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― 闇へ ―
「福水くん、来月の新しいメニュー、これにしよう」
本来の職場で鍋を掻き混ぜていると、課長から提出していたメインメニューの決定を告げられた。
「はい。では今日中に、副菜などもセットで、総カロリーを出しておきます」
「宜しく」
紬の会社は、出張シェフ事業の外に、配達弁当などの事業参入もしている。紬も出張が入らない時は、会社で弁当の仕込みや、メニュー考案のデスクワークに当たる。仕込みなどで朝は若干早いが、その分、遅い配達でも夕食までには間に合うように作る為、終業時間は早く、残業も今回のように新作料理や献立を考える時くらいで、それ程多い方ではない。
出来あがった最後の惣菜を弁当担当の部署に運搬し終えると、先程の資料も提出し、今日もそれ程遅くならずに帰宅出来そうだと息を吐いた。
草悟達が転がり込んで来て二週間。慌ただしい年末年始を超え、目に見えてはさほど変化はなく、幼い悟も紬の部屋で暮らす事に慣れてきた。
最初は何をするでも、父親である草悟の後をくっ付いて離れなかったのに、この数日は、紬に纏わりつくように甘えたり、風呂も一緒に入ったりと、打ち解ける様子を見せている。
慣れた事も手伝ってか、自己主張も始めた悟は、本来の偏食児童ぶりも本領を発揮ときて、なかなかに手強い。
「今晩は何にするかな」
仕事を終え、のんびりと独り言ち、作業着から私服に着替えた紬のポケットで、着信を知らせてスマホが震えていた。
着信名を見て跳ねた鼓動を抑えるべく、一つ深呼吸をする。
「草悟? どうした」
そうして出した声はやはり、少し固さを帯びる。
成り行きから部屋の鍵を渡し、一緒に住み始めているというのに、未だに電話での会話は緊張する有り様だ。
『仕事中悪いな。今、良いか』
「さっき終わって、帰り支度の最中だから、問題ない」
こちらは上擦らないようにと気を張るだけで精一杯だというのに、営業や会社関係者との電話に慣れている草悟の、落ち着いていて、少し大人びて聞こえる声に慣れない。
『だったら良かった。悪いけど、今日、どうしても上げる仕事があってさ、早く帰れそうにないんだ。悟の事、頼めないか』
家に来てからの草悟は、殆ど残業せずに帰宅していた。それも限界だったのだろう。
『持ち帰りでも良いって言ってるんだけれどね、この頑固者、聞かないんだよ。ゴメンね、紬くん』
草悟と話していたはずなのに、急にその背後から塚山の声が聞こえてきて、紬は吹き出した。
「部下の電話に勝手に割り込んじゃ駄目ですよ、塚山さん」
『だぁて、紬くんの声が聞きたかったんだもの』
『塚山さん、キャラがおかしいです』
聞いたことのない声も届いてくる。おそらくプロジェクトか何かで残っている社員が数人居るのだろう。向こう側で、幾つもの明るい笑い声がしていた。
「塚山さん、威厳が無くなるよ。草悟、聞こえてる? 悟の事は引き受けたから、あんまり他の社員の前で塚山さんのそんな姿、晒さないで。こっちも頼むよ」
悪い雰囲気でないことは伝わってくるが、関係のない人達にまで、自分達の事を知られるのは少し気が引ける。
『分かった。じゃ、くれぐれも頼むな。悟の保育園にはお前が行く事伝えておくから』
『またね、紬くん、愛してるよ』
最後の塚山の声に再び笑いが重なって、通話は切れた。
「まったく、塚山さん相手なら緊張しないのにな」
思わず溜息を吐き、メールの着信でそうだと思い出す。
「悟のお迎えだな」
草悟から送られてきた、悟の保育園に向かって驚いた。昨今のお迎え事情は、子供自体が顔見知りの反応を見せても、連れて帰るには、幾つかの細かい関門をクリア―しなければならないらしい。
紬は今回、草悟が連絡を入れてくれていたので、自身の名前と連絡先、草悟の連絡先を明記しただけで悟を受け渡してもらえたが、これは突発のお迎えなど頼む方も引き受ける方も大変だ。
「むう、ととは?」
初めて紬が迎えに来た事に、最初は喜んでいた悟だったが、園の駐車場に止まっているのが紬の車で、草悟の姿がいつまでも見えない事に不安を覚え始めたらしい。
「ととは今日お仕事で遅くなりそうなんだって。悟、今日は俺とお風呂入ろうな」
「うん」
とは頷いたものの、悟の表情は晴れない。
「悟は本当にととが好きだな」
「うんっ、とと、まんま、きらい、すき、なってもめんめない」
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