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仙助の日常
日本橋大伝馬町の太物屋「恵比須屋」で奉公する仙助の一日は、この店の若旦那、信太郎の小言から始まる。
「お前ね、何度言ったら分かるンだ。私が月代を剃る時に使う手拭いは、蜻蛉柄じゃあない。青海波だよ。蜻蛉は、夜に手水場(便所)へ持っていくやつだ。全く……お前の鳥頭は、いったい何時になったら治るンだい?今度腕の立つお医者様を呼んで、その空っぽの頭を一度診て貰おうか」
信太郎は柳眉を寄せて、眼だけで仙助をジロリと見上げた。
何時もならその細顎を突き上げて、鼻の一つも鳴らすのだが、今は顔を動かせないのでじっとしている。
仙助が、信太郎の月代に剃刀の刃をあてているからだ。
信太郎は朝の支度の手始めに、必ず仙助に月代を剃らす。
剃り終えると、温めた手拭いで月代を拭くのだが、その手拭いの柄が何時もと違う事に信太郎は腹を立てていた。
「いいかい?もう一度言ってあげるから、その無い頭にしっかり叩き込みなさい。顔を洗ったあと使う手拭いは、豆絞り。歯磨きの時は、亀甲だ。汗を拭く時は斧琴菊で、飯時に口を拭くのは唐草模様。それから出掛ける時は…」
神経質な信太郎は、使う用途で手拭いの柄を分けている。
手水場用などは朝昼晩と変えており、一度手を拭いたら全て使い捨てていた。
―……相変わらず細けぇなァ。そんなだから、いつまで経ってもこの家に嫁さんが来ねぇンだ
仙助は胸の内で毒づくと、信太郎の月代の上に剃刀の刃を滑らせた。
陽の下へ出るのを嫌う(汗をかくから嫌なのだそうだ)信太郎の月代は、肌同様きめが細かく、抜けるように白い。
スラリと伸びた長い手足に、小さい頭。小づくりに纏まった品の良い顔。
何よりこの男の肩書は、日本橋屈指の老舗太物問屋、「恵比須屋」の若旦那だ。
本来なら、世間の女が放っておく筈ないのだが。
この性分が起因して信太郎は未だ女っ気が無く、今まで上がった縁談も全て破談。
……つまり昔から変わり者として、周囲から遠巻きにされていた。
―世間様は、みんなよ~く分かってら。幾ら男が好きな俺だって、この若旦那だけは願い下げだもんな
仙助の性的対象は物心付いた時から男だけだし、二十歳という血気盛んな齢でもあるが、誰でもいいという訳ではない。
仙助はとりあえず若くて可愛くて優しくて、何より川端に揺れる小菊の様な―思わず守ってあげたくなる男が好みだ。
つまり、信太郎とは正反対。
二年前に信太郎の世話役に就いてからは、余計そう思うようになった。
―誰が好き好んで、こんな我儘な中年増なんざ抱けるかよ。若旦那が善がる所とか、考えただけで気味悪ぃ……
きっと喘ぎ声すら杓子定規で、色気もへったくれも無いに違いない。
そのさまを頭に思い描いて含み笑いをした仙助を、気づけば信太郎が刺すような眼差しで見詰めていた。
「馬鹿に付ける薬は無いとは、まさにこの事だね。そんな風にいつもヘラヘラしているから、肝心な仕事を怠ってしまうんだ」
「……はぁ、すいません」
詫びの言葉を口にした仙助だが、腹の中では盛大な溜息をついていた。
事実、手拭いの柄を変えるように申しつけてきたのは、他でもない信太郎本人だった。
先日手水場へ行った後、夜中生き物の柄を目にするのは気味が悪いから…と、わざわざ寝ていた仙助を叩き起こしてまで言いに来たのを、もう忘れてしまったのか。
―まったく、鳥頭はどっちだよ
物事を細かく決め過ぎるきらいのある信太郎は、たまに自身でも訳が分からなくなる。
そういう信太郎の詰めの甘さも、仙助は日頃から野暮ったく感じていた。
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