― 闇へ ―

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「ととの好きな所は、そこだけなのか」  笑いながら聞くと、悟は真剣な顔をして考え込む。その後も、優しいとか、大きいとか、子供の頭で考えつくだけのことを言い尽くし、「さとも、なるの」と将来を誓う。  そうしている間に、車はマンションの指定駐車場へと到着した。中古物件だっただけあるマンションは、指定駐車場からも少し離れている。  小さな手を引きながら歩くスピードは、なかなか上がらない。紬は悟を抱き上げて歩くことにした。 「むぅもたかいね。さと、むぅもすきになる。むぅは、さと、すきになる?」  どうやら紬と話しているうちに、「なる」というのが、只今の口癖になっているらしい。 「うん、悟が好きになったよ」  可愛いじゃれ合いのように、抱き上げた悟は、ぎゅうっと紬の首に抱きつく。  それがくすぐったくて、温かくて、可愛くて。 「むぅは、ととすきになる?」 「うん、好きになったよ」  すんなりと答えてしまっていた。  紬のうろたえる心になんて関係無く、悟は紬の胸元に嬉しそうに顔を埋めて、「すきすきぃのごあいさつぅ」と、ぐりぐりと額を押しつけている。  ――――それは突然の事だった。  自室のあるマンションの三階を目指し、悟を抱き上げて、二階の手前まで階段を上がったところ。  ガツっと鈍い音が脹脛(ふくらはぎ)の辺りから聞こえ、熱さと痛みが襲って来た時には、空中へと体が投げ出されていた。  細かく刻まれた段差に、体のあちらこちらをぶつけながら階段を転がり落ちる。それが、腕なのか背中なのか、頭なのか足なのか、自分でも分からない。  ただその胸に抱く、小さく可愛い温もりだけは、何としても守らなければと、抱え込んだ事だけは覚えている。  おそらく直前の甘えていた体勢が良かったのだろう。悟を、自身の腕と胸、腹、折り曲げた全身で包み込んだ感覚はあった。  ピタリと体への衝撃が止んで、力が抜けた。それと同時に、傍に在った熱も抜け落ちた。  大事な何かを抱えていたはずなのに。  混乱した意識が、傍から無くなった熱の存在を、押し遣っていた。  目が回る。意識が揺れる。 「むぅっ、かかっっ」  意識の向こう側で、幼い悲鳴が聞こえる。  ああ、そうだ。悟だ。草悟の大事な、大切な悟を、この手に抱いていた。 「さとる」  手を伸ばしたはずだった。か弱き子を守る為に。  その名を呼んだはずだった。無事かと確認するために。  そのどれもが、届いていないなんて、思いもしなかった。 「――ぎっ! 紬っ!」  痛い。止めてくれ、揺するな、全身が痛いんだ。  少し乱暴に揺さ振られ、無言の悲鳴が上がる。 「おい、紬! 大丈夫かっ」 「うっ」  あまりの痛みに意識が覚醒する。  辺りは真っ暗で、遠くに年季の入った街灯が一本見えるだけ。自身の目が開いているのかどうかも、その街灯を見るまでは、判断がつかなかった。  自分を揺すっているのは草悟で、ここは自宅マンションの、普段から使っている外階段前。余り人の通らないこの外階段は、紬や草悟の他には、夜中に働く住人しか使用しない。 「気付いたかっ? 何があった? 悟は?」  状況認識も覚束ない紬の目の前にあるのは、幼い悟の愛らしい顔ではなく、今までに見た事もない、草悟の怒りにも似た焦燥を孕んだ形相だった。 「草……? さと……」  朦朧と霞んでいた意識が、ハッキリとし始めるのと同時に、あの瞬間を思い出す。  後ろから殴られた激痛に階段を転げ落ちた後、聞こえてきた悟の悲鳴。 「悟、かか……て」  体を起こしかけながら紬が呟いた瞬間、草悟がヒュッっと音を立てたまま呼吸を止めた。 「任せるんじゃなかった!」  聞いたこともない低い唸りは、痛みに地を這う紬を打ちのめす。 「ゴメ……」  守り切れなかった事を責められたのだと思った紬は、苦しい息のまま謝るしか出来なかった。 「あ、違う。悪かった。紬を責めてるんじゃない。甘さから、お前を、悟を、危険に合わせた自分に腹が立つ!」  任せてしまったばかりに、自分の知れない所で、紬を巻き込み、悟を連れ去られてしまった。  言葉通りにすさまじい怒気を纏った草悟は、どこにもやれない自身への怒りに、拳を地面に叩きつけた。 「悟、探さないと……」 「でも、紬を置いては」 「いいから。俺は大丈夫。だから、先に行って」  紬はしっかりと起き上がり、草悟を真っ直ぐに見つめた。彼は一瞬、何かに瞳を揺らしたが、それでも小さく頷くと、消えた幼子を探す為に身を翻した。
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