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1 あんなおじさん、好きな訳ないでしょ!
判子の上下が反対なんて、社会人としての常識が足りない。
入社五日目で濱田課長にきつく叱られた。
大学を出たばかりで、学生気分がまだ抜けていなかった。
判子なんて会社に入るまでは持つ事はなかったし、押してあれば上下逆さまだろうが、別にいいと思っていた。細かい事を言う人だなと、ムッとした。 濱田課長が物凄く嫌なヤツのように思えた。
もう怒られたくなくて、家でこっそりと判子の押し方を練習した。
三日後、綺麗に判を押した書類を濱田課長に持っていったら、「上達したな」と今度は微笑んでくれた。
初めて見た課長の笑顔だった。ズルいと思った。だって笑うとすごく優しく見えるんだもの。普段は目尻が上がり気味の切れ長の目で見るから怖そうなのに。そんな笑顔向けられたら、嫌な奴だって思った事が後ろめたくなる。 課長の笑顔が見たくなるじゃない。もっと褒められたくなるじゃない。
あの笑顔はきっと部下にたくさん仕事をさせる為の作戦なんだ。そんな手に乗るかと思いつつも、課長に頼まれれば嫌な顔ひとつせず残業をした。
だって課長は悪いなって言いながら、缶コーヒーをくれるから。ブラックじゃなくて微糖のやつ。私の好みを課長はちゃんと覚えてくれた。微糖がいいと言ったのは最初にコーヒーをもらった一回だけなのに。
あれから何度、課長にコーヒーを買ってもらったんだろう。
気づくと入社して三年が経つ。指導すべき後輩もできて、任される仕事も増えた。課長と一日一度は業務報告の為、話すようになった。
入社したばかりの頃はおはようございますと、お疲れ様の挨拶を交わすぐらいだったのに。そんな事を考えていたら、課長に呼ばれた。
頼まれていたプレゼン用の資料を持って課長の席に行った。課長は「やっぱり島本くんが作る資料は見やすいね」と、褒めてくれた。
嬉しくなんかないのに口元が緩みそうになる。
慌てて表情を引き締めて席に戻ると、一年後輩の佐々木江里菜が潜めた声で
「島本さんって濱田課長の事好きですよね」といきなり言い放った。
体の奥がカーッと熱くなる。
「バカな事言ってないで仕事しなさい」
江里菜の頭を平手で叩いてやった。
「あったー、島本さん、本気でたたく事ないじゃないですか」
江里菜が納得いかなそうに見てくるが、無視してパソコンに向かう。
課長を好きなんてバカバカしい。
二十才も年上で結婚してる人を好きになる訳がない。それに恋愛なんてただ面倒くさいだけ。
課長の方を見ると一瞬目が合った。課長がほほ笑んでくれた気がして、胸の奥がざわざわした。
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