らない。  たった一人の家族から弾き出された波瑠は、ひとりぼっちになった。
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