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「放してよ。自分は好かれてるからって、見せつけないで。ほら、悟、私のこと、好きよね。私の作るご飯、美味しいわよね」
無理に押し付けられる愛情に、悟がますますヒステリックに泣き叫び、草悟を呼ぶ。
「とと、とと」
「とと、じゃないでしょっ。毎日世話してやってるのは、誰だと思ってるのよっ」
耳を塞ぎたくなる様な言葉の刃が、幼い子供を斬り付けている。
「分かっているから、美沙。それ以上、悟を責めるな。一生懸命やっていたお前も、悟も悪くない」
悟の力じゃ彼女の腕から抜け出せない。草悟も悟が美沙の腕の中に居るので、下手に動けない。
もう、自分の取る方法はそれしか無かった。
「はい、緑地第一公園です。お願いします」
紬の声に三人は、闇の中を振り返る。
通報を終えると、紬は草悟の傍に寄った。
「ごめん。警察呼んだ」
「むぅっ」
呼吸が辛く声が掠れたお陰と、悟の呼び声が重なったことで、彼女のところまで言葉は届かずに、上手く草悟にだけ伝わった。
「勝手にゴメン」
草悟は首を緩く横に振った。
その苦い顔を見ながら、紬はやはり悟を連れて行かれたのは自分の責任だと思った。
自分がしっかり注意していれば、悟にこれほどの恐怖を味あわせずに済んだはずだ。草悟にこんな苦しそうな顔をさせずに済んだはずだ。
再会できた事に。会わなかった時間が嘘のように、傍に居られる事に浮かれていたのだ。
あのまま再会せずに。あの、不味いと一瞥をくれた時に。終わっていれば良かったのだ。
――聖夜に好きな子と一緒に居られるなんて運命、神様が祝福してくれているとしか思えないよ。
そんな一言に踊らされて、これは何か特別な力が働いたのかと、あの日を無かった事に出来るのかと、思った自分が馬鹿らしくて、笑えてくる。
祝福なんてどこにもなく、運命の先は後悔だった。
「あら貴方、よくここまで来られたわね」
美沙は紬を認めると、心底、意外という顔をした。
「悟が泣いてる。放してやって」
「きっと足は折れてると思うの。腕はどうかしら」
美沙は紬の言葉など耳に入っていないかのように、妖艶に薄く嗤う。
「私、貴方の事覚えてる。うちの人がずっと、貴方のご飯だけを食べていた時期があったわよね。お料理、二度と作れなかったら、ごめんなさいね」
悪いとは微塵も思っていないその貌は、何かに取りつかれたように冷笑して見せた。
紬は背中這う寒気に、ふるりと体を震わせる。
「草悟に、帰して。悟」
それでも紬は引いていられなかった。この手の中で守れたはずの存在が、この腕にない。
草悟へと無事に帰さなければならなかった存在を、せめて取り戻さなければいけない。
「貴方がこの子を全身で庇って階段を転げ落ちてくれたお陰で、この子ったら掠り傷一つ無いのよ。ビックリしたわ」
「悟を、帰して、草、悟に」
紬の方もそろそろ限界が近づいて来ていた。
全身打撲による発熱もあるのだろう。頭部からの出血量もどれ程なのか分からない。くらくらするのは、痛みのせいなのか、貧血のせいなのか、それすらも判断がつかない。
「足を力いっぱい殴るだけで、あれほど見事に、人間は転げ落ちられるのね。あら、貴方、汚いわね。その姿で、うちの人に近づかないでよ」
それまで闇夜と転がり落ちた汚れに紛れていて、そこに居る紬以外の誰もがそれまで気付いていなかった。
ふわりと紬が動いた瞬間に、はたはたと大量の血液が足元に落ちる。
「紬ッ?!」
草悟の息を飲む声が遠く聞こえる。傍に居るはずなのに。
止めどなく流れてくる血に紬は面倒くさくなり、いつしか拭うのを止めていたが、拭うのを止めた流血は肩口から胸元までを濡らす量になっていた。
「ちょっと、待って」そう呟いたのは、自覚出来る程にスルリと自分の意識が遠のきかけたから。
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