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「帰ります」
私が歩き出すと当たり前のように課長が隣を歩く。
沢木のマンション前に残ると思ったから意外だった。
「課長も一緒に帰るんですか?」
「前にも言っただろ? 女性の一人歩きは危ないって」
あの夜も課長は同じ事を言っていた。
「島本くんを一人で帰せないよ」
照れくさそうな笑みを浮かべる横顔が優しい。
課長は本当に優しい人だ。優し過ぎるから娘さんの事も心配し過ぎてしまうんだろうな。
「あの、課長」
「何だい、島本くん」
「手、つなぎませんか?」
差し出すと課長が「いいよ」と言って繋いでくれた。
大きくて温かい手。
幽霊なのに、課長の指の硬さも、体温も感じる。
こうしていると課長が幽霊だって忘れそうになる。
「不思議だな」
低い声がしみじみとした感じで響いた。
「何がです?」
「いや、こうして島本くんには触れる事ができるから。滑らかな肌の感触も、体温も感じる事ができて、不思議だなと思って」
「そうですね。不思議ですね」
「島本くんも僕の手の感触がわかるの?」
「はい。課長の骨の感触も、温かい体温も感じます」
「そっか。じゃあ」と言って、課長が急に黙る。
「何です?」
「何でもない」
誤魔化すように課長が言った。
「何です? 気になります」
「いや、何でもないから」
僅かに課長の頬が赤くなった気がする。
「もしかして、エッチな事を想像したんですか? まさか私の胸に触りたいとか?」
「む、胸って、おいっ、僕はそんな男じゃないぞ」
焦ったような表情を浮かべる課長が可笑しい。
「冗談ですよ。課長が誠実な方だってよくわかってますから。それで物凄くロマンティストですよね。奥様と同じ名前の薔薇を100本集めようとしたんですから」
「島本くん、その話は勘弁してくれ。照れくさいから」
「幽霊になっても照れるんですね。課長、かわいい」
「かわいいって、45のおっさんに何を言うんだ」
「45歳でも可愛いものは可愛いんです」
私の言葉にさらに赤くなる横顔が愛しかった。
ずっと課長と一緒にいたい。
無理だとわかっているけど、願ってしまう。
次の日も課長と一緒に大学に行き、沢木と彩さんをこっそり尾行した。
その日の二人は午後3時頃に大学を出て、映画館に行った。私と課長も映画館に入り、沢木と彩さんが選んだ映画を観る事になった。
二人を観察しやすい一番後ろの席を二つ買い、シアタールームに入ると、沢木と彩さんがいた。
二人は私たちの二つ前の列だった。
今日も課長は顎に手をついて、ぶすっとした表情で彩さんと沢木を見ている。
二人の仲を認めていないのは一目瞭然。
なんでそんなに許せないんだろう?
「課長、せっかくだから映画を楽しみましょう。映画の間は二人ともどこにも行きませんよ」
膝の上の課長の左手をギュッと握ると、課長が驚いたようにこっちを見た。
「島本くん」
課長が困ったように繋がれた手に視線を落とす。
「ダメですか?」
「ダメではないが、近くに娘がいると思うと落ち着かなくて」
「何でです?」
「それは……」と言って、課長が右手で戸惑ったように頭をかく。
「後ろめたいというか」
課長の言葉が可笑しい。
「なんか浮気しているみたいじゃないですか」
「浮気だなんて、違うよ。僕はそんないい加減な気持ちじゃない」
今度は課長が怒ったように言った。
「いい加減な気持ちじゃないって何の事です?」
意味がわからず首を傾げると、課長が「つまり」と言って黙る。
そんなに言いづらい事?
「あ、島本くん、映画始まるよ」
課長が言ったタイミングで広告上映が終わり、本編が始まる。
なんだか誤魔化されたような気がして、悶々とする。
いい加減じゃないって、どういう意味だったんだろう?
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