第6話 ──ヒミさん、俺はここだよ。

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第6話 ──ヒミさん、俺はここだよ。

 ヒミの母親は、娘が一晩ぐらい帰ってこなくても騒いだりはしない。娘と自分の境界が、まじわらないものになっていると悟ってしまったからだ。  娘はふいに境界を飛び越えては戻ってくる。母は境界を自覚しつつも一切越えることも踏み外すこともなく、生まれつきなにかに守られている。  幻視者であることは病ではないが病にはなり得るのだ。ということを母は、自分の母や娘によってありありと目撃してきた。  母は、ともすれば破滅しかねない異能の血脈のなかに頑強な継ぎ目のごとく存在し、しかも中庸かつ凡庸な人であった。  ヒミに幻視の知識を教えておいたのは、一度だけ会った母方の祖母だ。幻視は母方の血筋のものらしい。父方の家族は異能に接点こそあったが色々とうとかった。  母がすることは、自身の日常を送りつつ娘をそこに迎えることだ。  だからヒミは、こうして戻ってこれる。たとえ破綻が起きようと自宅にいるとき、彼女は外のいかなる境界ともかかわらない。  その母はいま自宅にいなかった。書き置きで、仕事に行くとか冷蔵庫のなかに云々という旨の言葉を残している。  ヒミは自室で寝間着に着がえた。包帯も取り替える。なぜかこの痣はなかなか消えてくれない。  机の引き出しからクゼの部屋の鍵を取り出す。見つめてからテーブルに置く。あの日の夜、彼が偶然落としたのを手に取ったのだ。 「それじゃあ、少し眠らせていただきます」  寝台に入り、身体の力を抜いた。やはり自宅はやすらげる。じきに眠りに落ちた。  夢を、みた。  クゼが、あの橋の欄干から身を乗り出して夜を仰いでいる。気づいたようにこちらを向きほほ笑んだ。  ──ヒミさん、俺はここだよ。 「──クゼさん!?」  ヒミは起き上がった。 『どうしたのヒミさん、オレならここだよ』 「いえ、ちがうんです」  時計を見るともう夜になっていた。母はまだ帰ってきていない。  ヒミは、黒いシャツブラウスの上に男ものだとわかるアーミージャケットと、ジーンズという姿に着替えた。クゼの鍵を持って、鞄も背負う。 『どこ行くのさ』 「あの橋へ。なんとなく」  クゼに呼ばれた気がしたのだ。  向こうからやってくる。  不可抗力的に事が起こったり、なにかと遭遇してしまうことを、ヒミはそう呼んでいる。それを避けることは、平穏な生活のためと信じている。  新聞や風聞で知ってしまう事件や悲惨は、彼女をたびたび憂悶させた。強い感受性と想像力は、ときに自制を超え視る力を暴発させる。じかに視たわけでもないことを、幻視者は想像によって視る。  それでもヒミを現世に生かしているのは、ひとえに欲望のおかげなのは確かだ。  命を継ぎ足すように色々な欲望を見つめ、失望と開眼を重ね、一喜一憂する日々を送ってきた。  ヒミの好む写真や文学もときに事実を写しはする。だが欲望をかき立て高揚と陶酔をも与えてくれるそれらがある人生を、見限ることはできない。  いま彼女は、クゼとの再会と別れの場となった橋に来ている。  満月の魔力を浴びつつ、境界は素知らぬ顔をして口を開いている。 (あの夜、私はここで待っていた。すこしでも変えてくれるものを。変わるために、他者と境界をひっそりとまじえることを欲していた)  あの冬とはちがう冷たさの風が吹きぬける。 『オレはとっくに、海の底かな』 (クゼさんもクランさんも卒業して、私はまたひとりになった。時とともにそれに慣れた。でも二人に再会できた。結局、また手に入れたものを自分で壊した)  波の音がする。水平線と夜の境目もはっきりと見える、明るい満月の夜だ。 『どこまで行くの。今日はちゃんと一緒に夕飯食べようって、お母さん書いてたじゃん。早めに戻ろ』  橋を進む。  以前のヒミなら、目を刺され悶絶し飛び降りるクゼの幻を、視る力で繰り返し再生してしまうところだ。だがいまそれは起きない。  あの日やってきたクゼになった気で、なにかを求め歩く。   しばらくして、ふとなにかがあると気づき目を凝らした。近くまで行かないと気が付かなかったのは、それが小さかったからだ。  欄干に寄りかかるようにして、脇腹を押えてうずくまっているそれの目の前まで、おそるおそる近づく。
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