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仙助の逆襲・・・①
「…手拭い、今代えて参ります」
信太郎の月代を剃り終えた仙助は、その場にすっくと立ち上がる。だが腹の中で幾ら一物を抱えても、それをおくびにも出さないのは奉公人の性だ。
仙助には深川は仲町の裏店に、母一人と未だ幼い兄妹が三人も居る。
これ以上信太郎の怒りを買って、店をクビになるのはどうしても避けたかった。
「あ~あ。どうしてお前のような昼行燈が、女にもてはやされるのかねぇ。本所七不思議の一つになりそうな位、おかしな話だ」
駄目押しで放たれた信太郎の嫌味に、踵を返そうとした仙助の足が止まった。
今日は随分、ネチネチといたぶってくる。
何処か虫の居所でも悪いのだろうか。
「……別に言う程、大した事ないですよ」
実は仲町に居た時分から背が高く、キリッとした男ぶりのいい仙助は、近隣に住む女達から猛烈にモテていた。
恵比須屋へ来て前髪を剃り落としてからは更に持て囃され、今では町小町と謳われる美貌の娘や、大店の箱入り娘までがこぞって仙助に岡惚れしている。
しかし仙助は生粋の男好きなので、女に言い寄られた所で食指は全く動かない。
普通の男なら泣いて喜ぶこの状況も、当人からすれば正味で”大した事ない“ものなのだ。
「ハッ、一丁前に謙遜かい?お前そんな事言いながら、この前も千鳥橋の水茶屋の子に、付け文を貰っていたじゃないか。しかも私の!目の前で!」
急に語尾を強めた信太郎は、睨みつける様に仙助を仰ぎ見た。
女に言い寄られることに関しては、昔から心当たりがあり過ぎる仙助だ。
数々の女を頭にめぐらせた後、「千鳥橋」と聞いて一人の女が浮かび上がる。
「……あぁ、みはま屋のおきぬちゃんの事ですかい?」
仙助が女の名を述べると、信太郎の顔がさぁっと一刷毛した様に赤く染まる。
その後もじもじと手遊びを始めた信太郎に、仙助はハッと目を瞠った。
はは~ん、読めた
どうやら密かに信太郎は、おきぬに岡惚れしていたようだ。
みはま屋は浜町堀に掛かる千鳥橋の南河岸にある水茶屋で、おきぬはそこで働いていた。
十七、八の笑うと八重歯が覗く明るい女で、大方信太郎は、その笑顔にコロッと参ってしまったという所だろう。
どうりで何処の得意先へ行っても、帰りは必ずみはま屋で一服していた筈だ。
ここの煎茶はひと味違うね、とか店の親爺におべんちゃらを使っておきながら、眼ではずっとおきぬの尻を追いかけていたという訳か。
仙助は苦笑いを噛み殺し、赤ん坊の肌みたいな信太郎の月代を見下ろした。
―だがあの女。初心なアンタじゃ、どうしたって手に余る
先日おきぬから貰った付け文には、出会茶屋へ誘う文句が滔々としたためてあった。卑猥な言葉も満載で、信太郎が目にしたらきっと卒倒してしまう代物だ。
そんな事は露知らず、好いた女の名を聞いただけでのぼせ上がる信太郎。
そのさまはすこぶる滑稽で、なんて惨めなのだろう。
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