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4 本当に濱田課長ですか?
濱田課長が亡くなって一ヶ月が経った。
会社のみんなは何事もなかったように新しい課長の下で働いていた。
課長を狙っていた江里菜だってすっかり忘れたようだった。
みんながなんでそんなに早く切り替えられるのか理解できなかった。
仕事中でも不意に涙が浮かんだ。例えばそれは書類にきれいに判が押せた時とか、課長の担当した案件の書類を見た時とか、空を見た時とか。
課長と二人だけの時に、青空に真っすぐ伸びるひこうき雲を見つけた事があった。
ひこうき雲は、飛行機が出す排ガスの中にある水分が急激に冷却されて出来る。排ガスの温度は六百度にもなる高温なのに、高度一万キロの空の世界はその排ガスを凍りつかせる程寒い。 過酷な温度差の中で出来るひこうき雲は、翼のない人間が知恵を使って空を飛んだ証しのような気がして誇らしい。
だからひこうき雲を見ると、私も頑張らなきゃなって、勇気をもらえる気がした。 そんな話を課長にしたら、出来たばかりのひこうき雲を見上げながら、「素敵だね」と言ってくれた。
ちょっと恥ずかしかったから誰にも言った事のない話だったけど、課長に言って良かったと思った。
それから課長と業務以外の話をよくするようになった。課長が一番恥ずかしそうにした話は香澄という名のピンク色の薔薇の話だった。
実は奥さんの名前も「香澄」と言って、プロポーズする時に百本の香澄の薔薇を贈ろうとしたけど、見つからなくて半分の五十本を何とかそろえてプレゼントしたそうだ。 「課長ってロマンティックなんですね」と言ったら、本当に恥ずかしそうに頬を染めて「誰にも言うなよ」と釘をさされた。
私だけに話してくれた事がわかって嬉しかった。
そこから課長に対して特別な親しみを感じるようになった。
課長は私との関係を「茶飲み友達」だと言ってくれた。
休憩時間にお茶を飲みながら、仕事以外の話を課長とするのが楽しかった。
課長は頼れる上司で、何でも話せる大事な人だった。その関係は居心地がよくて、ずっと続いていくと思っていた。 だから、こんなにあっけなくいなくなるなんて酷い。酷すぎる。こんな別れ方納得できない。
幽霊でも悪霊でも妖怪でもいい。課長に会いたい。
課長のいない世界で生きていくのが苦しい。いっそうの事、ベランダから飛び降りてしまおうか。
ベランダから下を見下ろした。マンションの六階は充分死ねる高さがある。
吸い込まれるように下を見てると、誰かに肩を叩かれる。
びっくりして後ろを見た。
「濱田課長!」
見慣れたグレーのスーツを着た課長がいた。
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