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徐々に高度を下げて地面へ近づいていく身体は、綿になったように軽い。
手を引かれ、私はゆっくりと地面へ降り立った。
教会の鐘の鳴る音が聞こえ、そちらに視線を向ける。
黒い服を着た人混みが見えた。今日は葬儀が執り行われているらしい。見慣れた教会の天辺にそびえる十字架が、いつにも増して眩しく光り輝いている。
降り立った足で、私は人だかりのほうへ歩みを進めた。驚いたことにと言えばいいのか、それとも想像通りと表現したほうが正解に近いのか。その場に居合わせる誰にも、私の姿は見えていないらしかった。
荘厳な扉をくぐり、建物の中へ足を踏み入れる。浮かされたような私の足取りに、男はそれでもなにも言わず、後ろからしっかりとついてきていた。
お父さまとお母さまの声が聞こえる。
泣いているようだ。ふたりが身に着けているのは、やはり黒い服……喪服だ。ふたり並び、柩に縋りつきながら泣いている。
「……あ……」
随分と殊勝な態度を見せていると思った。
特に父だ。彼のそんな姿を目にするのは、言ってはなんだがひどく新鮮だ。
泣き崩れる両親の斜め向かいにある人影を認め、私は息を呑んだ。
最近になって新しく宛てがわれた婚約者だったからだ。
両親と同じく、彼も黒の正装に身を包んでいる。
きつく握り締めた彼の拳からは血が滲んでいた。にもかかわらず、顔にはほのかに安堵が覗いても見え、そこまで思い至ってようやく記憶が鮮明に蘇ってくる。
(……ああ)
――そうだ。この人には、恋人がいたのだ。
ある事件の後、私は転校を余儀なくされ、転入先の高等学校を卒業した。
そして実家へ戻った直後に、お父さまが無理やり私とあの人の婚約を決めてしまった。
自ら命を絶つことになった元婚約者――アレンのことなど、もはや露ほども記憶に残っていないとばかりに、お父さまはあの人のもとへ嫁げと私に命じた。
するすると紐が解けるように記憶が蘇ってくる。
靄がかかった感じはすぐさま払拭され、私はかつての婚約者の死と、その原因に思い至る。
「思い出しましたか。」
「……はい。先生」
「もうそんな呼び方をする必要はありません。私は守るべき生徒の命を守れず、嘆きの末に自ら死を選んだ、ただの背徳者ですから。」
ざわめきが一瞬途絶えた。
ふわりと身体が浮き、地面についていたはずの両足が空へ高く舞い上がる。
先生に抱え込まれるようにして浮かんだ先、柩の中に横たわる人影が覗き見えた。
白いドレスを身に着け、頭の周りに白い花をたくさん添えられたその人物が。
ああ、もう少しで、顔が見えそうだ。
「私は先生を尊敬していました」
「……。」
「あの日、先生が命懸けで、教室で自殺を企てたクラスメイトを……アレンを止めようとする姿を目にする前から、ずっと」
「……エマ。」
「先生の行動は無駄なんかじゃなかった。人として、教師として、あなたはあるべき姿を貫いた。あの日、教室の中にいた誰もがそう思っていたのに」
先生はなにも言わない。
目を合わせず独り言のように口を動かし続ける私の感情を欠いた声を、ただ静かに聞いてくれている。
「私、先生がずっと好きでした。尊敬だけではなくて、ひとりの男性としてお慕いしていたの。いずれ他の男性のところへ嫁がなければならない、だからこんな気持ちは許されない……そうと分かっていても止められなかった」
そのとき、視界を遮っていた人影が動いた。
柩の中のそれの顔が、しっかりと視界に入り込む。
艶やかに巻かれた、胸元まで伸びた金色の髪。
紅が引かれた口元、美しく施された死化粧と硬く閉じた両目。
そこに眠っているのは私だった。
死に彩られた私の顔は鮮やかで、そして、どこまでも残酷。
「私、自殺したんですね。先生を追って」
「……うん。君は、僕の死を知って、僕の墓の前で命を絶ってしまったんです。」
強い風が、私たちの間を吹き抜けた。
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