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桜の花びらが舞い散る春。波瑠は高校進学と同時に一人暮らしを始めた。
高校は地元から遠く離れたところを選んだ。家庭の事情を知っている当時の担任の先生は突然の進路変更に「何かあったのか?」と尋ねてきたが、波瑠は気が変わっただけだと質問の答えを濁らせた。
波瑠が第一志望だった高校を変更した理由は、実家から近いからだ。近場を歩けば母や義父に遭遇する可能性がある。どうせ一人暮らしさせられるなら、遠くに行きたいと実家から離れた隣県にある進学校へ進学した。
ここには自分を知る人など一人もいない。唯一の家族だった母親も、家庭の事情を知っている担任の先生も、「ネグレクトされているみたいよ」と波瑠の家庭の噂を言いふらす近所のおばさんも、母親が夜の仕事をしていることを小馬鹿にしてくる同級生も誰一人いない。
すべてをリセットしてきたというのに、なぜか喪失感すらなく寧ろ胸のあたりが軽くなった気がした。
住むことになったマンションは、駅から徒歩10分ほどの距離にある。近くにスーパーやコンビニがあり、なかなか便利がいい。家賃5万円の1DKの部屋にあるのはテーブルとカーテン、テレビ、生活するのに最低限必要なものしか置いていない殺風景な部屋だ。実家から持ってきたものは、数枚の服と数冊の本だけ。波瑠の唯一の趣味は読書だ。読書をしている時だけは本の中のストーリーに夢中になれ、現実から離れられた。
実家を出る前に、一人暮らしで必要な生活費の入った貯金通帳を母親から受け取った。正確には母親から受け取ったというのは間違いで、義父から受け取ったと言った方が正しい。波瑠を追い出した償いなのか知らないが、貯金通帳に入金されている金額の0の多さに波瑠は目を疑った。大学に進学しても余るほどの金額だった。母親にプレゼントしていた数々の高級ブランド品からして、なかなかの金持ちだとは予想していたのだが、予想以上だった。
だが、0ばかりの貯金通帳を見ても波瑠の気持ちは晴れなかった。まるで手切れ金の様だと感じてしまったからだ。馬鹿にするな! と、怒鳴りながらこの金を義父にそのまま突き返してやりたい。でも、収入源もないただの学生の波瑠にとって生きていくには金が必要だった。貯金通帳を眺めながら、自分の無力さを感じた。
入学式当日、当たり前のように同級生たちは保護者と来ていた。同級生の両親は子供の高校入学に喜び、校門前に立ててある「入学式」と書いてあるパネルの前で写真を撮っている姿を何組も見かけた。
小学生の頃、中学生の頃、この光景に何度も憧れた。高校生になった今、その光景を冷めた眼で見ている。
幸せな奴らだ。
当たり前のように親に愛されている同級生たち。
オ前ラナンテ、生マレテキタ環境ガヨカッタダケノクセニ。
己の醜い感情に気づき、波瑠は慌てて目を逸らした。
「高校生になって、親と写真撮るなんて恥ずかしいよな」
突然、隣から声がした。そろりと顔を横に向けると、隣に同じ制服を着た男子高校生が立っていた。胸ポケットには入学式で配られた紙の花がついている。
(同級生? 結構、背が高いな)
波瑠の身長は170センチ。横を向いた同級生の身長はそれよりも10センチ以上高い。見上げるように目線を上げると、波瑠を見下ろすように目線を下げた男子高校生と眼が合った。
黒髪の髪に小麦色の肌。男子高校生は波瑠と眼が合うと、歯並びのいい歯を見せながら、ゆるく眼を細め笑う。爽やか、この男にはその言葉が似合うと思った。
「うちの母ちゃん、俺の入学式ボイコットして妹の小学校の入学式に行ったんだぜ。酷いだろ?」
突然、人懐っこい笑顔を見せてきたと思えば、馴れ馴れしく話しかけてきたこの男に、波瑠は戸惑った。なぜなら、波瑠は人と接することがあまり得意ではなかったからだ。それに、なにもかも満たされているリア充感を醸し出す分類の人間が波瑠は苦手だった。
とくに目の前の爽やかな容姿とスポーツをしているのか、制服の上からでもわかる程よく引き締まった体、人見知りなどしない明るい性格、全て波瑠とは真逆だ。
波瑠は背は170センチあるが、筋肉がつきにくい体質らしく筋トレをしても筋肉はつきずらい。肌は白く、白い肌が嫌で小麦色の肌になるために日焼けを試みたことがある。しかし、日焼けすると赤くなる肌質だと判明し、目の前の男のような小麦色にはなりたくてもなれなかった。容姿は母親似で保育園の頃は、よく女の子に間違われていた。今はそこまではないが、男らしい凛々しい顔ではなく中性的な女顔の方がしっくりくる。
「お前んちの親も入学式来てないの? 仕事?」
「……まあ、そんなところ」
仕事なんかではないが、初めてあったこの男にベラベラ家庭の事を話せるはずもなく、波瑠は適当に話を合わせた。
「名前なんて言うの? 俺、笹川優也」
「……桜井波瑠」
「へぇ、波瑠っていうんだ。珍しい名前。どんな字書くの?」
「『は』は、波で、『る』は王に留守の留で波瑠」
「難しい字書くんだな。俺なんて優しいに也で優也だぜ。簡単すぎだろ」
再び、優也はニカッと並びのいい歯を見せながら笑う。
(……コミュ力高い)
やっぱり、苦手なダイプだ。
どこからか、「優也ー!」と目の前の男を呼ぶ声がした。優也は後ろを振り向くと、名前を呼んだであろう同級生に向かって軽く右手を振る。
「今から部活見学いくんだよ。波瑠は部活しないの?」
親しくもないのにいきなり呼び捨てにされ、少し気分が悪い。
「俺は部活しないから」
イラつきを表に出さないように表情を作る。
「勿体ねぇ。ちなみに俺は野球部」
リア充=スポーツ部。まさにイメージ通りだ。
遠くから「ゆーうーやー!! はやくしろ!!」とご立腹な様子の同級生の声がする。
「悪い! 今行く!」
別れ際に「またな、波瑠」と爽やかな笑顔を向け、優也は不機嫌な同級生の元へ駆け寄って行った。
優也の後ろ姿を眼で追いながら、波瑠は思った。
生まれてきた環境が違う人種だ。
波瑠にとって、優也のような人生楽しんでますオーラを出す人が一番関わりたくないタイプの人間だ。近くにいると自分と相手との環境の差を感じ、惨めな気持ちになるからだ。
優也みたいなタイプは人見知りをしないため、友達も多い。友達も波瑠みたいな本好きな陰キャラではなく、スポーツ好きで明るくノリのいい陽キャラタイプが多い。
もう関わることもないだろう。
波瑠は話が上手でもないし、コミュニケーション能力も高くない。おかげで親しいと呼べる友達は一人もいない。得意なのは人の顔色を伺い、機嫌がいいか悪いか判別できることくらいだ。母のおかげでこのスキルは身についた。
もし優也が話しかけてきたとしても、波瑠と話をしても面白くないと分かれば勝手に離れていくだろう。
波瑠はこの時、優也の存在を重要視などしていなかった。
笹川優也と出会ったことで、人生が変わっていく。そのことを、波瑠はまだ知る由もなかった。
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